【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

20190620パライソ・メッセージ「闘う団塊の世代」

2019-06-21 23:10:54 | 楽しく元気に『反日』トーク
20190612 パライソ・メッセージ「闘う団塊の世代」
《ブログタイトルのマイナーチェンジとブログの編集・更新をします》併せて、ブログのURLを以下のように変更します。

旧URL:  http://blpg.goo.ne.jp/isokawas
新URL:  http://blog.goo.ne.jp/isojii

 暫く、超多忙を言い訳にブログの更新を怠っていましたが、この4月から48年間にわたる労働者生活もリタイア(途中12年間+αの経営者生活も経験しましたが)しましたので、再び更新と編集をします。この間、皆様から心のこもったいろんなメッセージを頂き、ありがとうございました。併せて、ブログのタイトルも【闘う団塊の世代-イソじいの、山・遍路・闘病・そしてファミリー】と、マイナーチェンジします。

  • なぜ、タイトルのマイナーチェンジか
    昨今、団塊以上の世代に対する『邪魔者扱い』、毎年どんどん下がる年金とどんどん上がる国民保険や公租・公課、病気やケガ、家族の事諸情等で生活困難になれば『自己責任』、つい最近、「年金だけでは死ぬまでに2,000万円赤字だから自分で蓄えろ」等々。若い時に無茶苦茶働き、日本の民主主義を担い実践しながら、高度成長を現場で支えてきた自負を持ちつつ、リタイアすれば払い続けてきた高い・高い年金を還元してもらって、パートナーと共に悠々自適に暮らすはずであったのが、全く話が違う。それどころか戦後の日本を築いてきた団塊以上の世代の皆さんが、今や邪魔者扱いにされています。このあまりにも悲しくも恥ずかしい現状に対して、私断固闘います(後日、パライソ・メッセージ等を通じて)。
    併せて、団塊以上の世代の皆さんは(一部の方を除き)、何故戦争に反対し憲法を守ろうという人が多いのか。私は1948年、戦後生まれで直接の戦争体験はありません。しかし、私や同世代の皆さんの母親は戦禍から子供たちを何としても護る【本当に命がけの子育て】をしてきました。命がけ子育てをしてきてくれた母親からもらったいろんなメッセージや「やさしさと反戦平和のDNA」は、昨今のきな臭い現状や、ヘイトスピーチやフェイクニュースを嫌悪・軽蔑します。これも私のブログの『家族の第2の原風景・文官屯を訪ねて』にも一部書いています(これからも、いろんな視点でパライソ・メッセージ等に書き綴ります)。

今後とも、よろしくお願いします。

20190615パライソ・メッセージ「戦争法の発動を許すな」

2019-06-21 23:02:09 | 楽しく元気に『反日』トーク
戦争法の発動を絶対に許さない

 イランがホルムズ湾で日本関係他のタンカーを魚雷で攻撃し、タンカーが炎上する『事件』がありました。アメリカはイランによる攻撃と世界に対してコメントしています。私は真っ先に1964年のベトナム戦争の引き金となったトンキン湾事件を思い起こしました。トンキン湾事件はその後「ペンタゴンペーパー」の暴露によって、アメリカの捏造であることが世界的に歴史的に明らかになりました。
 『イランによる魚雷攻撃』キャンペーンでもう一つ大変憂慮するのは、戦争法の国会答弁の中で安倍首相が声を張り上げ言っていた「駆けつけ警護」や、「国の生命線」であるシーレーンの安全確保、海外で様々な国際協力や支援活動、ビジネスをしているNGOや支援団体の皆さんや企業を守ることは自衛行為であるということ、その例の一つとして日本のタンカーが攻撃された時の救護や護衛は合法であるとの解釈(閣議決定)です。この二つが合わさると、アメリカは「イランが日本のタンカーに魚雷を打ち込んだ」と、プロパガンダを繰り広げるだけで、アメリカは軍隊を派遣せず(国内的にも国際的にも批判を免れる)、高額な武器や兵器を日本に売りつけて武器商人が多額の利益を得、日本が戦争法に則って自衛隊を派遣し戦争する(人的犠牲を出す)という構造が出来上がっているということです。ここは大変な正念場と思います。選挙で野党間の政策調整をすることは大変大事ですが、各野党も矜持をもってそのようなことは絶対にさせないようにしてください。後世の歴史のためにも。

家族の原風景 満州文官屯を訪ねる

2019-06-21 01:35:49 | ファミリー(家族の原風景、満州文官屯)
5.文官屯での生活

 兄J (一九四〇年一月生 )は大変な腕白であった。文官屯の官舎は金網のフェンスが張り巡らされていたが、その金網を乗り越えて満人(満州在住の人たち)の集落まで行き、満人の子供達と遊んだ。パンや饅頭(マントウ)をよく貰った。神社の大木に登りカラスの卵を取ったりして子供たちの「ガキ大将」であったが、母親の心配は並大抵でなかったようだ。カラスの卵は青色で、卵を取っている最中には必ずつがいのカラスが襲ってくる。それを、はらいのけて取った卵を飲んだのだが、受精卵のため、羽毛の生えた雛が中にあることも良くあったとのことである。小学校一年生の時授業が終わると姉の教室の前まで行って待っていた。兄が一年生の時に終戦を迎え、子供たちは集団で官舎まで登下校したが、学校帰りに官舎の門番のおじさんにいつも兄だけ肩車され、かわいがられた。もっとも、父親がかなりランクの高い技術者であったことも、「ひいき」の要因の一つかもしれない。兄の記憶では、「文官屯駅」は客の乗降用の駅ではなく、物資・貨物の集配駅とのことであるが、今回の訪問で兄の記憶の方がイメージが重なるように思う。兄は、敗戦で「引き揚げ」の時、腸チフス(「満州チフス」といわれた)に罹患し、高熱・血便で真に生死の境をさまよったが、卓抜した生命力で耐え抜いた。これも、母親にとって「引き揚げ」の極めて困難な状況下のことであり、先に述べたように「異国の地で死なせてはならない。日本海に流してはならない。何とか家族全員生きて日本に戻れるように」と、大変な心労と、プレッシャーであったことだろう。
 長兄H(一九三七年三月生)は、「引き揚げ」後大阪で中学校、高等学校と進学したが、一九五四年七月、一八歳の時に盲腸炎をこじらせ、腹膜炎を併発して病死した。我慢強く責任感の強い人間で、自分の学費の一部にと夜間に日本経済新聞社でアルバイトをしながら家計を支えていた。腹痛にも我慢に我慢を重ねていたのであろうが、現在の医学ではまず死に至ることは無いだろう。痛恨の思いである。同時に文官屯の思い出の大事な大事な視座も、一つ欠落してしまった。
 父 (明治四十年・千九百七年生) は一九六七年七月、三度目の脳溢血の発作で死亡した。父にとって満州は自分の夢とロマンを思いのたけ実現させる事のできた、最高のフィールドであり、ステージであったのだろう。敗戦後、否応無く迫られた現実の環境とのギャップに、全く自分の責任であるのだが対応することができなかったのだろうが、随分と自分勝手な生き方をしてきた。母や兄、姉の中には父に他する「いい思い出」は私も含めて何もない。それでも一九六一年に最初の脳溢血で倒れた後、家でリハビリをしながらテレビで満州の画像や、引揚者の話題が放映されると、涙を流し時には嗚咽しながら凝視していた。
 姉T (一九四四年十月生 )は、現地で出生。乳飲み子のまま、新しく増えた家族として「満州」から「引き揚げ」てきた。その時は、姉Hがずっと背負ってきたとのことである。
 私は、戦後の混乱がまださめやらない一九四八年十二月、「大阪市大淀区大仁本町一丁目一〇一番地」の小学校を利用した「引揚者用合同住宅」で出生。
 姉Tが出生した時には、すでに日本はアジア太平洋戦争に敗れ、満州全域は「ソ連軍」や「国共軍」が侵攻し、中国大陸の新たな勢力再分割が怒涛のように押し寄せてきていた。母は、乳飲み子のTを片時も離さず、家族離れ離れになることなく翌一九四六年六月の「引き揚げ」に必至の思いで辿り着くことができた。「引き揚げ」の時には、兄Jの腸チフス(「満州チフス」)の発症という過酷な精神的重圧にも耐え、飢餓などの大変な苦労を乗り越えてきた。そして、舞鶴到着後、父市太郎の本家筋の故郷である、石川県鹿島郡能登中島に七月十二日に到着し、兄Jも何とか小康状態となり、新たな家族史が始まるが、その後の軌跡は別の機会で記述する。
 この母親を軸とした家族の絆は、家族それぞれが「生命がけ」の経験をし、共有し合ってきたことによって、今ある家族の絆の珠玉の原点となっているといえる。「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八」はその意味で、私達の家族にとって第二の故郷の原風景の場である。

  翌早朝六時、メーデーの休日でにぎわう瀋陽市北稜公園に、姉とパートナーと私の3人で散歩に出かけた。雑踏の喧騒がつぎからつぎへと溢れ出てくる瀋陽の休日の公園、その朝の空気をたっぷりと吸い込み、この地の名残とした。

6.中国・東北地方雑感

 私は、実は中国旅行は今回がはじめてであった。今回の旅行は、長姉が健康で活発に行動できるうちに家族の第二の原風景である中国満州を訪ね、家族のメモリアルを記録し、それぞれの家族の子供や、孫たちに残しておきたいと思ったからである。特に、私は第二次世界大戦も中国の満州も知らない世代である。私の世代は、親や兄姉の戦争の体験を繋いで、次の世代に戦争を語り継ぐ義務もあると思うし、そのために家族の原風景をこの目に焼き付けておかねばならない。その自覚も大きくあったが、一方では、はじめての中国、それも社会主義から「社会主義市場経済」への移行と称する「ダイナミック・チャイナ」にも大いに興味があった。それらのことも含めて、今回の中国旅行で印象に残ったことを、綴ってみた。