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山形大学庄内地域文化研究会

新たな研究会(会長:農学部渡辺理絵准教授、会員:岩鼻通明山形大学名誉教授・農学部前田直己客員教授)のブログに変更します。

江田先生の学問と私(「山形民俗」第29号、2015年11月、に掲載)

2015年12月28日 | 日記
 一 はじめに
 筆者が故江田忠先生について、はじめて言及したのは、二〇一〇年八月に開かれた農村文化ゼミナールにおいてのことで、「置賜民俗学の系譜~江田忠先生と武田正先生を中心に」と題した短い報告を行った。
 毎年八月第一土曜日に農村文化研究所主催の農村文化ゼミナールが開催され、神奈川大学の佐野賢治教授が毎回参加される行事も、二〇一五年で二十八回を数えるに至ったが、二〇一〇年の前年までは武田正先生が報告者ないしコメンテーターの常連として活躍されてきた。
 ところが、この年、二〇一〇年になって、関東在住のご子息宅に転居されたこともあって、筆者が武田先生の代役を務めることとなり、急遽、上記タイトルの報告を行うことになった。
 この頃、筆者は年に数回、韓国を訪問し、全州や富川、釜山などの国際映画祭に足を運びながら、日韓の映画を通した地域活性化に関する調査研究を進めつつあった。その成果の一端は、今春に刊行された「村山民俗」誌上に投稿することができた(注一)。
 さて、江田先生は、山形大学工業短期大学部教授を一九七八年に定年退官され、その二年余り後の一九八〇年四月五日に亡くなられた。筆者が、一九八三年十月に山形大学教養部に赴任した際には、この組織は既に工学部Bコースとして再編されており、Bコースの教養教育担当教員は、教養部分室として工学部内に籍を置いておられた。
 江田先生は、いわば筆者の大先輩ということになり、残念ながら生前にお会いすることのかなわなかった朝鮮半島研究の先達の研究歴に関心を寄せる契機となったのである。
 さらに、今春、たまたま東京の京橋にある国立近代美術館分館フィルムセンターの展示室で開催された企画展「シネマブックの秘かな愉しみ」を見学していたところ、最後のコーナーの地方出版物の中に、江田先生の著書が展示されていたことに感銘を受けた。
 映画に関する書物も出版されておられたとあっては、江田先生の学問の全体像を把握することに関心がさらに増大し、本誌の誌面をお借りして、拙文をまとめるに至った次第である。

 二 江田忠先生の経歴
 江田先生の経歴については、山形大学退官時に編集・発行された『くらしの中の六十五章』の巻末に詳しいが、同書によれば、一九一三年に両親の渡鮮により朝鮮咸鏡北道清津(現在は北朝鮮)にて出生された。
 そして、一九三五年に京城帝国大学法文学部史学科卒業、一九三五~一九三七年に京城帝国大学助手、一九三七~一九四五年に京城師範学校教諭・助教授を経て、一九四五年に郷里の米沢へ引き揚げ、以降は米沢東高校教諭、山形県立米沢女子短期大学助教授、山形県教育庁社会教育課成人教育係長、山形大学工業短期大学部助教授・教授、福島女子短期大学教授を歴任された。
 京城帝大では、法文学部の助手をされたようで、宗教学・社会学研究室に在籍された朝鮮の宗教・民俗研究で著名な秋葉隆教授・赤松智城教授のもとで、朝鮮半島の民俗文化に関する調査研究にも従事された可能性がある。
 ただ、同書巻末の主な業績一覧では、戦前のものとして「宋会要稿本目録について」一九三五年、京城帝大史学会誌、および「功過格にみる中国人の道徳思想」一九四一年、京城帝大学叢、の二本の論文が掲載されているのみで、主要な研究分野は中国思想史であったとも思われ、東洋史学研究室の助手であったのかもしれない。
 同書巻頭の「はしがき」では、「東洋史の研究に没頭」と記されており、韓国民俗学の黎明期に詳しい東亜大学教授の崔吉城先生に、おうかがいしたところ、ご存じないとのことで、やはり東洋史学の助手であった可能性のほうが高いかもしれない。
 やはり、京城帝大で江田先生より少し後に助手となった故泉靖一先生(戦後に東京大学の文化人類学研究室を創設され、川田順造先生の恩師にあたる)が、戦後に『済州島』と題した朝鮮研究の大著を出版されたことと、江田先生が戦後に京城時代の研究をまとめられることがなかったのは対照的といえようか。
 江田先生の場合は、朝鮮からの引き揚げ時に研究資料をほとんど持ち帰ることができなかったために、朝鮮在勤時の研究継続を断念されたと耳にしたことがあった。その情報は前述の農村文化ゼミナールでの報告後のことであったかもしれない。一方の泉靖一先生は、引き揚げ時に卒論の「済州島」とカメラのみを持ち帰られたとのことであった(注二)。

 三 江田先生の社会教育学研究と民俗学研究
 江田先生の戦後の主たる研究分野は、社会教育学であったといえよう。上述の著書巻末の主な業績中の著書はすべて、この分野に関わるものであり、戦前の東洋史研究から大きく専門分野を切り替えられたのであった。
 筆者は、この社会教育学の分野に関しては全くの門外漢であり、適切なコメントを付すことはできかねるが、江田先生の学問において、社会教育学と民俗学とが密接に結びついていたことは間違いない。
 江田先生は前近代的な民俗を、戦後の近代的な社会教育の中に取り込むことを目的とされていたといえよう。それは、いわば過去の遺産としての民俗知を、社会教育の場で生かそうとする試みであった。
 このことを的確に表現されたのが、大井魁氏の追悼文における「むしろこのようなふるい講集団と新しい社会教育の展開とを有機的に関連づけるのが江田さんの仕事である」という一文であろう(注三)。
 県内の民俗学界においても、置賜民俗学会の初代会長として、基礎を築かれたが、この点に関しては、かつて村山民俗学会の野口一雄会長と連名で報告したことがあったので、その一文に譲りたい(注四)。なお、その文中の江田先生に関する記述で不正確な部分が認められるが、本論の記述をもって訂正したい。
 置賜民俗学会は江田会長のもとで、精力的な地域調査を展開された。筆者も、平成二五年度国土地理協会研究助成で「山形県置賜地方における中山間地の土地利用の変遷に関する歴史地理学的研究」と題した共同研究を実施したが、その際に、米沢市綱木集落を対象とした置賜民俗学会の調査報告から学ぶところがたいへん大きかった(注五)。
 また、映画に関する文章の中にも、社会教育の自説を踏まえた記述が散見するのだが、それについては、次章で詳しく触れることにしたい。

 四 江田先生の映画への関心
 江田先生が出版された映画関連の著書として、『よねざわ活動寫真ものがたり』一九七二年、および『続 よねざわ活動寫真ものがたり』一九七四年、の二冊があげられる。いずれも、九センチ四方のサイズであり、よねざわ豆本のシリーズとして刊行されたものである(山形県立図書館所蔵)。
 まず、前者の目次は、はじめに、1米沢座の活動写真、2駒田好洋の来米、3戦時大活動写真会、4声色付きの活動写真、5明治から大正へ、6大正初期の活動小屋風景、7呼物となった桜島大噴火実況映画、8活動写真利用の宣伝、9常設館の誕生、10活動写真興行界の三巴戦、11活動写真興行への批判、12活動写真取締案、13米織女工の活動写真観覧禁止、あとがき、著者略歴、となっている。
 また、後者の目次は、1大正六年の大火と活動写真興行、2常設館の復興、3活動写真宣伝の新趣向、4活弁評判記、5大正八年の大火と慈善興行、6「イントレランス」の上映、7尾上松之助の来演、8場内禁煙、9「キネマカラー」の上映、10国勢調査宣伝と活動写真、11活動写真利用の科学講演会、12国活直営館の出現、13活弁集団、14松竹キネマの進出、15活動写真時代から映画時代へ、あとがき、挿絵を描いて、著者略歴、となっている。
 前者の「はじめに」によれば、当時、江田先生は米沢映画鑑賞会の会長を務めておられ、月一回発行されていた機関紙「映画鑑賞」のフロントに毎号書き続けてきた文章をまとめたものだそうである。 
 米沢市立図書館に所蔵されている「米沢新聞」で、米織女工を調べているうちに、映画に関する記事が目に付いたのだそうで、いわば女性の社会教育をめぐる調査研究の副産物ともいえよう。
 また、一八九五年末に、フランスのリュミエール兄弟が映画(シネマトグラフ)を発明した後、早くも一八九九年夏に米沢座でシネマトグラフが上映されたことや、一九一四年一月一二日の鹿児島県桜島の爆発後まもない二月一六日から三日間、この映像が上映されたことなどの記述を興味深く拝読した。
 さらに、米織女工との関連では、弁士との関わりから、一九一七年から一年間余り、女工の映画館への出入りが禁止され、その後に条件付きで解除されたというエピソードは、当時の世相を反映しており、米沢ならではの映画史といえよう。
 そして、後者では、一九一七年の舞鶴座の開館時に、尾上松之助主演の「忠臣蔵」(一九一〇年に制作された牧野省三監督作品で日本初の長編映画)が上映されたが、米沢における忠臣蔵タブーについて「この頃にはそんなタブーもなかったのであろう」と述べておられる。
 この記述は、江田先生の民俗学に関する見解を提示しているものとも思われる。すなわち、古い時代から変わらずに継承されてきたと信じられてきた民俗事例が意外と後世に生み出された場合があるということを示唆しているのではなかろうか。
 一方、一九二〇年の米沢高等工業学校(戦後の山形大学工学部の前身)創立十周年記念として、科学映画が上映され、在校生が説明したとのことであるが、上映作品は「ウドンの製造」や「結晶」に加え、「ヒコウキ」や「近代戦争武器」といったタイトルが見受けられることにも、当時の世相が反映しており、興味深い。
 最後の「あとがき」では、一九二三年の関東大震災で、いったんは京都に映画制作の場が移るが、一九三一年のトーキー発表までが、無声映画の完成期であると述べ、その前史としての地方都市の事例に関する記述であることを記して、締めくくられている。
 次に、江田先生の映画への関心を物語る文章として、戦後の米沢新聞に連載されたコラム「こけしのささやき」の中に含まれているものを拾い出したので、簡単に紹介したい。このコラムは、一九五〇年から一九五九年まで紙面に欠かさず連載されたもので、江田先生の十三回忌にあたって復刻出版された(注六)。
 まず、一九五一年のコラムでは、米沢市・山形市ともに映画館は六館あったが、一日の入場者は米沢が二百人に対して、山形は六百人であること、また入場料は八十円で、うち四十円が入場税であることが記されている。
 また、一九五二年のコラムでは、映画「カーネギーホール」上映に際して、米沢の映画館グリーンハウスが当時としては異例の入れ替え制としたので、ゆっくり鑑賞できたと記されている。その頃は、いつでも入場できるのが普通であったのだ。
 そして、一九五三年には、入場税が十割から五割になったが、前売り券がなくなり、かえって高くなったとの指摘がある。前売り券は日本独自のシステムで、そのために正確な入場者数が把握できないとも言われている(ちなみに、韓国では毎週、作品ごとの入場者数が公表されている)。
 また、この頃から、テレビ放送にも注目されるようになり、テレビスターなるものがあらわれてくるという記述は、まさに先見の明といえよう。その後も、度々、テレビに関する言及が散見する。テレビの普及で、映画はシネマスコープが多くなり、映画の質を向上させたとの記述もみられる。
 一方、米沢では洋画の上映が少なく、洋画と邦画を比較することで、鑑賞眼が高められると記されている。また、文化映画は資金不足だが、世界水準であるために、映画館で短編の文化映画や教育映画を積極的に上映すべきとの指摘もみられる。
 ところで、二十一世紀に入る頃から、3D映画が相次いで公開されるようになったが、この当時既に偏光メガネで見る「立体映画」が存在していたことには驚かされた。後の一九五九年のコラムでは「においの出る映画」にも言及されており、まさに最近はやりの4DX体感型上映の先取りといえようか。
 一九五四年に入ると、入場税が地方税から国税になり、六十円に五割の税で九十円だったものが、二割の税になって、六十円に十二円の税と値下げになるのか、と記されているが、事実は不明である。また、当時は映画館の収入の七割がフィルム代として吸い上げられるために、映画館の経営が苦しいことが指摘されている(近年はほぼ五割とされる)。
 教育映画祭で最高賞を得た作品を、文部省が非選定としたことを批判的に紹介されておられ、翌一九五五年には、文部省教育映画等審査分科審議会が松竹の仇討ち映画を成人・家族向けに選定したことも批判され、日活映画「月夜の傘」が選定を返上したことを皮肉っぽく紹介される一方で、教材映画を成人教育として親たちにも見せる必要があることを指摘されている。
 一九五六年には、当時に流行した「太陽族」映画を教育面から批判され、一九五七年には米沢市の小中学校に映写機が一台づつ配置されていることを記し、文部省が月に二回、映画館で日曜の午前に教育映画を上映する施策を紹介している。
 一九五八年には、テレビと映画の大勢は既に決したと記すが、実は、この年が映画館入場者数のピークであったのであり、先と同じく先見の明である。当時は国民一人が年に十二回映画を見たことになるのだが、近年は年間二回にも満たない水準である。
 一九五九年には、今年前半期の日本映画制作本数が二八〇本で、アメリカの一年分より多いことが指摘されるが、一貫して邦画は大半が愚劣で、そうした映画ほど国内で商品価値が高いことを嘆いておられる。その指摘は現在の日本映画にも、そのままあてはまるのではなかろうか。
 
 六 おわりに
 江田先生の著作の中から、個人的関心のおもむくままに書き連ねてきたが、戦前の朝鮮在住時代を回顧するものは、けっして多くはなく、とりわけ、研究生活に関する記述はほとんどみられない。
 それは、引き揚げ時に、たいへんな苦労をされたようで、ご両親とご長女は北朝鮮から、江田先生のご家族はソウルから別々に引き揚げられ、しかもご尊父は引き揚げの途中で病没され、ご母堂も引き揚げ後まもなく逝去されたという。
 さらに、引き揚げ直後は、江田先生は米沢で単身生活を、ご家族は会津若松で暮らされていたそうで、山形大学に赴任された理由のひとつに、官舎に住むことができ、家の問題から解放されることがあったそうである。
 また、『こけしのささやき』の略歴から、米沢映画教育研究会の会長であったことに加えて、詩吟を趣味とされ、一九三九年に早くも、第一回全朝鮮吟詠コンクールで優勝されたことと山形県吟詠研究会の会長であったことを知った。
 以上、江田先生の学問について、私的関心から出発した記述にすぎないが、誤解曲解が含まれていれば、筆者の責任であり、忌憚のないご批判をいただければ幸いである。

 [付記]本稿を成すにあたっては、山形大学教養部の先輩であり、かつて江田先生と同僚であった山形大学名誉教授早川正信先生、および農村文化研究所から、資料の提供をいただいたことを明記して感謝いたします。

 注
 一 拙稿「映画をめぐる現代民俗-日韓の比較から-」村山民俗二九号、二〇一五年七月。
 二 泉貴美子『泉靖一と共に』芙蓉書房、一九七二年九月。
 三 大井魁「江田忠先生の学風を偲ぶ」米沢文化十一号、一九八一年五月。
 四 拙稿「山形県民俗(学)研究の歩みー各地域民俗研究団体の発足と諸先学」
  (野口一雄と分担執筆)『第三〇回東北地方民俗学合同研究会 予稿集 各県民俗学の始まりと今』二〇一三年一一月。
 五 国土地理協会サイト「過去の学術研究助成の実績」のPDFファイル参照。
 六 江田忠『こけしのささやき 米沢新聞連載コラム集(上・下)』一九九二年四月(山形大学工学部図書館所蔵)。
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文久三年 月山湯殿山羽黒山道中日記(山形大学農学部図書館所蔵)

2015年09月13日 | 日記
文久三年 月山湯殿山羽黒山道中日記(山形大学農学部図書館所蔵)

出羽三山の旅日記の画像をアップしました。
 文久三年(1863)の出羽三山道中日記です。群馬県の福地書店より購入した古文書です。この史料の写真を論文などに引用される場合には、必ず所蔵先を明記いただき、私宛に、ご一報ください(imichiaki@mail.goo.ne.jp)。
 この史料の作者と居住地は不明であるが、冒頭に栃木県の壬生、終わりに群馬県の太田という地名がみえるので、おそらくは栃木・群馬県境付近の可能性が大きい。
 途中、八溝山を経て、奥州街道を北上し、仙台城下町から松島を見て、石巻から金華山に渡り、古川から銀山温泉、尾花沢を経て、古口から最上川の川舟で清川で下船して羽黒山へ至る。
 羽黒山御本坊(山頂の御本社)に詣り、月山に登り、湯殿山へ下って、仙人沢から田麦俣、大網を経て、金峯山(きんぼうさん)に詣り、湯田川温泉を経て、帰路は日本海に沿って、村上から新潟を経由して、柏崎から高田を経て、柏原から戸隠へ詣り、長野善光寺を経て、中之条から伊勢崎を経て、帰路についている。
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映画をめぐる現代民俗-日韓の比較から-(「村山民俗」29号より、末尾に追記あり)

2015年07月26日 | 日記
  映画をめぐる現代民俗-日韓の比較から-
                           岩鼻 通明
 一 はじめに
 本論文は、二〇一五年度東北地理学会春季大会において報告した「映画祭を通した地域活性化-日韓の比較から」の内容に加筆修正したものである。映画を通した地域活性化の概要に関しては、既に前稿で記したこともあって、ここでは前稿以降の推移や補足を論じることとしたい(注一)。
 また、日韓の映画祭の比較に関しても、まもなく別稿が刊行される予定であるため、ここでは、その内容とできる限り重複を避けながら論じることとしたい(注二)。
 
 二 映画祭をめぐる現代民俗
 映画祭は映画の百年余りの歴史の中で生み出された近現代的祝祭であり、現代民俗の研究対象となりうる。一般的には新作映画のお披露目(いわゆるプレミア上映)の場であり、その中から優秀な作品に対して賞が与えられるコンペティション部門が設定されることもある。
 映画祭の担い手は、国際映画祭などの大規模な場合は映画業界人が中心となるが、地域で開かれる映画祭では、地域住民がスタッフとして支える例がしばしば存在し、多くの場合はボランティアとしての活動となっている。
 一方、映画祭の観客は、業界人に加えて、シネフィルと呼ばれる、いわゆる映画ファンが集まる場となるが、映画祭と連動して、その地元で制作された地域発信型の作品が上映されることもあり、その場合はエキストラとして出演した地域住民たちが数多く上映に集まる現象がみられ、地元と密着した映画祭となり、地域活性化に寄与する効果が大きいといえよう。
 さて、日韓の映画祭の歩みを比較すると、日本ではテレビの普及にともない、映画が不況になって、大手映画会社が撮影所を維持できなくなった一九八〇年代に入り、映画産業の復活を賭けた宣伝の場として、東京国際映画祭などが立ち上げられたものと憶測される、
 現存する映画祭で、最古の歴史を有するのは、大分県の湯布院映画祭で、今夏で四〇回目を数える。小規模で、地元観光業界のサポートが得られ、日本映画の特集が組まれることから有名な監督や俳優がゲストとして来場し、毎晩ゲストを招いた交流パーティーが開催されることなどが息長く継続できた要因といえようか。
 その一方で、映画祭の消長も激しく、たとえば東北では、中世の里なみおか映画祭(青森県)は上映作品をめぐる軋轢と広域合併の過程で消滅した。みちのく国際ミステリー映画祭(盛岡市)はスポンサーの撤退などの理由から消滅し、個性的な映画祭として知られた、あおもり映画祭や、しらたか的音楽映画塾も消滅に至った。沖縄国際映画祭や京都国際映画祭のように新たに生まれた映画祭もみられるが、それらは吉本興業の国際戦略上のものであって、観客重視の映画祭とは言いがたいものがある。
 それに対して、韓国では、多くの映画祭が前世紀末以降に立ち上げられた。一九九七年末に起こったアジア通貨危機によって、国際通貨基金の管理下に置かれた韓国は、折りしも誕生した金大中政権下で、輸出産業の奨励政策を断行せざるをえなかった。
 その柱のひとつがIT産業育成であり、もうひとつが映像産業の育成であった。いわゆる「韓流」ブームは国策として推進されたのであり、まず東南アジアの華僑を含めた中華圏がターゲットとされ、日本にブームが到来したのは、二〇〇二年のW杯日韓共催の後で、ブームの掉尾を飾るものとなった。
 韓国政府は映画産業にさまざまな支援を実施し、その一環として多くの映画祭も誕生することとなった。韓国三大映画祭として、釜山国際映画祭・全州国際映画祭・富川国際ファンタスティック映画祭をあげることができるが、いずれもソウル以外の地方都市で開催されていることが大きな特徴となっており、地域振興の役割も担っている。
 一方、ソウルでは、ソウル国際女性映画祭など、人権や環境といったテーマ別の映画祭がいくつも存在しており、女性映画祭は仁川や光州でも近年に始まり、結果的にソウル国際女性映画祭が凋落するに至っている。韓国古典映画の上映を中心に据えて始まった忠武路映画祭のように数年で消滅した映画祭もあるが、日本に比べると、全国各地で新たな映画祭が立ち上げられており、地方自治体が地域活性化を目的に映画祭を支援する例が多い。
 映画祭の予算は、金東虎釜山国際映画祭前委員長によれば、公的支援・民間支援・自己収入が均衡する比率が望ましいとされるが、実際には釜山のような大規模映画祭においても、入場券などの自己収入は一割程度にすぎない。
 韓国の映画祭の多くは公的支援の比率が大きいが、日本では例外的であり、手弁当によるボランティア運営の映画祭が多くを占め、しかも自治体による支援は縮小の傾向にある。日韓ともに、一億円の予算で延べ二万人の観客を動員するという対費用効果は共通しているが、日本では映画祭事務局のスタッフも事務所も過小であるが、韓国ではスタッフ・事務所ともに充実しており、待遇の差異は非常に大きいといえる。
 また、国際映画祭は、自国の映画を海外に輸出する絶好の機会でもあることから、映画のマーケットが開催される。とりわけ、釜山国際映画祭のマーケットは大規模であり、二〇一一年にはマーケットが開催される国際展示場に近接して映画祭専用劇場の「映画の殿堂」がオープンした。この専用劇場は屋根をかけた巨大なオープンステージを有し、数千人の観客を収容することができ、開幕・閉幕上映を天候に左右されずに行うことが可能となった。
 一方、東京国際映画祭は六本木をメイン会場に開催されてきたが、近年、マーケット部門がお台場開催に分離された。釜山が映画上映とマーケットを一体化して、相乗効果を高めたのに対して、東京が映画上映とマーケットを切り離したことは不可解であるといえよう。
 また、韓国では、KOFIC(韓国映画振興委員会)という政府の外郭団体が存在し、百人ほどのスタッフを抱えているが、日本では、これに相当する組織は存在しない。この点でも、日韓の行政による支援の相違をうかがうことができる。日本では、一時期、経産省がコンテンツ産業育成の観点から映画に対する支援を始めたが、結果として文化庁との二重行政となり、二〇一一年の大震災以降は熱意を失ったようにみえなくもない。
 ただ、韓国では、政府や自治体の指導者が変わると、政策が大きく転換することがあり、保守化傾向が著しいパク・クネ政権下において、映画に対する検閲とも言える事態が相次いで生じるに至っている。
 二〇一四年秋の釜山国際映画祭で、この春に起こったセウォル号沈没事件を批判的に描いたドキュメンタリー映画「ダイビング・ベル」に対して、釜山市長が上映中止を要請した。映画祭事務局は要請に従って上映を中止した前例はないことから上映を実施したが、上映館に多くのマスコミが殺到した場面を筆者も実見した。
 その後、映画祭委員長に対して辞任勧告が市長から出され、KOFICもまた、今年度の釜山国際映画祭に対する支援を半減することを決定した。また、ソウル国際青少年映画祭に対しても、支援打ち切りが決まるなど、映画祭に対する政治的圧力が増しており、映画人から反発が高まっている。

 三 フィルム・コミッションをめぐる現代民俗
 韓国では、一九九六年にスタートした釜山国際映画祭を追うように、一九九九年に釜山フィルム・コミッション(以下FCと略記)が立ち上げられた。釜山の市街地でのカーアクションや大火災シーンの撮影をフォローした実績が高く評価され、またオール釜山ロケ・釜山弁の映画「友へ チング」が当時の観客動員記録を塗り替える大ヒットとなったことなどから、多くの商業映画のロケが釜山に集まることとなり、二〇〇〇年代前半には、劇場公開される韓国映画の半数近くが釜山でロケされるに至った。
 それ以前から、KOFICはソウル南郊の南楊州市にソウル総合撮影所と称する大規模な撮影スタジオと野外セットを有し、二〇〇〇年に公開された映画「JSA」では、現地での撮影が不可能な板門店のセットを組んで、ここで撮影が行われた。このセットは今も存在して、国境の板門店へ簡単には行くことのできない韓国人観覧客の人気を集めている。
 釜山に少し遅れて、全州でもFCが立ち上げられ、国際映画祭と協調しながら実績を積み重ねてきた。ただ、近年は仁川や京畿道FCが立ち上げられ、ソウルFCも二〇〇四年に公開された「僕の彼女を紹介します」では、国会議事堂前でのカーアクションと爆発シーンの撮影をサポートするなどの実績をあげ、ソウル近辺でのロケが多くなりつつある。
 映画ロケには、多くの人手を要し、長期間の撮影となることもあって、費用を抑えることのできる近距離でのロケが、日韓ともに増加しつつある現状といえよう。そのため、釜山国際映画祭では、プロジェクト・ピッチングなとと称して、これから制作を開始する映画のシナリオを公募し、プレゼンを実施して、優秀作品には釜山ロケを条件に支援金を助成する試みを行いはじめた。
 日本でも、釜山FCに刺激を受けて、二〇〇〇年代に入ると、雨後の筍のようにFCが続々と立ち上げられた。神戸FCは映画「GO」の地下鉄駅の線路内シーンの撮影をサポートし、首都圏では撮影不可能だった原作小説の重要な場面の再現をフォローし、高い評価を得るに至った。
 日本では、韓国とは異なり、警察組織が自治体から独立しているために、カーアクション場面など、警察と協力して道路封鎖の必要なシーンの撮影が、とりわけ大都市の市街地では困難であるが、神戸においては深夜のロケなどによって、この点を克服している。
 山形県においては、山形FCが二〇〇五年に立ち上げられ、近年では映画「超高速!参勤交代」や「るろうに剣心」の撮影をサポートしている。また、二〇〇六年に株式会社として設立された庄内映画村は月山麓に広大な野外ロケセットを有し(二〇一四年からスタジオセディック庄内オープンセットに移管)、時代劇を中心に数多くの映画を生み出してきた。アカデミー賞外国語映画部門賞を受賞した「おくりびと」もまた、庄内映画村が制作に関わった作品である。
 しかしながら、日本では諸外国のFCが実施している戻税の制度が税制上から実施困難であり、海外から大規模なロケを誘致することは難しい。二〇〇九年にジャパンFCが設立されたものの、大規模なハリウッド映画ロケの誘致には至っていない。

 四 映画館をめぐる現代民俗
 映画を上映する場となる映画館も大きく変貌してきた。テレビが普及する前は小都市にも映画館が存在したが、今日では人口十万人以下の地方都市で商業映画館を維持することは非常に困難となりつつある。
 また、一九九〇年代以降は、シネコンの台頭とミニシアターの出現によって、スクリーン数は旧に復した。もっとも、かつてのような数百人を収容できる大劇場は少なく、シネコンも百人から二百人規模のスクリーンが主体で、スクリーンごとに収容人数が異なる構造となっている。
 これは、ヒット中の作品を大規模スクリーンで上映し、不人気作品は小規模スクリーンへ移動させるといった操作で、来場した観客を取りこぼさないための工夫とされる。上映時間も三〇分ごとに始まるようなスケジュール管理が行われ、鑑賞作品を決めないで来た観客が長時間待たずに映画を鑑賞できるようなシステムになっている。
 初期のシネコンは郊外の大規模小売施設に併設して設置されたが、近年では大都市の都心部に鉄道ターミナルの再開発などにともなって設置されるようになり、立地傾向が変化しつつある。シネコンの小規模スクリーンでアート系映画が上映されたりすることから、ミニシアターの経営が厳しくなってきている。
 もうひとつ、映画館に大きな変革の波が押し寄せている。それは、この数年で急速に普及したデジタル上映である。撮影機器のデジタル化の進展にともない、ポスト・プロダクションと呼ばれる編集作業もパソコンで行われるようになったが、上映時には三十五ミリフィルムに焼き付けての上映が続いていた。
 しかし、フィルムの焼付けにコストがかかるために、全国の大規模公開時でも数百本のフィルムを用意する程度で、この上映が、いわゆる封切り上映と呼ばれた。一番館と称された封切り館での公開を終えたフィルムは、地方の二番館と呼ばれる映画館へ移動されて公開が行われていた。
 ところが、デジタル上映は、データを運ぶだけなので、全国の映画館のどこでも封切り上映が可能となった。この点は画期的といえようが、デジタル上映設備の導入には一千万
円単位のコストを要するとされる。最近は少し値下がりしたようだが、シネコンにメリットはあっても、ミニシアターには大きすぎる投資が必要となり、ほとんどの新作映画がデジタル配給となったために、地方の映画館の閉館が相次いだ。
 一方、韓国では、日本よりも急速にシネコン化とデジタル化が進展した。二〇一四年夏に公開され、観客動員記録を大幅に塗り替えた時代劇「鳴梁」の上映時には、映画館の多くのスクリーンが、この作品に独占され、同時期に公開された映画をほとんど鑑賞できないという事態に陥った。
 今の韓国では、映画制作会社がシネコンを経営するスタイルになっているため、かつての日本映画のように、自社の上映館で重点的に自社作品を上映する傾向が強まっている。もちろん、大ヒット作品は他社作品でも数多く上映するのではあるが、低予算映画や不人気映画は短期間しか上映されなかったり、しかも早朝と深夜しか上映が行われないといった極端な不公平が生じるに至っている。
 そのために、KOFICが支援して、大都市では低予算映画やインディペンデント映画を上映するスクリーンが確保されてはいるものの、観客は非常に少ないという課題が顕在化している。

 五 おわりに
 韓国へ地域調査に訪問する間に、韓国映画に関心を持ちはじめ、また、韓国では映画を通した地域活性化が政策的に実行されていることを認識したことから、日本との比較研究を行うようになって、十年余りが過ぎた。この間、予期せぬ韓流ブームが起こるなど、日韓ともに映画をめぐる変化の波は顕著なものがあった。
 しかしながら、この波は頂点を過ぎたように思われてならない。映画のデジタル化とともに、ネット配信の新たな波が到来しつつある。かつては、ビデオやDVDで鑑賞するようになった映画が、いまやパソコンの画面上で容易に鑑賞できるようになりつつある。
 もちろん、画質などの面で不満は残るものの、わざわざレンタルで借りる必要もなくなりつつある。DVDの百円レンタルによって、映画館の観客が減少したともされるが、それ以上の危機が映画館に迫りつつある。
 実は映画産業は、劇場公開のみでペイする作品は少なく、DVDやテレビ放送などの二次使用から得られる収入で補われてきたところが大きかった。韓国では、日本以上の高速ネットの普及もあって、以前から二次使用料が激減しているとされ、映画制作費を抑制せざるをえなくなっている面があるとされる。
 日本においても、テレビ局が制作に加わっていない映画は予算をかけられない状況下にあり、質的な低下を免れることが困難になって、観客も入らないという悪循環になりかねない。これらの課題を克服することは次世代にゆだねられているといえようか。
[付記]本論文は、二〇一二~二〇一四年度科学研究費補助金「映画を通した地域活性化の日韓比較研究」(基盤研究(C)、研究代表者:岩鼻通明、の研究成果の一部である。
注1 岩鼻通明「映画館をめぐる現代民俗-鶴岡まちなかキネマを事例として-」山形民俗二十八、二〇一四年。
注2 岩鼻通明「地方における映画文化の育成と活用-映画祭・フィルムコミッション・映画館の連携-」『コンテンツと地域』所収、ナカニシヤ出版、近刊。

[追記]投稿後の朝日新聞に、映画館でのポップコーンを食べる音が気になって、映画に集中できなかった旨の読者投稿があり、これをめぐって読者間の議論が続いた。実は谷国大輔氏の著書『映画にしくまれたカミの見えざる手』講談社+α新書、2009年、の冒頭に「なぜ映画館でポップコーンを売っているのか」という節がある。そこでは、せんべいなどに比べて音がしない、掃除しやすい、加熱するので衛生的、原価が安く儲けが大きい、という4点が理由として指摘されている。
 もちろん、映画館内部でのマナーは大事だが、観客を泥棒よばわりする、くだらない映画泥棒のCMの代わりに、ミニシアターの中には観客マナーを呼びかける工夫に満ちたCMを流す映画館もある。日本の観客は、ある意味で上品にすぎる。韓国の映画館では、コメディー映画では大笑いし、サスペンス映画のクライマックスでは拍手喝采があがるなど、映画と観客が一体感を有しており、このような雰囲気が個人的には好ましいものだ。朝日新聞のポップコーン論争は、まさに映画館で映画を見る文化の終焉を告げるものに思えてならない。
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「出羽三山信仰と秋田」(『秋大史学』61号、所収、2015年3月刊)

2015年06月09日 | 日記
「出羽三山信仰と秋田」秋田大学に拠点を置く『秋大史学』に今春、掲載した論文を編集責任者の了解を得てアップします。原文は縦書きですので、見づらいかもしれませんが、お許しを。

  はじめに
 大学院の修士論文作成以降、ほぼ三〇年余りも出羽三山信仰の地理学的研究を続けてきた。その間、三冊の著書を上梓することができた(一)。その際に立脚点として、心がけてきたことがあった。
 ひとつは、従来の出羽三山信仰研究は、羽黒修験道の宗教学的研究が中心であり、いわば修験者の立場からの研究であった。しかしながら、出羽三山信仰を支えてきたのは、修験者のみならず、広い範囲に拡がる信者の組織化があってこそで、両者の相互的関係から、出羽三山信仰は成立しているのであり、信者側の視点から広域的な地域調査が必要であるとの認識から出発した。
 もうひとつは、近世の出羽三山は「八方七口」の別当寺が同等の祭祀権を有していたのであるが、それぞれ個別に調査研究が行われていたため、それらを総体として考察し、かつ客観的に分析する視点が必要であると認識した。その両方の視点から調査研究を進めてきた。
 ただ、近年は自身の研究テーマを韓国地域研究および映画を通した地域活性化研究へと大きく変えたこともあって(二)、出羽三山信仰に関わる近年の変化などに言及することによって、与えられた論題に代えさせていただきたい。

 一 広域信仰圏の縮小
 出羽三山は東日本一円に広大な信仰圏を形成してきた。この信仰圏は、三山山麓の宿坊の山伏が信仰圏内の信者を組織化することによって維持されてきたのだが、信者の高齢化や都市化にともない、信仰圏が縮小ないし希薄化しつつある。信者の高齢化だけでなく、信仰が若い世代に継承されないといった問題も生じてきている。
 また、三陸沿岸部は、古来、出羽三山の有力な信仰圏であったが、東日本大震災で甚大な被害を受けたことも影響しているとみられる。羽黒山頂の霊祭殿には、震災犠牲者の供養塔が建立されている。
 元来、山岳信仰は豊作をもたらす水源の神として農民の篤い信仰を集めてきたが、農村の都市化や農家の兼業化の進展によって、信仰の基盤が失われつつある。
 近年は、パワースポットや山ガールなどのブームによって、参詣者や登山者が増加している例も散見されるが、信仰の山から観光の山へと変化せざるをえない時代といえよう。近世の月山登拝口は「八方七口」と称されたが、新たに「新八方十口」と名づけた周辺市町村の観光振興の連携も模索されている。

 二 秋田県における出羽三山信仰
 興味深いことに、湯殿山の史料上の初見は、戦国大名の佐竹氏の起請文である。それに加えて、常陸国南部に江戸初期の湯殿山碑が数多く存在することから、湯殿山と常陸国との密接な関わりが指摘されてきた(三)。
 ただ、なぜ山形県から遠く離れた茨城県で湯殿山信仰が早い時期に浸透したのかは、いまだに解明されていない。また、佐竹氏の秋田入部にともない、湯殿山信仰が、どのように秋田へと、もたらされたのかについても定かではない。
 さて、秋田県における出羽三山信仰の特徴的な面は以下の三点といえよう。ひとつは由利郡における女性の羽黒山参りである。羽黒山は前近代においても女人禁制ではなく、五重塔の脇に存在した血の池で越中立山と同じく女人救済儀礼として血盆経奉納が行われていた(四)。
 二〇一四年九月二十一日に、富山県立山町で再現された布橋灌頂儀礼を現地で見学することができたが、これほど大規模な儀礼ではなかったとしても、女性が直接に血盆経を血の池へ奉納できた羽黒山の事例は近世の庶民信仰を具現化したものとして貴重である。
 もうひとつは、農閑期の伊勢参宮の途上での羽黒山参りである。月山と湯殿山は女人禁制かつ夏の開山期しか参詣できなかったが、里山である羽黒山は一年中、参詣者に開かれていた。かつて、雪の積もった石段を山頂まで登ることを試みたことがあったが、不可能ではなかった。北東北からの伊勢参宮道中日記には、しばしば羽黒山に参詣に立ち寄った記述がみられる。
 最後に、鉱山労働者の信仰を集めたのが、西村山郡西川町の本道寺のすぐ東に位置する八聖山である。明治の神仏分離以降は金山神社と称しているが、近世には本道寺の末寺であり、秋田県内の鉱山労働者の信仰は今も続いている。

 三 即身仏
 ついで、即身仏に言及しよう。この課題は私の専攻する地理学から最も遠いものといえるのだが、湯殿山の石碑の分布との関連から問題提起を行った拙稿(五)は波紋を投げかけたものの、従来の見解とは、あまりに議論がかみあわなかった。
 しかしながら、その後に収集した江戸時代の出羽三山参詣道中日記の分析から、越後国寺泊の弘智法印の即身仏を拝観する参詣者は多かったのに比して、出羽三山参詣において、即身仏はほとんど信仰の対象となっていなかったことが判明したのは、先の問題提起を補強したものと考えたい。近年は山澤学氏によって、湯殿山行人に関する史料を踏まえた調査研究が精力的に進められており、その実態が解明されつつある(六)。
 なお、秋田との関わりでは、菅江真澄が天明四年(一七八四)九月十九日の日記において、即身仏の評価に触れている。当時既に存在していた湯殿山系の即身仏である酒田の海向寺の忠海上人および東岩本の本妙海上人の即身仏を、弘智法印には及ばないと明言していることは興味深いものがあり、当時の世評を反映したものと理解できよう。以下に日記から当該箇所を引用しよう。
「七日町やどつきたり(中略)あるじのもの語を聞ば、こ    の里の開口寺、又岩本といふ村のみてら、此ふたところに、越後の国野積の山寺にて、「墨絵にかきし松風の音」とよみ給ひてけるにひとしき、いきぼさち(生菩薩)もおましませりと聞えたり。こはみな、木の葉、草の実をくひものとしてをはりをとりて、なきがらのみ世にとゞめたる也けり。しかはあれど、弘智大とこには、をよばざりき」(七)。
 旧論では、いささか誤解していたのであったが、菅江真澄は鶴岡の宿で主人から、当地の即身仏について伝聞したのであり、全集の脚注にも記されているように、実際には拝観していなかったと思われる。当時に「生菩薩」という表現が使われていたことは興味深い。 

 四 出羽三山信仰と鳥海山信仰
 出羽三山の縁起でも、かつて三山のひとつに鳥海山が含まれていたことを示すものがみられるが、立山と白山との関係と同様に、月山と鳥海山には共通する地名や伝承などが散見する。
 たとえば、近世の月山で天台宗と真言宗の境界となった「装束場」という地名が、鳥海山にも存在し、その場所はおそらくは宗教上の境界であったことを論じた(八)。現在でも、県境線は鳥海山の山頂より北側へ、はみ出すように引かれているが、これは近世の宗教上の境界を反映したものとみてよかろう。
 これまでは、出羽三山信仰と鳥海山信仰は別の次元で、調査研究されることが多かったが、両者の比較研究が今後の課題となろう。

 五 文化財保存
 出羽三山は山形県の推進する世界遺産登録の中核に位置付けられ、筆者も山形県の世界遺産に関わる委員会の委員となって、この運動に取り組んできた。
 ただ、途中から出羽三山に代わって最上川が登録の中核となったのであるが、文化庁の暫定登録リストから外れ、知事が交代したことから、世界遺産登録は棚上げされることとなった(九)。
 その一方で、最上川を重要文化的景観として重要文化財指定をめざす試みは継続され、二〇一一年度末に報告書が刊行されるに至ったが、指定には、まだ数年以上を要すると思われる。
 その過程で、鳥海山における文化財登録に進展はみられたものの、一方で出羽三山に関わる文化財登録が十分とはいいがたいことが明らかになった。たとえば、羽黒山の門前町である手向集落に立ち並ぶ茅葺き屋根の宿坊の街並み景観は、重要文化財の一角を占める重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けるに十分な資格を有していた。
 実際に、一九九〇年代に街並み調査が実施されたものの、指定に向けた動きはみられないまま、現在に至っている。その間に、貴重な茅葺き屋根の景観は櫛の歯が抜けるように減少しつつあり、今はわずか四軒を数えるのみという。宮城県村田町の蔵の町並みの指定により、東北六県で、伝統的建造物群保存地区の指定が皆無であるのは、ついに山形県のみになってしまった。
 それもあって、旧羽黒町を含めて広域合併した鶴岡市では、新たな街並み保存に向けた取り組みを始め、通称歴史まちづくり法に基づく「鶴岡市歴史的風致維持向上計画」を策定し,山形県内初の認定を二〇一四年に受けた。実施計画期間は二〇一五年度からの十年間であり、重点地区に門前町手向が含まれていることから、今後の保存修景と活用が期待される。

 六 神仏分離
 研究上の取り組みが、いまだ困難な側面を有しているのが、神仏分離の実態解明といえよう。神仏習合であった霊山が、明治初期に神道と仏教に二分されたまま、現在に至っている。
古来の羽黒修験道の秋の峰入り修行もまた、神道と仏教に分かれて、それぞれ別個に実施されている。 
 新世紀を迎えて、高齢化や第一次産業人口の減少にともなう信仰の変化も大きく、いわば神道と仏教が一体となっての出羽三山信仰の立て直しが必要な時期を迎えているといえよう。
 前述の世界遺産登録運動も、それによって観光客の増加を期待する部分があり、昨今のパワースポットのブームなどは、おそらく一過性のものに過ぎないであろう。毎年八月下旬に実施される羽黒修験の峰入り修行は多くの参加者を集めてはいるものの、それが信仰を広めることにさほど貢献していない状況にあるといえよう。
 修行の動機が布教ではなく、自己鍛錬的なものに変容しているからであり、それはやむをえない情勢かもしれない。かつては峰入り修行に参加することによって修験の資格を得た宗教者が信仰の拡大に寄与してきたのであるが、現代においては両者が有機的に結びついていない。
 宗教者にとって、百年以上が経過した今でも、神仏分離のわだかまりは消えてはいないようであるが、出羽三山信仰の将来像にとっても、神仏分離を歴史的に位置付ける作業が必要な時期に来ているのではなかろうか。
 近年の研究動向として、三山神社第二代宮司の子孫による論考がWEB上に発表されており、当方の研究室所属の大学院生の手による論文も公表されていることから、今後の新たな展開が期待される(十)。

  おわりに
 秋田県内にも、ローカルな山岳信仰が存在し、それらは出羽三山信仰や鳥海山信仰と重層的な構造を有している。それらの関係を地理学の立地論的立場から解明することが課題として残されている。
 村落共同体の内部には、様々な宗教的講集団が組織化されており、それらの空間的相互関係を検証していくことによって、重層的な山岳信仰相互間の空間構造が明らかにされることを期待して、結びに代えたい。

 注
(一)拙著『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』名著出版、
一九九二年。『出羽三山の文化と民俗』岩田書院、一九九六年。『出羽三山信仰の圏構造』岩田書院、二〇〇三年。
(二)拙稿「朝鮮半島と東北文化の歴史的交流」山形県地域史研究三十二、二〇〇七年。拙著『韓国・伝統文化のたび』ナカニシヤ出版、二〇〇八年。拙稿「被災地をめぐる現代民俗―映画館の観客アンケートを通した試論」村山民俗二十七、二〇一三年。
(三)拙稿『常総・寛永期の大日石仏』の刊行によせて、村山民俗一七、二〇〇三年。
(四)拙稿「旅日記にみる羽黒山の女人救済儀礼」村山民俗十三、一九九九年。
(五)拙稿「湯殿山即身仏信仰再考」歴史手帖一三―八、一九八五年(拙著『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』名著出版、一九九二年、所収)
(六)山澤学「湯殿山山籠木食行者鉄門海の勧化における結縁の形態」(地方史研究協議会編『出羽庄内の風土と歴史像』雄山閣、二〇一二年。
(七)『菅江真澄全集 第一巻』「あきたのかりね」所収、未来社、一九七一年。
(八)拙稿「鳥海山の境争論と装束場」山形民俗二十二、二〇〇八年。「宗教と境界―飯豊山・鳥海山・蔵王山を事例として」地図情報一一六、二〇一一年。
(九)拙稿「出羽三山と最上川が織りなす文化的景観まんだら」庄内民俗三十四、二〇〇八年。「山形県と世界遺産」村山民俗二十三、二〇〇九年。
(十)渡部功「出羽三山における神仏分離」山形鶴翔同窓会HP、二〇一一年。難波耕司「出羽三山の神仏分離」宗教民俗研究二十一・二十二、二〇一三年。
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山形県の即身仏 致道博物館土曜講座より(2014年10月)

2015年06月05日 | 日記
 2015年6月にNHK「歴史秘話 ヒストリア」で放送された即身仏に関する番組は、いくつもの問題点を含むために、昨秋の講演要旨に要点を加筆して、私見を述べたい。なお、同時にアップした『秋大史学』の拙論も参照されたい。

1.はじめに
・即身仏に関する拙稿
「湯殿山即身仏信仰再考」歴史手帖13-8 1985.8. p.32-39.
. 「大網地すべりと大日坊の移転」庄内民俗30 1991.10. p.1-9.
『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』名著出版,1992.2. 270p.に上記2論文を所収

2.湯殿山行人碑の分布と年号
庄内地方各地に建立された石碑から即身仏となってからではなく、生きて活動した
宗教者としての行人が信仰を集めたことが明らかに。

3.既往の即身仏研究
『日本ミイラの研究』平凡社、1969.
佐野文哉・内藤正敏『日本の即身仏』1969.
戸川安章『出羽三山のミイラ仏』1974.
松本昭『日本のミイラ仏』臨川書店、1993.
内藤正敏『日本のミイラ信仰』法蔵館、1999.
畠山弘『湯殿山と即身仏』2001.
・土中入定を自発的とする堀一郎説を踏襲
・飢饉と土中入定を関連づける内藤説

4.一世行人と即身仏
即身仏=一世行人だが、一世行人>即身仏
湯殿山行人碑の建立年→多くが行人の生前
即身仏になっていない行人の銘文多数
即身仏信仰というより生身の行者への信仰
3年3ヶ月の土中入定→飢饉を予測できず
土中入定の確証がある即身仏は皆無
『日本ミイラの研究』では、新潟大学医学部の実地調査によって、調査した全ての即身仏に死後加工の痕跡があることが明記
高温湿潤な日本の気候環境下では不可能
内臓を除去してから乾燥させる死後加工を施さねばならない必然性

5.江戸期の即身仏拝観

江戸期の著名な即身仏→越後の弘智法印
湯殿山の即身仏に関する拝観記録
置賜からの夫婦の道中記で注連寺の鉄門海
を拝観、女人禁制と関連するか
菅江真澄遊覧記には、東岩本の本明海は弘智法印に及ばずと明記
多くの道中記で、弘智法印を拝観している記録がみられるが、湯殿山系は上記2例のみ

6.神仏分離と即身仏
神仏分離にともない、寺院としての存続の道を歩んだ注連寺と大日坊は湯殿山の祭祀権を喪失
西川須賀雄宮司による三山祭祀権の羽黒山への統一(八方七口の対等な祭祀権の消滅)
蜂子皇子を開山者として明治政府が認定し、
羽黒山頂に宮内庁管轄の墓所が設置
湯殿山に代わる本尊として即身仏を前面に

7.一世行人への注目
山澤学氏による湯殿山行人に関する精力的な研究
「17世紀越後国における湯殿山行者の活動」日本史学集録22,1999.
「18世紀信濃国における出羽三山修の存在形態ー佐久郡の湯殿山行人を中心にー」信濃61-3,2009.
「19世紀初頭出羽三山修験の覚醒運動ー湯殿山・木食鉄門海の越後布教を中心に」社会文化史学52,2009.
庶民の信仰を集めたのは、生きて宗教活動を実践した行人であったことを実証的に論じた

8.湯殿山行人の活動
山澤学「湯殿山山籠木食行者鉄門海の勧化における結縁の形態」
『出羽庄内の風土と歴史像』地方史研究協議会編、2012.
鉄門海は、いわばスーパー一世行人!!
鉄門海以前と鉄門海以降を区別する必要

9.飢饉と千日行
湯殿山行人の千日行と比叡山千日回峰行
比叡山は百日の回峰行を十年間続ける
湯殿山は千日山籠行 2回は冬を過ごす
温泉の湧き出している湯殿山でこそ可能
行人仲間や寒参りの信者のサポートが必要
飢饉は、このようなサポートを不可能にした
飢饉と即身仏の関係は真逆ではないのか?
餓えに苦しむ庶民を救済するためという仮設は成立せず、逆に山野での木食行が不可能になったと想定することが自然な理解

10.おわりに
庶民を救うための入定という俗説は証明不可能
史料に依拠した考察の必要性
研究者相互の論争の必要性
縁起、伝承と史実(偽文書の排除)の区別
幻想をふりまくマスコミ(2時間ドラマ・小説・随筆など)

 以上、今回のNHK「歴史秘話ヒストリア」の放送に関連して、アップしました。




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長野県戸隠高原の三十年~信仰と観光のはざまで~(「山形民俗」20、2006年、より)

2015年04月18日 | 日記
 一 はじめに
 筆者は、長野県戸隠村(二〇〇五年に長野市と広域合併)中社集落におけるインテンシブな現地調査を、一九七五年以来、一九八五年、一九九五年、二〇〇五年と継続的に行い、過去三度の調査データについては、文末の参考文献に記したように、既に論文にまとめて活字化した。
 その大まかな特徴を指摘すれば、七五年までは発展期、八五年までは停滞期、九五年までは下降期、〇五年までは構造転換期ということができようか。この間、一九九八年には長野冬季五輪が開催されたが、戸隠村の地域振興への直接的な寄与貢献には乏しかった。むしろ、五輪に向けて整備が進んだ長野新幹線や高速道路などの高速交通網は、北信地域を首都圏からの日帰り観光圏に取り込む役割を果たしたといえよう。
 本稿においては、二〇〇五年に行った現地調査のデータを中心に、戸隠高原の三十年間の歩みを総括し、今後の展望を述べることを目的としたい。

 二 戸隠信仰
 近世においては、戸隠は三院(奥院・中院・宝光院)より成り立つ山岳信仰の霊山であり、近隣地域の北信においては水神としての雨乞い信仰、遠隔地の北関東などにおいては五穀豊穣の神として、広い信仰圏を有していた。
 明治初期の神仏分離の混迷期を乗り越え、いち早く神道へ移行し、奥社の衆徒は中社と宝光社の里坊へ移動したものの、全体の宿坊数は近世末期と変わらずに維持されたのであり、このような事例は、日本全国の霊山をながめても稀有なことであった。
 そして、中社と宝光社の四十軒弱の宿坊の主は、戸隠講聚長として信仰圏内に存在する村々の戸隠講の組織を束ねる宗教者としての役割に加えて、高度成長期に有料道路「戸隠バードライン」と戸隠スキー場が整備されたことによる観光客の急増に対応して、観光旅館の経営者の役割をも兼ねるようになった。
 近年までは、宿坊と旅館という、この一種の兼業は、きわめて順調であったが、二十一世紀に入って、変化がみえはじめている。ひとつは、山岳信仰という伝統的な民俗宗教の衰退にある。戸隠信仰は、水神的性格にしても、五穀豊穣神にしても、農民からの信仰が基盤となってきた。ところが、農村における高齢化と兼業化の進行にともない、講集団が弱体化し、農家そのものも後継者不足の時代にあって、当然ながら講集団もまた、後継者難を迎えている。このような傾向は、ある程度は日本全国の山岳信仰に共通するものである。
 また、観光地化の進展にともない、戸隠講の信者に対するお札配りなどは、もっぱら郵送に頼るようになり、かつてのように冬季の檀那場廻りが困難になったために、信者との精神的つながりが希薄になってしまったこともあろう。
 そのような理由から、信者の戸隠参詣が落ち込み、かつては連日のように神社から聞こえた戸隠神楽の響きも耳にすることが減ったという。夏は避暑客、春と秋は信者の参詣、冬はスキー客、と通年観光を支えてきた基盤が弱体化したために、宿坊経営は厳しくなり、ついに後継者難などから無住となる宿坊が現れはじめた。中社門前の表通りに面した宿坊が解体され、更地が出現したことは歴史的にも大きな景観変化であるといえよう。
 一方で、宝光社では、蕎麦屋を兼業する宿坊が目立ちはじめた。宝光社では、中社ほどに観光地化が進まなかったために、旅館よりは宿坊経営の比重が大きかったが、信者の宿泊者の減少から、兼業化に至ったものと想定される。
 いずれにせよ、信仰を基盤とした伝統的な宿坊経営が過渡期にさしかかっていることは疑いなく、今後の方向性が問われる時代となったことは確かである。一方、集落全体の景観整備がなかなか進まない中で、文化庁の推進する登録有形文化財の制度を活用して、茅葺屋根の宿坊の伝統的景観を保全する動きが出てきたことは評価できよう。

 三 戸隠観光
 宿坊とともに、中社と宝光社の集落には、在家と呼ばれる農民が居住しており、この在家の観光地化への対応によって、戸隠観光は大きく成長してきた。中でも、中社集落においては、民宿経営が七五年までに急増したが、この十年間で、それらの民宿のうち、半分近くが廃業する事態となっている。
 こちらも、宿坊と同じく、後継者難が大きな理由であるが、ちょうど民宿開業から三十年前後を経て、建物が老朽化し、今後も民宿を継続して営業するには改築ないし新築の必要があり、廃業するか新改築するかの二者択一に迫られた結果ともいえようか。
 その一方で、これまではなかった外来者による、バードウォッチングなどを主体とした民宿の開業もみられるなどの動きもある。十年前までは、紙ベースによるパンフレットやチラシを媒介とした観光宣伝が中心となってきたが、二十一世紀に入って、インターネットを介した電子情報化時代となり、宿泊施設でも、宣伝および予約手段として、インターネット・ホームページを有することが不可欠となりつつある。
 戸隠の宿泊施設においても、若い世代の後継者が存在するところの多くは、ホームページを開設しており、スキー場に程近い越水集落の宿泊施設は、ほぼすべてがホームページを開設している一方で、中社と宝光社の宿泊施設では、まだ一部にとどまっており、その格差は大きく開いているといえよう。戸隠観光協会などの公的機関のホームページは充実してはいるものの、やはり個別の宿泊施設がホームページを持たずしては、電脳化時代に充分な対応ができないのではなかろうか。
 そして、戸隠観光を支えてきた冬季のスキー客が激減したこともまた、大きな影響を与えている。皮肉なことに、スキー客離れが顕著になりはじめたのは、九八年の長野冬季オリンピックの時期であった。当時は、オリンピック会場として混雑が予想されることから、スキー客が他地域のスキー場に流れたのだとも説明されていたが、オリンピックが終わり、開催地としての長野県は国際的に有名になったにもかかわらず、スキー客は回帰しなかったどころか、むしろ減少に向かった。
 その理由としては、いろいろな要素が考えられるが、若者の趣味が多様化したこと、特にスキーに代表されるアウトドア・スポーツが、かつてのように若者の通過儀礼的な役割を果たした時代は過ぎ去ったといえよう。もちろん、若者の多くがスキーからスノーボードに移行したのだが、それを含めても、スキー人口そのものが漸減傾向にあることは確かであり、スキー王国の長野県観光に深刻なダメージを与えつつある。
 もうひとつは、スキー場の過当競争が指摘できる。バブル経済の時期に、リゾート法の後押しの下、雪国の各地に、地域振興の掛け声で雨後のタケノコのように、新設のスキー場が乱立した。九〇年代後半以降はスキー場の倒産が現実のものとなってきている。
新設スキー場の中には、首都圏に隣接する地域に、人工雪ゲレンデを有するものも多く、これらの日帰り圏のスキー場に、首都圏のスキー客を奪われた面も存在する。
 また、かつてのように、夜行バスで学生中心の団体が押しかけた時代ではなくなり、マイカーによる日帰りスキー客が主体となった今、国内旅行の全体的動向である「高・遠・長」(高額・遠距離・長期滞在)から「安・近・短」への移行が進みつつある。
 そのことによって、とりわけ宿泊施設の受ける影響は大きく、冬季の長期滞在客を主たる客層としていた民宿への影響は極めて大きいものがあったといえよう。中社の民宿が半減したのも、スキー客の減少が一因であることは確かであろう。
このスキー場の不振にともない、中社集落に隣接して設置された国営スキー場は村営に移管されたが、長野市との合併にともない、経営形態が模索されており、当面は長野市営戸隠スキー場として運営を続け、数年後の民営化に向けて詰めていくとのことである。
 さて、中社集落における民宿経営は、竹細工業との兼業で行われてきたことは旧稿で指摘したが、観光地化以前は中社の在家の主業であった、この竹細工業にも後継者難が深刻となりつつある。中社門前の製造直売店は別として、民宿兼業世帯では、竹細工の後継者は少なく、竹を細工する技術は持ち合わせても、原材料の竹を細かく割る技術を有する者は多くはないといい、戸隠に継承されてきた伝統工芸品の竹細工の将来も、けっして明るいとはいえない。
 一方で、日帰り観光は、それほどの減少ではなく、名物の戸隠蕎麦を提供する食堂は、まずまずの繁盛をみせており、この十年間で、特に大きな変化はないといえる。旧国営スキー場のゲレンデ駐車場には、日帰り温泉施設も誕生し、施設内には食堂も備えており、新たな名所として観光客を集めているが、近在の来客もある程度は存在するものと思われる。お土産店もまた、大きな変動はなく、中社集落内には、おしゃれなカフェやスナックも開業しているが、飲食店の総数にさほど大きな変化はなく、観光客の好みに応じた、いわば多様化現象とみることができよう。
 四 おわりに
 これまで指摘したように、二十一世紀を迎えて、戸隠観光は大きな転換期にさしかかったといえよう。かつて、一九八五年夏の地滑り災害の際も、戸隠観光にとっては、大きな危機的状況であったが、村を挙げての観光宣伝と、その後のバブル経済によって、その危機を克服することができた。
 しかし、そのバブル経済の崩壊以来の景気低迷下にあって、この転換期に、どのように対応すべきであろうか。もとより、ここで明確な方向性を提示することは困難であるが、茅葺きの宿坊の町並みを中心とした景観保全や、スローフードの伝統食としての戸隠蕎麦の提供、地域に根ざした伝統工芸品である竹細工の育成などの地域特有の歴史と伝統を有する民俗文化を基盤とした地道な地域づくりを、行政と神社および住民が三位一体となって取り組んで行くことが第一となろう。本稿が、豊かな自然環境と伝統ある歴史に恵まれた戸隠高原の安定的な地域発展の一助となれば、望外の幸いである。
 以上、二〇〇五年夏に行った現地調査にもとづいて、この十年間の戸隠観光の動向を述べてきたが、今回の調査は過去三回に比して充分な余裕がなく、詳しい分析のできなかったことをお詫びしたい。
 ただ、過去三回の調査では、中社集落の全世帯を対象とした聞き取り調査を行ったが、プライバシーの面からも、今後は調査データを図示することは困難な時代になったといえる。地理学の調査研究として、調査資料の図表化は、いわば調査結果のとりまとめとしての意味を有しているのであるが、それが活用できないことは残念ではあるが、やむを得ない情勢といえよう。同時に、これまでの研究成果を著書として集大成することにも、上述の面から躊躇せざるをえないので、恐縮ながら参考文献としてあげた下記の原論文を参照していただきたい。
 最後に、旧戸隠村の故松井憲幸元村長をはじめとする、多くの地元の方々に支えられて、この調査が継続できたことを感謝して結びとしたい。
 本稿は、二〇〇五年十二月に遠野市立博物館で開かれた東北民俗合同研究会での口頭発表にもとづいたものである。
[参考文献]
岩鼻通明「観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌」人文地理三三-五、一九八一年(人文地理学会のWEBサイトより閲覧可能)。
岩鼻通明「戸隠中社の講集団」あしなか(山村民俗の会)一九五、一九八六年。
岩鼻通明「近世の旅日記にみる善光寺・戸隠参詣」長野一六五、一九九二年。
岩鼻通明「戸隠信仰の地域的展開」山岳修験一〇、一九九二年。
岩鼻通明「観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌(第2報)」山形大学紀要(社会科学)二三-二、一九九三年(山形大学機関レポジトリより閲覧可能)。
岩鼻通明「観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌(第3報)」季刊地理学五一-一、一九九九年(東北地理学会のWEBサイトより閲覧可能)。
岩鼻通明「権現さまに参ろじゃないか」地域文化(八十二文化財団)五六、二〇〇一年。
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実在した西川須賀雄(出羽三山神社初代宮司)の記念碑

2015年02月11日 | 日記
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「映画館をめぐる現代民俗-鶴岡まちなかキネマを事例として」

2014年11月26日 | 日記
 本論文は『山形民俗』第28号、2014年11月、に寄稿したものです。誤記などを若干の修正の上でアップします。いちばん下の表が見づらいですが、お許しを。

 映画館をめぐる現代民俗-鶴岡まちなかキネマを事例として
                           岩鼻 通明
 一 はじめに
 本論文は、2011年度東北地理学会春季大会および2012年度人文地理学会大会において報告した「鶴岡まちなかキネマと中心市街地活性化」に関して、その後の継続的な調査の結果をとりまとめて報告するものである。
 筆者は、この数年来、映画を通した地域活性化についての調査研究を行ってきた。従来の地域活性化に関する研究は、どちらかといえば経済効果を中心に行われてきたが、本論文では、それのみにとどまらず、文化地理学的および民俗学的アプローチからの地域活性化研究を模索するものである。

 二 映画を通した地域活性化
 映画を通した地域活性化は、大きく3つに大別される。
 ひとつは、映画のロケを通した地域活性化であり、地域で映画が撮影されることによって、スタッフや俳優が滞在する期間中に宿泊・飲食費などの直接的な経済効果が発生する。大規模な映画撮影の場合は総勢百人を超え、現地ロケの期間もひと月以上におよぶことも少なくない。
 それに加え、その映画がヒットすれば、いわゆるロケ地観光もしくはスクリーン・ツーリズムと称される旅のスタイルで、映画の中の名場面を訪問する観光客が増加し、間接的な経済効果がもたらされる。韓流ブームにおける、いわゆる「冬ソナ」効果は広く知られており、ロケ地となったソウルや春川を多くの観光客が訪問した。
 もうひとつは、映画祭の開催にともなう地域活性化である。たとえば、アジア最大の映画祭とされる韓国の釜山国際映画祭は、毎年10月上旬の2週間近い開催期間中に延べ20万人の観客が来場する経済効果は非常に大きいものがある。
 日本の例としては、山形市で2年に一度開催される山形国際ドキュメンタリー映画祭もまた、一週間の会期中で延べ2万人の観客を集める国際的に知られた映画祭である。地方都市における地域活性化効果は大きいものがあり、国際的な知名度アップにもつながるといえよう。
 最後に、映画館を通した地域活性化をあげることができる。日本の映画館は、テレビの普及以来、どんどん減少に向かったが、1990年代半ばに、いわゆるシネマ・コンプレックス(以下ではシネコンと略する)が登場して以来、スクリーン数は増加傾向に転じた。
 ただし、このシネコンは郊外大型店舗に併設される傾向が当初は一般的で、映画館そのものの立地が郊外化し、中心市街地に存在した旧来の映画館は閉鎖が相次いだ。中心商店街が、シャッター通りと化した原因のひとつに、集客力のある映画館が郊外化したことがあげられる。

 三 中心市街地と映画館
 そこで、21世紀に入る頃から、地方都市の中心市街地に小規模な映画館を設置して、人の流れを呼び戻そうとする試みが始まった。国土交通省や経済産業省の補助金事業として、ミニシアターと称される小規模映画館が空き店舗などを活用して、中心商店街の一角に設置されるようになった。
 東京などの大都会では、大手映画会社の系列の映画館が自社作品やハリウッド映画しか上映しないために、自主制作や低予算映画、ないしハリウッド以外で製作されたアート系の映画を上映するミニシアターが1980年代に立ち上げられた。その動きが、地方都市にも波及したものといえよう。
 地方都市におけるミニシアターの先駆的な例としては、群馬県高崎市のシネマテークたかさきや、埼玉県深谷市の深谷シネマなどをあげることができる。それらの先行事例を参考にして、新たに開業した映画館が、本論文で取り上げる山形県鶴岡市の鶴岡まちなかキネマである。

 四 鶴岡まちなかキネマの誕生とその後の展開
 鶴岡まちなかキネマ(以下では、まちキネと略する)は、鶴岡の中心市街地に位置する松文産業の工場跡地を再開発して造成された映画館である。2010年5月にオープンしたが、木造の工場建築を映画館として再生したもので、その建物は世界的建築賞であるリーブ賞の2010年における商業建築部門で入選している。
 映画館の内部には、広いロビーと定員165名から40名までの4つのスクリーンが存在し、レストランも併設されている。将来に施設を拡充できるスペースも用意されている。
 さて、山形大学農学部の2010年度卒業論文で、このまちキネに関する調査研究をまとめたものを、卒業生との連名で2011年度東北地理学会春季大会において発表した。
 この卒業研究の要点を示すと、農学部学生およびまちキネの観客に対して実施したアンケート結果から考察したものであり、農学部学生に関しては、新しくオープンした映画館よりも、三川町にあるシネコンのほうをよく利用していることが判明した。その理由としては、まちなかキネマでは見たい映画があまり上映されていないという意見がめだった。
 一方で、まちキネの観客は、旧鶴岡市内のみならず、庄内地方のかなり広域的な範囲から集まっていることが明らかになったが、連携する近隣の商店街はあまり積極的に利用されていないことも明らかになった。以上の卒業研究の結果について、その後の展開を明らかにするために、以下のような追跡調査を実施した。

 五 追跡調査の結果について
 この調査を踏まえて、まちキネのその後の利用の変化を把握すべく、2012年5月および2013年7月に農学部学生に対するアンケート調査、2012年7月および2013年5月に映画館での観客アンケート調査を実施した。その集計データを、2011年のデータと比較しながら、以下で分析したい。
 その結果として、まず農学部学生が、どのような手段で映画を鑑賞するか、という設問については、まちキネの利用は漸増傾向にあるものの、三川町のシネコンの利用は大きく落ち込んでいて、レンタルで映画を見るという回答が年々増加傾向にあり(表1)、むしろ映画館で映画を見る機会が全体的には減少していることが明らかになった。その背景には、百円レンタルなどのDVDレンタル業者の過当競争などが存在するものと推測される。
 その一方で、まちキネ利用者は若干の増加があり(表2)、認知度は開業当初から比べると大きく増加しており(表3)、開業から3周年を迎えて、それなりに浸透しつつあることが確認された。
 また、まちキネの建物や設備、雰囲気に対する評価は高いものの、上映作品および上映時間に対する不満の声は依然として継続している(表4)。その面では十分な改善が映画館側で試みられたかは微妙であろうか。そもそも、まちキネの観客層は、いわゆる交通弱者とされる高齢者および高校生までの未成年層が主たる対象と想定されているために、大学生が見たい映画とのずれが生じるのは、やむをえない側面が存在するといえよう。
 それに対して、まちキネの観客アンケートの結果からは、固定客が増えつつある状況を把握することができた。2012・2013年の結果では、男女比で女性のほうが多くなっているが、これは平日の午後に調査を行ったことが影響したものとみられる(表5)。
 また、観客層も、かなり高齢者に偏っていることが明らかになった(表6)。これもまたアンケートの実施が平日の日中の時間帯であったことに加え、上映作品自体も高齢者向けの内容であったことから、若年層の意見を十分に集約できなかったという課題が残された。
 一方、職業別では、会社員と無職が多くみられるが、2012年は自営業が多かったのが、2013年では主婦が多くみられる。いずれも平日の午後という時間帯に来場しやすい職業といえ、それが反映したものといえよう(表7)。
 そして、居住地では、いずれも旧鶴岡市内が圧倒的に多いが、2011年では羽黒・朝日・温海・藤島といった周辺部からも、それなりの観客を集めており、これは休日に調査した影響があるとも考えられる。また、2012・2013年では、酒田や遊佐といった最上川以北からも観客を集めており、集客圏が拡大したものとみられる(表8)。さらに、映画の鑑賞回数からは、年々、鑑賞回数の多い観客が増えつつある傾向がうかがわれ、いわば常連客が定着しつつあることを物語るといえようか(表9)。
 映画の情報源としては、新聞や館内のチラシ・上映プログラムなどの紙媒体の比重が意外に大きく、ホームページをあげる回答は、さほど多くはなかった(表10)。高齢層の観客が多いとはいえ、若い世代の観客を集めるためには、多様な情報発信が不可欠であると思われる。
 交通手段としては、自動車という回答が圧倒的多数で、まちなかに位置するにもかかわらず、徒歩や自転車利用は少数にとどまった(表11)。このことは近隣商店街の利用とも関わる問題であり、徒歩や自転車利用による商店街との回遊性を高める工夫が必要であろう。
 同行者については、2011年の調査では家族が多かったが、これも休日の調査が影響したものと思われ、2012・2013年の調査では単独が多くなっている(表12)。これは、かつて被災地の映画館での調査時も同じ傾向がみられたのであるが、日本人は単独で好みの映画を鑑賞するというパターンが存在するといえる。韓国では、デートや家族ないし友人と映画鑑賞するパターンが一般的であり、好対照ではあるが、観客を増やすためには複数で映画鑑賞することを習慣づける動機付けも試みられるべきであろう。
 商店街での買い物行動との関連をみると、買い物をしないという回答が少しづつ減少傾向にはあるものの、まだまだ連携が十分とは言いがたい(表13)。駐車場の開放などが実施されてはいるものの、さらなる商店街との連携強化は大きな課題であろう。
 最後に、この映画館がなければ、どの手段で映画を鑑賞するか、という回答では、他の映画館で鑑賞する、というものが多数となり、三川のシネコンの影響力が大きいことを物語っている(表14)。ビデオやテレビで、という回答は多くはないものの、ウェブ上での映画のネット配信が急速に広まっていることから、若い世代の映画館離れがますます加速する不安は大きい。
 
 六 おわりに
 まちキネは、工場跡地の再開発であるために、もよりの商店街から数百メートル離れており、それらの連携が当初からの課題となってきた。見終わった映画の半券で、近隣商店街での割引などの特典が存在し、協力店も次第に増加してはいるのだが、この半券利用の浸透度は、依然として十分とはいいがたい。
 映画館へ自家用車で訪れる観客が近隣商店街を行き帰りに利用する機会は、まだまだ多くはなく、商店街との連携を如何に深めていくかが、中心市街地活性化の成功例となるかどうかの岐路であるといえよう。
 また、鶴岡市には、庄内映画村という、野外ロケセットを有する撮影場が立地しており、この庄内映画村で撮影が行われた作品が、まちキネでも、いくつも上映されてきた。地元出身の小説家である故藤沢周平氏の作品の映画化も活発に進められてきており、それらのいくつかは鶴岡城下町が舞台となっている。
 このような、地元を舞台とする時代小説の映画化と地元での上映がリンクすることによって、相乗効果が得られるのであり、冒頭で紹介した映画ロケや映画祭などと一体化しながら、文化事業としての側面を高めていくことで、鶴岡市の中心市街地活性化が、真の効果を発揮するものと期待したい。
 以上、まちキネをめぐる分析を試みたが、映画が誕生して百年余りで、映画をめぐる環境は大きく変わりつつある。まず、テレビの普及によって、家庭のお茶の間で一家団欒しながら映像を楽しむことが可能になった。
 ついで、1980年代になると、ビデオの普及によって、映像を記録することが容易になり、また、旧作映画をビデオで鑑賞することも可能となり、しかも映像を静止画面でくまなく確認することすら簡単に行えるようになった。
 さらに、1990年代後半になると、ウインドウズ・パソコンの普及によって、映像をパソコンで編集できるようになり、ビデオカメラで撮影した映像を編集して、映像作品を制作することが手軽に行えるようになった。そのために、自主制作やドキュメンタリー作品が大幅に増加した。
 21世紀に入ると、映像のデジタル化が進み、記録媒体も磁気テープからメモリーカードなどへ移行し、2010年代に入ると、映画の配給そのものも急激にデジタル化が進み、フィルム上映はほとんど消滅しつつある。
 ただ、デジタル化にともない、公開するスクリーン数だけ、フィルムを焼き増しする必要はなくなり、全国の映画館で同時公開が可能となった。これまで、まちキネでは大都市より数ヶ月遅れての公開作品が散見したが、デジタル化にともない、宮崎アニメの同時公開も実現した。
 最後に、前述のようにインターネットの高速化にともない、大量のデータ通信が可能となり、映像のネット配信が盛んに行われるようになりつつある。これこそ、現代民俗の一端を如実に示すものといえ、映画の鑑賞スタイルが短期間で大きく変貌する可能性を含んでいることを再度、指摘して結びに代えたい。

<参考文献>
岩鼻通明:スクリーンツーリズムの効用と限界、季刊地理学63-4(2012)
岩鼻通明:被災地をめぐる現代民俗ー映画館の観客アンケートを通した試論、
     村山民俗27(2013)
岩鼻通明:震災特集上映をめぐる現代民俗ー映画祭の観客アンケートを通した試論、
     村山民俗28(2014)
半田 幸:山形県鶴岡市中心市街地の活性化に関する考察ー鶴岡まちなかキネマを核としてー、
     山形大学農学部2011年度卒業論文(2012)

<付記>
 本稿で利用した統計データの集計には、2012・2013年度日本学術振興会科学研究費基盤研究(C)「映画を通した地域活性化の日韓比較研究」(研究代表者・岩鼻通明)の一部を使用した。

 まちキネ イオン三川 レンタル 自己所有 その他 計
2011 3    19 61  10 9 102
2012 4 6 45 9 3 67
2013 3 6 27 6 4 46
表1 映画鑑賞の手段

有 無 不明 計
2011 18 89 2 109
2012 24 47 0 71
2013 20 26 0 46
表2 まちキネの利用

知らない 場所不明 みたい映画なし 高い 映画ぎらい その他 計
2011 4 23 42 10 7 23 109
2012 4 15 29 1 2 11 62
2013 1 4 13 1 2 30 51
表3  まちキネの認知度

建物 設備 作品 上映時間 料金 雰囲気 その他 計
2011 15(1) 8(2) 4(12) 1(7) 5(5) 14(0) 7(11) 54(38)
2012 18(1) 10(1) 2(17) 0(6) 8(3) 17(2) 1(1) 56(31)
2013 14(0) 8(5) 6(12) 0(7) 8(5) 17(0) 0(1) 53(30)
表4 まちキネの評価 ( )内は不満とする意見

男性 女性 計
2011 52 52 104
2012 18 24 42
2013 12 22 34
表5 観客の男女比

10代 20 30 40 50 60~ 計
2011 0 7 20 22 20 35 104
2012 0 3 5 4 8 24 44
2013 0 2 3 5 6 20 36
表6 観客の年齢層

会社員 公務員 自営業 パート・バイト 主婦 学生 無職 その他 計
2012 8 3 9 2 5 0 11 6 44
2013 11 0 1 2 11 0 9 1 35
表7 観客の職業

旧鶴岡 羽黒 櫛引 朝日 温海 藤島 三川 庄内 酒田 遊佐 鶴岡市 その他 計
2011 64 5 1 5 5 5 21 106
2012 24 3 0 0 1 0 0 2 2 1 11 0 44
2013 27 0 1 1 1 1 0 0 2 1 1 35
表8 観客の居住地

1回 2回 3回 4回 5~9回 10回~ 計
2011 3 9 9 4 16 11 79
2012 5 2 15 0 12 9 43
2013 3 2 3 3 9 14 34
表9 観客の映画鑑賞回数

新聞 館内 HP その他 計
2011 60 10 20 40 130
2012 15 10 4 15 44
2013 8 8 7 12 35
表10 観客の情報源

徒歩 自転車 自動車 バス 鉄道 計
2011 6 2 94 0 2 104
2012 2 5 35 0 1 43
2013 7 4 25 0 1 37
表11 観客の交通手段

家族 友人 親戚 その他 単独 計
2011 68 11 1 1 23 104
2012 14 7 0 0 22 43
2013 7 9 0 0 19 35
表12 観客の同伴者

買物せず 時々する する 計
2011 74 26 1 101
2012 22 17 3 42
2013 16 13 2 31
表13 観客の商店街利用

他の映画館 DVD テレビ 見ない 計
2012 26 7 5 5 43
2013 25 2 4 3 34
表14 映画鑑賞の他の手段

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韓国映画上映会のお知らせ

2014年10月27日 | 日記
 韓国映画上映会のご案内です。山形県内(東北地方も?)初上映の韓国映画「南営洞1985」上映会を山形大学にて開催します。入場無料です。
鶴岡キャンパス:11月2日(日)14時~16時 農学部3号館301講義室にて(大学祭での上映)
山形・小白川キャンパス:11月6日(木)14時40分~16時40分 基盤教育1号館111教室にて(講義内での上映を一般に開放)
映画に関する情報は、以下のサイトを、ご覧ください!!
http://jimakusha.co.jp/nam1985/ 
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「震災特集上映をめぐる現代民俗ー映画祭の観客アンケートを通した試論ー」

2014年07月08日 | 日記
 本論文は「村山民俗」第28号、14~21頁に発表した内容です。

震災特集上映をめぐる現代民俗―映画祭の観客アンケートを通した試論
                             岩鼻 通明

一 はじめに
 本稿は、東日本大震災が与えた影響について、震災を描いた映画を鑑賞した観客のアンケートを通して明らかにしようとする試みであり、昨年の本誌に掲載した拙稿「被災地をめぐる現代民俗―映画館の観客アンケートを通した試論」に続く報告となるものである。    
 なお、前稿との比較検討を念頭に置いたために、今回のアンケート項目は、ほぼ前稿で用いたアンケート項目と同様の設定とした。よって、アンケート項目は前稿の末尾に付したものを、ご参照いただきたい(拙ブログにて公開中 http://blog.goo.ne.jp/imichiaki )。
 さて、本稿では、二〇一三年三月に山形市内の映画館フォーラムにて山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局の主催で開催された「ともにある Cinema with Us 忘れないために1」において、二日間にわたり実施した観客アンケートの分析を行う。
それに加え、二〇一三年十月に開催された第十三回山形国際ドキュメンタリー映画祭の特集「ともにある Cinema with Us 2013」においても、三日間にわたり実施した観客アンケートとの比較分析を行う。
 アンケートは、両者ともに、会場内の観客へ封筒に入れたアンケート用紙を手渡し、上映後に返信用封筒を郵送で回収する方法で実施した(一部は会場受付で回収)。前者ではアンケート配布数二百二十二、回収数六十で回収率は二十七%となり、後者では配布数百八十八、回収数四十二で回収率は二十二%となった。前者では、映画祭のボランティア経験者の姿も多く見受けられたことが、後者よりも回収率の高くなった一因かと想定される。

二 山形国際ドキュメンタリー映画祭と震災特集上映
 まず最初に、山形国際ドキュメンタリー映画祭(以下では、山ドキュと略称する)の歩みを簡単に紹介しておきたい。この映画祭は、一九八九年の山形市市制百周年記念事業として開始され、成田空港建設反対のドキュメンタリー映画で知られる小川紳介監督をディレクターに迎えてスタートした。
 小川監督は、当時、上山市牧野集落にプロダクションのスタッフとともに住み込んで、農村を主題とする映像制作に取り組んでいた(木村迪夫『山形の村に赤い鳥が飛んできた 小川紳介プロダクションとの25年』七つ森書館、二〇一〇年)。その代表作として、「ニッポン国古屋敷村」および「一〇〇〇年刻みの日時計-牧野村物語」をあげることができる。
 小川監督は、第二回の映画祭を無事に終えた翌年の一九九二年に惜しくも亡くなったが、
アジアの国々でドキュメンタリー監督を養成しようとの遺志は、この映画祭に受け継がれ、その後はインターナショナル・コンペ部門と並んで、アジアの新人監督のコンペ部門であるアジア千波万波として回を重ねている。
 山ドキュは、隔年の秋に開催されてきたが、世界でも数少ないドキュメンタリー映画に特化した映画祭として、国際的に高い評価を得るに至っている。これも、草創期の小川ディレクターの尽力が大きく貢献しているといえよう。
山ドキュが歴史的な転回点を迎えたことが、私見では過去二度あった。最初は、二〇〇七年にNPO法人化した時期である。山形市の記念事業としてスタートしたこともあって、映画祭事務局は市役所内に置かれ、事務局員の人件費も市当局が負担していたのだが、諸般の事情からNPO法人化され、事務局も市役所の外に置かれた。その経緯は、かつて小川プロに属し、第一回山ドキュの公式記録映画「映画の都」を制作した飯塚俊男監督の手による二〇〇七年の作品「映画の都ふたたび」に詳しく描かれている。
 次の転回点は、二〇一一年秋の映画祭開催であった。三月の東日本大震災の影響で、準備が間に合うのか、また作品は例年通りに海外から応募されるのか、など多くの課題を抱えながらも、困難な状況下で模索された結果、映画祭は開催された。放射能汚染の不安からか、例年になく海外からのゲストに欠席者が目立ったものの、映画祭そのものはつつがなく終了した。
 その目玉になったのが、東日本大震災復興支援上映プロジェクト「ともにある Cinema with Us」であった。この特集上映では、大震災の現場に入った映画監督や、被災地での救援活動を続ける人々によって撮影された二十九本の作品が上映された。その選考は映画祭直前まで続けられたようで、プログラムのチラシが上映開始日に映画祭本部へ届けられたことが印象に残っている。筆者は映画祭のボランティアを務めていたことなどもあって、この特集上映の一部しか鑑賞することはできなかったが、ほとんど情報の入らなかった仙台市の東北朝鮮学校の被災を描いた作品が印象深かった(ちなみに、この作品を共同制作したコマプレスが大阪朝鮮高校ラグビー部を描いた長編ドキュメンタリー映画「60万回のトライ」は二〇一三年の山ドキュでワールドプレミア上映され、二〇一四年の全州国際映画祭の韓国長編映画コンペ部門で、CGVムービーコラージュ支援賞を受賞した)。
 この特集上映は、ある意味で玉石混合とも批判されたが、ともかくも現場で撮影された最新映像を集大成して上映した関係者の努力は高く評価され、この特集はコミュニティシネマ賞を受賞し、その後に各地で巡回上映が企画されるに至った(拙稿「震災映像と被災地上映」季刊地理学六十四、二〇一二年)。
 それを受けて、二〇一三年の山ドキュにおいても、この特集上映を継続することになり、まずは三月に地元の山形市内で、映画祭事務局の主催する上映会がプレ企画として実施された。ここでは、大震災関連のみならず、放射能汚染の問題を描いた作品も上映され、とりわけ高知県のマグロ漁船乗組員の被曝を丹念に追跡した「放射線を浴びたX年後」に強い感銘を受けた。この作品は二〇一四年三月の第一回グリーンイメージ国際環境映像祭においてグランプリに輝いた。ちなみに、早い時期に調査を行った例として、この作品に登場する高知県の県立高校の「幡多高校生ゼミナール」は、一九九四年制作のドキュメンタリー映画「渡り川」(キネマ旬報文化映画ベストテン第一位)の主人公でもある。
 そして、二〇一三年十月の映画祭において、「ともにある Cinema With Us 2013」と題した特集上映が行われ、十五本の作品が上映された。このうち、十三作品の監督インタビューが映画祭公式サイトにアップされている。二〇一一年の特集上映では、前述のように直前まで準備に要したためか、三人の監督のみのインタビューにとどまっていたが、その面でも、今回の映画祭は充実したものになったといえよう。個々の作品の内容も多岐にわたり、震災の内面を描いたものが多くみられた。

 三 観客アンケートを通した震災と映画祭の関わり
 本章では、観客アンケートの集計結果を通して、被災後二年余が過ぎた時点で、観客が東日本大震災を、どのように感じているのかを把握したい。
 そこで、以下では、アンケートの集計結果を、基本的属性と震災関連項目に二分した上で、比較検討をすすめたい。

 (一)基本的属性に関する比較検討
 まず、性別に関しては、三月の上映会(以下では前者とする)では、ほとんど差がみられなかった。もっとも、アンケートの位置的な関係で無回答が多かったので、十月のアンケート時にはアンケート項目の位置を修正した。それに対し、十月の映画祭(以下では後者とする)では、やや男性が上回る結果となった(表1)。映画祭全体を見回した感触では、やはり男性観客が多い印象だったので、その傾向を反映したものといえようか。
 次に、年齢構成に関して、前者では、五十代・六十代の高齢者が多くみられたが、後者では二十代から四十代の観客層もかなり存在し、若い世代も集客したことが明らかとなった(表2)。ただ、十代の未成年は、きわめて少数で、この年齢層に映画祭を浸透させることが将来へ向けての大きな課題となろう。
 そして、職業別では、会社員と公務員が共にかなりの割合を占めるが、前者でパートアルバイト、主婦、学生層の観客が一定数みられたのに比し、後者では、それらの観客層はさほど多くはなく、むしろ無職やその他がかなりみられた(表3)。この中には映画関係者が、ある程度存在するのではないかと憶測される。
 また、居住地については、前者では山形市内が圧倒的に多く、県外からの集客は多くはなかったのが、後者では、県外が七割強を占め、東京・神奈川・埼玉の首都圏や隣接する宮城・秋田から広く観客を集めており、この映画祭が国内で高い評価を得ていることを反映しているといえよう(表4)。ただ、日本語によるアンケートであったために、外国人の観客の回答は得られなかったが、映画祭自体には数多くの海外からのゲストを迎えていたにもかかわらず、この震災特集上映の会場を訪れる外国人は珍しかったように記憶している。
 さらに、同伴者については、前者で同伴者なしが多数であり、次いで家族、友人、が続くが、後者では同伴者ありが過半数を越え、家族、友人に加え、親戚、その他、という回答もあり、誘い合って来場したことが知られる(表5)。これは、被写体となった被災者の方々が連れ立って来場されたこととも関わると想定される。
 続いて、交通手段については、前者で自動車が過半数を越え、前稿で調査した被災地の映画館に近い結果となり、地方都市の映画館においては、駅前の便利な立地であっても、自動車利用が多いことが明らかになった。それに対して、後者では鉄道利用が自動車を上回り、映画祭が広く全国から観客を集めたことを反映しているといえよう(表6)。
 また、情報源については、前者では映画館内で知ったという回答が最多で、新聞がそれに次いだ。後者では、ホームページなどのネット情報が最多であり、おそらくは世代による情報源の差異が存在するものであろう。しかし、紙媒体が依然として一定の役割を果たしていることに留意すべきであろう(表7)。
 さらに、これらの上映会や映画祭の必要性に関しては、必要とする回答が圧倒的に多く、ほぼ全員が賛意を示しており、ここでも映画祭に対する高い評価と信頼をうかがうことができ、今後の映画祭の運営にとって、ありがたい結果となっている(表8)。
 最後に、後者のアンケートでは、二〇一一年の山ドキュ、および三月の上映会への参加の有無についての項目を加えたところ、半数近くの観客がいずれかに参加したと答え、両方に参加したという回答も一定数みられ、この映画祭を支える固定層が存在することを示唆する結果となった(表9)。

 (二)震災関連情報に関する比較検討
 まず、前稿と共通項目である震災後の映画鑑賞回数の変化については、同じという回答が前者・後者ともに最多となっているが、ともに増加の回答が減少を上回っている(表10)。これは、震災から二年が過ぎたこと、そして、上映会や映画祭の観客は映画ファンが多いことと関連しているのかもしれない。
 一方、震災映像の苦痛性については、被災地でのアンケート結果よりも苦痛を伴うという回答は減少したものの、依然として一定の割合を占めることが明らかになった(表11)。これは観客に福島県からの避難者や、映画に描かれた被災者の観客が含まれることとも関わるかと考えられる。震災の記憶が薄れつつも、その傷はいまだ癒されていないことを如実に物語るデータといえよう。
 最後に、震災関連アンケート項目として、前稿と同様に、以下の五項目を設定した。それぞれについて、そう思う・どちらでもない・そう思わない、の三段階での回答を設けたので、回答結果の比較検討を試みたい。
Ⅰ 癒しと安らぎの場としての必要性
Ⅱ 余暇と娯楽の場としての必要性
Ⅲ 多様な文化を知る場としての必要性
Ⅳ 情報入手や交換の場としての必要性
Ⅴ 青少年・生涯教育の場としての必要性
 まず、そう思う、の回答率が最も高くなったのは、多様な文化を知る場、という選択肢であった。これは、ある意味で映画祭という場の特性上から当然の結果というべきであろうか(表12)。
 余暇と娯楽の場(表13)、情報入手の場(表14)、教育の場(表15)、という回答は、あまり差がなかったのだが、癒しと安らぎの場という回答については、前者では、そう思う、の回答率が高かったのに対して、後者では、さほど高くはなかった(表16)。前者の観客の大多数は山形県民ないし近県の県民であったことから、被災地としての東北、もしくは地方都市における映画館の役割といった側面が垣間見える。前稿においても、宮古と古川の映画館でのアンケート結果では、この項目が高い回答率を示したのであったが、山形でも、回答率はやや低いとはいえ、同様の傾向を示したことは興味深い結果である。

 四 おわりに
 以上、山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局の協力を得て、二〇一三年三月の上映会と十月の映画祭における震災特集上映の場での観客アンケートの結果に関する比較考察を試みた。前稿とあわせて、被災地における映画館の果たす役割に加えて、被災地からの情報発信として、東北地方で開催される映画祭の場で、東日本大震災を語り継ぐ映像を上映することの重要性と意義が、観客アンケートを通して明らかになった。
 このことは、アンケートの自由記述欄からも、うかがうことができる。前者では、以下のような記述がみられた。「震災の記憶を風化させないためにも、何度も上映してほしい」、「様々な視点による震災の記録の必要性を改めて感じた。このような催し物を引き続き行ってほしい」、「3.11近くには毎年上映して、忘れ去られないようにしたい」、「映画は記録・伝承など文字だけでは伝わらないリアルな感情を伝える貴重な記録」、「映像で見ることの大切さ、記録を残すことの大切さを感じます」。
 一方、後者においては、熱心な記述が多くみられたが、おおむね以下の三点にまとめられる。ひとつは、マスコミが震災に関して、ほとんど真実を伝えない中で映画の役割が重要だとする意見で、ふたつめは震災後に前向きに生きていこうという姿勢が重要、被災者によりそった内容が大事、復興や今後の被災地の歩みを描くことも必要、という意見で、最後は、今後の災害への警鐘となる、できるだけ多くの作品を集めたアーカイブつくりに監督や製作者が力を貸す、という意見であった。おそらくは、映像関係者からの貴重な見解が反映しているものとみられ、震災後、数年を経過した時点での震災ドキュメンタリー映像の役割を象徴的に示唆していると評価されるコメントである。
 また、九州では震災の記憶が忘れられつつある、という意見があり、筆者も、二〇一三年および二〇一四年の三月十一日は大阪アジアン映画祭の震災特集上映を鑑賞したが、阪神大震災との関わりなど工夫された上映にもかかわらず、けっして観客は多くはなかった。震災の記録映像上映を通して、人々の震災に対する記憶をつなぎとめることもまた、大きな役割となろう。
 最後に、阪神大震災時は、紙ベースの記録が大部分であったといわれるが、東日本大震災においては、デジタル撮影機器の普及にともない、数多くの映像記録が残された。今後は、これらの映像を保存活用していくことが大きな課題になるといえよう。その意味において、山形国際ドキュメンタリー映画祭と、そのライブラリーが果たす役割に期待したい。

[付記] 本稿は、二〇一三年度日本地理学会春季大会において研究発表を行った内容を骨子として成文化したものである。発表時にご意見をいただいた方々および観客アンケートに協力いただいた方々、またアンケートの実施をお認めいただいた映画祭事務局や関係者の方々に厚くお礼を申し上げたい。なお、本稿で利用した統計データの集計には、二〇一三年度日本学術振興会科学研究費基盤研究(C)「映画を通した地域活性化の日韓比較研究」(研究代表者:岩鼻通明)の一部を使用した。


表1
   性別構成
    3月  10月
男性  15(25) 23(55)
女性  16(27) 19(450
無回答 28(48) 0(0)
合計  59(100) 42(100)


表2 
   年齢別構成
     3月  10月
10代 1(2) 0(0)
20代 1(2) 4(10)
30代 10(17) 6(14)
40代 7(12) 8(19)
50代 22(37) 11(26)
60代以上 18(30) 13(31)
合計   59(100) 42(100)


表3 
   職業別構成
      3月  10月
会社員 16(27) 13(31)
公務員 6(10) 7(17)
自営業 7(12) 3(7)
パート 6(10) 1(2)
主 婦 4(7) 2(5)
学 生 4(7) 1(2)
無 職 8(13) 7(17)
その他 8(13) 8(19)
合 計 59(100) 42(100)



表4
   居住地別構成
      3月   10月
市内 33(58) 7(17)
村山 10(17) 2(5)
庄内 2(4) 1(2)
置賜 2(4) 0(0)
県内計 47(82) 10(24)
秋田 2(5)
宮城 5(12)
埼玉 2(5)
東京 10(24)
神奈川 2(5)
県外計 10(18) 32(76)
合計 57(100) 42(100)

表5
    同伴者別構成
      3月    10月
家族    15(27) 10(24)
友人 4(7) 9(21)
親戚 0(0) 2(5)
その他 0(0) 2(5)
なし 37(66) 19(45)
合計 56(100) 42(100)

表6
     交通手段
      3月    10月
徒歩    8(13) 6(13)
自転車 4(6) 1(2)
自動車 36(57) 14(30)
バス 5(8) 5(11)
鉄道 10(16) 21(45)
合計 63(100) 47(100)

表7
     情報源
     3月    10月
新聞   12(19) 9(19)
館内 15(23) 1(2)
HP 8(13) 22(47)
その他  29(45) 15(32)
合計   64(100) 47(100)


表8
     必要性
     3月    10月
はい   55(95) 42(100)
いいえ   0 (0) 0(0)
どちら 3(5) 0(0)
でもない
合計 58(100) 42(100)


表9
      上映会・映画祭参加
           10月
2011年のみ参加     5(13)
2013年3月のみ 0(0)
11年と3月両方 8(21)
不参加 26(66)
合計  39(100)

表10
      映画鑑賞回数
       3月    10月
増加     15(25) 11(26)
変わらず 37(63) 26(62)
減少 7(12) 5(12)
合計     59(100) 42(100)

表11
       苦痛性
      3月   10月
はい    8(14) 5(14)
いいえ 50(86) 30(86)
合計 58(100) 35(100)


表12
      文化を知る場
     3月    10月
はい   46(82) 40(95)
どちら 8(14) 2(5)
でもない
いいえ 2(4) 0(0)
合計 56(100) 42(100)


表13
      余暇と娯楽の場
     3月     10月
はい   38(68) 32(76)
どちら 13(23) 5(12)
でもない
いいえ 5(9) 5(12)
合計   56(100) 42(100)
表14  
      情報入手の場
     3月     10月
はい   39(70) 30(72)
どちら 14(25) 9(21)
でもない
いいえ 3(5) 3(7)
合計 56(100) 42(100)

はい   39(70) 30(72)
どちら 14(25) 9(21)
でもない
いいえ 3(5) 3(7)
合計 56(100) 42(100)


表15
     生涯教育の場
     3月    10月
はい   37(66) 30(71)
どちら 16(29) 9(22)
でもない
いいえ 3(5) 3(7)
合計 56(100) 42(100)


表16
    癒しと安らぎの場
      3月    10月
はい    39(70) 21(50)
どちら 14(25) 13(31)
でもない
いいえ 3(5) 8(19)
合計 56(100) 42(100)
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『百姓生活百年記』にみる三山参り(村山民俗学会会報271号、2014.5.1 より)

2014年06月12日 | 日記
  『百姓生活百年記』にみる三山参り  岩鼻 通明
 この度、本学会より刊行された高瀬助次郎著『百姓生活百年
記』の文中で、三山参りについて触れられている。たいへん貴
重な内容ゆえ、誌面をお借りして、簡単に解説したい。
 この記述は著者が15歳の時の体験にもとづいたものとのこと
で、昭和60年に89歳で他界されたので、明治末年の頃の記録
となろう。本文には触れられていないが、村山地方で習慣となっ
ていた15歳の初参りの典型例といえよう。
 三山は明治前期に自由参詣(先達なしでの参詣が可能)となり、
女人禁制も解禁されていたが、この時点でも男性のみでの参詣
であったという。他の霊山でも、女人禁制は解禁されたものの、
女性が登ると山が荒れるなどと嫌われたのが、この頃の実態で
あったらしい。女学校の集団登山が、この因習打破に貢献した
とされるが、出羽三山では、どうだったのであろうか?
 村山盆地からは、志津を経て、装束場から湯殿山に下るルート
を歩くが、既に装束場の地名は使われていない。そこからの下り
を著者は「オガッコ場」と記すが、いわゆる「水月光・金月光」と
称された急坂である。
 興味深いのは、ここで「六根清浄・・・」と唱え、湯殿山のご神体
では「アーヤニアーヤニ・・・」と唱えていることである。言うまでも
なく、前者は神仏習合時代の唱え言葉であり、後者は神仏分離
後の神道の祝詞である。両者の混合を、神仏分離の不徹底と
みるべきか、あるいは明治末年には仏教勢力がある程度の復権
を果たしたとみるべきか、議論は尽きない。
 さらに、時代を感じさせるのは、装束場まで登り直した後に、月
山まで、さらには羽黒山へ下ることもあったという記述で、まさに
芭蕉の『おくの細道』の帰還ルートである。江戸時代は大網へ下
ってから羽黒山へ廻る例もあったようだが、臨機応変に行き先を
選んだところも、自由登山になったからこそ可能になったといえ
ようか。
 以上で簡単に解説を付したが、いわゆる聞き取りによる民俗調
査ではなく、参詣した当事者による記録ということで、信頼性の高
いものと評価することができる。
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佐賀県立図書館所蔵の西川須賀雄関連資料について

2013年12月17日 | 日記
 この夏に佐賀市へ出かける所用があったので、県立図書館へ足を伸ばし、当地出身である出羽三山神社初代宮司の西川須賀雄に関する資料調査を行ってきた。図書館の郷土資料検索で出てきたのは2点のみで、そのうちの1点は、近年、出羽三山神社から翻刻出版された彼の日記であったから、明治期の佐賀県の公文書の中にある以下の記録が唯一のものであった。
 その記録は「佐賀県明治行政資料 官省進達(明治4年7月~12月)」(県立図書館複製史料)に収録されており、明治4年10月に伊万里県から神祇省に宛てたもので、西川を宣教のために出張させるという原史料であり、貴重な発見であった。
 もう一人、検索してみた人物が存在した。柴田花守という西川の師匠にあたる人物であるが、彼もまた佐賀藩の出身で、富士講に入信し、明治に入り神道実行教を組織化した。彼の伝記を収録した『佐賀県郷土教育資料集』と題する昭和10年に佐賀県学務部学務課から編集発行された書物が検索で出てきたのであるが、その本には柴田よりもむしろ、より詳しい西川の伝記も収録されていた。
 この伝記は羽黒山への赴任年などの誤記も散見するが、西川が天保9年に生まれ、明治39年に亡くなったことが明記されており、非常に興味深いのは、西川が教育勅語の成立に深く関わっていたとする記述である。このことが歴史的事実であるのかどうかは今後の課題となろうが、羽黒山を離れてからの西川の行動を知る上で大いに参考となろう。
 帰り際に別室に佐賀藩主であった鍋島家の史料を複製した鍋島文庫が置かれていたので、なにか関連する記録があるかもしれないと探してみた。すると、その中に「小城郡祠官由緒差出」と題した明治3年12月に西川が地元の神社である須賀社に神職として任命されていたことを示す史料を見出すことができた。
 以上の3点の資料は、これまで紹介されることのなかった西川の羽黒山赴任以前と離山以降についての記録であり、彼の生涯に新たな光を当てるものといえよう。
(「村山民俗学会会報」2013年12月号より)
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被災地をめぐる現代民俗―映画館の観客アンケートを通した試論(「村山民俗」27号に補筆) 

2013年12月12日 | 日記
一 はじめに
本稿は、東日本大震災が被災者に与えた影響について、映画館の観客アンケートを通して明らかにしようとする試みである。周知のように、大震災の被害は広範囲に及んだが、映画館の被災状況は意外に知られていないといえよう。
東北から北関東にかけて、多くの映画館に被害が発生し、とりわけシネマコンプレックス(以下ではシネコンと略称)に大きな被害が集中した。シネコンは一九九〇年代後半以降に日本各地で開業が相次ぎ、映画館のスタイルを大きく変えたのであるが、新しい建造物にもかかわらず、劇場内には柱が存在しないなどの構造上の問題から、天井や壁、スピーカーの落下などの被害が生じた。その結果として、シネコンの登場以来、日本全国のスクリーン数が増加の一途をたどってきたのが、十八年ぶりにスクリーン数が減少し、二〇一一年の興行収入は前年比八十二%に減少した。二〇一二年中に開業したシネコンは皆無であったという。
東北地方の映画館の被災状況としては、仙台近郊の三か所のシネコンが休廃業となっている。二〇〇七年に低湿地の水田を造成して建設された泉コロナワールドは映画館一〇スクリーンと温泉、ボーリング、ゲーム、漫画喫茶、カラオケからなる複合施設であったが、被害が甚大なために閉店を余儀なくされた。
同系列で、二〇〇二年に開業した仙台コロナワールドは津波の被害を受け、複合施設の一部は営業を再開したものの、一二スクリーンを擁した映画館の再開は未定となっており、宮城県南の一九九五年に竣工した大河原町ショッピングモール内に七スクリーンを擁したシネコンのシアターフォルテもまた休業中となっている。
また、石巻市の旧北上川の中州に存在した岡田劇場は百五十年も続いた映画館であったが、津波によって流出した。この映画館も登場する日本映画「エクレール お菓子放浪記」は、石巻でロケが行われたが、エキストラとして出演した市民の中には震災で犠牲となった方が何人も含まれるといい、二〇一一年五月に劇場公開された。三月十一日の震災時には、東京で試写会が開かれていた最中とのことである。
次いで、東北各地の映画館で被災状況に関する聞き取り調査を実施したので、その概要を記したい。岩手県の一関シネプラザは、二スクリーンのミニシアターであるが、激しい揺れによる被害のために震災後の一か月半は休業を余儀なくされた。復旧の目途がついた四月上旬の最大余震で再度被災し、復旧費用は数千万円を要した。伊勢市の映画館「進富座」の館主が名古屋から業者を連れてきて、映写機を修理してくれるなど、多くの人々の善意に支えられて再開することができたという。
盛岡市内の映画館通りに位置する盛岡中劇は、丸二日間は停電したが、映写機がずれた程度で被害は軽微であったために、ほどなく営業を再開できた。しかしながら、昭和三〇年代の開業で、設備が老朽化したために、二〇一二年春で閉館することになった。
宮古シネマリーンは、津波の被害をまぬがれ、被害は軽微だったので、二週間ほどで営業を再開した。ただ、市民の多くが被災したために、再開以後の観客動員は大きく落ち込んでいる。
宮城県大崎市のシネマリオーネ古川は、館内のスクリーン三つが破損し、天井や壁、スピーカーが落下したりするなど、甚大な被害を受け、七月九日に再開にこぎつけた。被災後ただちに政府系金融機関から融資を受けて、再開に向けて工事を始めた。その時点で補助金が出るかどうかは不明だったが、二次補正予算で経産省から二分の一、県から四分の一の補助が出ることが決まった。補助金が決まってから着工したのでは遅きに失するので、夏休みの興行に間に合わせるために急いだ。復旧費用は一億円余りを要したという。

二 観客アンケートを通した被災者と映画館の関わり
被災地において、映画館がどのような役割を果たしているのかを、観客へのアンケート調査を実施することで、把握したいと考え、前述の岩手県宮古市にある宮古シネマリーンおよび宮城県大崎市にあるシネマリオーネ古川の全面的な協力を得て、被災後一年が過ぎた時点で観客アンケートを実施した。
宮古シネマリーンでは、二〇一二年二月中旬から三月上旬まで、チケット売り場でアンケート用紙を手渡しして、上映後にボックスへ回収し、一二〇通の有効回答を得た。シネマリオーネ古川では、二〇一二年二月中旬から四月上旬まで、映画館ロビーにアンケート用紙と回収ボックスを設置して、五一通の有効回答を得た。
さらに、被害の少なかった山形県鶴岡市にある鶴岡まちなかキネマにおいて、同様の観客アンケートを二〇一二年七月上旬の二日間にわたり、平日の午後に観客と対面するかたちでのアンケート調査を実施し、四十四通の有効回答を得た。
以下では、観客の基本的な属性と震災関連項目に二分した上で、アンケート結果についての比較検討を進めたい。

(一)基本的属性に関する比較検討
まず、性別をみると、宮古および古川では、男性のほうが少し多めであるが、鶴岡では女性のほうが多くなっている。
年齢別をみると、宮古では六十歳以上が最多ではあるものの、三十歳代の観客が比較的多いという特徴がみられる。それに対して、古川では五十歳代が最多で、他の映画館ではみられない十歳代の観客も存在する(この結果はアンケート期間に春休みが含まれたことと関連すると思われる)。一方、鶴岡では六十歳以上が圧倒的に多く、若い世代は宮古や古川に比べると少なくなっている(表一)。
次いで、職業別をみると、宮古では会社員・主婦・無職が多いが、古川では会社員・主婦に次いで学生が多くなっている。一方、鶴岡では無職が最多で、次に自営業が多いことに特徴がみられる。
居住地別をみると、宮古では旧市内が三分の二を占め、周辺市町村で残り三分の一を占めるが、古川では旧古川市内は五分の二にとどまり、周辺市町村からの来訪者が五分の三を占め、広域的な集客となっている。一方、鶴岡では旧鶴岡市内以外からの来訪者は二割ほどにとどまっており、集客圏の狭いことをうかがわせる結果となっている。
来場回数別にみると、宮古では一~三回目が大多数を占めるが、それに対して古川では十回以上が最多となっており、五回以上がそれに次ぎ、両者をあわせると過半数となり、リピーターの観客が非常に多いことを示している。一方、鶴岡では三回目が最多で、しかも一~三回目の合計と五回以上および十回以上の合計がほぼ拮抗しており、リピーターの観客が多いことを示している。ただし、この項目には前述のアンケートの実施方法の差異が影響している可能性がある。とりわけ、古川の場合はリピーターの映画ファンの観客が積極的にアンケートに答えたことが、このような結果になったことを想定すべきであろうか。
次いで、交通手段別をみると、最も共通した傾向を示したのが、この項目であった。すなわち、いずれの映画館においても、自家用車での来場が圧倒的多数となっている。この事実は、まさに地方都市におけるモータリゼーションの普及を如実に示すものであるが、いずれの映画館も中心市街地ないし、その付近に位置していることから、もう少し徒歩ないし自転車での来場が増えなければ、いわゆる賑わいを演出することができないと思われ、いわばサンダル履きで気軽に来場できるような映画館を含めた「まちづくり」が課題となろうか。
同伴者別にみると、宮古と古川は類似した傾向を示し、家族同伴と同伴者なしが肩を並べている。一方で、鶴岡では同伴者なしが過半数を占め、単独での来場が多いことを示している。
情報源別にみると、いずれも新聞が大きな役割を果たしていることが知られる。その一方で、ホームページの利用には大きな差がみられ、シネコンである古川は利用者が多く、ミニシアターの宮古では少ない。鶴岡でも多くはなく、ホームページ自体の充実度と観客の年齢構成の違いが影響しているものと想定される。
商店(街)での買い物行動との関連でみると、生協の二階に立地する宮古では買い物しないという回答が一割未満だが、商店との複合テナントビルに立地する古川では買い物しないが二割弱、商店街から映画館まで少し距離のある鶴岡では買い物しないが過半数と、映画館の立地条件の差異による影響が反映している。
この映画館は必要かという設問には、鶴岡では百%が必要、宮古では九十七%、古川では九十%と、いずれも地元の熱い期待を反映しているものの、一九九〇年代に市街地再開発によって開設された古川では、やや冷めたところがあるのかもしれない。
この映画館がなければ、どのように映画を観ますか、との設問も同様な傾向がみられ、他地域の映画館で観るという回答が鶴岡では六割、古川では五割であるのに対して、宮古では二割弱にすぎない。比較的近接した地域に他の映画館が立地する鶴岡や古川に比べて、自動車や鉄道で二時間余りを要する盛岡の映画館まで足を運ぶ必要のある宮古では、それ以外の手段を選択せざるをえない現実があるといえよう。市民生協と同様の出資方式で設立された宮古の映画館は、三陸沿岸地域唯一の映画館という、その隔絶した立地ゆえに高い必要性が地域住民から支持されているものといえよう。

(二)震災関連情報に関する比較検討
震災後の映画鑑賞回数の変化については、いずれも同じという回答が最多ではあるものの、古川では減少という回答がそれに近いほど多く、震災の後遺症を想起させる。その一方で、鶴岡では増加と減少ともに少なく、減少よりもむしろ増加のほうが僅差ながら上回ることに震災の影響が大きくはなかったことが示されている。
震災関連映像の苦痛性については、やや異なる傾向がみられる。古川では四割ほどの回答が苦痛性があるとしたが、宮古と鶴岡では三割弱にとどまった。予想としては、津波の直撃を受けた宮古で苦痛性があるとの回答が多くなると考えたのだが、それほど単純な問題ではなさそうだ。
上記の二項目に加えて、震災関連アンケート項目として、試行錯誤の結果、以下の五項目を設定してみた。それぞれについて、そう思う・どちらでもない・そう思わない、の三段階での回答を設けたので、回答結果の比較検討を試みたい。
Ⅰ 癒しと安らぎの場としての必要性
Ⅱ 余暇と娯楽の場としての必要性
Ⅲ 多様な文化を知る場としての必要性
Ⅳ 情報入手や交換の場としての必要性
Ⅴ 青少年・生涯教育の場としての必要性
 まず、共通して九割を超える高い支持を得たのが、余暇と娯楽の場としての必要性であり、これは映画館の基本的役割として共通するものであるといえよう。
 また、情報入手や教育の場に対する支持はやや低くはあるものの、いずれも共通した傾向がみられ、いわば映画館の普遍的な役割であるといえるが、大きな差異のみられるのが、癒しと安らぎの場および多様な文化を知る場の項目となっている。
 すなわち、宮古と古川の被災地における観客は、映画館に癒しと安らぎの場としての役割を大きく期待しているのに対して、被害が軽微だった鶴岡の観客は、この役割に重きを置いていないといえよう。
 その一方で、鶴岡においては、多様な文化を知る場としての役割を高く評価しており、鶴岡まちなかキネマが単に商業映画のみの上映にとどまらない活動を展開してきたことを反映するものといえようか。

三 おわりに
 以上、東北地方の三か所の映画館の協力を得て、観客アンケートを実施した結果についtの比較検討を試みた。震災被害の甚大であった宮古および古川と、被害が軽微であった鶴岡の観客との間には有意な回答の相違がみられることが明らかとなった。
 なお、本調査研究の延長として、二〇一三年三月に山形フォーラムで行われた震災特集上映の会場においても、同様の観客アンケートを実施した。その結果は本年十月に開催される山形国際ドキュメンタリー映画祭の震災特集上映の際に実施を予定している観客アンケートの結果と比較検討する予定である。
 なお、最後に、アンケート用紙の鶴岡の事例を参考までに添付しておきたい。

震災と映画館の関わりについてのアンケート

 昨年3月の大震災と映画館の関わりについて、アンケート調査を実施し、地域における映画館の果たす役割に関して検討を行いたく存じますので、以下の質問に、どうぞよろしくご回答のほど、お願い申し上げます。 山形大学農学部教授  岩鼻 通明
連絡先:電話0235-28-2941  E-mail:imichiaki@mail.goo.ne.jp

 以下の質問項目にお答え願います。該当する項目に○印をつけてください。
・年齢 10代・20代・30代・40代・50代・60歳以上 
・性別 男性・女性
・職業 会社員・公務員・自営業・パートアルバイト・主婦・学生・無職・その他
・住所 鶴岡市(旧鶴岡市内・羽黒・櫛引・朝日・温海・藤島)・三川町・庄内町
・酒田市・遊佐町・その他県内・県外
・1年間に、この映画館に来た回数 1回・2回・3回・4回・5回以上・10回以上
・本日に鑑賞された映画の題名 邦画(       )・洋画(         )
・映画の上映情報源  新聞・映画館内・映画館のホームページ・その他
・交通手段      徒歩・自転車・自家用車・バス・鉄道
・同伴者       家族・友人・親戚・その他・なし
・昨年3月11日以降、映画館へ来られる回数は増えましたか? 増加・同じ・減少
・その理由は? 映画館で過ごしたいから・精神的余裕がない・経済的余裕がない
・3月11日以降、映画館の役割や映画鑑賞の動機は変化しましたか?
 癒しとやすらぎの場としての必要性 そう思う・どちらでもない・そう思わない
 余暇と娯楽の場としての必要性   そう思う・どちらでもない・そう思わない
 多様な文化を知る場としての必要性 そう思う・どちらでもない・そう思わない
 情報の入手や交換の場としての必要性 そう思う・どちらでもない・思わない
 青少年・生涯教育の場としての必要性 そう思う・どちらでもない・思わない
・3月11日以降、震災関連の映像を見ることが苦痛ですか? はい・いいえ
・震災関連の上映会に行きたいと思いますか? はい・いいえ
・この映画館は地域にとって必要ですか? 必要・どちらでもない・不要
・映画館を利用する際に商店街で買い物をされますか? しない・時々する・ほぼ毎回する
・もし、この映画館がなければ映画を観ますか?
他の地域の映画館へ行って観る・DVDやビデオで観る・テレビで観る・観ない
・震災後に映画館の果たすべき役割などについて、自由にご意見をお書きください。
(                                     )
    アンケートは以上です。ご回答いただき、誠にありがとうございました。

参考文献
岩鼻通明「震災映像と被災地上映」季刊地理学64-2.2012年9月、p74-75.
大高宏雄「東日本大震災と日本映画界」キネマ旬報1601、2012年1月、p43-46.
千葉基「宮城県古川市 自立型再開発事業で商店街の活路を開く」地域づくり198、2005年12月、p12-13.
前野裕一「被災地で映画を映す」キネマ旬報1601、2012年1月、p58-63.

付記 本稿は、二〇一二年度東北地理学会春季大会で研究発表した内容をまとめたものである。発表時にご意見をいただいた方々および観客アンケートを快くお認めいただいた映画館の方々に厚くお礼を申し上げたい。なお、本稿で利用した統計データの集計には、二〇一二年度日本学術振興会科学研究費基盤研究(C)「」(研究代表者:岩鼻通明)の一部を使用した。

表1 年齢別性別構成

     宮古      古川    鶴岡
10代   3(3)     7(14)    0(0)
20代   6(5)     3(6)     3(7)
30代  22(18)    4(8)     5(11)
40代  12(10)    7(14)    4(9)
50代  31(26)   22(43)    8(18)
60代  44(37)    7(14)   24(55)
男性  66(55)    28(55)  18(41)
女性  53(45)    23(45)  24(55)
合計 119 (100)   51(100)  44(100)

表2 職業別構成

     宮古     古川     鶴岡
会社員  33(28)   13(25)    8(18)
公務員  14(12)    5(10)    3(7)
自営業  11(9)    3(6)    9(20)
パート   6(5)     5(10)    2(5)
主 婦  21(18)    9(18)    5(11)
学 生   2(2)     8(16)    0(0)
無 職  21(18)    3(6)   11(25)
その他   9(8)     5(10)    6(14) 
合 計 117(100)   51(100)  44(100)

表3 居住地別構成

   宮古 田老 新里 川井  岩泉  山田  大槌  釜石  県内  県外  合計
宮古 79(66) 6(5) 4(3) 3(3) 3(3) 7(6)  5(4) 5(4)  3(3) 4(3) 119(100)

   古川 田尻 松山 岩出山 栗原 登米 美里 加美 色麻 涌谷 県内 県外 合計
古川 20(40) 1(2) 2(4) 2(4) 6(12) 1(2) 5(10) 6(12) 4(8) 1(2) 1(2) 1(2) 50(100)

    鶴岡   羽黒  温海  庄内  酒田  遊佐  合計
鶴岡  35(80) 3(7)  1(2) 2(5)  2(5)   1(2)  44(100)


表4 来場回数別構成

      宮古   古川   鶴岡
1回 26(25) 4(9) 5(12)
2回  30(29) 6(13) 2(5)
3回 23(22) 5(11) 15(35)
4回 10(10) 3(7) 0(0)
5回以上 16(15) 13(28) 12(28)
10回以上 8(8) 15(33) 9(21)
合計    105(100) 46(100) 43(100)


表5 交通手段別構成

      宮古    古川     鶴岡
徒 歩   3(3)     5(10)   2(5)
自転車   9(10)     6(12)   5(12)
自動車  100(83)   39(75)  35(81)
バ ス   7(6)     1(2)    0(0)
鉄 道   1(1)     1(2)    1(2)
合 計  120(100)  52(100)  43(100)


表6 同伴者別構成

     宮古     古川     鶴岡
家 族  53(45)   21(41)    14(33)
友 人  14(12)    8(16)     7(16)
その他   0(0)     1(2)     0(0)
単 独  50(43)   21(41)    22(51)
合 計 117(100)   51(100)   43(100)

表7 情報源別構成

      宮古    古川    鶴岡
新 聞   53(47)  19(33)  15(34)    
映画館   22(19)  12(21)  10(23)
H P    8(7)   19(33)   4(9)
その他   30(27)   8(14)  15(34)
合 計  113(100)  58(100)  44(100)


表8 商店(街)での買い物行動

       宮古    古川    鶴岡
ほぼ毎回   55(47)   8(16)   3(7)
時々する   55(47)  33(66)  17(40)
しない     8(7)    9(18)  22(52)
合  計  118(100)  50(100)  42(100)


表9  映画館の必要性
 
         宮古     古川    鶴岡 
必  要    116(99)   46(98)  44(100)
不  要      0(0)     0(0)    0(0)
どちらでもない   1(1)     1(2)    0(0)
合  計    117(100)   47(100)  44(100)

 表10 映画館がなければ

          宮古     古川    鶴岡
他地域の映画館   24(18)   31(48)  26(60)
DVD・ビデオ   52(40)   17(27)   7(16)
テ レ ビ     33(25)   13(20)   5(12)
観 な い     21(16)    3(5)    5(12)
合   計    130(100)   64(100)  43(100)


表11 映画館は癒しと安らぎの場

           宮古     古川     鶴岡
そう思う       95(82)   40(80)    30(71)
どちらでもない    19(16)    8(16)    11(26)
思わない        2(2)     2(4)     1(2)
合 計       116(100)   50(100)   42(100)


表12 映画館は余暇と娯楽の場
 
           宮古     古川     鶴岡
そう思う      113(96)    47(94)   37(86)
どちらでもない     4(3)     2(4)    6(14)
思わない        1(1)     1(2)     0(0)
合  計  118(100)   50(100)   43(100)

表13 映画館は多様な文化の場

           宮古     古川     鶴岡
そう思う       91(82)   38(76)    28(97)
どちらでもない    18(16)   10(20)     0(0)
思わない        2(2)     2(4)     1(3)
合  計   111(100)   50(100)   29(100)


表14 映画館は情報入手の場

           宮古     古川     鶴岡
そう思う       55(52)   26(52)    21(49)
どちらでもない    44(42)   18(36)    19(44)
思わない        7(6)     6(12)     3(7)
合  計   106(100)   50(100)   43(100)


表15 映画館は教育の場

         宮古     古川    鶴岡
そう思う     76(72)   31(62)  24(57)
どちらでもない  26(25)   16(32)   15(36)
思わない      3(3)     3(6)    3(7)
合  計    105(100)   50(100)  42(100)
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2013年東北地方民俗学合同研究会 予稿集より(山形県分)

2013年11月18日 | 日記
  山形県民俗(学)研究の歩みー各地域民俗研究団体の発足と諸先学ー
                           野口 一雄(村山民俗学会会長)・岩鼻 通明
1 民俗(学)研究前史
 本項について、前山形県民俗研究協議会会長大友義助は山形県の民俗研究の歴史をたどる難しさに触れながら、今後の研究・取り組みに俟たなければならないと語っている。大友は落としてならない研究団体として、郷土の考古学や民俗学、人類学などを調査研究の対象に活動した「奥羽人類学会」をあげている。会は明治23年(1890)、羽柴雄輔(はしばゆうすけ)(嘉永4年/1851 ― 大正10年/1921)を発起人に鶴岡に産声を上げた。初代会長には松森胤保(まつもりたねやす)(文政8年/1825ー明治25年/1892)が就任する。羽柴は飽海郡松山町(現酒田市)に生まれ、後年は慶應義塾大学図書館に勤務し柳田國男とも交流を持った。松森は鶴岡に生まれ、あらゆる学問に精通した博物学者であり、公職を退いた後は会の発展に尽くした。大友はさらに、昭和のはじめ郷土調査や郷土読本作成などを推進していった「郷土教育」についての研究の必要性をあげ、また昭和4年(1929)両羽銀行頭取に就任しながら東京商大や京都帝大でも教鞭をとった三浦新七(明治10.8.12-昭和22.8.14(1877-1947))が創立主宰した「山形郷土研究会」への、民俗学的視点からの評価・検討が必要であろうと語っている。
 この項は、今後本県の民俗学会が取り組まなければならない大きな課題である。
(以上、野口)

2 戦後の民俗(学)会設立前夜
(1) 市町村史編さん・青年団活動・学校部活動
 戦後、郷土教育の伝統はさまざまな調査報告書を発表していく。県内村山地方の高等学校郷土関係部活動では、たとえば昭和27年(1952)1月、山形市商業高等学校諭誠クラブ産業調査部は『谷地地方に於ける屋號の研究』をまとめている。牛房野(現尾花沢市牛房野)青年會は昭和28年(1953)3月、謄写版刷りの「迷信の研究」を、山辺中学校教諭堀伝藏は昭和29年(1954)8月、謄写版での『子供の生活にある迷信』を発表した。
 谷地町史編纂事業では谷地町誌編纂資料として、谷地町誌編纂委員今田信一・駒込豊藏は「山形県草履表発達史」(『谷地町誌編纂資料編』第7輯/昭和29年2月)、谷地中学校教諭矢作春樹は「河北地方の方言」(『谷地町誌編纂資料編』第17輯/昭和30年10月)、谷地町誌編纂委員今田信一・堀口昌吉・逸見武は「河北町の年中行事」(『谷地町誌編纂資料編』第18輯/昭和30年11月)、谷地町誌編纂委員今田信一・堀口昌吉は「河北地方の民謡と童謡及迷信俗信と俚諺」(『谷地町誌編纂資料編』第19輯/昭和31年1月)など、民俗学的な調査の成果を刊行している。
 山形市谷柏の農業高瀬助次郎が、聞き書きや自分の体験を綴った手書き本『百姓生活百年記』(巻1~巻4/巻4に昭和42年2月12日 70才とある。 山形県立博物館所蔵 )には多くの挿絵が描かれ、村山地方の民俗誌的な内容になっている。巻1が村山民俗学会から発刊される予定である。
(2) 歴史研究から民俗研究へ
 第1回斎藤茂吉文化賞受賞者である郷土史家川崎浩良は、石像物、特に板碑調査を行い県内の板碑を類型化し、昭和29年(1954)12月出羽文化同好会から『山形県の板碑文化』を発刊している。
 丹野正は早稲田大学文学部での講師のかたわら民俗調査研究を進めた。彼は戦後復刊された『月刊郷土』に、次のような発表を行っている。(彼の肩書きは、当初の郷土民族(ママ)研究家から土俗學者へとかわっている。)○「獅子踊の話」丹野正(郷土民族研究家)『月刊郷土』復刊九月號 昭和22年9月 山形郷土物産有限會社出版部 ○「田植踊りの研究―資料と考察―」丹野正(土俗學者)『月刊郷土』十月號 昭和22年10月 同出版部 ○「續田植え踊りの研究―資料と考察―」丹野正(土俗學者)『月刊郷土』十二月號 昭和22年12月 同出版部 ○「正月の傳承」丹野正『月刊郷土』二月號 昭和23年2月 同出版部 ○「西置賜郡小國の産屋と産育習俗について」丹野正『月刊郷土』3・4合併号 昭和23年4月 同出版部 丹野は、村山地方での民俗研究の先駆者の一人であった。                         (以上、野口)

3 民俗学会の設立(第1期)
(1) 庄内民俗学会の設立
 県内最初に民俗研究団体設立の産声を上げたのが、昭和25年(1950)7月設立の庄内民俗学会であった。『庄内民俗』復刻合本(昭和57年11月)に、「庄内民俗学会設立趣意書」が次のように載っている。
  限られたことがらだけしか記録されてゐない文献や古文書だけをたよりとして国のあゆみをたどり、日本人本 来の姿を考へることは殆ど不可能に近いといはなければなりません。それは、記録というものの性格が、なにか 異常な事件があった場合や、英雄・豪傑といった特殊の人物の動静に関してのみつくられるというところに原因 があります。民俗学はその欠陥を補い国民の大部分を占める一般庶民の日常生活―言語・風俗・人情・信仰・経 済・社会組織等の変遷を知り、現代を反省しようとするものであります。したがって、この学問の方法は実証的 であり、比較研究の学として、小・中・高等学校を通じて新教育の最も重要な教科とされている社会科の学習に は、この学問の寄与に俟たねばならぬ部分の多いことも既に認められているところであります。
  由来、東北地方は民俗学的資料の宝庫といわれて居り、今は故人となられた藤原相之助氏や、佐々木喜善氏を はじめとして、小井川潤次郎・森口多里・山口弥一郎・高木誠一・岩崎敏夫の諸氏のごとき、すぐれた民俗学者 が、それぞれの研究を発表して居られますし、中央で活躍して居られる瀬川清子女史や能田多代子女史もまた東 北の出身であられます。わが荘内地方でも、古くより多くのすぐれた郷土史家を輩出して居ますし、早くから日 本民俗学の門にはいられ、研究に精進して居られるかたも決して少なくはありません。しかし、これらのひとび とが互ひに連絡し、協力しあって学問を進めてゆくための組織は、遂ひにつくられずにしまいました。民俗学研 究を同じく志した者たちが、相孤立して、ひとりひとりの殻にとぢこもってゐるということは、実に奇妙な話だ といわなければなりません。そして、お互ひに遠慮しあってゐたのでは、いつまでも連絡の途はつかず、協力の 方法もみつかりません。そう考へまして、おこがましくも私たちが発起人となって荘内民俗学会を組織しようと するにいたりました。なにとぞ、この趣旨に御賛同のうへ、多くのかたがたが、この会に参加してくださいます やうに切望するものであります。
     昭和二十五年七月    庄内民俗学会設立発起人(五十音順)
                   山形大学農学部   尾河 和夫
                   鶴岡高等学校内   菅原 兵明
                   狩川中学校内    清野 久雄
                   鶴岡高等学校内   戸川 安章
                   鶴岡家政高等学校内 嶺岸 照子
 会には会長を置かず、代表理事として戸川安章が就いた。会誌『庄内民俗』は36号(平成25年6月)を数え、「五十嵐文蔵先生を偲ぶ」号となっている。なお第34号は「戸川安章先生追悼号」、第35号は「戸川安章・清野久雄先生を偲ぶ」号で、創設期会員の追悼号が続いている。                   (以上、野口)
 戸川安章と清野久雄は、まさに対照的な人柄であり、戸川は羽黒修験の仏教側の中心として、清野は出羽三山神社側から、それぞれ山岳信仰の学問的重要性を民俗学の中に位置づけた。柳田國男の直弟子にあたる世代が山形県の民俗研究の草創期に中心として活躍したことは大きな意義があろう。
 戸川は民俗学研究所解散後の日本民俗学会の混迷期に理事を担当し、鶴岡市の山形大学農学部ではじめての地方開催となる年次大会を昭和43年(1968)に主催したことは、後の民俗学界の展開に大きく貢献した。県内の大学で最初に民俗学の講義が設けられたのは県立米沢女子短期大学であり、戸川が担当した。その後は置賜の奥村幸雄から武田正に引き継がれ、現在は岩鼻通明が担当している。
 また、山岳修験学会の全国組織化に際して、顧問に迎えようとしたところ、一会員として入会すると固辞したことが思い出される。昭和61年(1986)の羽黒山大会では、庄内民俗学会の会員諸氏を率いて、自ら巡見の先頭に立って案内にあたったことも記憶によみがえる。平成4年(1992)の宮古大会での講演が学会会員との最後の場になったかと思われるが、3つのテーマを大会事務局に提示したのだそうで、結局は羽黒修験に関する講演となったのだが、個人的には「庄内のかかの財布」について、お聞きしたかったものだ。21世紀に入って、2回目となった平成15年(2003)の出羽三山大会の折りに、ぜひ会いたいという会員からの声が多く寄せられたのであったが、当時すでに目と耳が不自由であったために、すべてお断りせざるをえなかった。
 その後に岩田書院から全2巻の著作集が刊行されたのだが、最後まで、もう少し手を入れたいと固執された。当初は全3巻の予定が縮小されたことに、いささか不満であったように聞いたが、出版された本を抱くようにして大事にされたという。
 時をさかのぼるが、戸川の昭和49年度柳田賞受賞を記念して、『山形県民俗歴史論集』が第3集まで刊行された。その執筆者には、江田忠、月光善弘、清野久雄、佐藤光民、奥村幸雄、武田正、大友義助、佐藤義則、三春伊佐夫、佐久間昇、佐々木勝夫、五十嵐文蔵、梅木寿雄、木村博、本間勝喜の名がみえる。
 なお、庄内民俗学会の設立発起人で健在であるのが岡田(旧姓嶺岸)照子で、伊勢民俗学会の重鎮として、女性民俗研究者のリーダー的存在である。  (以上、岩鼻)

4 民俗学会の設立(第2期)
(1) 置賜民俗学会の設立
 まさに日本が高度経済成長をひたすら走り続けているとき、そして日本社会が根底から変貌しつつあるとき、庄内民俗学会の発足に15年ほど遅れた昭和40年(1965)代はじめから県内各地に民俗研究団体が設立されていった。
 置賜民俗学会設立について、『置賜民俗』準備号1号(昭和41年1月 発起人 江田 忠・武田 正 山形大学工業短大江田研究室)に、次のように「置賜民俗研究設立趣意書」がみられる。
  日々失われてゆく旧い風俗や慣習は、現代の社会に必要でなくなったのかもしれません。しかしその旧いもの が私達の生活の基底である生活感情や生活様式の中に根づよく残っているとすれば、私達はどうしても解明しな ければならない義務を、日本人として持っているのではないでしょうか。
  置賜は民話のふるさととも云われています。すぐれた民芸品をも多く持っています。
 民具の中には芸術にまで達しているものも見られます。しかし今迄の「民俗研究」はともすれば地方の研究者・ 愛好家の個々の研究・採集によって支えられて来たともいえます。それは更に個々の研究者・愛好家の負担によ って行われてきたといえます。このことはまた好事家的な面をまぬがれなかったともいえましょう。
  ここに、この地方の研究家・愛好家をもって、結束して、より広範囲に研究を進めて行くために、「置賜民俗 研究会」を設置したいと考えました。
 会報「置賜民俗」準備号は第2号まで確認されるが、「置賜民俗」第2号(置賜民俗研究会)の発行が昭和40年(1965)4月1日発行となっており、会の活動はこの年から本格的にはじまっていたのだろう。同第4号(昭和40年7月15日発行)に理事・幹事新任記事があり、会長には江田忠(山形大学教授)が就いている。なおこれら会報の発行は武田正がみずから鉄筆で原紙を切り謄写版で刷って発行した。置賜民俗研究会は置賜民俗学会と改められ、会報「置賜民俗」第13号(昭和43年1月7日発行)は置賜民俗学会発行となっている。加えて年報『置賜の民俗』も発行されていく。昭和62年(1987)9月発行の年報『置賜の民俗』は、20年間にわたり発行してきた会報「置賜民俗」から主な記事を採り再録した「二十周年記念号」である。会長武田正が「二十周年を迎えて」のなかで「年報『置賜の民俗』を発行し毎年夏に民俗基礎調査を会独自に、あるいは置賜の市町の援助を得て実施し、年報に報告する活動を継続してきた。この際二か月に一度程度会員の連絡紙として、ガリ版で武田が「置賜民俗」を刷って会員に配布してきた。」と綴っている。現在『置賜の民俗』は第18号(平成24年12月発行)を数える。                           (以上、野口)
 昭和42年(1967)に刊行された『置賜の民俗』第2号のあとがきには、「山形県民俗学会が生れ、新庄にも最上地方民俗の会があり、全県下一本になることも将来考えてみなければならないだろう」と記されている。
江田忠は、大正2年(1913)に朝鮮半島で生まれ、昭和10年(1935)に京城帝国大学を卒業後、法文学部宗教学社会学研究室の助手として、朝鮮半島の民俗文化研究を手がけた。終戦後に米沢へ帰郷したが、引き揚げ時に調査資料を持ち帰ることができなかったために、戦後は米沢女子短大と山形大学工学部短期大学部(工学部Bコース・教養部分室の前身)で教育社会学の研究教育に就いた。著書に『くらしの中の教育』みどり新書の会、昭和49年(1974)などがある。
 武田正は、昭和5年(1930)に上山市で生まれ、山形大学文理学部を卒業後、高校教員を経て、筑波大学の民俗学研究室に助教授として赴任、教授に昇任して定年退職後の平成5年(1993)に山形女子短期大学教授として山形県に戻った。膨大な昔話の聞き書きを謄写版印刷で刊行したが、それらは山形短期大学民話研究所によって、活字に翻刻された。
 置賜地方において、もうひとつの民俗学の調査研究の拠点となったのが、農村文化研究所である。昭和51年(1976)に研究所は設立され、昭和53年(1978)に刊行された「農村文化論集」第1集には、江田忠、徳永幾久、飯島吉春、船橋順一、武田正が執筆している。米沢市六郷にある研究所内には、多くの民具類が展示され、屋外には飯豊山・出羽三山参り前の精進潔斎に使われた行屋が保存展示されている。
 この研究所の主催で、毎年8月第1土曜日に農村文化ゼミナールが置賜盆地で開催され、設立当時から民具調査に来訪を重ねてきた神奈川大学の佐野賢治教授がコーディネーターを務め、平成25年(2013)で26回を数えた。       (以上、岩鼻)
(2) 最上民俗の会の設立
 最上地方民俗の会は昭和41年(1966)12月20日に『最上地方民俗』第1号が発行された。会長を大友義助とし事務局は会長勤務校新庄北高等学校に置かれた。編集責任は若くして亡くなった佐藤義則であった。佐藤も武田と同じように原紙を切り、謄写版で刷って発行した会誌は17号まで続くも、昭和45年(1971)4月、大友の山形県立博物館転出により中断したが、昭和52年(1977)最上地域史研究会として復活した。
 大友義助は昭和4年(1929)東根市に生まれる。山形大学教育学部卒業後山形県内の高校教員をし、昭和57年(1982)4月、3度目の山形県立博物館勤務は館長として赴任した。大友館長在職中の4年間に山形県内各民俗研究団体は連携を強めていく。山形県民俗研究協議会設立(昭和60年)や村山民俗学会発足(昭和61年)は大友館長在職中に実現したものである。大友は山形県文化財保護審議会会長などを務めた。
(3) 山形県民俗学会の設立
 同じ昭和41年(1966)に山形県民俗学会が発足した。『山形 民俗通信』会報第1
号(昭和41年12月 発行所 山形県民俗学会 山形市七日町)には次のような設立時の記事が載っている。
   設立総会開催 午後から記念講演・第一回研究発表会
   今春以来山形県内の研究家、同好の士を総合した山形県民俗学会を結成しようという動きが起り、丹野正氏 を中心として、その準備が進められていたが、去る十月八日に設立委員会が開かれた。その決定にもとづき、い よいよ山形県民俗学会総会が十一月十三日に山形東高等学校定時制物理教室で開かれた。当日県外県内各地から 集まった三四名の会員と、その接待や会場の応援に駆けつけた団体会員上山高等学校郷土研究部の生徒十数名を 合せて五十余名の参会で開催された。
 会長には丹野正が就任する。丹野は大正5年(1916)生まれ、早稲田大学を卒業。丹野旅館を経営しながら母校の非常勤講師をつとめた。在野の民俗研究家として幅広い取材活動を行い、とくに民俗芸能分野の調査研究に力を尽くした。丹野は、昭和12年(1937)11月民間傳承の會発行の『採集集帖 沿海地方用』を残している。そのなかに、高瀬村切畑(現山形市切畑)に伝わっている節分時のはやし言葉、「何んたっく七草たっく 唐土のいはとの七草たっく 福は内福は内 鬼は外 天打つ地打つ四方打つ 鬼の目玉打つつみせ」など、地域でのさまざまな採録がみられる。会誌『山形民俗通信』は第13号(昭和61年3月発行)をもって廃刊となった。                    
(4) 酒田民俗学会の設立
 昭和48年(1973)7月に、戸川安章・丹野正・清野久雄の指導のもと、長沢俊雄を会長に酒田民俗同好会(仮称)が発足した。昭和61年(1986)に酒田民俗学会と名称を変えた。平成元年(1989)には4代目会長に佐藤昇一が就く。会誌『酒田民俗』第1号は平成3年(1991)に発行され、以来第6号(平成25年5月)を数える。

5 民俗学会の設立(第3期)
(1) 山形県民俗研究協議会の設立
 昭和59年(1984)10月、第1回県民俗研究発表会が大友館長ら有志の呼びかけにより山形県立博物館で開催された。終了後の懇談会で県民俗研究協議会の結成が話題になった。翌年5月、東北生活文化学会理事会(会長戸川安章 事務局米沢女子短大)で県民俗研究協議会設立のことが議題となり、設立時には連携していくことが確認された。昭和60年(1985)8月、第2回県民俗研究発表会が東北生活文化学会研究発表会との合同で、県立博物館で開かれた。ここで、参加者の総意によって山形県民俗研究協議会が設立され、会長に戸川安章が就任し事務局を県立博物館に置くことが確認された。この協議会設立の目的は、各民俗研究団体が主体的な活動をおこないながら相互の情報交換をはかり、研究発表や会誌の発行により交流を図ろうとしたものである。協議会設立には大友館長の尽力によるところが大きかった。会誌『山形民俗』創刊号は武田正の努力により昭和62年(1987)3月に第1号が発刊された。以来平成24年(2012)年の25号までが発行されている。武田正は『置賜の民俗』第14号(昭和62年9月)「二十年を迎えて」のなかで、「庄内、最上、村山の各民俗会と共に山形県民俗研究協議会を結成し、協議会としての研究誌『山形民俗』が発行されるほどにまで成長したことを喜びたい」と記している。          
(2) 村山民俗学会の設立
 山形県民俗研究協議会設立にあわせ、村山地区に民俗研究団体をつくろうとの動きが高まっていった。昭和61年(1986)年2月、山形県立博物館で村山地区民俗研究会設立について話し合いがもたれ、同年4月に同館で設立総会が開かれた。会長には東北の一山組織の研究家である月光善弘(山形女子短大教授)が選出され、会の名称は村山民俗の会と決まった。設立総会時の記念講演には、山形県民俗研究協議会会長・庄内民俗学会代表理事戸川安章が「祖霊のゆくえ」を講演した。月光は戸川の後、第二代県民俗研究協議会会長に就く。会活動の特色である会報は第1号(昭和61年7月26日)から264号(平成25年10月1日)を数え、2度にわたり合本復刻版が刊行されている。会誌は27号(平成25年6月30日)を数える。村山民俗の会は平成5(1993)年度から名称を村山民俗学会に改めた。
 平成18年(2006)10月14日(土)~16日(月)日本民俗学会第58回年会が山形大学小白川キャンパスを中心に開催された。当会の岩鼻通明が実行委員会事務局長として準備にあたり、県民俗研究協議会をはじめ山形大学・東北芸術工科大学学生の手伝いを得ながら大会を成功裏に導いた。なお当会では同年7月16日、霞城セントラルにて日本民俗学会第58回年会プレ・シンポジウムを開催した。
 平成3年(1991)東北芸術工科大学が山形市に開学し、山形県内大学で唯一民俗学の専任教員が在籍している。山形県民俗研究協議会元事務局であり、村山民俗学会幹事の菊地和博が東北文化研究センター准教授(民俗学/現東北文教短期大学教授)として赴任した。東北文化研究センターは田口洋美センター長のもと、「東北学」を定期的に刊行してきている。                       (以上、野口)
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2011年山形国際ドキュメンタリー映画祭シンポジウム「異郷と同胞ー在日コリアンを通してみる日本」記録

2013年06月13日 | 日記
 山形国際ドキュメンタリー映画祭の参加企画の一つとして、10月12日(水)午後3時から、山形まなび館イベントルーム1にて、シンポジウム「異郷と同胞-在日コリアンを通してみる日本」Fellow Countrymen in a Foreign Landが開催されました。残念ながら、時間が取れず、映画そのものを見ることはできませんでしたが、シンポジウムで監督の話を聞くことができました。
 お二人ともに、人を見つめる視線が穏やかで心の柔軟性を持っておられる一方、人として譲れない線がはっきりしておられる印象でした。また、文化の多様性を強調されていることに、AALAの理念と共通するものを感じ、興味深くお聞きしました。前日行われた山大9条の会講演会で、雨宮処凛さんと土屋豊さんが強調されていた、違いを認めることの大切さ、大きなものの前で無視される声に焦点を当て続けるという姿勢に同じものを感じ、貴重な2日間となりました。
 山形国際ドキュメンタリー映画祭は、AALA各国の情報の宝庫ということを改めて感じました。次回は、本格的に観客として参加してみたいと思います。また、フィルムライブラリーの紹介本『異郷と同胞 日本と韓国のマイノリティー 山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー・セレクション第2集』山形大学出版会、もありますので、皆さんもご活用下さい。
 以下は、シンポジウムの内容です。できるだけ、監督の言葉をお伝えする形の報告とさせていただきました。長くなりますが、ご容赦ください。

*************************************** 
パネラー
☆松江哲明氏(映画監督)~1977年、東京立川市生まれ。日本映画学校の卒業制作として、韓国系日本人の家族のルーツを孫の視点でたどった『あんにょんキムチ』を企画・演出。今回、12年ぶりに山形で上映。

☆金明俊氏(映画監督)~1970年釜山生まれ。漢陽大学校演劇映画学科を卒業。今回、上映された、北海道の朝鮮学校に焦点を当てた『ウリハッキョ(私たちの学校)』は監督デビュー作。
☆岩鼻通明(山大農学部)

☆ コーディネーター:松本邦彦(山大人文学部)

1.パネラー(岩鼻)から作品の紹介
「あんにょんキムチ」~在日問題のベースがきちんと描かれている。韓流ブームの始まりになった作品の一つとも言える。日韓交流のきっかけになった。
「ウリハッキョ」~韓国ドキュメンタリー映画としては、かなり観客動員した。日本における教育のありかたに興味を持ち、韓国の先生方がかなり見た。「ウリナラ(私たちの国)」の「ウリハッキョ」が(日本に)あるという共通認識がなかった。日本人も朝鮮学校の実態がよくわかっていない。日本でも韓国でも先入観をもたれていた。朝鮮学校の実態、朝鮮のことを韓国の監督が撮るのは大変なこと。監督の作品の中で、監督自身が新潟港で南北分断を実感するシーンがある。日本の中の見えない38度線。日本の中で38度線がどこにあるかあまり知られていない。山形は38度線より北にある。

2.自分の作品について
【松江監督】まさか、12年後も上映されると思っていなかった。とりあえず、卒制として撮った作品。山形映画祭がきっかけでここまでこれたのは、観て頂いたお客さんのおかげ。ありがたいと思っている。(当時は)是非もわからず、そのとき強く残ったものを写した。それは、12年経っても、不変的なものだった。今、~系日本人というのは考えにくい。日本は国籍イコール血族だが、日本も多民族化し、そうではなくなってきている。単純に、在日とはいえなくなってきている。(映画は)誰でもわかる内容。映画祭でそのことがわかった。山形に来ると、独特の人の雰囲気がある。(映画祭は)いろんな国の現実を見ようとしないとこれない。このことは、多様性を認めることにつながる。
【金監督】学校の中では韓国語、家では日本語という、帰ってからの子どもたちを知りたかった。2004年、日本と朝鮮は、拉致問題・ミサイル問題等の余波があり大変だった。インターネットでの嫌がらせなど。今もいろいろな問題がある。2004年の状況と変わっていない。朝鮮学校の存在はどういうものかよくわからない。このような映画がたくさん制作・上映されなければならないと思っている。

3.お互いの作品について
【松江監督】初めて観たが、感動したのは、撮れないということを目の前にして(監督が)学生との距離を感じたというところ。映像も撮れなくなったときに初めて何かを知るということが大事だと思った。TVなどは撮れているところだけで表現する。この作品は、監督と近い視点で観れ、その伝え方に感動し、監督が撮れなくなってから見え方が変わった。学生に撮ってもらっているが、学生の撮り方は視点が違う。自分も被写体に任せることがあるが、そこでしか撮れない映像がある。被写体へのアプローチの仕方、作り方が(自分と)共通している。「お兄さん」という学生の呼び方が、3年という短い時間を感じさせない。近い関係になっている。
【金監督】初めて観た。16㍉フィルムなので、古いのかと思っていたがそうではなかった。アイデンティティに関する映画はたくさん観たが、憂鬱で暗い、悲しい映画ばかりだった。(自分も学生たちの姿を)仲間同士で楽しく、ありのままに撮りたかった。悲しくはしたくなかった。そうしなければいけないと思っていた。99年に、明るく発信するという自分の思っていたもの(「あんにょんキムチ」)ができていたことがうれしかった。親近感が湧いた。軽くて、明るい。家族の明るさをうまく監督が引き出したと思う。すごく前向きな方というのを感じた。もっと、早く観ればよかったと思っている。最新のものも観たが、監督の成長を見た気がして、12年間のことが気になった。

4.双方への質疑
【松江監督】(在日問題は)暗い一辺倒の描かれ方、ステレオタイプな描かれ方が多かった。そもそも、うちは違うのに、というのがきっかけ。祖父たちの体験は大変だったが、自分の実感は違った。このような映画を撮って、上の人から韓国で何か言われなかったか。
【金監督】韓国では、朝鮮学校という存在すら知らない。今、話されたことを話せるレベルではない。(自分も)「なぜ韓国人なのに韓国語を話せないのか」「なぜ日本人に帰化しないのか」と思っていた。無関心・無知かもしれないものの結果。マイナスに撮らないで、肯定的に撮っている。明るく堂々と発信すべきだと思っている。
【松江監督】『ウリハッキョ』は、いろんな可能性を提示している。一つは、描かれ方の目線が違う。多くは(北朝鮮のことを)暴こうとするものや高い位置で見ているもの。この作品で提示されているものは、学校の中でもいろんな国籍があり、修学旅行に行かないことも認められる。それでも、みんなが学んでいてユートピアのよう。しかし、校門から出たら学生たちが緊張感を持っていることがわかる。一方的に見られがちだが、そこには多様性がある。世界が求めるべきものがそこにある。朝鮮語(韓国語とは違うとのこと)がうまくミックスされているのがいいと思った。朝鮮学校を通して、世界中が認めるべき多様性がそこにあった。「お兄さん」と学校で紹介してもらって、家族のように過ごした雰囲気が出ている。カメラの位置が近いのは、どうやって撮ったのか。
【金監督】ファインダーをのぞかずに撮った。撮影監督としての欲は捨てた。学生たちは、自分の親を認めてくれる人、学校に来る人には親しみを持つ。(「あんにょんキムチ」に)万歳をするシーンがあるが、どんな気持ちだったのか。自分には、ちょっと理解できなかった。
【松江監督】そこには、日本人のスタッフもいたので、その場の雰囲気でそうなったが、何かおかしいなと思った。
【金監督】自分の国に行くときの気持ちは。
【松江監督】初めて行ったのは小学生のときだったので、国に帰る気持ちはなかった。日本人のツアーで行った。 自由時間に、ほかの人が観光しているのに親戚に会いに行くのが変だと思った。事情を知っているガイドの接し方も違った。20年以上前で、当時は厳しい面もあった。韓国語を覚えなさいと言われた。世代によっても違う。今は、(状況が)全然違う。
【金監督】今も、同じだと思う。「韓国は暗い」というのを同胞(おじいさん)の口から聞くのが恥ずかしかった。先輩たちのやってきたことがそう思われるのが。
【松江監督】当時(13年前)は、暗かった。「アイデンティティ」という作品では、(主人公が)家の中に38度線があるといって、一緒に暮しているのに親と口もきかない。韓国に行ったら、(朝鮮語の)話し方が子どものように聞こえるらしく、子どものような扱いをされるので、話したくないという。(北朝鮮の言葉は)古い言葉らしい。
【金監督】自信を持って、国に行ってほしいと思う。
5.コーディネーターから
Q:韓国は婿養子の制度がないので、祖父と父の苗字が違う。松江監督の苗字は祖父のこだわりなのか。
【松江監督】母は、そのように言う。

5.会場からの質問
Q:自分も映画を撮っている。父は、在日で障害もあるが、税金を払っているにも関わらず無年金。現在、その運動を行っている。父が在日ということが母方の親戚にばれて、自分はおろされそうになった。母方の家は、朝鮮人をたくさん使っていた会社だった。89年頃。20年以上前の出来事。民族教育も受けていない。父に、先祖に興味はないと言われた。3世以降は数の問題。日本人との結婚が9割。4世・5世と、どんどん朝鮮人以外の血族になる。昔の北朝鮮のことを信じられない人が増えてきている。朝鮮学校の中・高生は、朝鮮大学校に行き、総連に勤めるしかないのではないか。
【金監督】朝鮮大学校にしか行けないというのは違う。小学校から中学校、中学校から高校にあがるときも自由。20年前の朝鮮学校は偏った教育だったが、今は、全然違う。韓国語検定試験を先生方が受けている。文化も同じ。先生方の教え方も同じ。一度、行ってみたら誤解が解けると思う。

Q:自分は、二重国籍なので、日本名でもいいと思って名乗っている。変化しているとは思いつつ、総連のもとの学校なので、(学生たちが)悩んでいないのかなと思った。
【金監督】日本国民の天皇に対する態度はおかしいと思う。でも、韓国ではないから認める。保守的な韓国人や日本のマスメディアが、金日成などに対してそういう(特定の?)見方をするのかがわからない。
【松江監督】国や考え方が違っても、認めるということだと思う。

Q:「あんにょんキムチ」~同調圧力で「くしゃみも日本人にならなければならない」。日本社会が持っている一方的な部分を笑いで切り出していると思った。「ウリハッキョ」~新潟での出来事(子どもたちへの攻撃)をみて、子どもたちは何もしていないのに、誰が朝鮮を背負わせているのか。同じ日本人として怒りを感じた。こういう映画がもっと作られてほしいと思った。
【松江監督】3・11(大震災)のとき、韓国にいた。いろんな人が助けてくれた。感謝し、居心地はいいと思っても、そこで自分は韓国人とは思えなかった。新潟港でのことは、知らないからそういうことを言うのだと思う。普通に生きている人が、そういう(子どもたちを傷つけるような)言葉を発する。しかし、日本人として悲しいと思わなくていいと思う。知らないから(言葉の)暴力が出てくる。学生たちのことをよく知ったら、きっと悪かったなと感じると思う。

Q:10年前に「シュリ」を観た。韓流ブームの前。当時は公民館とかでの上映だった。運動していた人たちが上映していた。会場で「本名は?」と尋ねられる。日本人だと言うと、「隠さなくてもいいから」と何度も言われた。会場に来たのも「血が呼ぶから来たのだ」とも言われた。映画と運動がなぜ一緒なのかと思った。また、当時、「面白い映画があるから」と誘われて拉致されたという話もあり、映画を見に行くというと親が心配した。ヨン様が来てからは、そう言われなくなった。2005年の映画祭では、もっといろんな在日の映画があったと思う。山形だからできる。先日、NHKで「大阪ラブ&ソウル」という番組を見て、80年代の古い雰囲気があり、なぜ今頃と感じたが、そうカテゴライズするのは第3者であり、そう感じている自分に違和感を覚え、これはマズイと思った。在日と映画については、世代によって描き方が変わるのではないかと思う。これから、どうするかが気になるところ。
【松江監督】映画は、結局は古いもの。古臭いものはずっとある。自分は、震災以降、新作を見なかった。(震災に関するものなど)答えが描けない、進行形のものは見なかった。逆に四日市の喘息問題を扱った東海TV制作のものを観たが、客が入らない。大きなものを優先するときに、ある声を無視して犠牲にする。だから、古いものを観る。不変的なものがある。自分はマイノリティーという自覚は強い。人と違うものを見ている人を撮りたい。ドキュメンタリーという表現が、それに非常に合っていると思う。聞こえない声を撮るのがドキュメンタリー。
【金監督】同感です。

Q:「ウリハッキョ」を観たが、日本の学校とどこも変わらない。明るい子どもたち。一生懸命な先生たち。質問の一つ目は、「南は故郷、北は祖国」というのは共通認識なのか。二つ目は、ドイツが統一したらドイツ人と呼んだが、南北が統一したら、我々は何人と呼べばいいのか。
【金監督】A:植民地時代、南の人は日本に、北の人は満州に渡ったことから発生した言葉。在日の90%の人は南の出身。祖国が北というのはいろんな議論があるが、朝鮮学校ができるときに、北の大きな支援があった。韓人(ハンニン)という言葉がある。韓国人も朝鮮人も韓人(ハンニン)。国は「ナラ」。国と人は違う。国籍がどこにあるかは関係ない。その人の考え方、世界観が貴重。それをみて、人を判断するのが大事。統一したら、深く良い影響を与えると思うが、ドイツに比べたら恥ずかしい。がんばります。

6.次回作のPR
【松江監督】「トーキョードリフター」は節電中の東京で撮った。暗い東京が良かった。都知事が決まったのが違和感があった。「強い東京を作ってもらいましょう」というコメントを聞いて、何を言ってんだと感じた。「明るさを取り戻そう」という言葉に違和感を感じた。自分は韓国で被災したと思っている。被災地という言葉で分けるのは違和感がある。日本が被災したと思わなければならない。10月下旬の東京国際映画祭でプレミア上映、12月から劇場公開の予定。
【金監督】「ウリハッキョ」を撮ってから、在日専門の監督と言われている(笑)。現在、チリタイムスという名前で、コンサート活動をしながら発信している。そちらが忙しくてなかなか映画を取れないが、在日同胞の野球物語を作ることになった。1952年から1997年まで45年間、600人の高校生が韓国に渡って野球をした。韓国の野球好きの観客は、そのことを知らない。
 以上の記録は、山形大学職員組合の鈴木書記のまとめによるものです。
 なお、私のfacebookの2012年2月1日にも、このシンポの記録と写真をアップしています。
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