【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

家族の原風景 満州文官屯を訪ねるー2

2019-06-22 01:32:19 | ファミリー(家族の原風景、満州文官屯)
3. “文官屯”の風景と家族それぞれの記憶の重なり

 
ハルピンと瀋陽を結んでいる瀋哈高速道路沿いに、女真族で清王朝の祖ヌルハチの陵墓である東陵がある。この付近には「ミステリアス・スロープ」といい、引力に逆らって上り坂はエンジンを切ってもどんどん加速度がつき、下り坂は自転車なら必至に漕がないと下がれない坂があるそうだ。日本でなら目の錯覚を利用した「不思議風景」と聞き流す話だが、ここは悠久の大地中国大陸である。思わず「本当だろうか?」と素直に思ってしまう。東陵を過ぎて、中国で数少ない高速道路の「サービスエリア」を過ごし、まもなく瀋陽の東北部郊外にある浦河インターチェンジを降りた。二〇〇一年四月三十日は、先刻の鉄嶺以来ずっと雨が降り続いている。この雨は今年に入って始めての雨、すなわち二十一世紀に降った初めての雨で、作付け前の大事な時期に私たち一行が雨をもたらしたかと勝手に思い込みながら、ほっとした気分になる。
 浦河インターチェンジからしばらく一般道を走り、やがて右折した。道路標識に「金山路」とあり、おそらく西方に向いて走っていたがすぐに左折し、また右折して鉄路を横切った。この鉄路が「旧満鉄」の「奉天」から「新京」(現長春)へ向かう鉄路(但し、本線ではなく「引込み線」と思われるが)であり、「文官屯」はもうこのあたりであることは十分に感じる事ができた。姉Hは車窓からこの辺の風景を凝視している。道なりにほぼ西方面に走っているのだろうが、踏み切りから三・四分程走ったところで、対向車線越しのレンガ塀に囲まれた敷地に「鳥居」が残っているのを発見した。「鳥居があった」と私は叫んだのだが、バスはそのまま通過した。そして二・三分走行した後少し広い通りを南方面へと左折し、工場の方面へと向かった。左手は近代的なマンション群、右手はわずかに古い街なみの雰囲気が残っている。しばらく行くと小さなロータリーがあり、それ以上は立ち入り禁止である。姉は、必死に自分の記憶を辿り寄せようと、ずっと風景を凝視しつづけているが、街の変わりように自分の記憶とあまりオーバーラップしない様子である。
 小さなロータリーでUターンし、先ほどの通りに戻り右折し、まず「文官屯」の駅の確定と「鳥居」の確認に戻った。「文官屯駅」は、地元の人たち二~三人にたずねるとすぐに分かった。先ほど横断した鉄路の延長上にあり、現在は小さなプラットホームのようなものはあるが、旅客の乗降場はなさそうである。旧駅舎なのか、古いレンガ造りの建物が残っており、あたりは小さな製材所と、貯木場であった。道路をはさんで錆びた鉄のアーチ状のものがあり、その下を「駅前通り」とでも言うような、二十メートル幅ぐらいの道路がやはり工場方面へと続いている。その道路の右側のレンガ塀で囲まれた中に、「鳥居」が敗戦後の風雪に耐え抜き、「文化大革命」の大破壊にも耐え、まるで昭和史の証人のように、一人「満州」の地に忽然と残っていたのだった。ここは「藤見神社」の跡だった。終戦後、本日私達が「藤見神社」を訪れるまでに、おそらく幾人ものこの地にゆかりのある日本人が訪れていることだろう。「鳥居」は歴史の記念碑として、又この地で果てた「満州棄民」のエピータフ(墓碑銘)として、朱塗りは剥げてしまっているが、粛然として屹立している。本殿の建物は全く跡を留めていないが、「鳥居」の手前には、兄が登ってカラスの卵を取ってきたであろう戦前からあったと思われる大木も現存していた。
 「藤見神社」跡の隣は、姉や兄が通った「国民学校」の跡地だろうと姉Hは言っていた。現在は「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽工業学院」となっている。そして道をはさんで東南側に、家族の第二の故郷である「南満砲兵工廠官舎」が存在していたらしいのだが、かつての居宅の現存については全く確認できなかった。「遼寧兵器工業大学」「瀋陽工業学院」の南端から先はやはり、「立ち入り禁止区域」で、それ以上は近付けず、そこから右折し北西方面へと現地の生活道路を走った。進行方向右側は漆喰の土台のレンガ塀だが、後日兄Jにその写真を見せると、このような風景のところを通学したとのことであった。やがて最初に工場方面に右折した少し広い通りに合流した。「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽工業学院」は、戦後に作られた学校であるが、その門柱は、姉や兄が通った「国民学校」の門柱を使用しているとのことであった。
  姉は、駅から工場に至るまるでパリの凱旋門通りのように広い駅前通りから、向かって左の方へ歩いて十分ぐらい奥まった所に、神社・学校が有ったという。その更に奥に、「官舎」が有ったとのことである。今回旅行から帰った後、兄Jと話したが、やはりおなじ記憶であった。おそらく、最初に工場方面に左折した少し広い通りが、かつては姉の言うような凱旋門通りのような広い駅前通りであったのかも知れない。「文官屯」駅もその場所にあったのかもしれない。あるいは「駅前大通」ではなく、駅から少し離れた大通りであったのかもしれない。その方が、記憶とのオーバーラップがよりフィットするようだが、じっくりと歩いて実感し検証する事ができなかった。「立ち入り禁止区域」が多く、厳重な警備が行われているからである。「もう少し早い機会に、母も兄も一緒に訪問しておればよかった」と心底思った。きわめて健康ではあるが、二〇〇一年当時で九一歳の母親とともに今回日本に残った兄のために、文官屯の風景を精一杯心の中に焼き付けた。私達は、しばらくの散策後思いのたけを胸いっぱいに吸い込み、第二の故郷文官屯をあとにした。

4.‘イソじい’の家族の満州・文官屯追想のメモ

(家族の文官屯追想メモ)
 母 (明治四三年・千九百十年三月生) の「満州」文官屯にまつわる記憶は、釜山から「奉天」への汽車の車中に始まる。車窓の田園地帯には当時日本では見られなかった、黒い豚の群れが放牧されていた。二~三日後に「奉天」に到着、そのまま「文官屯」へ向かい、昼過ぎに到着後隣家の山田さんに簡単な飲食物を頂き一息ついたこと。翌日、共栄会へ日用品や食物等の配給物資を買い出しに行き、家族の「満州」生活がスタートした。「満州」では子育てに忙殺されつつ、現地で姉Tを妊娠出産した。父親は「南満砲兵工廠」で第四位にランクされる技術者で、それなりの高額所得であった。軍属であり長靴を履き長剣を拝刀していた。「将校」クラスの軍人に付き、よく軍馬の後から着いて歩いていた。仕事では、満州中を駆け回っていた。母は、夫と家族の無事を祈って毎日近所の「藤見神社」へお百度参りをしていた。敗戦後父と同時に発疹チフスを発症、入院していた病院は、ソ連軍の侵攻とともに爆破されたが、父とともにリヤカーで避難した。その後ソ連軍の略奪行為等の難をのがれ、子供たちを守りながら、一九四六年六月に何とか「引き揚げ」に辿り着くことができた。「引き揚げ」のときは、「奉天駅」の公衆便所前の瓦礫化したレンガ囲いの中で、二日間雑魚寝して汽車を待った。汽車といっても無蓋貨物車であり、雨に降られ病気でぐったりとし、動けなかった当時小学校一年生の兄Jの耳の中に雨水が溜まっていたのを見て、情けなく、悲しかったことを昨日のように思い出す。姉H、兄Hは母親とともに毛布や布団、当座の着替え、干飯などを小学生ながら持てるだけ持って「引き揚げ」て来たというのに、父は自分のそろばん、計算尺、書類入れ、硯、筆等、それに「お金」と称して新聞紙を切ったものを箱に詰めて大事に持ち、「マッカーサーからもらった金や」と言いながら、」家族の共有物は何一つ持っていなかった。もともと、自分本位で家族への思いやりのない性癖ではあったが、敗戦のショックで一時期精神のバランスを崩していたようだ。
 「引き揚げ」のとき、兄Jが腸チフス、当時「満州チフス」と言われた病気を発症した。あの、大変な腕白の兄が、四十度以上の高熱と血便に、泣く元気すらなく、ぐったりとして母の膝に顔を埋めていた。「引き揚げ船」の中で病気等で衰弱した人たちを「戸板」に載せて日本海へ流し、水葬に付したのだが、母は「Jを決して海に流さない」と、引き揚げ船中兄Jを自分の着衣の中に隠し、片時も兄を放さず抱いていたのである。
  姉H (一九三五年六月生 )の記憶は、「すずらん」や「女郎花」等が咲き乱れる地平線まで続く一面の草原。官舎の裏にはとてもきれいな小川が流れており、魚や川海老が泳いでいた。国民学校の遠足は歩いて奉天市内の日露戦争の記念館へ行った。家族で歩いて奉天の競馬場へ競馬見物にもいった。「文官屯駅」からは、「南満砲兵工廠」の方面に向かって「戦車」が何列も縦隊になって行進できる、まるでパリの凱旋門通りのように広い道が続いており、その左側の歩いて十分ほど奥まったところに「藤見神社」とその斜め向かいに「国民学校」があった。官舎はそのまだ奥にあった。敗戦後ソ連兵が侵攻し、略奪、暴行行為が繰り返された。母も姉も頭髪を丸刈りにし、男に扮し難を逃れた。父は、ロシア語が少しできたので、ソ連兵が侵攻してきた折に「案内人」として刈り出された。本人は非常に「嫌」であったらしいが、やむなく「旧関東軍の憲兵隊」の家等に「案内」し「通訳」をしたが、ソ連兵が向かう方向には予め知らせ、避難するように連絡していた。
一九四六年の「引き揚げ」は「満鉄」を乗り継ぎ「葫芦島(コロトウ)」から海路舞鶴へ向かった。七日間かけて舞鶴に到着したが、「引揚者には虱がわいている」といわれ、二日間待機させられ、「虱」駆除のため頭からDDTを散布されたことや、舞鶴到着後風呂に入れたが、「入れ」の号令後すぐ「上がれ」と言われ、温まる間も無かったことなどを記憶している。なお、「葫芦島」は現在では中国の海軍基地がある。