【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

2.いよいよ開頭手術

2020-02-09 23:03:53 | 楽しく元気に『闘病』日記
-アンギオの検査の後、脳動脈瘤の手術の決断。そして手術の承諾へと、事態はどんどん進む。不安もたかまるが、どうとでもなれと言う気持ちにもなってきた。-
 二〇〇六年一月二十八日(土)
  朝から心臓のエコー検査と、フォルダー心電計による二十四時間の心電図検査を受ける。心臓のエコー検査では心臓の弁の動きがモニターで見える。一生懸命に働いている自分の心臓や弁の鼓動に、愛おしさが沸いてくる。フォルダー心電計装着のためもう一日検査入院の延長となった。心臓検査のあと、外来に降りて、次回の診察予約は二月十七日の十二時となった。この診察日に、正式に手術の承諾と決定を行うこととなる。
 この日は午後三時三十分頃にパートナーが見舞いに来た。いろいろと話し、夕食をとって暫くすると午後七時ごろに、三女のEが見舞いに来た。暫く三人で話したあと、パートナーとEは帰っていった。
 
 二〇〇六年一月二十九日(日)
  朝八時に朝食。その後看護師さんにフォルダー心電計を取り外してもらい、『自由の身』となって、九時三十分に検査入院は終了し、退院となった。
 二〇〇六年二月十七日(金)
 この間の診察や検査、インフォームド・コンセントを受けて、本日のI先生の診察で手術日の決定等を行うことになっている。アンギオで入院の際に『手術を三月二日にお願いしたい』といっており、了承されていた。しかし、後でいろんなことを考えているうちに実は三月二日は『仏滅』であることが分かった。私は、そのようなことに対しては全く信用もしておらず、気にもしない性格である。だが、今回はさんざん手術のリスクや後遺症などのインフォームド・コンセントを聞いており、さすがにパートナーとも相談し、手術日を変えてもらおうと思った。最先端医療を実践する病院で、そんな理由で手術日を変えて欲しいといったら、一喝されるだろうなと思いながら、理由を聞かれたらそのときは『どうにもならない仕事が、急に入った』と言い訳しようと考えていた。
 そんなことを考えながら、午前十時に家を出発した。十一時にT病院着。受付を済ませ、I先生の診察がある一診の前で待っていると、やがて名前が呼ばれた。
 「どうですか。手術をするかどうかはイソじいさんが決めてください。決断は着きましたか。」
「はい。手術をしていただくことにしました。ただ、手術日ですが、三月三日にしていただけませんか。」
 「ちょっと待ってください。三日は金曜日で、私は外来の診察日だからできません。他の日にしてください。」
 「それでは、土曜日ですが四日でお願いできるでしょうか。」
 「結構です。それでは三月四日に手術をしましょう。」
 そのようなやり取りがあり、手術日が決定した。I先生は看護師さんに手術室の押さえや、カンファレンスの段取りを指示している。私には、改めて手術のリスクや手術による後遺症のリスクを説明してくれる。そして、来週の二十四日に来院し、手術の際の思わぬ出血の準備と、頭蓋骨を接着するための接着剤を作るために、自己血を四百CC採決することとなった。
 手術のほうは、前日の三日に入院し、四日午前九時より手術となり、いよいよ開頭手術に向けてカウントダウンが始まり、私は、スケジュールどおりに、あたかもベルトコンベアの上をただ流されていく状態のようになってきた。
 診察が終わり、帰路の途中ナンバウォークで昼食。パートナーといろんな思いを話す。柄にも無く手術がうまくいかなかったら、職場での私物はどこにあるとか、誰に連絡するか、メモを作っておくとか、そんなことも話していた。

-「脳動脈瘤破裂前クリッピング術」初めての(殆どのの人は経験ないか)開頭手術に、もはや命をあきらめた覚悟。-

二〇〇六年三月四日(土)
 朝の六時過ぎに起床。開頭手術の当日というのに結構熟睡した感じである。起床してまもなく看護師さんが点滴を持ってくる。やがて八時過に兄が、八時二十分頃にパートナーがやってきた。手術の予定は午前九時三十分からであり、いろいろと思いを話していたが、どうも話が上ずってしまう。やはり相当緊張しているようだ。
 午前九時には看護師さんがやってきて、簡単な説明の後いよいよ三階の手術室に移動。歩いての移動である。足元はしっかりと歩いて行ったつもりである。手術室の開扉ペダルを看護師さんが踏むと重たく冷たい扉が開き、中待合へと入って行く。家族は手術室の中待合までで、そこで家族と別れ、パートナーは

 「大丈夫だからね」

  という。私はいよいよ手術室の奥の扉の中へと入っていくと扉は閉じられた。椅子に座って待機。中にはもう一つ扉がある。暫くすると準備ができ、その中へ入っていった。下はタイルで冷たい。私は手術台の上に横たわると、麻酔医の先生がやってきて、
「点滴のところから麻酔を入れます。少しチリチリとした感じがするかもしれません。」
とのこと。開頭部の剃毛も導尿チューブの挿管もしていない。麻酔をかけてからのようだ。全身麻酔をすると自発呼吸ができなくなり、そのため人工呼吸器のチューブを挿管し、機械的に人工呼吸に切り替えるのだが、人工呼吸チューブの挿管もしない。すべて、麻酔が施された後にするようだ。多少不安であったので、そのことも事前に説明があったほうが安心する。
私は、麻酔が効きにくい体質だ。かつての盲腸炎の手術のときも、左腕のリンパ腺が化膿し切開したときも、ほとんど麻酔が効かず、激痛なんてものではない。まるで拷問のような死ぬほど痛い思いをして大いに難儀した経験がある。今回も麻酔が効かなかったらいやだなと思いながら、麻酔が効くまでどれくらいかかるかな、2~3分かなと思い数を数えてみることにした。
  しかし、案ずるまもなく麻酔医の先生が点滴のところから麻酔を入れると、三も数えられず殆ど『瞬間的』に意識がなくなったように思う。手術の最中のことは、当然のことながら覚えていない。ただ、意識の奥底で、『自分は今脳動脈瘤のクリッピング手術を受けているのだ』といった覚えが時々うっすらと浮かんできたように思う。
暫くして、家族らは二階の待合に移動し、私の手術のライブ中継を見ていたとのことである。パートナーの話によると、ライブ中継は開頭して能動脈の瘤の部分に至った十一時二十八分に開始され、十二時四十八分には顕微鏡下の手術で脳動脈瘤にクリッピングが施された。パートナーはかつて脳外科病院の看護師長をしており、後日パートナーの話によると、上手な手術でさすがに器用で手早かった、とのことである。
やがて、無事脳動脈瘤のクリッピング手術が終了し、午後三時にICUに戻ってきた。I先生から
「イソじいさん、イソじいさん。無事に終わったよ。手術は成功したよ。」
と声をかけられた。全身麻酔からの覚醒は早く、声をかけられているときにはすでに覚醒していた。なんとなく『ろれつ』が回りにくかったが、手術の終わった安心感からかいろんなことを話しかけたことを覚えている。看護師さんが、
「イソじいさん、びっくりしましたよ。呼吸のチューブを抜管(ばっかん)したとたんに、『今、何時や』と聞いたんですよ。」
「それで、どうなったん。」
「今二時半ですよ。手術は終わりましたよ。よかったですねと言ったら、『ああそうか』と言ってまた寝たんです。」
ということらしい。

-脳動脈瘤にクリップがうまくかかり一安心。しかし、これからが手術後の闘病-

やがて、パートナーや娘たちがICUに入ってきて対面。とりあえずは無事終了したことで安堵し、よかった、よかったと言いあった。私のほうは、『ろれつ』がよく回らない。それに顔面が大きく腫れているらしい。また、麻酔が覚醒してくるにつれて、頭が猛烈に痛くなってくる。『頭が割れるほど痛い』のだが、実際に割れているのだから仕方がない。痛み止めの『痛い痛い』注射を打ち、薬を飲むが、たいして治まらない。
そのうちにパートナーと娘たちは『それじゃ気をつけて』といいつつ、最後に吸飲みで水を飲ましてくれて、家に帰った。
ICUは重篤な患者や術後の患者ばかりになり、それからが大変だった。夜になると一人の中年男性患者が、
 「痛い、痛い」と言いながら、手術の切開部を留める金属性の留具を自分で抜いているようだ。さかんに看護師さんを呼んでは、大声で「抜け」といっているが、その都度看護師さんにしかられ、挙句はベッドに手足を縛り付けられたようだ。この人は一晩中
 「放せ、ほどけ」と大声でわめいていた。
 
 また、もう一人の 男性の患者は、痰が絡むのか
  「ガー、カー、グー」とうるさい。痰を誤飲して呼吸ができなくなったり、肺に入って肺炎にでもなれば大変なのに、吸引をしないのかなと思う。もう一人の女性患者は着ているものを全部脱いでしまっているようで、やはり看護師さんにたしなめられている。ICUだから仕方がないのだが、うるさくてうるさくて、その上私自身も術後の頭が割れるように痛くて、さすがに一睡もできなかった。

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