山形大学庄内地域文化研究会

新たな研究会(会長:農学部渡辺理絵准教授、会員:岩鼻通明山形大学名誉教授・農学部前田直己客員教授)のブログに変更します。

「出羽三山信仰と秋田」(『秋大史学』61号、所収、2015年3月刊)

2015年06月09日 | 日記
「出羽三山信仰と秋田」秋田大学に拠点を置く『秋大史学』に今春、掲載した論文を編集責任者の了解を得てアップします。原文は縦書きですので、見づらいかもしれませんが、お許しを。

  はじめに
 大学院の修士論文作成以降、ほぼ三〇年余りも出羽三山信仰の地理学的研究を続けてきた。その間、三冊の著書を上梓することができた(一)。その際に立脚点として、心がけてきたことがあった。
 ひとつは、従来の出羽三山信仰研究は、羽黒修験道の宗教学的研究が中心であり、いわば修験者の立場からの研究であった。しかしながら、出羽三山信仰を支えてきたのは、修験者のみならず、広い範囲に拡がる信者の組織化があってこそで、両者の相互的関係から、出羽三山信仰は成立しているのであり、信者側の視点から広域的な地域調査が必要であるとの認識から出発した。
 もうひとつは、近世の出羽三山は「八方七口」の別当寺が同等の祭祀権を有していたのであるが、それぞれ個別に調査研究が行われていたため、それらを総体として考察し、かつ客観的に分析する視点が必要であると認識した。その両方の視点から調査研究を進めてきた。
 ただ、近年は自身の研究テーマを韓国地域研究および映画を通した地域活性化研究へと大きく変えたこともあって(二)、出羽三山信仰に関わる近年の変化などに言及することによって、与えられた論題に代えさせていただきたい。

 一 広域信仰圏の縮小
 出羽三山は東日本一円に広大な信仰圏を形成してきた。この信仰圏は、三山山麓の宿坊の山伏が信仰圏内の信者を組織化することによって維持されてきたのだが、信者の高齢化や都市化にともない、信仰圏が縮小ないし希薄化しつつある。信者の高齢化だけでなく、信仰が若い世代に継承されないといった問題も生じてきている。
 また、三陸沿岸部は、古来、出羽三山の有力な信仰圏であったが、東日本大震災で甚大な被害を受けたことも影響しているとみられる。羽黒山頂の霊祭殿には、震災犠牲者の供養塔が建立されている。
 元来、山岳信仰は豊作をもたらす水源の神として農民の篤い信仰を集めてきたが、農村の都市化や農家の兼業化の進展によって、信仰の基盤が失われつつある。
 近年は、パワースポットや山ガールなどのブームによって、参詣者や登山者が増加している例も散見されるが、信仰の山から観光の山へと変化せざるをえない時代といえよう。近世の月山登拝口は「八方七口」と称されたが、新たに「新八方十口」と名づけた周辺市町村の観光振興の連携も模索されている。

 二 秋田県における出羽三山信仰
 興味深いことに、湯殿山の史料上の初見は、戦国大名の佐竹氏の起請文である。それに加えて、常陸国南部に江戸初期の湯殿山碑が数多く存在することから、湯殿山と常陸国との密接な関わりが指摘されてきた(三)。
 ただ、なぜ山形県から遠く離れた茨城県で湯殿山信仰が早い時期に浸透したのかは、いまだに解明されていない。また、佐竹氏の秋田入部にともない、湯殿山信仰が、どのように秋田へと、もたらされたのかについても定かではない。
 さて、秋田県における出羽三山信仰の特徴的な面は以下の三点といえよう。ひとつは由利郡における女性の羽黒山参りである。羽黒山は前近代においても女人禁制ではなく、五重塔の脇に存在した血の池で越中立山と同じく女人救済儀礼として血盆経奉納が行われていた(四)。
 二〇一四年九月二十一日に、富山県立山町で再現された布橋灌頂儀礼を現地で見学することができたが、これほど大規模な儀礼ではなかったとしても、女性が直接に血盆経を血の池へ奉納できた羽黒山の事例は近世の庶民信仰を具現化したものとして貴重である。
 もうひとつは、農閑期の伊勢参宮の途上での羽黒山参りである。月山と湯殿山は女人禁制かつ夏の開山期しか参詣できなかったが、里山である羽黒山は一年中、参詣者に開かれていた。かつて、雪の積もった石段を山頂まで登ることを試みたことがあったが、不可能ではなかった。北東北からの伊勢参宮道中日記には、しばしば羽黒山に参詣に立ち寄った記述がみられる。
 最後に、鉱山労働者の信仰を集めたのが、西村山郡西川町の本道寺のすぐ東に位置する八聖山である。明治の神仏分離以降は金山神社と称しているが、近世には本道寺の末寺であり、秋田県内の鉱山労働者の信仰は今も続いている。

 三 即身仏
 ついで、即身仏に言及しよう。この課題は私の専攻する地理学から最も遠いものといえるのだが、湯殿山の石碑の分布との関連から問題提起を行った拙稿(五)は波紋を投げかけたものの、従来の見解とは、あまりに議論がかみあわなかった。
 しかしながら、その後に収集した江戸時代の出羽三山参詣道中日記の分析から、越後国寺泊の弘智法印の即身仏を拝観する参詣者は多かったのに比して、出羽三山参詣において、即身仏はほとんど信仰の対象となっていなかったことが判明したのは、先の問題提起を補強したものと考えたい。近年は山澤学氏によって、湯殿山行人に関する史料を踏まえた調査研究が精力的に進められており、その実態が解明されつつある(六)。
 なお、秋田との関わりでは、菅江真澄が天明四年(一七八四)九月十九日の日記において、即身仏の評価に触れている。当時既に存在していた湯殿山系の即身仏である酒田の海向寺の忠海上人および東岩本の本妙海上人の即身仏を、弘智法印には及ばないと明言していることは興味深いものがあり、当時の世評を反映したものと理解できよう。以下に日記から当該箇所を引用しよう。
「七日町やどつきたり(中略)あるじのもの語を聞ば、こ    の里の開口寺、又岩本といふ村のみてら、此ふたところに、越後の国野積の山寺にて、「墨絵にかきし松風の音」とよみ給ひてけるにひとしき、いきぼさち(生菩薩)もおましませりと聞えたり。こはみな、木の葉、草の実をくひものとしてをはりをとりて、なきがらのみ世にとゞめたる也けり。しかはあれど、弘智大とこには、をよばざりき」(七)。
 旧論では、いささか誤解していたのであったが、菅江真澄は鶴岡の宿で主人から、当地の即身仏について伝聞したのであり、全集の脚注にも記されているように、実際には拝観していなかったと思われる。当時に「生菩薩」という表現が使われていたことは興味深い。 

 四 出羽三山信仰と鳥海山信仰
 出羽三山の縁起でも、かつて三山のひとつに鳥海山が含まれていたことを示すものがみられるが、立山と白山との関係と同様に、月山と鳥海山には共通する地名や伝承などが散見する。
 たとえば、近世の月山で天台宗と真言宗の境界となった「装束場」という地名が、鳥海山にも存在し、その場所はおそらくは宗教上の境界であったことを論じた(八)。現在でも、県境線は鳥海山の山頂より北側へ、はみ出すように引かれているが、これは近世の宗教上の境界を反映したものとみてよかろう。
 これまでは、出羽三山信仰と鳥海山信仰は別の次元で、調査研究されることが多かったが、両者の比較研究が今後の課題となろう。

 五 文化財保存
 出羽三山は山形県の推進する世界遺産登録の中核に位置付けられ、筆者も山形県の世界遺産に関わる委員会の委員となって、この運動に取り組んできた。
 ただ、途中から出羽三山に代わって最上川が登録の中核となったのであるが、文化庁の暫定登録リストから外れ、知事が交代したことから、世界遺産登録は棚上げされることとなった(九)。
 その一方で、最上川を重要文化的景観として重要文化財指定をめざす試みは継続され、二〇一一年度末に報告書が刊行されるに至ったが、指定には、まだ数年以上を要すると思われる。
 その過程で、鳥海山における文化財登録に進展はみられたものの、一方で出羽三山に関わる文化財登録が十分とはいいがたいことが明らかになった。たとえば、羽黒山の門前町である手向集落に立ち並ぶ茅葺き屋根の宿坊の街並み景観は、重要文化財の一角を占める重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けるに十分な資格を有していた。
 実際に、一九九〇年代に街並み調査が実施されたものの、指定に向けた動きはみられないまま、現在に至っている。その間に、貴重な茅葺き屋根の景観は櫛の歯が抜けるように減少しつつあり、今はわずか四軒を数えるのみという。宮城県村田町の蔵の町並みの指定により、東北六県で、伝統的建造物群保存地区の指定が皆無であるのは、ついに山形県のみになってしまった。
 それもあって、旧羽黒町を含めて広域合併した鶴岡市では、新たな街並み保存に向けた取り組みを始め、通称歴史まちづくり法に基づく「鶴岡市歴史的風致維持向上計画」を策定し,山形県内初の認定を二〇一四年に受けた。実施計画期間は二〇一五年度からの十年間であり、重点地区に門前町手向が含まれていることから、今後の保存修景と活用が期待される。

 六 神仏分離
 研究上の取り組みが、いまだ困難な側面を有しているのが、神仏分離の実態解明といえよう。神仏習合であった霊山が、明治初期に神道と仏教に二分されたまま、現在に至っている。
古来の羽黒修験道の秋の峰入り修行もまた、神道と仏教に分かれて、それぞれ別個に実施されている。 
 新世紀を迎えて、高齢化や第一次産業人口の減少にともなう信仰の変化も大きく、いわば神道と仏教が一体となっての出羽三山信仰の立て直しが必要な時期を迎えているといえよう。
 前述の世界遺産登録運動も、それによって観光客の増加を期待する部分があり、昨今のパワースポットのブームなどは、おそらく一過性のものに過ぎないであろう。毎年八月下旬に実施される羽黒修験の峰入り修行は多くの参加者を集めてはいるものの、それが信仰を広めることにさほど貢献していない状況にあるといえよう。
 修行の動機が布教ではなく、自己鍛錬的なものに変容しているからであり、それはやむをえない情勢かもしれない。かつては峰入り修行に参加することによって修験の資格を得た宗教者が信仰の拡大に寄与してきたのであるが、現代においては両者が有機的に結びついていない。
 宗教者にとって、百年以上が経過した今でも、神仏分離のわだかまりは消えてはいないようであるが、出羽三山信仰の将来像にとっても、神仏分離を歴史的に位置付ける作業が必要な時期に来ているのではなかろうか。
 近年の研究動向として、三山神社第二代宮司の子孫による論考がWEB上に発表されており、当方の研究室所属の大学院生の手による論文も公表されていることから、今後の新たな展開が期待される(十)。

  おわりに
 秋田県内にも、ローカルな山岳信仰が存在し、それらは出羽三山信仰や鳥海山信仰と重層的な構造を有している。それらの関係を地理学の立地論的立場から解明することが課題として残されている。
 村落共同体の内部には、様々な宗教的講集団が組織化されており、それらの空間的相互関係を検証していくことによって、重層的な山岳信仰相互間の空間構造が明らかにされることを期待して、結びに代えたい。

 注
(一)拙著『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』名著出版、
一九九二年。『出羽三山の文化と民俗』岩田書院、一九九六年。『出羽三山信仰の圏構造』岩田書院、二〇〇三年。
(二)拙稿「朝鮮半島と東北文化の歴史的交流」山形県地域史研究三十二、二〇〇七年。拙著『韓国・伝統文化のたび』ナカニシヤ出版、二〇〇八年。拙稿「被災地をめぐる現代民俗―映画館の観客アンケートを通した試論」村山民俗二十七、二〇一三年。
(三)拙稿『常総・寛永期の大日石仏』の刊行によせて、村山民俗一七、二〇〇三年。
(四)拙稿「旅日記にみる羽黒山の女人救済儀礼」村山民俗十三、一九九九年。
(五)拙稿「湯殿山即身仏信仰再考」歴史手帖一三―八、一九八五年(拙著『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』名著出版、一九九二年、所収)
(六)山澤学「湯殿山山籠木食行者鉄門海の勧化における結縁の形態」(地方史研究協議会編『出羽庄内の風土と歴史像』雄山閣、二〇一二年。
(七)『菅江真澄全集 第一巻』「あきたのかりね」所収、未来社、一九七一年。
(八)拙稿「鳥海山の境争論と装束場」山形民俗二十二、二〇〇八年。「宗教と境界―飯豊山・鳥海山・蔵王山を事例として」地図情報一一六、二〇一一年。
(九)拙稿「出羽三山と最上川が織りなす文化的景観まんだら」庄内民俗三十四、二〇〇八年。「山形県と世界遺産」村山民俗二十三、二〇〇九年。
(十)渡部功「出羽三山における神仏分離」山形鶴翔同窓会HP、二〇一一年。難波耕司「出羽三山の神仏分離」宗教民俗研究二十一・二十二、二〇一三年。
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山形県の即身仏 致道博物館土曜講座より(2014年10月)

2015年06月05日 | 日記
 2015年6月にNHK「歴史秘話 ヒストリア」で放送された即身仏に関する番組は、いくつもの問題点を含むために、昨秋の講演要旨に要点を加筆して、私見を述べたい。なお、同時にアップした『秋大史学』の拙論も参照されたい。

1.はじめに
・即身仏に関する拙稿
「湯殿山即身仏信仰再考」歴史手帖13-8 1985.8. p.32-39.
. 「大網地すべりと大日坊の移転」庄内民俗30 1991.10. p.1-9.
『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』名著出版,1992.2. 270p.に上記2論文を所収

2.湯殿山行人碑の分布と年号
庄内地方各地に建立された石碑から即身仏となってからではなく、生きて活動した
宗教者としての行人が信仰を集めたことが明らかに。

3.既往の即身仏研究
『日本ミイラの研究』平凡社、1969.
佐野文哉・内藤正敏『日本の即身仏』1969.
戸川安章『出羽三山のミイラ仏』1974.
松本昭『日本のミイラ仏』臨川書店、1993.
内藤正敏『日本のミイラ信仰』法蔵館、1999.
畠山弘『湯殿山と即身仏』2001.
・土中入定を自発的とする堀一郎説を踏襲
・飢饉と土中入定を関連づける内藤説

4.一世行人と即身仏
即身仏=一世行人だが、一世行人>即身仏
湯殿山行人碑の建立年→多くが行人の生前
即身仏になっていない行人の銘文多数
即身仏信仰というより生身の行者への信仰
3年3ヶ月の土中入定→飢饉を予測できず
土中入定の確証がある即身仏は皆無
『日本ミイラの研究』では、新潟大学医学部の実地調査によって、調査した全ての即身仏に死後加工の痕跡があることが明記
高温湿潤な日本の気候環境下では不可能
内臓を除去してから乾燥させる死後加工を施さねばならない必然性

5.江戸期の即身仏拝観

江戸期の著名な即身仏→越後の弘智法印
湯殿山の即身仏に関する拝観記録
置賜からの夫婦の道中記で注連寺の鉄門海
を拝観、女人禁制と関連するか
菅江真澄遊覧記には、東岩本の本明海は弘智法印に及ばずと明記
多くの道中記で、弘智法印を拝観している記録がみられるが、湯殿山系は上記2例のみ

6.神仏分離と即身仏
神仏分離にともない、寺院としての存続の道を歩んだ注連寺と大日坊は湯殿山の祭祀権を喪失
西川須賀雄宮司による三山祭祀権の羽黒山への統一(八方七口の対等な祭祀権の消滅)
蜂子皇子を開山者として明治政府が認定し、
羽黒山頂に宮内庁管轄の墓所が設置
湯殿山に代わる本尊として即身仏を前面に

7.一世行人への注目
山澤学氏による湯殿山行人に関する精力的な研究
「17世紀越後国における湯殿山行者の活動」日本史学集録22,1999.
「18世紀信濃国における出羽三山修の存在形態ー佐久郡の湯殿山行人を中心にー」信濃61-3,2009.
「19世紀初頭出羽三山修験の覚醒運動ー湯殿山・木食鉄門海の越後布教を中心に」社会文化史学52,2009.
庶民の信仰を集めたのは、生きて宗教活動を実践した行人であったことを実証的に論じた

8.湯殿山行人の活動
山澤学「湯殿山山籠木食行者鉄門海の勧化における結縁の形態」
『出羽庄内の風土と歴史像』地方史研究協議会編、2012.
鉄門海は、いわばスーパー一世行人!!
鉄門海以前と鉄門海以降を区別する必要

9.飢饉と千日行
湯殿山行人の千日行と比叡山千日回峰行
比叡山は百日の回峰行を十年間続ける
湯殿山は千日山籠行 2回は冬を過ごす
温泉の湧き出している湯殿山でこそ可能
行人仲間や寒参りの信者のサポートが必要
飢饉は、このようなサポートを不可能にした
飢饉と即身仏の関係は真逆ではないのか?
餓えに苦しむ庶民を救済するためという仮設は成立せず、逆に山野での木食行が不可能になったと想定することが自然な理解

10.おわりに
庶民を救うための入定という俗説は証明不可能
史料に依拠した考察の必要性
研究者相互の論争の必要性
縁起、伝承と史実(偽文書の排除)の区別
幻想をふりまくマスコミ(2時間ドラマ・小説・随筆など)

 以上、今回のNHK「歴史秘話ヒストリア」の放送に関連して、アップしました。




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