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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

藤原道長と一家三后

さて、京都検定、もう一つのヤマカケ、それは「藤原道長」です。

摂関政治の全盛期、藤原道長(966~1028)はその頂点にいました。
娘を次々に天皇の 后(皇后、中宮)として送り、権勢をふるった道長、、、自作の有名な歌があります。(°▽°)

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」

「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている。」

しかし、いくら絶頂期とはいえ、こんな驕り高ぶった傲慢な和歌をよく詠んだものですね。(^_^)

本意がどこにあるのか分かりませんが、後の為政者の平清盛も然り、ファシズムとも言える強大な権力集中が許された時代だったのですね。( ; _ ; )/~~~

「歌に詠む彼の望月も明日は雨」 祖谷馬関

(注)望月、名月は仲秋の季語。旧暦八月十五日の月のこと。「名月をとつてくれろと泣く子かな」と一茶の句にもあるように、手を伸ばせば届きそうな大きな月である。団子、栗、芋などを三方に盛り、薄の穂を活けてこの月を祭る。

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

「京都検定対策シリーズ」

=藤原道長=

(1)道長の父(兼家)を祀る東三条社と呼ばれる神社は 「大将軍神社」
★東三条社(大将軍神社)にある樹齢800年と伝わる大樹は 「銀杏」 *鵺の森、源頼政

(2)最初の女院号・東三条院を与えられた道長の姉は 「藤原詮子」
★上記人物は(一条)天皇の生母★★

(3)道長の兄・道綱の母が著した日記は 「道隆」「蜻蛉日記」
★「栄華物語」を著したと伝わる女性作家は 「赤染衛門」★★

(4)道長の政治的、経済的基盤の形成に大きな意味を有した正室は 「源倫子」★★★
★藤原氏の氏寺・浄妙寺、一族の墓・宇治陵がある宇治市の地名は 「木幡」★

(5)一家三后・・彰子(一条)・妍子(三条)・威子(後一条)★★★
★清少納言が仕えた一条天皇の中宮は、その父は 「藤原彰子」「藤原道長」★

(6)宇治殿を寺に改めた道長の長男は 「藤原頼通」
★平等院の多宝塔、白山神社を建てた上記人物の娘は 「藤原寛子」★★★

(7)京都御苑の東北、東京極大路の西側に建てられた道長の邸宅は 「土御門殿」★
★左京の拡大によってできた東京極大路と鴨川との間の大路は 「東朱雀大路」★★

(8)荒神口通寺町東入ルに石碑がある道長臨終の場所とされる寺院は 「無量寿院法成寺」
★九体阿弥陀堂があった上記寺院の疎石を引き取った浄土宗寺院は 「清浄華院」★★★

(9)道長の繁栄を描いた「栄華物語」は赤染衛門作と伝わる
★小野小町の双璧といわれた女流歌人は 「伊勢」

(10)「・・望月の欠けたること・・」の道長の歌が記された「小右記」の作者は 「藤原実資」★
★上記人物の所領だったとされる長岡京市東部の地名は 「神足」★★

(11)道長の日記「御堂関白記」を所蔵するのは 「陽明文庫」★★
★「(陽明)文庫」の創設者は 「近衛文麿」★★

(12)藤原忠平建立の(法性寺)に、道長は五大堂を建てた
★その五大堂の中尊・不動明王が祀られる東福寺の塔頭は 「同聚院」★★
★ 不動明王の作者は 「康尚」★★★

(13)誠心院は、娘(彰子)に頼まれ、(和泉式部)のために庵を建てたのが始まり
★誠心院は、(槇村正直)が開通させた新京極通(商店街)にある

(14)道長に仕えた「土蜘蛛」伝説で知られる源満仲の子は 「源頼光」
★経基を祭神とし、満仲創建の六孫王神社の大祭は 「宝永祭」★

(15)道長が木幡の建立した藤原北家の菩提寺は 「浄妙寺」★
★上記寺院の遺仏である阿弥陀如来像が伝わる浄土宗寺院は 「願行寺」★
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