5月5日は親父の命日だ。前夜から、いつもは壁にかかっている遺影をおろして仏壇の前にすえ経を読む。その行為そのものは、父母祖父母、誰の場合も変わらないが、親父の場合は、そのときのわたしの心持ちがずいぶんとちがったものとなる。
どうしても、彼に怒られているように感じてしまうのだ。
といっても写真のなかの彼が怒っているわけではない。笑ってはいないが怒ってもいない。黒のスーツに白いネクタイという召し物だから、誰かの婚礼の際に撮ったものだろう。正面を向いているからスナップではない。いくら怒りん坊の親父だとはいえ、そのようなめでたい席でフォーマルに撮影するカメラに怒った顔を向けるなどということはあり得ない(たぶん)。つまり、ごくごくまじめな顔をして撮ってもらったポートレートである。
なのに、その顔を見るわたしは、どうしても怒られているように思えてしまうのだ。
こんなふうに書くと、たいていの人は、「それはアナタが怒られるようなことをたくさんしでかしたからでしょうよ」と言うはずだ。それを100パーセント見当違いだと主張するつもりはない。半分アタリで半分ハズレである。理不尽な怒られ方をしたこともたくさんあるし、わたしの言動がそれを引き起こしてしまったことも多くある。いずれにしても間違いないのは、彼がよく怒る人だったということである。とはいっても、笑わない人だったかというとそうではなく、宴席などでは、むしろよく笑う人だったような気がする(酔い過ぎないうちは)。
翌6日、仏壇の前にある遺影を、いつもの場所である鴨居の上の壁に戻した。下から見る彼は、ごくごく普通のまじめな顔で、けっして怒っているようには見えない。
たぶん距離感の問題なのだろうな。と、自分で自分をむりやり納得させ、遺影に向かい両の手を合わせた。ではまた一年後。