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こりんの遊び部屋Part2

愛知県奥三河、新城市の外遊びが大好きな男性です。
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設楽ヶ原の戦いの舞台をぶらぶらと散策 その1(2月9日)

2023-02-09 18:54:00 | 風景

設楽ヶ原の戦いの舞台をぶらぶらと散策 その1(2月9日)

 

天正3年5月21日(1575年6月29日)愛知県三河国長篠で織田・徳川連合軍と武田軍が戦われた

長篠の戦い、その決戦場、設楽ヶ原、その中の本陣が設けられた場所へ行って来ました。

地元では、長篠の戦いと言わず「長篠・設楽ヶ原の戦い」と読んでいます。

これは、長篠と設楽ヶ原では数km離れているから。

詳しくは、ネットで調べて頂くと詳細なことは分かりますのでよろしくお願いします。

初めに紹介は、今年の大河ドラマ「どうする家康」ですので、もちろん徳川家康公の本陣

場所は、新城市の東郷中学校北の八剱神社のある丘陵地

ここ設楽ヶ原の旧戦場地の各武将の本陣跡には神社が設けられています。

八剱神社、雨戸が閉じられていて、お参りも出来ないようです。

なお本陣は、この後ろの山の山頂部の平地でしょうか?

祠の横を登っていきます。なお本陣跡へは何箇所の周りから登ることが出来ます。

山というより丘で平らな広場が広がっている。

ここ徳川家康本陣から織田軍地までは、同じような高さの丘で繋がっています。

丘の一番高い所に新しい碑が設置されています。

碑に書かれている織田信長本陣跡方向を見ています。真ん中の葉を落とした木のすぐ後ろあたり。

なお本陣のあった丘は、古墳がありました。

見えている円形の盛り土が古墳

徳川家康本陣から見た武田軍地、鉄塔の左手奥に武田勝頼戦地本陣があります。

田んぼを横切るように流れる川が連吾川、織田・徳川連合軍と武田軍の距離は300mほど

上の写真は、この看板が立っている付近から見ています。

徳川家康も同じ風景を見たのですね。

徳川軍が軍を敷いた丘から見ています。一番低い連吾川から本陣までの高さは30mほど

なお織田・徳川連合軍の軍を敷いた尾根はここまでで、ここから南は平地が続いています。

戦いの激戦地は、徳川家康軍の南が一番になりました。ここ三河は徳川家康の領地ですので

一番危険な場所を守るのはもちろんですね。

今回、現地を回ってみると織田・徳川連合軍がここに軍を敷いた理由がわかりました。

新城市立東郷中学校裏に案内看板が設けられています。

大河ドラマにあやかり市内のあちらこちら家康公関係場所に立てられている。

鬼作左として時代小説でも有名な本多作左衛門重次の手紙文案内

春になり、タンポポなども咲き出してきています。

徳川家康本陣跡から対峙した武田軍本陣に来ました。先程の八剱神社から連吾川を挟んで信玄台地を登ればすぐ

保育園の後ろ、天王山と呼ばれている。

昭和皇后が若い頃に訪れているようです。

この付近には、多くの武田軍の武将の戦死地があります。

 

武田四天王の一人、内藤昌豊の戦死地

私の生誕地は、この付近で字名は八束穂ですが、通称はその名も信玄と言われています。

戦い時は、武田勝頼が当主ですが、偉大な信玄の名前が何故か付けられています。

なお、両軍の戦死者を祭った塚も信玄塚と呼ばれている。

 

 

 

 

 

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