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山形大学庄内地域文化研究会

新たな研究会(会長:農学部渡辺理絵准教授、会員:岩鼻通明山形大学名誉教授・農学部前田直己客員教授)のブログに変更します。

長野県戸隠高原の三十年~信仰と観光のはざまで~(「山形民俗」20、2006年、より)

2015年04月18日 | 日記
 一 はじめに
 筆者は、長野県戸隠村(二〇〇五年に長野市と広域合併)中社集落におけるインテンシブな現地調査を、一九七五年以来、一九八五年、一九九五年、二〇〇五年と継続的に行い、過去三度の調査データについては、文末の参考文献に記したように、既に論文にまとめて活字化した。
 その大まかな特徴を指摘すれば、七五年までは発展期、八五年までは停滞期、九五年までは下降期、〇五年までは構造転換期ということができようか。この間、一九九八年には長野冬季五輪が開催されたが、戸隠村の地域振興への直接的な寄与貢献には乏しかった。むしろ、五輪に向けて整備が進んだ長野新幹線や高速道路などの高速交通網は、北信地域を首都圏からの日帰り観光圏に取り込む役割を果たしたといえよう。
 本稿においては、二〇〇五年に行った現地調査のデータを中心に、戸隠高原の三十年間の歩みを総括し、今後の展望を述べることを目的としたい。

 二 戸隠信仰
 近世においては、戸隠は三院(奥院・中院・宝光院)より成り立つ山岳信仰の霊山であり、近隣地域の北信においては水神としての雨乞い信仰、遠隔地の北関東などにおいては五穀豊穣の神として、広い信仰圏を有していた。
 明治初期の神仏分離の混迷期を乗り越え、いち早く神道へ移行し、奥社の衆徒は中社と宝光社の里坊へ移動したものの、全体の宿坊数は近世末期と変わらずに維持されたのであり、このような事例は、日本全国の霊山をながめても稀有なことであった。
 そして、中社と宝光社の四十軒弱の宿坊の主は、戸隠講聚長として信仰圏内に存在する村々の戸隠講の組織を束ねる宗教者としての役割に加えて、高度成長期に有料道路「戸隠バードライン」と戸隠スキー場が整備されたことによる観光客の急増に対応して、観光旅館の経営者の役割をも兼ねるようになった。
 近年までは、宿坊と旅館という、この一種の兼業は、きわめて順調であったが、二十一世紀に入って、変化がみえはじめている。ひとつは、山岳信仰という伝統的な民俗宗教の衰退にある。戸隠信仰は、水神的性格にしても、五穀豊穣神にしても、農民からの信仰が基盤となってきた。ところが、農村における高齢化と兼業化の進行にともない、講集団が弱体化し、農家そのものも後継者不足の時代にあって、当然ながら講集団もまた、後継者難を迎えている。このような傾向は、ある程度は日本全国の山岳信仰に共通するものである。
 また、観光地化の進展にともない、戸隠講の信者に対するお札配りなどは、もっぱら郵送に頼るようになり、かつてのように冬季の檀那場廻りが困難になったために、信者との精神的つながりが希薄になってしまったこともあろう。
 そのような理由から、信者の戸隠参詣が落ち込み、かつては連日のように神社から聞こえた戸隠神楽の響きも耳にすることが減ったという。夏は避暑客、春と秋は信者の参詣、冬はスキー客、と通年観光を支えてきた基盤が弱体化したために、宿坊経営は厳しくなり、ついに後継者難などから無住となる宿坊が現れはじめた。中社門前の表通りに面した宿坊が解体され、更地が出現したことは歴史的にも大きな景観変化であるといえよう。
 一方で、宝光社では、蕎麦屋を兼業する宿坊が目立ちはじめた。宝光社では、中社ほどに観光地化が進まなかったために、旅館よりは宿坊経営の比重が大きかったが、信者の宿泊者の減少から、兼業化に至ったものと想定される。
 いずれにせよ、信仰を基盤とした伝統的な宿坊経営が過渡期にさしかかっていることは疑いなく、今後の方向性が問われる時代となったことは確かである。一方、集落全体の景観整備がなかなか進まない中で、文化庁の推進する登録有形文化財の制度を活用して、茅葺屋根の宿坊の伝統的景観を保全する動きが出てきたことは評価できよう。

 三 戸隠観光
 宿坊とともに、中社と宝光社の集落には、在家と呼ばれる農民が居住しており、この在家の観光地化への対応によって、戸隠観光は大きく成長してきた。中でも、中社集落においては、民宿経営が七五年までに急増したが、この十年間で、それらの民宿のうち、半分近くが廃業する事態となっている。
 こちらも、宿坊と同じく、後継者難が大きな理由であるが、ちょうど民宿開業から三十年前後を経て、建物が老朽化し、今後も民宿を継続して営業するには改築ないし新築の必要があり、廃業するか新改築するかの二者択一に迫られた結果ともいえようか。
 その一方で、これまではなかった外来者による、バードウォッチングなどを主体とした民宿の開業もみられるなどの動きもある。十年前までは、紙ベースによるパンフレットやチラシを媒介とした観光宣伝が中心となってきたが、二十一世紀に入って、インターネットを介した電子情報化時代となり、宿泊施設でも、宣伝および予約手段として、インターネット・ホームページを有することが不可欠となりつつある。
 戸隠の宿泊施設においても、若い世代の後継者が存在するところの多くは、ホームページを開設しており、スキー場に程近い越水集落の宿泊施設は、ほぼすべてがホームページを開設している一方で、中社と宝光社の宿泊施設では、まだ一部にとどまっており、その格差は大きく開いているといえよう。戸隠観光協会などの公的機関のホームページは充実してはいるものの、やはり個別の宿泊施設がホームページを持たずしては、電脳化時代に充分な対応ができないのではなかろうか。
 そして、戸隠観光を支えてきた冬季のスキー客が激減したこともまた、大きな影響を与えている。皮肉なことに、スキー客離れが顕著になりはじめたのは、九八年の長野冬季オリンピックの時期であった。当時は、オリンピック会場として混雑が予想されることから、スキー客が他地域のスキー場に流れたのだとも説明されていたが、オリンピックが終わり、開催地としての長野県は国際的に有名になったにもかかわらず、スキー客は回帰しなかったどころか、むしろ減少に向かった。
 その理由としては、いろいろな要素が考えられるが、若者の趣味が多様化したこと、特にスキーに代表されるアウトドア・スポーツが、かつてのように若者の通過儀礼的な役割を果たした時代は過ぎ去ったといえよう。もちろん、若者の多くがスキーからスノーボードに移行したのだが、それを含めても、スキー人口そのものが漸減傾向にあることは確かであり、スキー王国の長野県観光に深刻なダメージを与えつつある。
 もうひとつは、スキー場の過当競争が指摘できる。バブル経済の時期に、リゾート法の後押しの下、雪国の各地に、地域振興の掛け声で雨後のタケノコのように、新設のスキー場が乱立した。九〇年代後半以降はスキー場の倒産が現実のものとなってきている。
新設スキー場の中には、首都圏に隣接する地域に、人工雪ゲレンデを有するものも多く、これらの日帰り圏のスキー場に、首都圏のスキー客を奪われた面も存在する。
 また、かつてのように、夜行バスで学生中心の団体が押しかけた時代ではなくなり、マイカーによる日帰りスキー客が主体となった今、国内旅行の全体的動向である「高・遠・長」(高額・遠距離・長期滞在)から「安・近・短」への移行が進みつつある。
 そのことによって、とりわけ宿泊施設の受ける影響は大きく、冬季の長期滞在客を主たる客層としていた民宿への影響は極めて大きいものがあったといえよう。中社の民宿が半減したのも、スキー客の減少が一因であることは確かであろう。
このスキー場の不振にともない、中社集落に隣接して設置された国営スキー場は村営に移管されたが、長野市との合併にともない、経営形態が模索されており、当面は長野市営戸隠スキー場として運営を続け、数年後の民営化に向けて詰めていくとのことである。
 さて、中社集落における民宿経営は、竹細工業との兼業で行われてきたことは旧稿で指摘したが、観光地化以前は中社の在家の主業であった、この竹細工業にも後継者難が深刻となりつつある。中社門前の製造直売店は別として、民宿兼業世帯では、竹細工の後継者は少なく、竹を細工する技術は持ち合わせても、原材料の竹を細かく割る技術を有する者は多くはないといい、戸隠に継承されてきた伝統工芸品の竹細工の将来も、けっして明るいとはいえない。
 一方で、日帰り観光は、それほどの減少ではなく、名物の戸隠蕎麦を提供する食堂は、まずまずの繁盛をみせており、この十年間で、特に大きな変化はないといえる。旧国営スキー場のゲレンデ駐車場には、日帰り温泉施設も誕生し、施設内には食堂も備えており、新たな名所として観光客を集めているが、近在の来客もある程度は存在するものと思われる。お土産店もまた、大きな変動はなく、中社集落内には、おしゃれなカフェやスナックも開業しているが、飲食店の総数にさほど大きな変化はなく、観光客の好みに応じた、いわば多様化現象とみることができよう。
 四 おわりに
 これまで指摘したように、二十一世紀を迎えて、戸隠観光は大きな転換期にさしかかったといえよう。かつて、一九八五年夏の地滑り災害の際も、戸隠観光にとっては、大きな危機的状況であったが、村を挙げての観光宣伝と、その後のバブル経済によって、その危機を克服することができた。
 しかし、そのバブル経済の崩壊以来の景気低迷下にあって、この転換期に、どのように対応すべきであろうか。もとより、ここで明確な方向性を提示することは困難であるが、茅葺きの宿坊の町並みを中心とした景観保全や、スローフードの伝統食としての戸隠蕎麦の提供、地域に根ざした伝統工芸品である竹細工の育成などの地域特有の歴史と伝統を有する民俗文化を基盤とした地道な地域づくりを、行政と神社および住民が三位一体となって取り組んで行くことが第一となろう。本稿が、豊かな自然環境と伝統ある歴史に恵まれた戸隠高原の安定的な地域発展の一助となれば、望外の幸いである。
 以上、二〇〇五年夏に行った現地調査にもとづいて、この十年間の戸隠観光の動向を述べてきたが、今回の調査は過去三回に比して充分な余裕がなく、詳しい分析のできなかったことをお詫びしたい。
 ただ、過去三回の調査では、中社集落の全世帯を対象とした聞き取り調査を行ったが、プライバシーの面からも、今後は調査データを図示することは困難な時代になったといえる。地理学の調査研究として、調査資料の図表化は、いわば調査結果のとりまとめとしての意味を有しているのであるが、それが活用できないことは残念ではあるが、やむを得ない情勢といえよう。同時に、これまでの研究成果を著書として集大成することにも、上述の面から躊躇せざるをえないので、恐縮ながら参考文献としてあげた下記の原論文を参照していただきたい。
 最後に、旧戸隠村の故松井憲幸元村長をはじめとする、多くの地元の方々に支えられて、この調査が継続できたことを感謝して結びとしたい。
 本稿は、二〇〇五年十二月に遠野市立博物館で開かれた東北民俗合同研究会での口頭発表にもとづいたものである。
[参考文献]
岩鼻通明「観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌」人文地理三三-五、一九八一年(人文地理学会のWEBサイトより閲覧可能)。
岩鼻通明「戸隠中社の講集団」あしなか(山村民俗の会)一九五、一九八六年。
岩鼻通明「近世の旅日記にみる善光寺・戸隠参詣」長野一六五、一九九二年。
岩鼻通明「戸隠信仰の地域的展開」山岳修験一〇、一九九二年。
岩鼻通明「観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌(第2報)」山形大学紀要(社会科学)二三-二、一九九三年(山形大学機関レポジトリより閲覧可能)。
岩鼻通明「観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌(第3報)」季刊地理学五一-一、一九九九年(東北地理学会のWEBサイトより閲覧可能)。
岩鼻通明「権現さまに参ろじゃないか」地域文化(八十二文化財団)五六、二〇〇一年。
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