答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

希望のダンプカー

2018年03月16日 | 土木の仕事

日曜日に見た写真が忘れられず、毎日毎日何度も何度も見返している。

青紀土木さんのフェイスブックページに掲載されていた岩手県釜石市在住の写真家菊池信平氏が撮影したもので、翌12日にここでも紹介した。

ふたたび、今度はその写真だけを大きな画像で紹介したい。

 

 

のちに「釜石の奇跡」(※)と呼ばれることになった鵜住居小学校の児童たちが、ダンプトラックの荷台に乗せられ避難所まで運ばれた写真だという。画像の状況から想像すると、避難所に着いてからの光景だろうか。右端に(有)藤倉建設という社名がある。地元の建設業者さんが所有しているものなのだろう。

ふだんダンプトラックは、土や石、産業廃棄物などを運ぶため使われている。ダンプ(dump)とは「(荷物などを)どさっと下ろす」という意味の英語だ。荷降ろしする様子がそれらしいことからこの名がついたという。土木という仕事にとってなくてはならないクルマである。その昔、(たぶん昭和40年代前半ぐらいまでは)ダンプの荷台に作業員さんを積んで現場への行き帰りをしていたのを聞いたことがあるが、平成の御世も終わろうかという今となってはそのような用途はあり得ない。土や石、産業廃棄物などを運んで「どさっと下ろす」クルマとして純然としてあるのがダンプトラックだ。言わずもがなのことながら、人を運ぶものではない。

そのダンプトラックで運ばれた子どもさんたちと、その子らに手を差し伸べ「やさしく下ろす」ヘルメット姿のおじさんたちの背中が写ったこの写真。何度も何度も繰り返し見るうち、地元の建設業者さんたちが極限状態に置かれたこのとき運んだのは、「希望」だったのではないかと思うようになってきた。そして、勝手に「希望のダンプカー」と名づけ、また繰り返し見ている。

何度見ても素晴らしい写真である。


 

※釜石の奇跡

(政府広報室『MADE IN NEW JAPAN』より)

15,800以上もの人々の命が奪われ、今なお約2,660人が行方不明となっている2011年3月11日の東日本大震災で、岩手県釜石市の3,000人近い小中学生のほぼ全員が避難し奇跡的に無事だったことは多くの人に希望を与えている。

その最たる例が、市内でも最も大きな打撃を受けた鵜住居地区の子ども達だ。マグニチュード9.0の地震発生直後、釜石東中学校の生徒達は直ちに学校を飛び出し、高台をめがけて走った。彼らを見て、近所の鵜住居小学校の児童や先生達もあとに続き、さらには多くの住民もそれに倣った。

中学生たちは年下の児童達を助けながら走り続け、安全な場所に一緒に辿りついた。その時、彼らの背後では巨大な津波が学校を、そして町を飲み込んでいた。

釜石市では1,000人以上が亡くなったが、学齢期の子どもの犠牲はたまたま津波が襲った時に学校にいなかった5人のみだった。子どもたちが無事に避難し命を救えた話は「釜石の奇跡」として知られるようになった。



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2 コメント

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鵜住居 (あおき)
2018-03-16 18:15:06
藤倉建設さんは鵜住居の奥にある会社です。
色々聞いた話を繋いで推測すると釜石の奇跡と呼ばれる鵜住居小学校と東中学の生徒は更に高い所を目指して1週間前に開通した自動車専用道に避難したと思います。丁度、自動車専用道を走行中に地震に遭って留まっていた大型ダンプが地元の子供達を避難所まで届けたのだと思います。

避難所で子供達を降ろしているのは市役所建設課他職員です。
この写真に強い衝撃と深い感動を受けて藤倉建設さんにプリントアウトして画像を届けました。
極限状態で人の温かさを感じた1枚です。
ありがとうございました。 (みやうち)
2018-03-17 06:15:24
わけもわからぬ門外漢が書いた文章に詳細な説明、ありがとうございます。おかげでちゃんとしたものになりました。

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