『存覚』発刊以来、久しぶりに“坂爪逸子”さんの著書『中流の力~すべては<立っち>に始まった』が出版された。帯には次のようにある。
<環境問題や経済格差は悪化をたどり、いまや地球は危機に瀕している。この状況の原因を人類の直立二足歩行に求め、ギリシャ神話や中世日本の歴史にかつて存在した真の「中流階級」の痕跡を探り出し、危機的時代への処方箋を提示する。>
現代の危機の原因を直立二足歩行(<立っち>)に求めるとはどういうことか。
まず<立っち>の概念を、「乳児期に一体化していた母親から分離していく時期(肛門期)」と捉え、この時期に「自我がはっきりし、意思のはたらきが急に活発になる」という。サルから二足歩行のヒトになったのは170万年前だが、意識のうえで明確に乳児期から幼児期に入って<立っち>したのは1万年前のこととする(松井孝典説『地球システムの崩壊』より)。つまり、狩猟・採集による生き方(生物圏)を脱して農耕・牧畜(人間圏)へ移行した時期で、ここから人類の歴史は神話の時代に入ったというわけだ。
坂爪さんは、生物圏から脱して<立っち>した人類が、やがて二つの文化――遊牧型牧畜文化(ユダヤ・キリスト・イスラム教グループ)と定着型農耕文化(ヒンドゥー・仏教・道教グループ)――を形成するという石田英一郎説(『人間と文化の探究』)を援用する。
【西欧】
①唯一の超越神、神は宇宙に先立って存在する
②創造された宇宙
③男性原理
④不寛容と非妥協
⑤天の思想、至上神の存在場所は天上
⑥宇宙は合理的である
【東洋】
①所与の存在としての宇宙
②宇宙はアニミズム的で、神々と人間は隔絶しない
③女性原理
④寛容と融通性
⑤大地の思想
⑥宇宙は非合理的である
この文化の違いから、両者の<立っち>には明らかな相違がみられると坂爪さんはいう。つまり西欧の文化は「自然から飛び出すような荒々しい<立っち>」だが、東洋の文化は<立っち>する際に「自然と決別しなかった」というのだ。この東洋文化の背景に<少欲知足>の智恵があるのではないかと説き、インド生まれで中国に招かれた仏教者・真諦(しんだい:499~569)の<少欲知足>や老子の<無為自然>の思想などをあげ、自論を展開する。
さらに坂爪さんは、「<身を立てる>ということ」の見出しをもうけ、解剖学者・思想家の“三木成夫”(著書『胎児の世界~人類の生命記憶』/中公新書など)が説く脊椎動物の生命の二極構造説に注目する。
・背―上―感覚・運動―動物器官―体壁系―脳・神経系―左脳―近に反応―男性原理
・腹―下―栄養・生殖―植物器官―内臓系―心臓・血管系―右脳―遠に共振―女性原理
人間が四足歩行をしていた頃は、背(男性原理)によって腹(女性原理)が守られていたが、直立二足歩行<立っち>することで腹がむき出し無防備になった。「これが<立身><身を立てる>ということの出発点である」という坂爪さんは、三木の「植物器官絶対説」(植物は宇宙と一体となって生きており、宇宙のリズムは、植物器官である内臓に直接貫入している)に依拠しつつ次のように述べる。
<…動物器官は完全に内臓に奉仕する存在であった。しかし一万年前、人類が生物圏から飛び出して以来、動物器官はこの役割を捨てていった。農耕・牧畜によって、主食の穀物を栽培して飢餓から脱するとともに、余剰農産物を交換するようになる。これが市場と貨幣を生み欲望を増大させていく。こうして人類は植物器官が必要とする以上のえさや異性を求める<種>になっていったのだ。足るも止まるも知らない非自然を、人類という種の<自然>にしたのである。>
ここで坂爪さんは、三木の「二極構造」説と老子の「万物は陰(天)を背負いて、而して陽(地)を抱く。冲気(注:やわらぎととのう)を以て和と為す」という有名な言葉との類似に注目する。「下側に陽を抱いた腹部と、上に陰を背負った背中が、女性原理と男性原理としてとらえられて、万物はこの両者がやわらぎ協働することで調和する」との老子説と、三木の男性原理の動物器官が女性原理の植物器官を守り抜く二極構造説にみられる自然の摂理観が類似すると見るわけだ。
ここにいたって、おぼろげながら坂爪さんが説く<立っち>の概念がのみ込めてくる。このあとたびたび出てくる「過剰な<立っち>」と「品位ある<立っち>」(あるいは「健全な<立っち>」)の相違がさまざまな文献にもとづき語られるが、その核心は次の言葉に見ることができよう。つまり、「明治の革命、戦後の革命と、日本人を鞭打った過剰な<立身出世>熱も、<立っち>を一方的に叱咤激励する立場」でこれを「過剰な<立っち>」といい、一方、「健全に<立っち>」をするためには、<ゆとり>や<遊びの聖域>や<グレーゾーン>という精神的な<聖域>が不可欠」ということだ。現代の危機は「過剰な<立っち>」がもたらした危機であり、危機の打開は「健全な<立っち>」をどうして獲得するかにかかっていると説き、そのモデルに鎌倉幕府を開いた“源頼朝”の御家人制度(惣領制)とこれに呼応するかのように専修念仏を開いた“法然上人”の行状をあげている。
坂爪さんには『転形期の法然と頼朝』(青弓社)の著書があって、今回説かれている内容はその延長とみることもできるが、ここで“法然上人”の専修念仏門は頼朝の御家人制度があってこそ花開くことができたのではないかと言っている。
頼朝の御家人制度は、当時の「故郷喪失の危機(未開自然の大開発・流通経済の急発展)」に呼応して考えられた、今で言えば「国民の安心安全の保障」制度(セーフティーネット)である。これを「頼朝の安堵状」ともいう。家と村はこの「安堵状」によって<現世安穏・後世善処>を得て落ち着き、“法然上人”の仏法も「安堵」のうちに広まった。浄土宗の真実心とする<喜足少欲>説が安堵された人びとのエートスとなったと坂爪さんは言う。いわばこれは“法然上人”の「安堵状」だったのだ。
さて結論は、「国民が安堵を抱く国家には中流階級が存在する」ということだ。坂爪さんは「戦後日本を席巻した<一億総中流>と<中流崩壊>という言葉は、彼らを葬り絶滅品種にしてしまった歴史を語っているようである。本書では、真の中流階級の滅亡と軌を一にするようにして、家族や田舎が崩壊し、地球環境が危機に瀕していった事態を考えてみた」という。「安堵の国づくり」なしに中流復活はありえないと言いたいのだろう。「安堵の国」の内実に<少欲知足>の思想をしっかり見据えて語っている。
<少欲知足>に関しては本ブログでも何回か書いたが、弱肉強食を奨励する社会システムが続く限り、国民の「安堵」は保障されまい。それだけに社会変革の手段が問われているともいえる。それにしても現代に、頼朝・法然の再来は望むべきもないことか…。
<環境問題や経済格差は悪化をたどり、いまや地球は危機に瀕している。この状況の原因を人類の直立二足歩行に求め、ギリシャ神話や中世日本の歴史にかつて存在した真の「中流階級」の痕跡を探り出し、危機的時代への処方箋を提示する。>
現代の危機の原因を直立二足歩行(<立っち>)に求めるとはどういうことか。
まず<立っち>の概念を、「乳児期に一体化していた母親から分離していく時期(肛門期)」と捉え、この時期に「自我がはっきりし、意思のはたらきが急に活発になる」という。サルから二足歩行のヒトになったのは170万年前だが、意識のうえで明確に乳児期から幼児期に入って<立っち>したのは1万年前のこととする(松井孝典説『地球システムの崩壊』より)。つまり、狩猟・採集による生き方(生物圏)を脱して農耕・牧畜(人間圏)へ移行した時期で、ここから人類の歴史は神話の時代に入ったというわけだ。
坂爪さんは、生物圏から脱して<立っち>した人類が、やがて二つの文化――遊牧型牧畜文化(ユダヤ・キリスト・イスラム教グループ)と定着型農耕文化(ヒンドゥー・仏教・道教グループ)――を形成するという石田英一郎説(『人間と文化の探究』)を援用する。
【西欧】
①唯一の超越神、神は宇宙に先立って存在する
②創造された宇宙
③男性原理
④不寛容と非妥協
⑤天の思想、至上神の存在場所は天上
⑥宇宙は合理的である
【東洋】
①所与の存在としての宇宙
②宇宙はアニミズム的で、神々と人間は隔絶しない
③女性原理
④寛容と融通性
⑤大地の思想
⑥宇宙は非合理的である
この文化の違いから、両者の<立っち>には明らかな相違がみられると坂爪さんはいう。つまり西欧の文化は「自然から飛び出すような荒々しい<立っち>」だが、東洋の文化は<立っち>する際に「自然と決別しなかった」というのだ。この東洋文化の背景に<少欲知足>の智恵があるのではないかと説き、インド生まれで中国に招かれた仏教者・真諦(しんだい:499~569)の<少欲知足>や老子の<無為自然>の思想などをあげ、自論を展開する。
さらに坂爪さんは、「<身を立てる>ということ」の見出しをもうけ、解剖学者・思想家の“三木成夫”(著書『胎児の世界~人類の生命記憶』/中公新書など)が説く脊椎動物の生命の二極構造説に注目する。
・背―上―感覚・運動―動物器官―体壁系―脳・神経系―左脳―近に反応―男性原理
・腹―下―栄養・生殖―植物器官―内臓系―心臓・血管系―右脳―遠に共振―女性原理
人間が四足歩行をしていた頃は、背(男性原理)によって腹(女性原理)が守られていたが、直立二足歩行<立っち>することで腹がむき出し無防備になった。「これが<立身><身を立てる>ということの出発点である」という坂爪さんは、三木の「植物器官絶対説」(植物は宇宙と一体となって生きており、宇宙のリズムは、植物器官である内臓に直接貫入している)に依拠しつつ次のように述べる。
<…動物器官は完全に内臓に奉仕する存在であった。しかし一万年前、人類が生物圏から飛び出して以来、動物器官はこの役割を捨てていった。農耕・牧畜によって、主食の穀物を栽培して飢餓から脱するとともに、余剰農産物を交換するようになる。これが市場と貨幣を生み欲望を増大させていく。こうして人類は植物器官が必要とする以上のえさや異性を求める<種>になっていったのだ。足るも止まるも知らない非自然を、人類という種の<自然>にしたのである。>
ここで坂爪さんは、三木の「二極構造」説と老子の「万物は陰(天)を背負いて、而して陽(地)を抱く。冲気(注:やわらぎととのう)を以て和と為す」という有名な言葉との類似に注目する。「下側に陽を抱いた腹部と、上に陰を背負った背中が、女性原理と男性原理としてとらえられて、万物はこの両者がやわらぎ協働することで調和する」との老子説と、三木の男性原理の動物器官が女性原理の植物器官を守り抜く二極構造説にみられる自然の摂理観が類似すると見るわけだ。
ここにいたって、おぼろげながら坂爪さんが説く<立っち>の概念がのみ込めてくる。このあとたびたび出てくる「過剰な<立っち>」と「品位ある<立っち>」(あるいは「健全な<立っち>」)の相違がさまざまな文献にもとづき語られるが、その核心は次の言葉に見ることができよう。つまり、「明治の革命、戦後の革命と、日本人を鞭打った過剰な<立身出世>熱も、<立っち>を一方的に叱咤激励する立場」でこれを「過剰な<立っち>」といい、一方、「健全に<立っち>」をするためには、<ゆとり>や<遊びの聖域>や<グレーゾーン>という精神的な<聖域>が不可欠」ということだ。現代の危機は「過剰な<立っち>」がもたらした危機であり、危機の打開は「健全な<立っち>」をどうして獲得するかにかかっていると説き、そのモデルに鎌倉幕府を開いた“源頼朝”の御家人制度(惣領制)とこれに呼応するかのように専修念仏を開いた“法然上人”の行状をあげている。
坂爪さんには『転形期の法然と頼朝』(青弓社)の著書があって、今回説かれている内容はその延長とみることもできるが、ここで“法然上人”の専修念仏門は頼朝の御家人制度があってこそ花開くことができたのではないかと言っている。
頼朝の御家人制度は、当時の「故郷喪失の危機(未開自然の大開発・流通経済の急発展)」に呼応して考えられた、今で言えば「国民の安心安全の保障」制度(セーフティーネット)である。これを「頼朝の安堵状」ともいう。家と村はこの「安堵状」によって<現世安穏・後世善処>を得て落ち着き、“法然上人”の仏法も「安堵」のうちに広まった。浄土宗の真実心とする<喜足少欲>説が安堵された人びとのエートスとなったと坂爪さんは言う。いわばこれは“法然上人”の「安堵状」だったのだ。
さて結論は、「国民が安堵を抱く国家には中流階級が存在する」ということだ。坂爪さんは「戦後日本を席巻した<一億総中流>と<中流崩壊>という言葉は、彼らを葬り絶滅品種にしてしまった歴史を語っているようである。本書では、真の中流階級の滅亡と軌を一にするようにして、家族や田舎が崩壊し、地球環境が危機に瀕していった事態を考えてみた」という。「安堵の国づくり」なしに中流復活はありえないと言いたいのだろう。「安堵の国」の内実に<少欲知足>の思想をしっかり見据えて語っている。
<少欲知足>に関しては本ブログでも何回か書いたが、弱肉強食を奨励する社会システムが続く限り、国民の「安堵」は保障されまい。それだけに社会変革の手段が問われているともいえる。それにしても現代に、頼朝・法然の再来は望むべきもないことか…。