日本の流刑の歴史は古く、日本書紀に第19代天皇の允恭(いんぎょう)帝の治世、5世紀の話があるそうです。(^-^)
允恭帝には9人の皇子・皇女がいましたが、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)が近親相姦していることが発覚。
允恭帝には9人の皇子・皇女がいましたが、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)が近親相姦していることが発覚。
天皇の跡継ぎとなる木梨軽皇子は不問に付されるも、軽大娘皇女は伊予(愛媛県)に流されます、、、しかし、お二方とも、御名前の「軽」が何とも身に沁みます。m(._.)m
時代は下って、文武天皇の大宝年間に大宝律令が制定され、流刑に関する規定が定められました。
時代は下って、文武天皇の大宝年間に大宝律令が制定され、流刑に関する規定が定められました。
流刑先は、都からの距離に応じた近流(こんる)、中流(ちゅうる)、遠流(おんる)の三等に分けられ、罪が重いほどより遠くに流されました。
隠岐の島は、遠流の地として余りにも有名で、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、そして、小野篁、藤原千春、平の致頼、源義親、、、沢山の人が隠岐に流されています。(≧∇≦)
なかでも、後醍醐天皇は、元弘元(1331)年、鎌倉幕府打倒を計画しますが、側近の密告により発覚。
実は、その七年前にも同様の謀議が露見した前科(正中の変)があり、ついに隠岐へと流されます。(ToT)/~~~
絶海の孤島で後醍醐天皇は何をしていたかというと、真言密教立川流の秘法を用い、昼夜を問わず幕府の滅亡そして自身の皇位回復を願う日々を送っていだそうです。(^。^)
祈りが通じたのか、一年近く経って、出雲守護の一族、富士名雅清の協力により、後醍醐天皇は隠岐の島脱出に至ります。(^_^)
寒さが身にしみる冬の明け方、雅清の手引きにより天皇は、濃霧をついて出港、その日のうちに出雲に到着。
絶海の孤島で後醍醐天皇は何をしていたかというと、真言密教立川流の秘法を用い、昼夜を問わず幕府の滅亡そして自身の皇位回復を願う日々を送っていだそうです。(^。^)
祈りが通じたのか、一年近く経って、出雲守護の一族、富士名雅清の協力により、後醍醐天皇は隠岐の島脱出に至ります。(^_^)
寒さが身にしみる冬の明け方、雅清の手引きにより天皇は、濃霧をついて出港、その日のうちに出雲に到着。
船上山を仮御所として、幕府打倒の激を飛ばしました。反幕府勢力は勢いづき、ついに鎌倉幕府は滅びます。( ^_^)/~~~
先立つ承久の乱では、後鳥羽上皇が隠岐の島へ、土御門上皇が土佐へ、順徳天皇は佐渡ヶ島へ、それぞれ流罪となり、赦免されることなく、その地で逝去しました。(≧∇≦)
現在では、隠岐の島で人気NO.1の観光スポットとなっている「ローソク島」(写真)、、、海面から約20mの高さがある巨大な奇岩で、夕日が重なる瞬間は巨大なローソクのように見えます。(^。^)
流人たちの無念が滲む遥かな隠岐を想う一句。
「冬の波流離の果てや隠岐の島」 祖谷馬関