山形大学庄内地域文化研究会

新たな研究会(会長:農学部渡辺理絵准教授、会員:岩鼻通明山形大学名誉教授・農学部前田直己客員教授)のブログに変更します。

2013年東北地方民俗学合同研究会 予稿集より(山形県分)

2013年11月18日 | 日記
  山形県民俗(学)研究の歩みー各地域民俗研究団体の発足と諸先学ー
                           野口 一雄(村山民俗学会会長)・岩鼻 通明
1 民俗(学)研究前史
 本項について、前山形県民俗研究協議会会長大友義助は山形県の民俗研究の歴史をたどる難しさに触れながら、今後の研究・取り組みに俟たなければならないと語っている。大友は落としてならない研究団体として、郷土の考古学や民俗学、人類学などを調査研究の対象に活動した「奥羽人類学会」をあげている。会は明治23年(1890)、羽柴雄輔(はしばゆうすけ)(嘉永4年/1851 ― 大正10年/1921)を発起人に鶴岡に産声を上げた。初代会長には松森胤保(まつもりたねやす)(文政8年/1825ー明治25年/1892)が就任する。羽柴は飽海郡松山町(現酒田市)に生まれ、後年は慶應義塾大学図書館に勤務し柳田國男とも交流を持った。松森は鶴岡に生まれ、あらゆる学問に精通した博物学者であり、公職を退いた後は会の発展に尽くした。大友はさらに、昭和のはじめ郷土調査や郷土読本作成などを推進していった「郷土教育」についての研究の必要性をあげ、また昭和4年(1929)両羽銀行頭取に就任しながら東京商大や京都帝大でも教鞭をとった三浦新七(明治10.8.12-昭和22.8.14(1877-1947))が創立主宰した「山形郷土研究会」への、民俗学的視点からの評価・検討が必要であろうと語っている。
 この項は、今後本県の民俗学会が取り組まなければならない大きな課題である。
(以上、野口)

2 戦後の民俗(学)会設立前夜
(1) 市町村史編さん・青年団活動・学校部活動
 戦後、郷土教育の伝統はさまざまな調査報告書を発表していく。県内村山地方の高等学校郷土関係部活動では、たとえば昭和27年(1952)1月、山形市商業高等学校諭誠クラブ産業調査部は『谷地地方に於ける屋號の研究』をまとめている。牛房野(現尾花沢市牛房野)青年會は昭和28年(1953)3月、謄写版刷りの「迷信の研究」を、山辺中学校教諭堀伝藏は昭和29年(1954)8月、謄写版での『子供の生活にある迷信』を発表した。
 谷地町史編纂事業では谷地町誌編纂資料として、谷地町誌編纂委員今田信一・駒込豊藏は「山形県草履表発達史」(『谷地町誌編纂資料編』第7輯/昭和29年2月)、谷地中学校教諭矢作春樹は「河北地方の方言」(『谷地町誌編纂資料編』第17輯/昭和30年10月)、谷地町誌編纂委員今田信一・堀口昌吉・逸見武は「河北町の年中行事」(『谷地町誌編纂資料編』第18輯/昭和30年11月)、谷地町誌編纂委員今田信一・堀口昌吉は「河北地方の民謡と童謡及迷信俗信と俚諺」(『谷地町誌編纂資料編』第19輯/昭和31年1月)など、民俗学的な調査の成果を刊行している。
 山形市谷柏の農業高瀬助次郎が、聞き書きや自分の体験を綴った手書き本『百姓生活百年記』(巻1~巻4/巻4に昭和42年2月12日 70才とある。 山形県立博物館所蔵 )には多くの挿絵が描かれ、村山地方の民俗誌的な内容になっている。巻1が村山民俗学会から発刊される予定である。
(2) 歴史研究から民俗研究へ
 第1回斎藤茂吉文化賞受賞者である郷土史家川崎浩良は、石像物、特に板碑調査を行い県内の板碑を類型化し、昭和29年(1954)12月出羽文化同好会から『山形県の板碑文化』を発刊している。
 丹野正は早稲田大学文学部での講師のかたわら民俗調査研究を進めた。彼は戦後復刊された『月刊郷土』に、次のような発表を行っている。(彼の肩書きは、当初の郷土民族(ママ)研究家から土俗學者へとかわっている。)○「獅子踊の話」丹野正(郷土民族研究家)『月刊郷土』復刊九月號 昭和22年9月 山形郷土物産有限會社出版部 ○「田植踊りの研究―資料と考察―」丹野正(土俗學者)『月刊郷土』十月號 昭和22年10月 同出版部 ○「續田植え踊りの研究―資料と考察―」丹野正(土俗學者)『月刊郷土』十二月號 昭和22年12月 同出版部 ○「正月の傳承」丹野正『月刊郷土』二月號 昭和23年2月 同出版部 ○「西置賜郡小國の産屋と産育習俗について」丹野正『月刊郷土』3・4合併号 昭和23年4月 同出版部 丹野は、村山地方での民俗研究の先駆者の一人であった。                         (以上、野口)

3 民俗学会の設立(第1期)
(1) 庄内民俗学会の設立
 県内最初に民俗研究団体設立の産声を上げたのが、昭和25年(1950)7月設立の庄内民俗学会であった。『庄内民俗』復刻合本(昭和57年11月)に、「庄内民俗学会設立趣意書」が次のように載っている。
  限られたことがらだけしか記録されてゐない文献や古文書だけをたよりとして国のあゆみをたどり、日本人本 来の姿を考へることは殆ど不可能に近いといはなければなりません。それは、記録というものの性格が、なにか 異常な事件があった場合や、英雄・豪傑といった特殊の人物の動静に関してのみつくられるというところに原因 があります。民俗学はその欠陥を補い国民の大部分を占める一般庶民の日常生活―言語・風俗・人情・信仰・経 済・社会組織等の変遷を知り、現代を反省しようとするものであります。したがって、この学問の方法は実証的 であり、比較研究の学として、小・中・高等学校を通じて新教育の最も重要な教科とされている社会科の学習に は、この学問の寄与に俟たねばならぬ部分の多いことも既に認められているところであります。
  由来、東北地方は民俗学的資料の宝庫といわれて居り、今は故人となられた藤原相之助氏や、佐々木喜善氏を はじめとして、小井川潤次郎・森口多里・山口弥一郎・高木誠一・岩崎敏夫の諸氏のごとき、すぐれた民俗学者 が、それぞれの研究を発表して居られますし、中央で活躍して居られる瀬川清子女史や能田多代子女史もまた東 北の出身であられます。わが荘内地方でも、古くより多くのすぐれた郷土史家を輩出して居ますし、早くから日 本民俗学の門にはいられ、研究に精進して居られるかたも決して少なくはありません。しかし、これらのひとび とが互ひに連絡し、協力しあって学問を進めてゆくための組織は、遂ひにつくられずにしまいました。民俗学研 究を同じく志した者たちが、相孤立して、ひとりひとりの殻にとぢこもってゐるということは、実に奇妙な話だ といわなければなりません。そして、お互ひに遠慮しあってゐたのでは、いつまでも連絡の途はつかず、協力の 方法もみつかりません。そう考へまして、おこがましくも私たちが発起人となって荘内民俗学会を組織しようと するにいたりました。なにとぞ、この趣旨に御賛同のうへ、多くのかたがたが、この会に参加してくださいます やうに切望するものであります。
     昭和二十五年七月    庄内民俗学会設立発起人(五十音順)
                   山形大学農学部   尾河 和夫
                   鶴岡高等学校内   菅原 兵明
                   狩川中学校内    清野 久雄
                   鶴岡高等学校内   戸川 安章
                   鶴岡家政高等学校内 嶺岸 照子
 会には会長を置かず、代表理事として戸川安章が就いた。会誌『庄内民俗』は36号(平成25年6月)を数え、「五十嵐文蔵先生を偲ぶ」号となっている。なお第34号は「戸川安章先生追悼号」、第35号は「戸川安章・清野久雄先生を偲ぶ」号で、創設期会員の追悼号が続いている。                   (以上、野口)
 戸川安章と清野久雄は、まさに対照的な人柄であり、戸川は羽黒修験の仏教側の中心として、清野は出羽三山神社側から、それぞれ山岳信仰の学問的重要性を民俗学の中に位置づけた。柳田國男の直弟子にあたる世代が山形県の民俗研究の草創期に中心として活躍したことは大きな意義があろう。
 戸川は民俗学研究所解散後の日本民俗学会の混迷期に理事を担当し、鶴岡市の山形大学農学部ではじめての地方開催となる年次大会を昭和43年(1968)に主催したことは、後の民俗学界の展開に大きく貢献した。県内の大学で最初に民俗学の講義が設けられたのは県立米沢女子短期大学であり、戸川が担当した。その後は置賜の奥村幸雄から武田正に引き継がれ、現在は岩鼻通明が担当している。
 また、山岳修験学会の全国組織化に際して、顧問に迎えようとしたところ、一会員として入会すると固辞したことが思い出される。昭和61年(1986)の羽黒山大会では、庄内民俗学会の会員諸氏を率いて、自ら巡見の先頭に立って案内にあたったことも記憶によみがえる。平成4年(1992)の宮古大会での講演が学会会員との最後の場になったかと思われるが、3つのテーマを大会事務局に提示したのだそうで、結局は羽黒修験に関する講演となったのだが、個人的には「庄内のかかの財布」について、お聞きしたかったものだ。21世紀に入って、2回目となった平成15年(2003)の出羽三山大会の折りに、ぜひ会いたいという会員からの声が多く寄せられたのであったが、当時すでに目と耳が不自由であったために、すべてお断りせざるをえなかった。
 その後に岩田書院から全2巻の著作集が刊行されたのだが、最後まで、もう少し手を入れたいと固執された。当初は全3巻の予定が縮小されたことに、いささか不満であったように聞いたが、出版された本を抱くようにして大事にされたという。
 時をさかのぼるが、戸川の昭和49年度柳田賞受賞を記念して、『山形県民俗歴史論集』が第3集まで刊行された。その執筆者には、江田忠、月光善弘、清野久雄、佐藤光民、奥村幸雄、武田正、大友義助、佐藤義則、三春伊佐夫、佐久間昇、佐々木勝夫、五十嵐文蔵、梅木寿雄、木村博、本間勝喜の名がみえる。
 なお、庄内民俗学会の設立発起人で健在であるのが岡田(旧姓嶺岸)照子で、伊勢民俗学会の重鎮として、女性民俗研究者のリーダー的存在である。  (以上、岩鼻)

4 民俗学会の設立(第2期)
(1) 置賜民俗学会の設立
 まさに日本が高度経済成長をひたすら走り続けているとき、そして日本社会が根底から変貌しつつあるとき、庄内民俗学会の発足に15年ほど遅れた昭和40年(1965)代はじめから県内各地に民俗研究団体が設立されていった。
 置賜民俗学会設立について、『置賜民俗』準備号1号(昭和41年1月 発起人 江田 忠・武田 正 山形大学工業短大江田研究室)に、次のように「置賜民俗研究設立趣意書」がみられる。
  日々失われてゆく旧い風俗や慣習は、現代の社会に必要でなくなったのかもしれません。しかしその旧いもの が私達の生活の基底である生活感情や生活様式の中に根づよく残っているとすれば、私達はどうしても解明しな ければならない義務を、日本人として持っているのではないでしょうか。
  置賜は民話のふるさととも云われています。すぐれた民芸品をも多く持っています。
 民具の中には芸術にまで達しているものも見られます。しかし今迄の「民俗研究」はともすれば地方の研究者・ 愛好家の個々の研究・採集によって支えられて来たともいえます。それは更に個々の研究者・愛好家の負担によ って行われてきたといえます。このことはまた好事家的な面をまぬがれなかったともいえましょう。
  ここに、この地方の研究家・愛好家をもって、結束して、より広範囲に研究を進めて行くために、「置賜民俗 研究会」を設置したいと考えました。
 会報「置賜民俗」準備号は第2号まで確認されるが、「置賜民俗」第2号(置賜民俗研究会)の発行が昭和40年(1965)4月1日発行となっており、会の活動はこの年から本格的にはじまっていたのだろう。同第4号(昭和40年7月15日発行)に理事・幹事新任記事があり、会長には江田忠(山形大学教授)が就いている。なおこれら会報の発行は武田正がみずから鉄筆で原紙を切り謄写版で刷って発行した。置賜民俗研究会は置賜民俗学会と改められ、会報「置賜民俗」第13号(昭和43年1月7日発行)は置賜民俗学会発行となっている。加えて年報『置賜の民俗』も発行されていく。昭和62年(1987)9月発行の年報『置賜の民俗』は、20年間にわたり発行してきた会報「置賜民俗」から主な記事を採り再録した「二十周年記念号」である。会長武田正が「二十周年を迎えて」のなかで「年報『置賜の民俗』を発行し毎年夏に民俗基礎調査を会独自に、あるいは置賜の市町の援助を得て実施し、年報に報告する活動を継続してきた。この際二か月に一度程度会員の連絡紙として、ガリ版で武田が「置賜民俗」を刷って会員に配布してきた。」と綴っている。現在『置賜の民俗』は第18号(平成24年12月発行)を数える。                           (以上、野口)
 昭和42年(1967)に刊行された『置賜の民俗』第2号のあとがきには、「山形県民俗学会が生れ、新庄にも最上地方民俗の会があり、全県下一本になることも将来考えてみなければならないだろう」と記されている。
江田忠は、大正2年(1913)に朝鮮半島で生まれ、昭和10年(1935)に京城帝国大学を卒業後、法文学部宗教学社会学研究室の助手として、朝鮮半島の民俗文化研究を手がけた。終戦後に米沢へ帰郷したが、引き揚げ時に調査資料を持ち帰ることができなかったために、戦後は米沢女子短大と山形大学工学部短期大学部(工学部Bコース・教養部分室の前身)で教育社会学の研究教育に就いた。著書に『くらしの中の教育』みどり新書の会、昭和49年(1974)などがある。
 武田正は、昭和5年(1930)に上山市で生まれ、山形大学文理学部を卒業後、高校教員を経て、筑波大学の民俗学研究室に助教授として赴任、教授に昇任して定年退職後の平成5年(1993)に山形女子短期大学教授として山形県に戻った。膨大な昔話の聞き書きを謄写版印刷で刊行したが、それらは山形短期大学民話研究所によって、活字に翻刻された。
 置賜地方において、もうひとつの民俗学の調査研究の拠点となったのが、農村文化研究所である。昭和51年(1976)に研究所は設立され、昭和53年(1978)に刊行された「農村文化論集」第1集には、江田忠、徳永幾久、飯島吉春、船橋順一、武田正が執筆している。米沢市六郷にある研究所内には、多くの民具類が展示され、屋外には飯豊山・出羽三山参り前の精進潔斎に使われた行屋が保存展示されている。
 この研究所の主催で、毎年8月第1土曜日に農村文化ゼミナールが置賜盆地で開催され、設立当時から民具調査に来訪を重ねてきた神奈川大学の佐野賢治教授がコーディネーターを務め、平成25年(2013)で26回を数えた。       (以上、岩鼻)
(2) 最上民俗の会の設立
 最上地方民俗の会は昭和41年(1966)12月20日に『最上地方民俗』第1号が発行された。会長を大友義助とし事務局は会長勤務校新庄北高等学校に置かれた。編集責任は若くして亡くなった佐藤義則であった。佐藤も武田と同じように原紙を切り、謄写版で刷って発行した会誌は17号まで続くも、昭和45年(1971)4月、大友の山形県立博物館転出により中断したが、昭和52年(1977)最上地域史研究会として復活した。
 大友義助は昭和4年(1929)東根市に生まれる。山形大学教育学部卒業後山形県内の高校教員をし、昭和57年(1982)4月、3度目の山形県立博物館勤務は館長として赴任した。大友館長在職中の4年間に山形県内各民俗研究団体は連携を強めていく。山形県民俗研究協議会設立(昭和60年)や村山民俗学会発足(昭和61年)は大友館長在職中に実現したものである。大友は山形県文化財保護審議会会長などを務めた。
(3) 山形県民俗学会の設立
 同じ昭和41年(1966)に山形県民俗学会が発足した。『山形 民俗通信』会報第1
号(昭和41年12月 発行所 山形県民俗学会 山形市七日町)には次のような設立時の記事が載っている。
   設立総会開催 午後から記念講演・第一回研究発表会
   今春以来山形県内の研究家、同好の士を総合した山形県民俗学会を結成しようという動きが起り、丹野正氏 を中心として、その準備が進められていたが、去る十月八日に設立委員会が開かれた。その決定にもとづき、い よいよ山形県民俗学会総会が十一月十三日に山形東高等学校定時制物理教室で開かれた。当日県外県内各地から 集まった三四名の会員と、その接待や会場の応援に駆けつけた団体会員上山高等学校郷土研究部の生徒十数名を 合せて五十余名の参会で開催された。
 会長には丹野正が就任する。丹野は大正5年(1916)生まれ、早稲田大学を卒業。丹野旅館を経営しながら母校の非常勤講師をつとめた。在野の民俗研究家として幅広い取材活動を行い、とくに民俗芸能分野の調査研究に力を尽くした。丹野は、昭和12年(1937)11月民間傳承の會発行の『採集集帖 沿海地方用』を残している。そのなかに、高瀬村切畑(現山形市切畑)に伝わっている節分時のはやし言葉、「何んたっく七草たっく 唐土のいはとの七草たっく 福は内福は内 鬼は外 天打つ地打つ四方打つ 鬼の目玉打つつみせ」など、地域でのさまざまな採録がみられる。会誌『山形民俗通信』は第13号(昭和61年3月発行)をもって廃刊となった。                    
(4) 酒田民俗学会の設立
 昭和48年(1973)7月に、戸川安章・丹野正・清野久雄の指導のもと、長沢俊雄を会長に酒田民俗同好会(仮称)が発足した。昭和61年(1986)に酒田民俗学会と名称を変えた。平成元年(1989)には4代目会長に佐藤昇一が就く。会誌『酒田民俗』第1号は平成3年(1991)に発行され、以来第6号(平成25年5月)を数える。

5 民俗学会の設立(第3期)
(1) 山形県民俗研究協議会の設立
 昭和59年(1984)10月、第1回県民俗研究発表会が大友館長ら有志の呼びかけにより山形県立博物館で開催された。終了後の懇談会で県民俗研究協議会の結成が話題になった。翌年5月、東北生活文化学会理事会(会長戸川安章 事務局米沢女子短大)で県民俗研究協議会設立のことが議題となり、設立時には連携していくことが確認された。昭和60年(1985)8月、第2回県民俗研究発表会が東北生活文化学会研究発表会との合同で、県立博物館で開かれた。ここで、参加者の総意によって山形県民俗研究協議会が設立され、会長に戸川安章が就任し事務局を県立博物館に置くことが確認された。この協議会設立の目的は、各民俗研究団体が主体的な活動をおこないながら相互の情報交換をはかり、研究発表や会誌の発行により交流を図ろうとしたものである。協議会設立には大友館長の尽力によるところが大きかった。会誌『山形民俗』創刊号は武田正の努力により昭和62年(1987)3月に第1号が発刊された。以来平成24年(2012)年の25号までが発行されている。武田正は『置賜の民俗』第14号(昭和62年9月)「二十年を迎えて」のなかで、「庄内、最上、村山の各民俗会と共に山形県民俗研究協議会を結成し、協議会としての研究誌『山形民俗』が発行されるほどにまで成長したことを喜びたい」と記している。          
(2) 村山民俗学会の設立
 山形県民俗研究協議会設立にあわせ、村山地区に民俗研究団体をつくろうとの動きが高まっていった。昭和61年(1986)年2月、山形県立博物館で村山地区民俗研究会設立について話し合いがもたれ、同年4月に同館で設立総会が開かれた。会長には東北の一山組織の研究家である月光善弘(山形女子短大教授)が選出され、会の名称は村山民俗の会と決まった。設立総会時の記念講演には、山形県民俗研究協議会会長・庄内民俗学会代表理事戸川安章が「祖霊のゆくえ」を講演した。月光は戸川の後、第二代県民俗研究協議会会長に就く。会活動の特色である会報は第1号(昭和61年7月26日)から264号(平成25年10月1日)を数え、2度にわたり合本復刻版が刊行されている。会誌は27号(平成25年6月30日)を数える。村山民俗の会は平成5(1993)年度から名称を村山民俗学会に改めた。
 平成18年(2006)10月14日(土)~16日(月)日本民俗学会第58回年会が山形大学小白川キャンパスを中心に開催された。当会の岩鼻通明が実行委員会事務局長として準備にあたり、県民俗研究協議会をはじめ山形大学・東北芸術工科大学学生の手伝いを得ながら大会を成功裏に導いた。なお当会では同年7月16日、霞城セントラルにて日本民俗学会第58回年会プレ・シンポジウムを開催した。
 平成3年(1991)東北芸術工科大学が山形市に開学し、山形県内大学で唯一民俗学の専任教員が在籍している。山形県民俗研究協議会元事務局であり、村山民俗学会幹事の菊地和博が東北文化研究センター准教授(民俗学/現東北文教短期大学教授)として赴任した。東北文化研究センターは田口洋美センター長のもと、「東北学」を定期的に刊行してきている。                       (以上、野口)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする