今日昼から“町内囲碁クラブ”の「打ち初め」である。年齢も腕前もさほど差がない気心の知れたもの同士が、勝敗抜きに「星取表」なしで楽しむつどい。上達を目指している者が一人もいないのがいい。もう一つ毎月第一木曜日、鹿島市で開催する“高校同級生碁会”というのがあって、今月は泊りがけでの“碁会”である。こちらは七段から初段までとやや腕前に差があって、メンバー10人の「総当たり星取表」で腕を競う。同級生同士だから他人行儀なしで張り合ったりする。
“佐藤一斎”の『言志録』に「老イテ学ベバ 死シテ朽チズ」とある。また、“坐”とは「土の上に二人が対面する」ことをいい、“碁”の対局も「坐して学ぶ」ことと理解したい。
さて、『今昔物語』巻第二十四・第六話に「碁擲(ごうち)の寛蓮、碁擲の女に値(あ)ひたる語(こと)」というのがある。碁が平安王朝上流女性のたしなみだったことはよく知られているが、はて、こんな怪しの「女流棋士」がいたとは…。
<今昔(いまはむかし)、六十代(醍醐天皇)延喜(えんぎ)の御時に、碁勢寛蓮と云ふ二人の僧、碁の上手にて有けり。寛蓮は品(しな)も不賤(いやしからず)して、宇多院(うたのいん)の殿上(でんじょう)法師にて有ければ、内(うち)にも常に召て、御碁を遊ばしけり。天皇も極(いみじ)く上手に遊しけれども、寛蓮には先二つ(先手二目置いて)なむ受させ給ひけり。
常に遊ばしける程に、金(こがね)の御枕を懸物(賭け物)にて遊ばしけるに、天皇負させ給ひければ、寛蓮其御枕を給りて罷出(まかりいず)るを、若き殿上人(てんじょうびと)の勇(いさみ)ぬるを以て奪ひ取せ給ひにければ、此様(かよう)に給はりて罷出るを奪はせ給ふ事度々(どど)に成にけり。…>
ある時、追っ手から奪われそうになった寛蓮は、町の井戸に枕を投げ捨て逃げ去った。後で追っ手が井戸から枕を引き上げてみると、木で作った枕に金メッキしたニセモノだった。こうして難を避けた寛蓮は、本物の「金の枕」で仁和寺の東に弥勒寺を建てたという。これを聞いた天皇は「うまく企みおった」と笑っておられたらしい。
ある日のこと、寛蓮が仁和寺に行く途中、こざっぱりした女の子が寛蓮の付き人を呼び止めて言った。
「この先にちょっとお立ち寄り下さい」
寛蓮は付き人から聞いて「一体誰だろう」と怪しく思ったが、この女の子について車を進めさせた。間もなく桧垣の押立門のある家があって「ここだ」という。下りてみれば、広縁のついた板葺きの背の低い建物で、前庭は柴垣に植え込みがあり砂が敷かれて、質素だが風雅な趣である。寛蓮が上がってみると、篠竹のすだれが懸けられ、側に夏向き模様の几帳がある。すだれの許には拭きこんでつやつやした碁盤があって、側に立派な碁笥(ごす=碁石の入れ物)が置かれている。
寛蓮が円座から離れて座っていると、すだれの内から奥ゆかしい魅力的な女の声で、
「こちらへお寄り下さい」
と言うから、碁盤の側に寄って坐った。女が言う。
「あなたさまは、いま世に並びなき碁の打ち手と聞いて、どんな腕前かお見せいただくためにお寄りいただきました。私の亡父が生前、私に碁の才能があるとみて、少し習ってみよと教えてくれましたが、亡き後は絶えて遊ぶこともありません。あなたがこの近くをお通りになると聞いて、恐縮ながら」
と笑って言う。
「とてもおかしなことでございますね。さて、あなた様のお手並みはいかほどでしょう?何目くらいお置きなさいますか?」
と言う。その間、すだれの内から得もいえぬ馥(こうば)しい香が漂い、女房どもがすだれから覗き合っている。(欠字があって数行省略)
さて、几帳の綻びから二尺ばかりの細い棒を差し出し、
「私の石はまずここに置いて下さい」
と、天元を差した。
「本来なら何目か置かせてもらうはずですが、実力差がわかりませんから、まずは先手で打ってみて、その上で十目でも二十目でも置いてみてはいかが」
と言うので、言われるとおり寛蓮は石を天元に置いた。ついで寛蓮がこれに応手し、つづいて女が細い棒で打つ手を示す。打つほどに寛蓮の石が皆殺しの様子。わずかに生きた石も駄目を押していくうちに取られ、そんなに手数は打たないのに大半の石が囲まれてなす術がなくなった。
寛蓮は「これは奇怪なことだ。よもや人ではあるまい。今まで自分をこんな目にあわせた者はない。いかに上手でも、こんなに皆殺しになるとは」と怖ろしくなって、碁盤の石を崩してしまった。
寛蓮がものもいえずに茫然としていると、女が少しほほ笑みながら、
「もう一局いかが」
と言った。寛蓮は「こんな変化(へんげ)の者には物言わぬがよい」ときめて、尻切れ草履も履き忘れ車で仁和寺に逃げ帰った。そして、天皇に「しかじかこうこうでした」と申し上げると、院も「一体誰だろう」といぶかしく思われて、次の日、話に聞いた場所に人を遣わして尋ねたが、その家にはそれらしい人はいなかった。ただ、生気のない尼が留守居していて、
「昨日、ここにいた人たちはどうした」
と聞けば、その尼いわく。
「この家には五、六日左京より建築・土木工事の方違(かたたが)えの人がお見えだったが、夜には帰っていかれました」
と言う。院の者が、
「その人たちはなんという人で、どこに住まっているか」
と聞くと、尼は、
「私がどうして知っておりましょう。この家の主は筑紫に行かれたそうで、その知り合いの人ででもあったのでしょう。ほかのことはわかりません」
使いの者はどうしようもなく帰ってきて、このことを報告した。天皇もこれを聞いて「なんとおかしなことのあることよ」と仰せられた。
<その時の人の云(いう)は、「何(いか)でか人にては寛蓮に会て皆殺しには擲(う)たむ。此(これ)は変化(へんげ)の者などの来りけるなめり」とぞ疑ひける。其(その)比(ころおい)は此事をなむ世に云合へりけるとなむ語り伝へたるとや。>
この話は、寛蓮が腕前を自慢していたので「天狗になってはならぬ」と諌めたものかも知れない。いかに仲間内でも「天狗」は嫌われる。ご用心、ご用心!
“佐藤一斎”の『言志録』に「老イテ学ベバ 死シテ朽チズ」とある。また、“坐”とは「土の上に二人が対面する」ことをいい、“碁”の対局も「坐して学ぶ」ことと理解したい。
さて、『今昔物語』巻第二十四・第六話に「碁擲(ごうち)の寛蓮、碁擲の女に値(あ)ひたる語(こと)」というのがある。碁が平安王朝上流女性のたしなみだったことはよく知られているが、はて、こんな怪しの「女流棋士」がいたとは…。
<今昔(いまはむかし)、六十代(醍醐天皇)延喜(えんぎ)の御時に、碁勢寛蓮と云ふ二人の僧、碁の上手にて有けり。寛蓮は品(しな)も不賤(いやしからず)して、宇多院(うたのいん)の殿上(でんじょう)法師にて有ければ、内(うち)にも常に召て、御碁を遊ばしけり。天皇も極(いみじ)く上手に遊しけれども、寛蓮には先二つ(先手二目置いて)なむ受させ給ひけり。
常に遊ばしける程に、金(こがね)の御枕を懸物(賭け物)にて遊ばしけるに、天皇負させ給ひければ、寛蓮其御枕を給りて罷出(まかりいず)るを、若き殿上人(てんじょうびと)の勇(いさみ)ぬるを以て奪ひ取せ給ひにければ、此様(かよう)に給はりて罷出るを奪はせ給ふ事度々(どど)に成にけり。…>
ある時、追っ手から奪われそうになった寛蓮は、町の井戸に枕を投げ捨て逃げ去った。後で追っ手が井戸から枕を引き上げてみると、木で作った枕に金メッキしたニセモノだった。こうして難を避けた寛蓮は、本物の「金の枕」で仁和寺の東に弥勒寺を建てたという。これを聞いた天皇は「うまく企みおった」と笑っておられたらしい。
ある日のこと、寛蓮が仁和寺に行く途中、こざっぱりした女の子が寛蓮の付き人を呼び止めて言った。
「この先にちょっとお立ち寄り下さい」
寛蓮は付き人から聞いて「一体誰だろう」と怪しく思ったが、この女の子について車を進めさせた。間もなく桧垣の押立門のある家があって「ここだ」という。下りてみれば、広縁のついた板葺きの背の低い建物で、前庭は柴垣に植え込みがあり砂が敷かれて、質素だが風雅な趣である。寛蓮が上がってみると、篠竹のすだれが懸けられ、側に夏向き模様の几帳がある。すだれの許には拭きこんでつやつやした碁盤があって、側に立派な碁笥(ごす=碁石の入れ物)が置かれている。
寛蓮が円座から離れて座っていると、すだれの内から奥ゆかしい魅力的な女の声で、
「こちらへお寄り下さい」
と言うから、碁盤の側に寄って坐った。女が言う。
「あなたさまは、いま世に並びなき碁の打ち手と聞いて、どんな腕前かお見せいただくためにお寄りいただきました。私の亡父が生前、私に碁の才能があるとみて、少し習ってみよと教えてくれましたが、亡き後は絶えて遊ぶこともありません。あなたがこの近くをお通りになると聞いて、恐縮ながら」
と笑って言う。
「とてもおかしなことでございますね。さて、あなた様のお手並みはいかほどでしょう?何目くらいお置きなさいますか?」
と言う。その間、すだれの内から得もいえぬ馥(こうば)しい香が漂い、女房どもがすだれから覗き合っている。(欠字があって数行省略)
さて、几帳の綻びから二尺ばかりの細い棒を差し出し、
「私の石はまずここに置いて下さい」
と、天元を差した。
「本来なら何目か置かせてもらうはずですが、実力差がわかりませんから、まずは先手で打ってみて、その上で十目でも二十目でも置いてみてはいかが」
と言うので、言われるとおり寛蓮は石を天元に置いた。ついで寛蓮がこれに応手し、つづいて女が細い棒で打つ手を示す。打つほどに寛蓮の石が皆殺しの様子。わずかに生きた石も駄目を押していくうちに取られ、そんなに手数は打たないのに大半の石が囲まれてなす術がなくなった。
寛蓮は「これは奇怪なことだ。よもや人ではあるまい。今まで自分をこんな目にあわせた者はない。いかに上手でも、こんなに皆殺しになるとは」と怖ろしくなって、碁盤の石を崩してしまった。
寛蓮がものもいえずに茫然としていると、女が少しほほ笑みながら、
「もう一局いかが」
と言った。寛蓮は「こんな変化(へんげ)の者には物言わぬがよい」ときめて、尻切れ草履も履き忘れ車で仁和寺に逃げ帰った。そして、天皇に「しかじかこうこうでした」と申し上げると、院も「一体誰だろう」といぶかしく思われて、次の日、話に聞いた場所に人を遣わして尋ねたが、その家にはそれらしい人はいなかった。ただ、生気のない尼が留守居していて、
「昨日、ここにいた人たちはどうした」
と聞けば、その尼いわく。
「この家には五、六日左京より建築・土木工事の方違(かたたが)えの人がお見えだったが、夜には帰っていかれました」
と言う。院の者が、
「その人たちはなんという人で、どこに住まっているか」
と聞くと、尼は、
「私がどうして知っておりましょう。この家の主は筑紫に行かれたそうで、その知り合いの人ででもあったのでしょう。ほかのことはわかりません」
使いの者はどうしようもなく帰ってきて、このことを報告した。天皇もこれを聞いて「なんとおかしなことのあることよ」と仰せられた。
<その時の人の云(いう)は、「何(いか)でか人にては寛蓮に会て皆殺しには擲(う)たむ。此(これ)は変化(へんげ)の者などの来りけるなめり」とぞ疑ひける。其(その)比(ころおい)は此事をなむ世に云合へりけるとなむ語り伝へたるとや。>
この話は、寛蓮が腕前を自慢していたので「天狗になってはならぬ」と諌めたものかも知れない。いかに仲間内でも「天狗」は嫌われる。ご用心、ご用心!