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日本文化の論点(1)

2017-03-29 23:46:58 | 書評:日本人と日本文化

◆『日本文化の論点 (ちくま新書)


「現代」の「日本文化」は、これからの世の中を考える手がかりや人間存在への洞察を書き換える豊かな想像力が渦巻いていると著者・宇野常寛氏はいう。「失われた20年」と呼ばれた世紀の変わり目に、戦後的なものの呪縛から解き放たれたもうひとつの日本が生まれ、育ってきているというのだ。それは、サブカルチャーやインターネットといった、新しい領域の世界であり、〈昼の世界〉に比べ、陽の当たらない〈夜の世界〉だともいえる。

この〈夜の世界〉が生み出すあたらしい原理のキーワードは、「日本的想像力」と「情報社会」だ。ソーシャルメディア、動画共有サイト、匿名掲示板、アニメ、アイドル‥‥。これらの文化は、日本で近年、独自のガラパゴス的な発展を遂げ、それゆえ世界的にもユニークで、高い評価を受けて注目されているものも多い。そして著者は、今は「ガラパゴス」的だと言われるこうした現代の日本的想像力こそが、21世紀のスタンダードな「原理」になり得ると考えている。

なぜそれらが21世紀の「原理」になり得るのか。それは、これから先の世界では、「日本のような」国が増えていくからだ。キリスト教的な文化基盤もなければ、西欧的な市民社会の伝統もない。にもかかわらず民主主義を実現させ消費社会を謳歌する「日本のような」社会がアジアを中心に拡大するのが、21世紀前半の世界だ。日本の現在と未来は、これから世界の人口の半分が直面する未来かもしれないと、著者は考える。だからこそ、日本の〈夜の世界〉を考えることが重要なのだという。

このような視点から、AKB48などを中心に日本のサブカルチャーを分析するこの本は示唆に富んでいるが、その内容に触れる前にこの視点そのものを少し検討したい。

かつて私は、内田樹氏の『日本辺境論 (新潮新書)』を取り上げ、氏の論の前提となっている日本人の「辺境人」意識から、現代の若い日本の世代はすでに脱しているのではないかと疑問を投げかけたことがある。

島国日本は、弥生時代以来、異民族による侵略という脅威なしに文化の受け入れを続けてきた。そのような形での異文化を受け入れ続けることができた幸運は、世界史上でもまれなことである。海の向こうの圧倒的に優れた文明を、平和的に吸収し続けた日本人は、自分をつねに「辺境人」の立場において、中心文明の優れた文物をひたすら取り入れる姿勢を、あたかも自分の「アイデンティティ」であるかのように思い込むようになった。そういう「辺境人」根性は日本人の血肉化しており、逃れようがない。だったらその根性に居座って、むしろ積極的にそれを活かそうというのが内田氏の主張であった。

しかし日本人は、内田氏が言うような意味での「辺境人」の性癖から脱しつつある。日本は今、そのような大きな時代変化の中にあり、その変化の大きさは、かつての圧倒的な唐文明の影響から脱して、自分たちに独自の文化を築いていった時代の変化に匹敵する、というのが私の考えであった。詳しくは以下を参照されたい。

『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』
『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて
『日本辺境論』をこえて(9)現代のジャポニズム

宇野氏の『日本文化の論点』は、「『日本辺境論』をこえて」で私が論じたような、現代日本の大きな歴史的変化を主にサブカルチャーの面から具体的に論じたものだとも言える。

内田氏が語る「辺境」の意味は、「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」ということであった。日本人に世界標準の制定力がなく、文明の「保証人」を外部の上位者に求めてしまう。それこそが「辺境人」の発想であるが、私は上の一連の文章で、「保証人」を外部に求める日本人の根強い傾向が若者を中心になくなりつつあることを論じた。ふらふらきょろきょろして外ばかり見ていた「辺境人」根性の「呪縛」から解放された世代の文化が育ち始めていることを、若い世代への意識調査などの結果から探った。

おそらくそうした若い世代の意識変化と、若い世代が作り出すサブカルチャーとは密接に関係している。ガラパゴスと言われながらも、それだけユニークで世界のどこにもない若者文化が育っているということは、明治以来の日本がひたすら憧れ、学んできた欧米発の「世界標準」から、若者文化が解き放たれはじめたということでもある。「世界標準」の枠組みに、もはやほとんど関心がないから、それに囚われない自由で独自の文化が生まれ育つのである。

ところで宇野氏は、現代のサブカルチャーに見られる日本的想像力こそが、21世紀のスタンダードな「原理」になり得ると言う。つまり今後日本が、「辺境」どころか新たな「世界標準」の発信源になる可能性があるというのだ。しかし、これについては充分に留意すべき点がある。

その前に内田氏のいう「世界標準」とは何だったのかを確認しよう。それはまずは、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教など、それ以降の文明の基礎を築くことになった普遍宗教であろう。そして、それらの普遍宗教に基づいて生まれた文明の原理であろう。たとえばヨーロッパ文明は、キリスト教をひとつの基礎としながら、また一面ではそれと対抗しながら、近代の各種原理を生み出していった。「自由」「民主主義」「人権」「合理主義」「科学「進歩」「自由主義経済」などがそれにあたる。そして、それらが現代のもっとも強力な「世界標準」になっていったのである。

宇野氏がいう21世紀のスタンダードな「原理」は、上のような意味での「世界標準」ではないはずだ。「世界標準」の普遍宗教は、激しい闘争の中で民族宗教の違いを克服することによって生まれたも言える。それもあって、それぞれの普遍宗教を背景にもつ「世界標準」自体は、お互いに相容れない傾向がある。自分こそ「世界標準」だと言い張って互いに争うのである。現在までのところ、その勝者が近代ヨーロッパだったわけだ。それを全面的に受け入れた世界は、ヨーロッパ的な「世界標準」に何らかの意味で「呪縛」されて、その分自由な発想が制限されるであろう。

ところが日本人は、そうした「世界標準」の原理原則にこだわらずに、自分たちに合わせて自由にいくつもの「世界標準」を学び吸収してきた。神道を残したまま儒教も仏教も西欧文明も受けれ、併存させたのである。それが日本文化に豊かさと発想の自由さを与えた。現代日本のサブカルチャーの豊かさも、そういう日本の伝統なくしてはあり得なかっただろう。そういう日本人が近代ヨーロッパが生んだと同じ性質の「世界標準」を生み出すはずがないことは明らかだ。

そして逆説的なことだが、ひとつの「世界標準」にこだわらず自由に学び吸収しつづけたからこそ、そこから生まれた独自の文化が、今後の世界にとって新たなモデルになる可能性を秘めているのではないか。それはどのようなモデルなのか。宇野氏は、現代日本のサブカルチャーのあり方の中にそのヒントを読み取ろうとしているのかもしれない。

《関連図書》
☆『ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)
☆『希望論―2010年代の文化と社会 (NHKブックス No.1171)
☆『日本的想像力の未来~クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)






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