山形大学農学部岩鼻通明研究室より

 教育研究情報を発信します。学生からの質問などもコメントでどうぞ。研究業績は、2012年5月の日記をご参照ください。

広域交流圏の形成と山形新幹線フル規格化 (村山民俗学会会報2017年4~12月号)

2017年12月17日 | 日記
 2016年秋の県民俗研究協議会での研究発表において、山形新幹線の問題を取り上げた。そこで、このテーマについて、会報の紙面をお借りして、数回にわたり私見を述べたい。
 実は、山形新幹線開業および新庄延伸時にも、私見を述べたことがあった。当時は外野からの発言に徹したのであったが、県の世界遺産委員会の委員などを経験したこともあるので、民俗学および人文地理学の立場から、この問題について述べてみたい。
 地理学会において、交通地理学の分野では、さまざまな現地調査に基づいた研究成果が発表されているのであるが、新幹線に関する研究報告は、けっして多いとは言いがたい。それは、新幹線の建設が、あまりに政治路線化していることが一因といえよう。
 田中角栄首相時代の「日本列島改造論」が、その典型であり、上越および東北新幹線は、きわめて政治色の強い路線として、計画・建設が進められた。オイルショックの影響により、開業は大幅に遅れたが、ちょうど筆者が山形大学に赴任した時期に大宮駅を暫定ターミナルとして、両新幹線は開業にこぎつけたのであった。
 この時代に、全国の新幹線ネットワークが計画路線として示されたものの、それはまさに絵に描いた餅そのものであった。その後は、緊縮財政の影響もあって、長野冬季五輪に向けて、長野新幹線が開業し、東北新幹線は新八戸から新青森へ、さらには北海道新幹線として新函館まで伸び、長野から金沢まで北陸新幹線も伸びた。一方、山陽新幹線は岡山まで伸びた後、博多まで延伸され、さらに鹿児島まで九州新幹線が開業するに至っている。
 それに対して、山形および秋田新幹線は、建設費を抑えた、いわゆるミニ新幹線と呼ばれる、レール幅を標準軌に拡げた在来線に新幹線車両が直通乗り入れする方式で運行されている。この方式では、従来より大幅なスピードアップは望めないために、時間短縮効果は大きいとはいえず、また、災害にも強くはないこともあって、フル規格新幹線待望論が、にわかに声高に叫ばれはじめた。
 鉄道の高速化によって、時間距離が短縮され、広域的な往来が盛んになることにともない、交流圏の拡大が期待できる。少子高齢化の影響で、今後は人口減少が急速に進展する日本列島、とりわけ広い面積を有する東北地方にとって、高速交通網の形成が悲願であることは確かであろう。ただ、広域交流圏の拡大にともない、地域社会に与える影響は大きく、民俗文化も変化を余儀なくされる可能性が出てくると想定される。
 さて、目下、山形県が推進しようとしている新幹線フル規格化は、山形新幹線にとどまらず、新潟と庄内を結ぶ羽越新幹線も、その構想に入っている。
 山形新幹線は県境付近の豪雪に弱く、一方の羽越線は日本海に面して走るため、冬の強風に弱い。そのために、遅延や運休が頻繁に発生することから、雪や強風に強いフル規格の新幹線待望論が強まっている。
 しかしながら、遅延や運休が相次ぐことには、背景が存在する。それは10年余り前に発生した羽越線での特急いなほ脱線事故である。この事故は突風により、走行中の特急が脱線転覆して犠牲者が出たもので、その事故以降はJRの運行規制が強化され、それまでは風速30mで運休とされたのが、25mになり、徐行の風速規制も引き下げられた。ちなみに、つい先日、12年がすぎてようやく遺族や負傷者との示談がすべて終了したとの報道に、JRの本質をかいまみるような気がした。
 そのために、遅延や運休が相次ぐ結果となり、乗客や乗務員に多くのストレスが生じることを招いた。数年前に秋田行きの特急いなほに乗車した際に山形・秋田県境付近で強風が吹いたために徐行運転となり、なんと国道を走る路線バスに特急が追い抜かれるという珍妙な体験をしたことがあった。
 もちろん、乗客の安全が優先されることは重要ではあるが、あまりにも過度の規制を現実に体験すると、JR北海道で発生したような保線の手抜きなどに予備的に対応しているのでは?と勘ぐらざるをえない。それが新幹線待望論につながるのは、おかしな話ではないのか。
 羽越新幹線については、庄内地方において、酒田市と鶴岡市との意見の対立があり、それを止揚するために、フル規格新幹線導入が提起されたものとも受け止められる。
 その羽越新幹線構想は、山形新幹線の開通と新庄延伸にともない、高速交通網から取り残された庄内地方に新幹線を導入する構想である。新庄延伸計画の当初は、さらに秋田県南の湯沢市・横手市まで延伸する運動も存在したが、秋田新幹線や高速道路の開通にともない、その声はほとんど消えた。
 課題となったのは、庄内までのルートで、新庄から陸羽西線を経由して余目・酒田まで延伸する計画と、新潟から在来線の羽越線をフル規格化して、ミニ新幹線を導入する計画である。前者は酒田市が、後者は鶴岡市が主張して、ともにゆずることなく、膠着状態が続いてきた。庄内全体の利益にとって、港町と城下町というルーツの異なる両市の対立は不幸なことである。
 個人的には、片方はほぼ実現不可能なプランであるのだが、それを止揚するための新たな計画が、この度の山形・羽越新幹線フル規格化であるといえよう。この計画は、一言で言えば、きわめて近視眼的な計画でしかない。このような地方新幹線計画をあおるような根拠に乏しい新書などが出版されており、地方自治体が振り回されている情けない現状にあるため、長期的展望を踏まえた私論を述べることが趣旨である。
 国鉄民営化から既に30年が過ぎた。今日、サービス残業やブラック企業など、労働者の権利をないがしろにするような傾向は、個人的には国鉄解体に端を発するように思えてならない。
 このことは、以下の残念なニュースとも大きく関わる。JR九州が取り組んできたフリーゲージトレインの導入を断念するかもしれないとのことだ。このフリーゲージトレイン(FGT)とは、台車の車輪幅を変えることのできる車両であり、在来線の狭軌と新幹線の標準軌というレール幅の異なる線路を相互に乗り入れできる画期的な列車である。この車両が実用化されれば、もはやミニ新幹線は不要となるのだ。
 このFGTこそが、庄内への新幹線導入の切り札であると認識してきたのであり、既に2008年に刊行された『日本の地誌4 東北』において、その可能性に言及した。目下、新潟駅では、新幹線ホームで、在来線の特急「いなほ」に乗り換えできる工事が進行中と聞くが、この工事は将来のFGT導入に備えるものと個人的には理解してきた。
 かつて、JR北海道で導入を計画してきたレールバスもまた、北海道新幹線を優先するとのことで、実用化間近の時点で開発が断念された。このレールバス(DMV)もまた、ローカル線において、線路と道路をつないで直通運転ができるという画期的な車両である。
 21世紀における地方の公共交通の改善にとって、画期的な開発であるはずのこれら車両の開発が、なぜ断念を余儀なくされるのだろうか?そこには、大都市圏優先のJR東・東海・西の各社の非協力的体質が背景に存在する。かつての国鉄一家と呼ばれた時代であれば、技術開発には一丸となっていたことであろう。民営化の失敗を感じるのは、私だけであろうか。
 ところで、このところ、山形新幹線の庄内延伸をめぐって、中速鉄道なる聞きなれない用語がマスコミで飛び交っている。陸羽西線経由で庄内に延伸する際に、フル規格新幹線よりも、急カーブの緩和や低重心車両の導入による中速鉄道のほうが、時間短縮および工費節減効果があるとするものだ。
 中速鉄道として、国内では京成電鉄の成田エクスプレスが該当するそうだが、この特急は新線を経由することによって、スピードアップと時間短縮が可能となった。それと対極的な事例が会津鉄道である。今から30年余り前に、旧国鉄会津線の第三セクター化とともに、東武電鉄鬼怒川線を延長した野岩鉄道が会津鉄道とつながり、東京・浅草と会津若松が鉄路で結ばれた。
 昨年、ようやく、この鉄道に初乗車する機会があったが、旧会津線内は、かつてのローカル線規格のままで、一部は電化されているにもかかわらず、高速運転ができず、野岩鉄道の新線部分に入ると、スピードアップした。今春から、会津田島行きの直通特急リバティが運行を開始したが、3時間余りを要し、若松まではさらに乗り換える必要がある。
 当初、期待の大きかった、この路線は、いまや東北新幹線や高速バスに押され、沿線は閑古鳥状態となっていた。陸羽西線は途中に地すべり地帯が存在したりと、ローカル線規格を中速鉄道規格に改良するには、膨大な経費と時間を要すると想定される。フル規格新幹線の数分の一の費用で済むとはいえ、1キロ当たり100億円を上回ると仮定すれば、陸羽西線の中速鉄道化だけでも、たいへん高額な経費が必要となる。
 河北新報は実現の見通しは不透明だとの見解を示しているが、ミニ新幹線方式の数倍の経費を必要とする中速鉄道に、いまやJR東日本が積極的に賛同するとはいいがたいであろう。
 ちなみに、そのような経費が余分にあるのなら、七日町の県民会館跡地に、県立博物館ないし公文書館(一体化した施設であれば、なおよし)を建設すべきであろう。県庁から、そのような声があがらないとは誠に恥ずかしい。
 一方、フル規格新幹線の実現を県内および隣接県に働きかける動きがみられる。果たして、山形新幹線および羽越新幹線のフル規格化は、隣県にとって、どれくらいのメリットがあるのだろうか?
 まず、福島県において、会津と浜通りに関してのメリットは、ほとんどないといえよう。そして、中通りの福島市と郡山市についても、山形県内陸部への時間短縮効果に大きなメリットがあるとはいいがたい。東北新幹線で、既に仙台や首都圏と結ばれていることから、さしたる関心があるとは思えない。宮城県の場合も、山形・仙台間の高速バスが頻繁に往復しており、新幹線効果はほとんど間接的でしかない。
 秋田県においては、かつて新庄から県南部への延伸を期待する声もみられた。しかし、高速道路が湯沢・横手から岩手県北上市までつながると、北上駅から新幹線で上京するほうが、はるかに時間距離が短いことが明らかになって、その声は消えるに至った。
 いちばんメリットがあると思われるのは、新潟県であろう。政令指定都市となった新潟市と庄内が新幹線で結ばれれば、広域交流圏が活性化されることが期待される。とはいえ、いわゆるストロー効果が発生する不安もある。ストロー効果とは、人口がより大きな都市へと、さまざまなものが流出することを指す。
 具体的には、秋田新幹線の開業にともない、秋田市内に立地していた全国的企業の視点や出張所が、盛岡あるいは仙台へ移転する現象が顕著にみられるようになった。すなわち、盛岡や仙台から日帰りで秋田へ往復できるようになったために、秋田市内における拠点が不要になってしまったのであった。これと同じく、もし羽越新幹線が開通すれば、庄内の支店が新潟市へ移る可能性は否定できない。
 しかしながら、山形県が期待しているのは、隣県の応分の建設費の財政負担であろう。それを隣県に期待しても、ほとんど相手にされないのではなかろうか。それもあって、「オール山形」で、フル規格新幹線を実現しようとの掛け声が大きくなりつつある。だが、この「オール山形」という表現に排外主義的な違和感をもつのは、私だけだろうか?
 2017年11月に福島-米沢間の高速道路が開通した。そこで、新幹線と高速道路の比較について述べてみたい。
 日本の新幹線の特徴として、旅客輸送のみということが指摘できる。在来線では貨物輸送も行っているが、新幹線では諸般の事情から貨物輸送は排除されている。
 したがって、物資をすみやかに輸送するのは、高速道路に依存することにならざるをえない。この事実が、新幹線駅(とりわけ在来線から離れて新たに開業した駅)と高速道路のインターチェンジ周辺の景観に大きな影響を与えている。
 たとえば、東北新幹線の新花巻駅周辺は、開業後かなりの年数が経過しているにもかかわらず、産業の集積は微々たるものがある。東海道新幹線の岐阜羽島駅も開業当初は政治家が誘致に介入した新駅とうわさされ、なかなか周辺の開発が進まなかったが、現在はようやく都市化が進行しつつある。
 このように、旅客しか運ばない新幹線の影響は実は限定的なところがある。それに対して、高速道路が開通すれば、インターチェンジ周辺には流通に関わる諸産業の工場などの立地が展開することが知られている。
 たとえば、岩手県の東北自動車道の北上江釣子インター周辺には、相当な規模の産業集積がみられる。自前でインターチェンジを造成して、自動車産業などの工場を誘致した北上市の実績は高く評価されている。山形自動車道の山形北インター周辺にも、数多くの食品産業などの工場が立地していることは一目瞭然である。
 この度、福島市から米沢市まで高速道路が開通すれば、なかなか用地が埋まらないといわれてきた八幡原工業団地に進出してくる企業が大いに期待される。山形県内陸部の高速道路は、いまだつながっていない箇所がみられるが、東北道からつながることによって、物資輸送が飛躍的に改善される意義は非常に大きい。
 以上のように、フル規格新幹線という夢幻の構想にとらわれるよりも、高速道路の整備という現実的な課題に、もっと目を向けるべきであろう。
 山形新幹線フル規格化は、早ければよいのか?という問題でもある。そこで、目下、工事が開始されつつあるリニア新幹線について言及したい。
 目下、2027年に品川-名古屋間が開業予定で、リニア新幹線の工事が進められ、さらに大阪までは2045年の開業を目指すという。既に日本自然保護協会は、リニア着工時の、いわゆる環境アセスメントに関して厳しい意見を表明している。それはフォッサマグナという大断層帯を貫いて、新幹線のトンネル工事が行われることに対する危険性への危惧と、それにともなう環境破壊ゆえである。
さらに工事にともなう廃土処分についても、トンネル工事現場の長野県大鹿村において、膨大な量の廃土が発生し、それを運ぶトラックの往来が急増することも指摘されている。
 この長大なトンネルが断層のずれによって破壊されれば、きわめて大きな事故が予想される。そのような危険性を産業界や政界が十分に理解しているとは思われない。そもそも、IT時代の到来によって、さまざまな情報は瞬時に全世界へ伝わるシステムができあがった今、ほんとうに超高速交通機関が必要とされているのだろうか?しかも、最近の報道では、国費をつぎ込んでいる工事で談合疑惑が発覚したという。
 先日、某学会大会に参加するために、JR東海が経営する御殿場線に乗る機会があった。新宿から小田急で新松田で乗り換えたのだが、首都圏に位置するにもかかわらず、スイカなどが使用できないという。やむなく小銭を出して乗車券を買ってホームに向かったのだが、かつての東海道本線であったホームはとても長く、たった2両の車両ははるか前方に停車している。ラッシュ時以外は1時間おきという本数なので、乗り逃がすわけにはいかず、小走りでなんとか乗り込むことができた。
 このような乗客に不便をしいる鉄道会社が、リニア新幹線に大金をつぎこむことが許されるのだろうか。まずは乗客の利便性向上を優先すべきではなかろうか。これも、国鉄民営化の隠れたマイナス面といえよう。
 地方創生というならば、地方の公共交通を改善することが最重要課題ではないのだろうか。山形新幹線フル規格化も、地方の公共交通切捨てに直結することが危惧される。在来線の運営をJRが放棄することがフル規格新幹線の前提であり、東北新幹線の青森・函館延伸および北陸新幹線延伸で、在来線の交通網は寸断に近い現況にある。
 この執筆をはじめた契機は『「スーパー新幹線」が日本を救う』という御用学者の新書に「(鹿児島から北海道までつながった)新幹線がもたらすディープインパクトは、物理的、即物的なものばかりなのではなく、精神的、民俗的なものでもある」という一文であった。
 「民俗的」という用語が安易に使われたことに対する反発の思いを記してきたつもりである。そもそも、この本では、財源論にも踏み込んだと記されている割には、その根拠が薄弱である。
 たとえば、先に述べた福島・米沢間の高速道路と一体のものとして、鉄道路線を併走させることはできなかったのだろうか?JR東日本は福島・米沢間の新トンネルについての構想を準備中とされるが、鉄道の線路と高速道路を共用することは、21世紀の科学技術を結集すれば、不可能ではないだろう。別々に建設するよりは、ずっとコスト節減になるはずであり、縦割り行政ゆえ、このような発想そのものが出てこないのではなかろうか。
 また、九州から北海道まで新幹線がつながったと自慢げに主張するのは勝手だが、それ以前にJR民営化で、鉄道会社が寸断されており、料金体系はバラバラで、その効果は限定的でしかない。
 やみくもに、新幹線をつくろうと主張するよりも、高速交通のネットワークを、より効率的に運用することが重要といえよう。新幹線庄内延伸は、いかにも庄内モンロー主義の産物でしかなく、むしろ新潟県から庄内を経て、秋田県まで高速道路をつなぐことに力を注ぐべきではないのか。
 2017年の総選挙は、国難およびフル規格新幹線という、全国的にもローカルでも国民をまやかす公約とは呼びがたい低次元の争いであった。この拙論が、そのようなまやかしや、ごまかしから覚醒する機会となれば幸いである。
コメント

江田忠先生の京城時代(「村山民俗学会会報」299~301号、2016年9~11月、より転載)

2016年11月28日 | 日記
  江田忠先生の京城時代 その1  岩鼻通明
 昨秋に刊行された「山形民俗」誌上に「江田先生の学問と私」と題する小論を寄稿した縁で、江田先生のご子息である江田清氏の消息を知るところとなり、江田清氏から江田忠先生の京城時代に関わる資料をお譲りいただいた。
 そのお礼を兼ねて、会報紙上で、これらの資料を紹介させていただきたい。まずは、京城帝大文科助手会によって刊行された学術雑誌「学海」第二輯から紹介しよう。本誌は昭和十年十二月に刊行されており、奥付の京城帝国大学法文学部内 編輯兼発行者は江田忠先生のお名前となっている。
 そして、巻末の会員動静では、所属は「本学東洋史研究室」と明記されており、先の小論では、まだあいまいな記述であったが、これで東洋史研究室助手であったことが確定したといえよう。
 さらに、会員動静には社会学宗教学研究室助手として、柳洪烈氏の名前が記されている。おそらくは小論で記した泉靖一先生の前任者にあたるのであろうか。なお、ウィキペディアによれば、柳氏は歴史学者で、戦後はソウル大学教授を務めた方とされる。
 さて、「学海」第二輯には、9本の論文が収録されている。文学、歴史学、考古学、美術史などの論文の中で、江田忠先生の論文は「パウルバックの[大地]を読む」と題したものである。
 パール・バック女史(1892~1973)は中国で活動していたアメリカ人宣教師の娘で、アメリカの大学卒業後は再び中国へ戻り、南京大学で英文学を教えながら、作家・評論家・社会運動家として活躍したという。
 「大地」の原作が出版されたのは、1931年で、1935年に新井格訳の日本語版が出版され、この訳書は後に新潮文庫版となる。江田忠先生は、この訳書を発行後まもなく入手して読破された後に、この論文を執筆されたものと思われる。
 そして、中国(原文中では「支那」が使われているが、ここでは「中国」に統一して使用する)の現実が「以農立国」であることから、農民から、この小説を取り上げたいとする。
 直言すれば、「中国は国家にあらず、民衆の寄り集まった一つの社会である」と当時の中国に対する批判的姿勢が論文中に貫かれている。小説の中に災害の描写が出てくるが、1934年の旱魃と水害の被
害の事例を引用して、農業恐慌の実態に触れている。国民党政府やマルクス主義への批判も散見するが、時代背景を勘案すれば、このような見地が京城帝大においては一般的な理解であったのだろうか。
 興味深いのは、中国の大家族制についての言及であるといえよう。歴史学というよりはむしろ、民族学的視点から、この問題が取り上げられており、このあたりに、戦後の米沢で、江田忠先生が民俗学の道へと進まれた予兆がみられると言えるのではなかろうか。
 なお、冒頭で「大地」のハリウッド映画化について言及されておられるが、この当時から既に映画への関心が芽生えていたことを示すものかもしれない。全体として、終戦の10年前とあって、まだ自由で清新な気風に満ちた若い世代の研究者によって編集された論文集であるとの印象を受けた。
 では、以上で簡単ながら、「学海」についての紹介を終えたい。

  江田忠先生の京城時代 その2     岩鼻通明
 前回は京城帝大の学術雑誌を紹介したが、今回は京城師範の同窓会誌を紹介したい。
もっとも、これらは終戦後に日本本土へ帰還した卒業生たちが連絡を取り合って、刊行を始めたものであった。
 最初に発行されたものは「旧友通信」と題され、昭和25年10月に第1号が、同年12月に第2号が出ている。当時のことゆえ、いわゆるガリ版(謄写版)印刷で、変色などもあるために、今となっては、かなり読みづらくなっている。内容は近況や消息不明の同窓生の安否を尋ねるものが大半を占めている。終戦後の過酷な状況の中を半島から引き揚げて来られた方々が、ようやく落ち着いた時期がこの頃であったのだろうか。
 その後に刊行された同窓会誌は「連枝」と「春江会報」の2種類があった。もっとも前者は僅かで、後者がメインの会誌となったようである。その後者も福岡版と東京版があるのだが、番号は通号となっており、発行責任者の違いによるものであろうか。
 朝鮮戦争の休戦後には、半島出身者の消息も伝えられてくる。亡くなった方や北朝鮮在住の方など、南北分断の悲哀を感じざるをえない。その中で、著名人として、趙炳華氏の名前がみえる。氏は昭和32年夏に東京で開催された国際ペン会議に来日され、その時に歓談した記録が「春江会報」第13号(昭和32年12月)にみえる。ウィキペディアによれば、趙炳華氏は、慶熙大学校国文科教授を歴任した有名な詩人であり、いくつかの詩集は日本語にも翻訳されている。
 最後の「春江会報」は、昭和50年6月の第22号であり、この頃になると物故者も出てくる。江田先生ご自身も、この後に逝去されたこともあり、最終号の刊行時期は不明であるが、数年前に九州の太宰府天満宮境内で、京城師範の記念碑を見つけたことがあった。卒業生が高齢化し、集まることも困難になったので、最後に記念碑を建立したという。いま思えば、この記念碑を見出したことは偶然とはいえないのかもしれない。
 この連載は、これで終わる予定であったが、意外な展開があり、それは次号に記すこととしたい。

  江田忠先生の京城時代 その3  岩鼻通明
 前回は京城師範の同窓会誌を紹介したが、それで連載を終えるつもりであった。ところが、意外な展開があり、もう一度、連載を続けることにした。同窓会誌を読む中で、昭和25年の「旧友通信」の名簿に、山形県で唯一、松村武雄氏という名前を発見した。
 それで直ちにネット検索してみたところ、寒河江市のNPO法人である「まごころサービスさくらんぼ」という福祉団体の代表者が松村武雄氏であることが判明した。もちろん、同姓同名という可能性もあるので、恐る恐る電話をかけてみたところ、ご本人であることが明らかになった。江田忠先生の教え子が山形県内で存命であったのだ。
 ぜひ直接にお会いして、京城時代のことをお聞きしたいものと電話でお伝えして、さらに詳細を手紙に記してお送りし、9月16日に寒河江へと左沢線に乗って向かった。駅から、ほど近い旧十字屋デパートビルの最上階に法人の部屋が置かれていた。
 法人が開いている平日は、毎日朝から出勤されているとのことで、お元気なお姿にお目にかかれたことは、まさに奇跡に近いものがあった。松村氏は、今年7月に『太陽視角』と『地の使命を終えて天に還った妻の夢物語』と題した2冊の著書を刊行されたばかりである。この著書とお聞きした話しから、以下の文をまとめることとする。
 松村氏は、大正14年に慶尚北道の大邱に生まれ、郵便局で働く父親の京城中央電話局への転勤にともない、京城尋常高等小学校へ転校し、京城男子公立高等小学校から京城師範学校へ進学された。学校は黄金町3丁目にあったが、イテウォンに住んでいたので、毎日、南山を歩いて越えて通学したとのことである。
 当時、師範学校は黄金町にあり、現在はすぐ東側に東大門デザインプラザなどが存在する。幻の東京五輪スタジアムの設計者であった故ザハ・ハディド女史のデザインによる斬新な建築で、昨年末に見学したことが思い出される。すぐ近くを歩いたのだった。
 松村氏は7年にわたり在学され、当時は予科5年・本科2年であったが、本科2年生の時の担任が江田忠先生であった。学級担任印として、江田先生の印鑑が捺された成績告知表も見せていただいた。
 江田先生の思い出としては、毎日の朝礼で詩吟を披露されたそうである。先の論文にも記したが、江田先生の詩吟は木村流の一番弟子だったとのことで、ラジオの朝鮮放送で江田先生の詩吟が流れたこともあった。
 江田先生は、学問と楽しみの両立が必要と説かれたそうで、カセットテープに録音された江田先生の詩吟を聴かせていただくことができた。松村氏の最も好きな詩吟は李白の「静夜思」とのことで、江田先生の泰然たる詩吟はみごとな声だった。
 松村氏は終戦直前に横須賀海軍砲術学校に入学し、日本本土へ渡って敗戦の日を迎え、行くあてもなく本籍地であった寒河江市に帰郷された。その折の受け入れ先が従兄弟の阿部酉喜夫先生であったという。
 故阿部先生には、1990年代の西川町史執筆の際に、多々ご指導をいただいたことが記憶に残る。
松村氏の亡き夫人も詩吟の達人で、阿部先生の奥様の勧めで詩吟を始められたのは、偶然とは言いがたい気がしてならない。
 なお、9月号の会報を読んでいただいた志賀祐紀会員からメールをいただき、国立国会図書館デジタルコレクションに「京城帝国大学一覧」がアップされており、昭和10年のものに、法文学部職員欄の助手の中に「江田忠 山形」という記載があり、昭和10年3月卒業生姓名にも東洋史学専攻として同様の記載がみられることを、ご教示いただいた。記して感謝を申し上げたい。
 また、昭和11年の名簿には既に江田先生の名前はなく、1年間の在職で京城師範へ移られたものと思われる。ちなみに、昭和13年の助手の名簿に泉靖一氏の名前がみえることから、お二人が同時期に助手として在籍されたことはなかった。
 以上で、江田忠先生の京城時代に関する報告を、ひとまず終えることとしたい。
コメント

「大江町における国重要文化的景観選定の意義」 岩鼻 通明(「村山民俗」30号より)

2016年06月28日 | 日記
一 はじめに-重要文化財指定における空間的時間的拡張
 この重要文化的景観というジャンルが設定されたのは、国の重要文化財の指定というのが、文化財保護に関わる時代の流れの中で、その枠組みが空間的にも時間的にもかなり広がってきたという経緯があるということです。空間的に申しますと、保存が元々は点的な形で、たとえば単体としての建築物の保存があったわけです。
 その代表的なものとして名古屋の郊外に明治村があります。これは名古屋鉄道が経営をしている、いわば民間のテーマパーク的な施設ですが、たとえば貴重な文化財である古建築が取り壊されそうになった時に、この明治村に移築をして、場所を移して保存をするというスタイルです。具体的には山梨県の東山梨郡の郡役所や西郷隆盛の弟の政治家であった西郷従通の屋敷が移築されています。現地保存ではなくて場所を移して保存をするという方法です。
 当初はこのような、いわば点的な保存で、個々の建物を保存する、しかも場所は移してもやむを得ないという文化財の保存の発想が一般的であった訳です。それが時代の流れで変わってきまして、一九七〇年ごろから、面的といいますか、むしろ線的といった方がいいのかもしれない保存方法が登場するようになりました。線的というのは、宿場町の町並みなどが典型例ですが、道路に沿った両側の建物の町並みを保存するという発想に少し切り替わってきました。
 その中で生まれたものが、通称伝建地区と略されている、「国重要伝統的建造物群保存地区」という重要文化財のひとつのジャンルになります。
 たとえば、岐阜県の飛騨高山の町並み、および高山のもう少し北にあります飛騨古川というところの町並みですが、基本的には宿場町的な町並みで、道路の両側の街区を保存するという発想で、線的な保存がこの伝建地区の選定によって一九七〇年代から始まったということになります。
 それを更に空間的に広げ、面的に広がりのある空間として保存しようというのが、二十一世紀に入って登場した、この「国重要文化的景観」という新たなジャンルになるというわけです。
 また、時間的にも保存の対象となる建築物がいつ建てられたかという点においても、時の流れの中で、次第にある程度新しいものも保存の対象になってきています。たとえば伝建地区ですと、当初は江戸時代の宿場町の町並みですとか、あるいは江戸時代の城下町の武家屋敷の町並みといったような歴史的町並みが選定対象にされたわけで、前近代、すなわち明治以前のものが優先された時代があったわけです。
 それが明治以降の建物、たとえば明治の洋風建築なども近代化遺産という形で文化財として保存の対象に含まれるようになってきました。さらに重要文化的景観の場合は、第二次大戦より前の建築、つまり昭和初期あたりの建築物も、今は戦後七十年という時代ですから昭和はじめのものも既に百年近く時代がたっているということになります。
 そのような流れの中では、第二次大戦前の町並みというものも、現時点では保存の対象に含まれてくるわけです。ですから、具体的には昭和の戦前の町並みまで文化財保存の対象に入ってくるというような変化が出てきています。

 二 国重要伝統的建造物群保存地区の課題
 それで、まずは伝建地区に関する課題に触れましょう。東北の事例を具体的に示すと、二〇一五年十一月に青森県弘前市と岩手県金ヶ崎町へ行ってきました。弘前はおそらく十年以上前に訪問したきりで、二十一世紀に入ってからは初めて行ったのかもしれません。
 駅前なども町並みはかなり近代化しておりましたけれども、弘前は東北では早い時期に伝建地区に選ばれたところです。一番最初に選定された長野県の木曽の妻籠の宿場町が有名です。東北では秋田県の角館が一番最初で、妻籠と同じ一九七六年に選定されましたが、弘前はもう少し後の一九七八年です。
 今回歩いてみて、たとえば、武家屋敷の建物がつい最近建築物として、国の重要文化財の指定を受けるということになりました。それは弘前藩の史料によって、この建物の建築年代がはっきりわかったからです。それで建築物としても重要文化財の指定を受けることになったんだそうです。
 同じく、少し前のニュースで島根県の松江城の天守閣の棟札が見つかったことで、建築年代がはっきりして重要文化財の指定を受けることになったということもありました。
 同様に、伝建地区の町並みの中でも建築年代がはっきりわかった建物が建造物として重要文化財の指定を受けることになったというニュースがつい最近流れましたので、現地を見てきたわけです。酒屋さんの商家が弘前城を出てすぐのところの伝建地区の一角にありますけれども、建物には実際に人が住んで商売をされていますが、内部を見学させていただくことができます。
 ここでは、ワンコインの百円で見学をさせていただきました。今後の課題になるでしょうが、大江町の町並みの中でもこういった伝統的な商家のような民家の内部を見せていただけるような取り組みも必要になってくるかなと、弘前の町並みを見て感じたところです。若干の入場料的なものをいただくことも含めて、そういった試みも今後は必要になってくるでしょう。
 それから、岩手県金ヶ崎町は北上市の少し南にある町ですが、ちょうど南部藩と伊達藩の境界に立地しており、伊達藩のいちばん北の守りの要になる小さな城下町です。そこの武家屋敷が比較的良く残されています。武家屋敷ですが、二軒ある一つの方が母屋として使われています。南部地方では曲屋と呼ばれ、一軒の建物がL字型になっていますが、この伊達藩では母屋と馬屋を離して建てるような武家屋敷になっていたようです。
 近くに町立の資料館があり、それは二年ほど前にできたようですが、伝建地区の選定は二〇〇一年です。伝建地区の展示を含めて、この地域の歴史がわかるような展示施設がつくられたということで、左沢の場合にも、このような文化的景観に関する展示施設が、これから必要になってくるでしょう。
 さらに東北の事例で、とりわけ最近に伝建地区に選定されたところとして、秋田県横手市(旧増田町)の増田という蔵の町と、宮城県の村田町が同じく蔵の町で、どちらも商人町の蔵の町並みが伝建地区に選ばれました。
 増田の方は雪の多いところでして、ここ二年続けて橫手のあたりは大雪が降ったようです。普通の蔵もありますけれど、内蔵と呼ばれる、建物の内部に蔵がある、あるいは蔵に覆いが付いているといいますか、建物の中に蔵座敷のようなものが造られています。
 雪国独特の町並みということで、この増田の建物は無料で見学できる公共の展示施設として一軒のお宅が使われています。通常は入場料が三百円で内蔵を見せていただけるような民家が十軒近くありますが、あまり時間がなかったので、十分その見学ができませんでした。建物の中にある蔵を観光客が見学できるような形になっています。
 増田は二〇一三年に選定をされた所です。それから宮城県の村田町は二〇一四年の春で、東北の中では一番新しく選定された伝建地区になります。この選定に際しては、山形大学人文学部の岩田浩太郎教授が、ずいぶん努力をされ、当地の紅花の史料を分析されました(注一)。
 山形県から紅花を集荷した商家が紅花問屋として江戸時代は機能をしていたのであり、その町並みが伝建地区になりました。立派な蔵の町並みが続いておりますが、実は東日本大震災で大きな被害を受けまして、かつては水田であった低湿地に町並みがつくられたそうで、かなり大きなダメージを受けました。 
 その修復も兼ねて伝建地区に選定されました。文化庁から修復に際しての補助金を得たという経緯もあったようです。よろず屋さんのような店の二階で昭和の様々なレトログッズを展示されていまして、それを無料で自由に見せていただけました。このお店のご夫婦が熱心で、ボランティアとして案内をされているようです。地元住民の方々の熱意によって、この伝建地区というのは支えられているところがあると感じました。 
 この村田の蔵の町が伝建地区になったことによって、東北六県の中で、伝建地区が存在しないのは、ついに山形県だけになってしまいました。今後も伝建地区の選定が山形県では厳しいところがあるのかもしれませんが、後述のように、むしろ伝建地区というよりも重要文化的景観を目指す取り組みの方が二十一世紀の文化財保護としては重要であると思われます。
 さて、伝建地区は現在四十三道府県の百十地区というふうにかなり拡大をしております。一九七六年から長野県の妻籠や秋田県の角館をトップにしてスタートしたわけで、現在は百十地区に及ぶということになるわけです。
 山形県内では、かつて上山市楢下の宿場町、米沢市の武家屋敷、旧羽黒町手向の門前町などの候補地が若干調査されたことはありましたが、詳細な報告書は作成されたものの、選定に至らないままになっています(注二)。
 実は伝建地区の選定には、地区内の全世帯の同意が必要だということで、これが高いハードルになるところがあります。ですから伝建地区に行ってみますと、町並みは残っているけれども、地区の外に位置していることもあって、わりと町並みが残されているところでも、その中の限られた部分しか、伝建地区になっていないということもあります。
 つまり、そういうケースは地区内の全世帯の同意を得られた部分だけしか地区指定ができないということを示しています。そのあたりの難しさがネックになって、県内では伝建地区を目指すことに、なかなか地元の合意が得られにくいというところがあったのではないのかと思われます。

 三 国重要文化的景観の登場
 それから重要文化的景観という枠組みが、伝建地区のスタートから数十年たって、二十一世紀に入って二〇〇六年から選定が始まり、この十年で五十地区が選定をされています。伝建地区が百ヶ所余ですから、十年間で、かなりのスピードで、この文化的景観が選定をされたということになります。
 ただ地域的には、かなり偏っていて、西日本には選定地区が沢山ありますけども、関東には一件しかありません。そして、北海道が一件、東北では、最初に選定されたのが、一関市の本寺です。この地区は中世に骨寺と呼ばれた平泉中尊寺領の荘園集落であり、二〇〇六年のスタートの時点で選定されました。
 この荘園集落を描いた鎌倉時代に作成された二枚の絵図が中尊寺に伝来しており、一九八〇年代に荘園絵図研究の仲間たちと絵図を見学させていただき、また荘園集落の現地調査にも何度か参加する機会がありました(注三)。
この選定は、平泉の世界遺産登録とかかわるところがありましたが、残念ながら世界遺産登録の段階では、この本寺地区を切り離して、まず平泉の核心部分だけを登録するという形になってしまいました。この本寺地区について、今後に世界遺産の範囲を拡大して登録を目指すことで棚上げになったわけです。
 それに加えて、岩手県遠野市の荒川高原牧場、および追加選定で二〇一三年に遠野市土淵山口集落、ここは遠野物語を柳田国男に語った佐々木喜善氏の生まれ故郷ですが、その地も文化的景観に選定されました。
この文化的景観という概念は、きわめて歴史地理学的な側面が強く、伝建地区が線的保存にとどまっていた面があったところを、面的空間へと保存の対象を拡張したことに大きな特徴があります。この枠組みの成立には、我々の先輩にあたる歴史地理学者の方々が奮闘努力された背景がありました(注四)。

 四 大江町の重要文化的景観の課題
 この文化的景観の選定ということでは山形県で大江町が初めてということになりますし、東北ではまだ数少ない事例の一つになります。それで大江町の重要的文化景観の選定後については、この重要文化的景観を来訪者にどのように見学していただくか、また地元住民の方々に、この文化的景観というものの重要性をいかに認識していただくかということが、将来的な課題になると思われます。
二〇一五年十一月七日に、県教育委員会主催で「未来に伝える山形の宝シンポジウム」が開かれ、そこでデービッド・アトキンソンさんが講演をなさったわけですが、そこで印象に残った言葉として、「保護しか考えない観光戦略のない文化財行政」がありました。
 そのような批判をなさったわけですが、このあたりの議論はなかなか難しいところがあります。たとえば、重要文化財にしても世界遺産にしても、単に観光目的だけではないという、逆の批判もあるわけです。世界遺産の場合は、世界的な展開の面で、あまりにも観光目的が優先されてしまっているという批判も一方であるわけですが、そのあたりはバランスが必要なところだと思われます。 
 ホストとゲストの関係で説明すれば、ホストとしての地元の住民の方々の意識を如何に高めるか、また一方ゲストとして外から来る方々に対して如何に文化的景観を理解していただくかということになります。その両方のバランスをうまく取りながら、進めていくという事業になると思います。
来訪者に何を見ていただくかということについては、先に伝建地区の例でも触れましたが、建築用語でファサードと呼ばれる町並みを、道路から眺めて観察するということが重要になります。
 もう一つは可能であれば、建物の内部を見学できるところがあったほうが好ましいです。これは地元の住民の方々のご協力がかかせないわけですが、実際に住民の方々の生活の場の中に入っていくということになるからです。
そうなると、ある程度きれいに家の中を片付けないといけないというような必要に迫られたりするところも出てくるわけです。ただ、外観だけの観察では、その全貌を十分に理解できないところがあります。
 すなわち、文化的景観というジャンルは、人々の伝統的な暮らしそのものも保護対象の中に入っているような概念になりますので、建物を外側から見ることだけで、文化的景観の全体像を理解するのは、なかなか難しいだろうと思われます。
 そのあたりを、地元の方々に協力していただけるかどうかが一つの鍵になってくるでしょうし、それから、たいへん立派なパンフレット類をつくっていただいておりますけれども、現地の掲示板などや、情報収集源となるインターネットのホームページを活用して、事前に情報を集めることが今では一般的になってきております。
 山形大学農学部環境地理学研究室の卒論でも会津出身の学生が会津若松市で観光客がインターネットをどのように利用しているかについて、現地で実態調査を行ってまとめました。スマホで観光情報をチェックしながら現地を歩く来訪者が増えている時代ですので、いかに情報を提供していくかということが重要になってきます。
 古いインターネットのホームページですと、スマホに対応していないケースがあったりします。山形大学農学部は改組をして六年になり、六つのコースごとに教育研究を行っておりますが、各コースのホームページを立ち上げる必要に迫られ、スマホ対応のホームページをつくらなければならないということで、ようやく動き始めているところです。
 そのようなスマホ対応のインターネットホームページが重要になってきておりますし、もう一つは先ほどのアトキンソンさんが強調されていたことですけれども、外国人に対する説明です。これはなかなかたいへんなことですが、やはり外国人が理解できるような英語以外も含めた多言語のホームページをつくる必要があり、ホームページのみならずパンフレットや案内板なども、日本語だけなくアジアに向けた中国語や韓国語を含めた案内板を出すとか、多言語のパンフレットやホームページをつくっていく必要があるということです。
 外国人の観光客は、いまやインバウンド観光と呼ばれ、重要性を増しております。特に二〇一四年から外国人の観光客が年間一千万人を超え、二〇一五年は千九百万人を超えたと言われておりますけれども、それだけ外国人の観光客が増えているわけです。
 ただ、残念ながら東北地方は、やはり東日本大震災のマイナス影響が残っているということがありまして、外国人の方々になかなか足を運んでもらえないというところが、まだまだあります。そのあたりを、どのように情報発信して克服していくかということが、今後の課題になると思われます。むしろ東北地方は日本の伝統文化がよく残されているところですので、そのようなプラス面を外国人の観光客にどんどんアピールをしていく必要があるだろうということです。
 東北を歩いていても、外国人観光客に出会うことは多くはありません。一方、数年前に九州・太宰府の天満宮へ行った時には中国や韓国からの観光客がたくさん歩いていまして、数割くらいは外国からの観光客が目に付くような状況と比べると、東北はまだまだ外国人の来訪者が少ないと言えます。外国人の方々に来ていただく受け皿としても、先述の多言語でのPRがますます重要になってくると思われます。 
 その一方で地元の住民の方々への啓蒙ということが不可欠で、重要文化的景観というものを具体的に理解していただくことが先決です。来訪者に何を見てもらいたいのか、何を見せればいいのか、それも地元の方々で取捨選択をする必要があるだろうということです。
 先のシンポジウムの時も富山県高岡市の代表の方がみえておりましたが、地元の人に何人も聞いても「何もないところです」ということをついつい話してしまうというか、地元でふだん暮らしているような場合に何が大事なのかということが、なかなか見えてこない世界があるということです。
 それこそ、その地域特有の伝統的なお宝というものがあるはずなのですが、何が大事なのかを地元住民に認識していただく必要があるということです。たとえば、昭和の暮らしぶりそのものが見えるような、少し前のレトロなグッズを並べるだけでも最近の若い人たちにとっては見たことがないような世界が展開するわけです。
 より具体的に示せば、今はパソコンの時代になっておりますけれども、一九九〇年代は、ワープロ専用機が使われていたような時代があったわけで、今の大学生にとっては、ワープロ専用機など見たことも触ったこともないということがあったりします。
 電化製品でも、少し古いものは若い世代にとっては珍しいものになるわけです。結果的に過去のものはどんどん捨てて処分していますが、案外そのような高度経済成長期に入ったころの電化製品なども、今の時代には保存すべきものといえましょう。
 私自身は大阪の出身で、ちょうど物心ついた時には大阪市のはずれの鉄筋コンクリートの中層団地に住んでいました。今はもう解体されてしまい、新しい高層住宅ができております。大阪の天神橋六丁目にある「大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館」には、高度成長期に入った時期の住宅団地の一室が再現されて展示されています。この博物館施設は二〇〇一年に開館しておりますが、高度経済成長期にさしかかるころの暮らしぶりというものも、それこそ博物館の中でしか見られないような時代になっているわけです。
 先ほど戦前の町並みが文化財として保存の対象になってきたことを指摘しましたが、現実には高度経済成長期にさしかかる頃までのさまざまな「もの」もまた、保存すべき対象になりつつあります。民俗学では「民具」という呼び方をしますが、そのジャンルにおいて、博物館などで展示して残しておくべき対象が二十一世紀には拡大してきているといえましょう。
 再度繰り返すと、地元の方々に重要文化的景観というものを如何に認識していただくかということですが、これまでも大江町教育委員会で様々なイベントを実施していただいております。たとえば、講習会とかワークショップですとか、あるいはボランティアガイドの養成ですとか、そのようなイベントを通して、地元住民の方々が、来訪者に対してガイドをする中で、外から来た人が何を見学したいのか、先述のホストとゲストの関係性の中で何を見せればよいのか、ということが次第に深まってくると思われます。つまり、住民参加のイベントなどを重ねていく中で、意識が高まることによって、何が課題であるのかについて、答えがみえてくるということがあるのかと思われます。
 ところで、最上川の流通往来ですが、最上川は、かつて生産地と消費地を結びつけるという役割を有していたわけです。最上川の流域の生産物が河口の酒田の港町を通して、日本海の海運で上方、あるいは江戸まで運ばれるという、日本全体の生産地と消費地を結ぶような流通体系の中で大きな役割を果していました。
 さらに、ミクロにみれば左沢の港というのは上流と下流をつなぐ中継地点のひとつでした。川舟のサイズが上流と下流で違っております。つまり、下流に向うにつれて、より大きな舟が行き来することができるわけですので、左沢と大石田というのは舟のサイズを切り替えるための重要な中継地点でした。
 また、左沢の場合には大江町の行政区域が最上川の支流の月布川の流域沿いに広がっているわけですが、先ほど冨樫教育長からお話しいただきました青苧は月布川の上流地域が江戸時代に生産の拠点であったわけです。
 その青苧を左沢まで運んできてそこからまた舟で下流に運ぶといった、左沢の港は月布川流域の生産物を積み出す拠点としての役割をもっていたわけです。私の専攻する地理学においては後背地という表現をしますけれども、その左沢の港の後背地との結びつきということも、左沢の港が栄えた一つの理由ということになります。
 実は、当初に重要文化的景観の選定を目指した際には、月布川の上流の山村、中山間地域の調査もしまして、私自身はどちらかというと、その調査をメインにさせていただいたわけです。ただ、この後背地の中山間地を文化的景観の範囲に、いかに取り込むかということが、なかなか難しく、第一次選定としては左沢の町並みを対象にしようということになりました。後背地の山村には、若干ながら茅葺きの民家が残っている地区もありますので、左沢の町場と山村との繋がりという要素も、重要な課題として残されているということになるわけです。

 五 おわりに-最上川流域全体への拡大
 それでは、最後に世界遺産と文化的景観との関係を触れておきます。前知事の時代に世界遺産登録に向けたシンポジウムが何度か行われましたが、ご承知のように当初は出羽三山をメインに世界遺産登録に取り組もうという流れがありました。
 それが、ある時点で富士山が有力候補として世界遺産に登録されそうだというふうな流れになってきて、また既に紀伊山地の大峯山が世界遺産に登録をされていたわけで、山岳信仰の霊山としては二番手、三番手になってしまうという経緯もあって、中心が最上川に切り替わるという流れに変わりました。
 最上川の文化的景観として世界遺産登録を目指そうというふうな流れに切り替わってきたということですが、知事が交代する中で世界遺産登録が棚上げになりました。そこで、知事が世界遺産登録から文化的景観に方向を切り替えたという報道が山形新聞紙上でなされ、それをそのまま引用している文献もみられますが、それは正確な報道とは言いがたい、ということを強調しておきたいと思います(注五)。
 すなわち、世界遺産というのは実は条件がありまして、国内法で保護されていることが世界遺産登録の前提になります。したがって、国重要文化的景観の選定は、世界遺産の前提条件をクリアするということに他ならないというわけです。その点では、大江町は非常に先駆的な動き、取り組みをなさったわけでして、この世界遺産登録を目指している段階で、いちはやく重要文化的景観の選定を目指して委員会を立ち上げられたのです。
 県内での取り組みを最初に始められ、それが選定に至ったわけですので、これから最上川流域の各市町村が、この取り組みを繋いでいく必要性があるということです。上流から下流まで、それぞれの市町村で重要文化的景観に選定をされるべく取り組みを進めていって、それが繋がった時にようやく世界遺産登録の可能性がでてくると、私自身はそのように理解をしております。ですから大江町が選定をされたということは、世界遺産登録へ向けてのスタートラインとして非常に重要なことであると考えております。
 ところで、二〇一五年七月に長野県長野市の戸隠へ久々に調査に訪れました。当地は私の卒業論文のフィールドでして、それ以来、十年ごとに追跡調査をしてきました。最初は、一九七五年に卒業論文の調査をしまして、それから四〇年目になりますので七五年、八五年、九五年、〇五年、一五年と、十年ごとに調査を継続してきたわけです(注六)。
 旧戸隠村は、二〇〇五年に長野市と広域合併をしました。旧戸隠村は小さな村でしたが、長野市街地のちょうど北西にあたるところです。広域合併をしてから、十年たって、ようやく政策的な効果が少し現れてきたということを今回の調査時に実感しました。
 長野市では、二〇一三年度から十カ年計画で、国交省の通称「歴史まちづくり法」という法律に基づいて、事業を推進しています。各市町村で歴史的風致向上計画というものを策定して承認されれば、国交省から補助金が出るという制度が、まちづくりの法律として新しくできました。
 長野市では、この制度を導入して、戸隠の中社と宝光社の二つの門前集落を対象に、町並み整備を始めました。宝光社の集落にある、越志さんと武井さんという宿坊旅館が、長野市町並み環境整備事業補助工事というかたちで、長野市からの補助金で、宿坊の屋根の修復をしていました。
 おそらく以前はトタン屋根になっていたと思われますが、トタンを外して茅葺き屋根を再現するという町並み整備を始めたところでした。数年後に、先述の伝建地区に選定されることを目指して、事業を始めているということでした。 
 その宿坊の並ぶ通り沿いに、二〇一五年春にオープンしたアクセサリーショップの店があり、経営者の若い女性の方は住民ではなく、市外から通っておられる方だそうでして、ちょっと白い明るい色の外壁に塗り替えて開業したそうです。ところが、伝建地区の選定を目指す長野市役所の方が突然みえて、その外壁を、もう少し茶色っぽい色に塗り直してもらえませんかと、いきなり言われたそうで、ちょっと憤慨されておられました。
 伝建地区の選定には、建物の色調を全体的に整えるというようなことも必要になってくるわけです。この建物のすぐ反対側には、数軒の宿坊が並んでいるところですので、地区指定をしようとすれば、この建物の色などが問題になってくるということです。そのような地区の合意形成というものが、やはり難しいところがあると実感しました。
 ただ、この長野市の政策というのは、国交省の歴史まちづくり法と文化庁の伝建地区あるいは文化的景観といった文化財保護法とを、うまく組み合わせていると思いました。国交省と文化庁という、それぞれの省庁が行っている、いわば別々の補助金事業になるわけですけれども、両者は対立するものではなくて、両輪の輪として活用すべきもので、歴史まちづくり法で補助金をもらいながら、町並み整備を進めて伝建地区や文化的景観を目指すという先駆的モデルであると感じました。
 鶴岡市の場合も歴史的風致向上計画の取り組みを進めているところですが、最終のゴールとして伝建地区なり文化的景観の選定を目指すというような設定をしてもよいのでないかと思われます。このような歴史まちづくり法なり文化財保護法をうまく組み合わせて使いながら国内法での保護を進めていけば、数十年かかるかもしれませんが、最上川の文化的景観が世界遺産に登録されることは、決して不可能ではないと考えております。
 それから、若干余談になるかもしれませんが、韓国に通う中で例年ゴールデンウィークに国際映画祭が行われる韓国の全州というソウルから南へ二百キロくらいのところに位置する都市を毎年のように訪問しました。ここには、韓国では数少ない朝鮮王朝時代の伝統的町並みが残っています(注七)。
 首都ソウルの一角にも残っていますが、この全州および新羅の古都である慶州の三つの都市には、一部の区画に朝鮮王朝時代の町並みが残されています。以前は何の変哲もない町並みでしたが、それがこの十年くらいで朝鮮王朝時代の町並みを復元というよりは再現したような、いわば人工的に造りあげた町並みが出現しました。
 当初は、私も違和感を持っていまして、いわば偽物という言葉は悪いかもしれませんが、否定的なイメージがあったのです。しかしこの十年間で、この町並みが急速に整備を進められてきて、韓国国内から多くの観光客が集まるようになってきました。
 この町並み整備は二〇〇二年の日韓ワールドカップ共催の前後からスタートしたのですが、十年間も続けていく中で、町並み整備の地区が広がって、それがまた観光客を集めるというふうに繋がってきたわけです。日本でも、このような再現的な町並み整備を工夫できないものか、あるいはファサードだけを伝統的なスタイルにすればよいわけです。郵便局でも商店でも昔風の外観にすればよいわけで、このような町並み整備も、そろそろ日本でも許されてもいいのかなというように感じております。
 最後に付言すれば、前述のアトキンソンさんは新著で、日本は文化財を「観光資源」にしないと生き残れないこと、観光戦略次第で文化財予算を増やせる可能性があること、文化財指定には「保護の視点」と「観光の視点」があり、従来の文化財指定は幅が狭く、「人間文化」という視点を重要視する必要があることを強調されています(注八)。これは、まさに重要文化的景観の活用に、ぴったり当てはまる指摘ではないでしょうか。

[付記]本稿は、二〇一五年十一月十二日に、山形県西村山郡大江町にて開催された、山形県博物館連絡協議会研修会における講演内容を、協議会事務局において成文化していただいた原稿に若干の加筆修正を加えたものである。講演の機会を与えていただいた山形県博物館連絡協議会および大江町教育委員会の関係者の方々に感謝して、稿を終えたい。

[注]
(一)岩田浩太郎『村田商人の歴史像:「蔵の町」をつくった人々』村田町文化遺産活用地域活性化事業実行委員会、二〇一四年。
(二)米沢市教育委員会『南原地区芳泉町 伝統的建造物群保存対策調査報告書』一九九六年(『日本の町並み調査報告書集成』第一八巻、海路書院、二〇〇七年、所収)。
(三)吉田敏弘『絵図と景観が語る骨寺村の歴史:中世の風景が残る村とその魅力』本の森、二〇〇八年。
(四)金田章裕『文化的景観 生活となりわいの物語』日本経済出版社、二〇一二年。
(五)菊地和博『やまがたと最上川文化』東北出版企画、二〇一三年。
(六)岩鼻通明「長野県戸隠高原の三十年~信仰と観光のはざまで~」山形民俗、二〇、 二〇〇六年。
(七)岩鼻通明「韓国都市における伝統的町並景観の保全と利用―ソウルと全州を事例に」季刊地理学五七-三、二〇〇五年。
(八)デービッド・アトキンソン『国宝消滅 イギリス人アナリストが警告する「文化」と「経済」の危機』東洋経済新報社、二〇一六年。
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江田先生の学問と私(「山形民俗」第29号、2015年11月、に掲載)

2015年12月28日 | 日記
 一 はじめに
 筆者が故江田忠先生について、はじめて言及したのは、二〇一〇年八月に開かれた農村文化ゼミナールにおいてのことで、「置賜民俗学の系譜~江田忠先生と武田正先生を中心に」と題した短い報告を行った。
 毎年八月第一土曜日に農村文化研究所主催の農村文化ゼミナールが開催され、神奈川大学の佐野賢治教授が毎回参加される行事も、二〇一五年で二十八回を数えるに至ったが、二〇一〇年の前年までは武田正先生が報告者ないしコメンテーターの常連として活躍されてきた。
 ところが、この年、二〇一〇年になって、関東在住のご子息宅に転居されたこともあって、筆者が武田先生の代役を務めることとなり、急遽、上記タイトルの報告を行うことになった。
 この頃、筆者は年に数回、韓国を訪問し、全州や富川、釜山などの国際映画祭に足を運びながら、日韓の映画を通した地域活性化に関する調査研究を進めつつあった。その成果の一端は、今春に刊行された「村山民俗」誌上に投稿することができた(注一)。
 さて、江田先生は、山形大学工業短期大学部教授を一九七八年に定年退官され、その二年余り後の一九八〇年四月五日に亡くなられた。筆者が、一九八三年十月に山形大学教養部に赴任した際には、この組織は既に工学部Bコースとして再編されており、Bコースの教養教育担当教員は、教養部分室として工学部内に籍を置いておられた。
 江田先生は、いわば筆者の大先輩ということになり、残念ながら生前にお会いすることのかなわなかった朝鮮半島研究の先達の研究歴に関心を寄せる契機となったのである。
 さらに、今春、たまたま東京の京橋にある国立近代美術館分館フィルムセンターの展示室で開催された企画展「シネマブックの秘かな愉しみ」を見学していたところ、最後のコーナーの地方出版物の中に、江田先生の著書が展示されていたことに感銘を受けた。
 映画に関する書物も出版されておられたとあっては、江田先生の学問の全体像を把握することに関心がさらに増大し、本誌の誌面をお借りして、拙文をまとめるに至った次第である。

 二 江田忠先生の経歴
 江田先生の経歴については、山形大学退官時に編集・発行された『くらしの中の六十五章』の巻末に詳しいが、同書によれば、一九一三年に両親の渡鮮により朝鮮咸鏡北道清津(現在は北朝鮮)にて出生された。
 そして、一九三五年に京城帝国大学法文学部史学科卒業、一九三五~一九三七年に京城帝国大学助手、一九三七~一九四五年に京城師範学校教諭・助教授を経て、一九四五年に郷里の米沢へ引き揚げ、以降は米沢東高校教諭、山形県立米沢女子短期大学助教授、山形県教育庁社会教育課成人教育係長、山形大学工業短期大学部助教授・教授、福島女子短期大学教授を歴任された。
 京城帝大では、法文学部の助手をされたようで、宗教学・社会学研究室に在籍された朝鮮の宗教・民俗研究で著名な秋葉隆教授・赤松智城教授のもとで、朝鮮半島の民俗文化に関する調査研究にも従事された可能性がある。
 ただ、同書巻末の主な業績一覧では、戦前のものとして「宋会要稿本目録について」一九三五年、京城帝大史学会誌、および「功過格にみる中国人の道徳思想」一九四一年、京城帝大学叢、の二本の論文が掲載されているのみで、主要な研究分野は中国思想史であったとも思われ、東洋史学研究室の助手であったのかもしれない。
 同書巻頭の「はしがき」では、「東洋史の研究に没頭」と記されており、韓国民俗学の黎明期に詳しい東亜大学教授の崔吉城先生に、おうかがいしたところ、ご存じないとのことで、やはり東洋史学の助手であった可能性のほうが高いかもしれない。
 やはり、京城帝大で江田先生より少し後に助手となった故泉靖一先生(戦後に東京大学の文化人類学研究室を創設され、川田順造先生の恩師にあたる)が、戦後に『済州島』と題した朝鮮研究の大著を出版されたことと、江田先生が戦後に京城時代の研究をまとめられることがなかったのは対照的といえようか。
 江田先生の場合は、朝鮮からの引き揚げ時に研究資料をほとんど持ち帰ることができなかったために、朝鮮在勤時の研究継続を断念されたと耳にしたことがあった。その情報は前述の農村文化ゼミナールでの報告後のことであったかもしれない。一方の泉靖一先生は、引き揚げ時に卒論の「済州島」とカメラのみを持ち帰られたとのことであった(注二)。

 三 江田先生の社会教育学研究と民俗学研究
 江田先生の戦後の主たる研究分野は、社会教育学であったといえよう。上述の著書巻末の主な業績中の著書はすべて、この分野に関わるものであり、戦前の東洋史研究から大きく専門分野を切り替えられたのであった。
 筆者は、この社会教育学の分野に関しては全くの門外漢であり、適切なコメントを付すことはできかねるが、江田先生の学問において、社会教育学と民俗学とが密接に結びついていたことは間違いない。
 江田先生は前近代的な民俗を、戦後の近代的な社会教育の中に取り込むことを目的とされていたといえよう。それは、いわば過去の遺産としての民俗知を、社会教育の場で生かそうとする試みであった。
 このことを的確に表現されたのが、大井魁氏の追悼文における「むしろこのようなふるい講集団と新しい社会教育の展開とを有機的に関連づけるのが江田さんの仕事である」という一文であろう(注三)。
 県内の民俗学界においても、置賜民俗学会の初代会長として、基礎を築かれたが、この点に関しては、かつて村山民俗学会の野口一雄会長と連名で報告したことがあったので、その一文に譲りたい(注四)。なお、その文中の江田先生に関する記述で不正確な部分が認められるが、本論の記述をもって訂正したい。
 置賜民俗学会は江田会長のもとで、精力的な地域調査を展開された。筆者も、平成二五年度国土地理協会研究助成で「山形県置賜地方における中山間地の土地利用の変遷に関する歴史地理学的研究」と題した共同研究を実施したが、その際に、米沢市綱木集落を対象とした置賜民俗学会の調査報告から学ぶところがたいへん大きかった(注五)。
 また、映画に関する文章の中にも、社会教育の自説を踏まえた記述が散見するのだが、それについては、次章で詳しく触れることにしたい。

 四 江田先生の映画への関心
 江田先生が出版された映画関連の著書として、『よねざわ活動寫真ものがたり』一九七二年、および『続 よねざわ活動寫真ものがたり』一九七四年、の二冊があげられる。いずれも、九センチ四方のサイズであり、よねざわ豆本のシリーズとして刊行されたものである(山形県立図書館所蔵)。
 まず、前者の目次は、はじめに、1米沢座の活動写真、2駒田好洋の来米、3戦時大活動写真会、4声色付きの活動写真、5明治から大正へ、6大正初期の活動小屋風景、7呼物となった桜島大噴火実況映画、8活動写真利用の宣伝、9常設館の誕生、10活動写真興行界の三巴戦、11活動写真興行への批判、12活動写真取締案、13米織女工の活動写真観覧禁止、あとがき、著者略歴、となっている。
 また、後者の目次は、1大正六年の大火と活動写真興行、2常設館の復興、3活動写真宣伝の新趣向、4活弁評判記、5大正八年の大火と慈善興行、6「イントレランス」の上映、7尾上松之助の来演、8場内禁煙、9「キネマカラー」の上映、10国勢調査宣伝と活動写真、11活動写真利用の科学講演会、12国活直営館の出現、13活弁集団、14松竹キネマの進出、15活動写真時代から映画時代へ、あとがき、挿絵を描いて、著者略歴、となっている。
 前者の「はじめに」によれば、当時、江田先生は米沢映画鑑賞会の会長を務めておられ、月一回発行されていた機関紙「映画鑑賞」のフロントに毎号書き続けてきた文章をまとめたものだそうである。 
 米沢市立図書館に所蔵されている「米沢新聞」で、米織女工を調べているうちに、映画に関する記事が目に付いたのだそうで、いわば女性の社会教育をめぐる調査研究の副産物ともいえよう。
 また、一八九五年末に、フランスのリュミエール兄弟が映画(シネマトグラフ)を発明した後、早くも一八九九年夏に米沢座でシネマトグラフが上映されたことや、一九一四年一月一二日の鹿児島県桜島の爆発後まもない二月一六日から三日間、この映像が上映されたことなどの記述を興味深く拝読した。
 さらに、米織女工との関連では、弁士との関わりから、一九一七年から一年間余り、女工の映画館への出入りが禁止され、その後に条件付きで解除されたというエピソードは、当時の世相を反映しており、米沢ならではの映画史といえよう。
 そして、後者では、一九一七年の舞鶴座の開館時に、尾上松之助主演の「忠臣蔵」(一九一〇年に制作された牧野省三監督作品で日本初の長編映画)が上映されたが、米沢における忠臣蔵タブーについて「この頃にはそんなタブーもなかったのであろう」と述べておられる。
 この記述は、江田先生の民俗学に関する見解を提示しているものとも思われる。すなわち、古い時代から変わらずに継承されてきたと信じられてきた民俗事例が意外と後世に生み出された場合があるということを示唆しているのではなかろうか。
 一方、一九二〇年の米沢高等工業学校(戦後の山形大学工学部の前身)創立十周年記念として、科学映画が上映され、在校生が説明したとのことであるが、上映作品は「ウドンの製造」や「結晶」に加え、「ヒコウキ」や「近代戦争武器」といったタイトルが見受けられることにも、当時の世相が反映しており、興味深い。
 最後の「あとがき」では、一九二三年の関東大震災で、いったんは京都に映画制作の場が移るが、一九三一年のトーキー発表までが、無声映画の完成期であると述べ、その前史としての地方都市の事例に関する記述であることを記して、締めくくられている。
 次に、江田先生の映画への関心を物語る文章として、戦後の米沢新聞に連載されたコラム「こけしのささやき」の中に含まれているものを拾い出したので、簡単に紹介したい。このコラムは、一九五〇年から一九五九年まで紙面に欠かさず連載されたもので、江田先生の十三回忌にあたって復刻出版された(注六)。
 まず、一九五一年のコラムでは、米沢市・山形市ともに映画館は六館あったが、一日の入場者は米沢が二百人に対して、山形は六百人であること、また入場料は八十円で、うち四十円が入場税であることが記されている。
 また、一九五二年のコラムでは、映画「カーネギーホール」上映に際して、米沢の映画館グリーンハウスが当時としては異例の入れ替え制としたので、ゆっくり鑑賞できたと記されている。その頃は、いつでも入場できるのが普通であったのだ。
 そして、一九五三年には、入場税が十割から五割になったが、前売り券がなくなり、かえって高くなったとの指摘がある。前売り券は日本独自のシステムで、そのために正確な入場者数が把握できないとも言われている(ちなみに、韓国では毎週、作品ごとの入場者数が公表されている)。
 また、この頃から、テレビ放送にも注目されるようになり、テレビスターなるものがあらわれてくるという記述は、まさに先見の明といえよう。その後も、度々、テレビに関する言及が散見する。テレビの普及で、映画はシネマスコープが多くなり、映画の質を向上させたとの記述もみられる。
 一方、米沢では洋画の上映が少なく、洋画と邦画を比較することで、鑑賞眼が高められると記されている。また、文化映画は資金不足だが、世界水準であるために、映画館で短編の文化映画や教育映画を積極的に上映すべきとの指摘もみられる。
 ところで、二十一世紀に入る頃から、3D映画が相次いで公開されるようになったが、この当時既に偏光メガネで見る「立体映画」が存在していたことには驚かされた。後の一九五九年のコラムでは「においの出る映画」にも言及されており、まさに最近はやりの4DX体感型上映の先取りといえようか。
 一九五四年に入ると、入場税が地方税から国税になり、六十円に五割の税で九十円だったものが、二割の税になって、六十円に十二円の税と値下げになるのか、と記されているが、事実は不明である。また、当時は映画館の収入の七割がフィルム代として吸い上げられるために、映画館の経営が苦しいことが指摘されている(近年はほぼ五割とされる)。
 教育映画祭で最高賞を得た作品を、文部省が非選定としたことを批判的に紹介されておられ、翌一九五五年には、文部省教育映画等審査分科審議会が松竹の仇討ち映画を成人・家族向けに選定したことも批判され、日活映画「月夜の傘」が選定を返上したことを皮肉っぽく紹介される一方で、教材映画を成人教育として親たちにも見せる必要があることを指摘されている。
 一九五六年には、当時に流行した「太陽族」映画を教育面から批判され、一九五七年には米沢市の小中学校に映写機が一台づつ配置されていることを記し、文部省が月に二回、映画館で日曜の午前に教育映画を上映する施策を紹介している。
 一九五八年には、テレビと映画の大勢は既に決したと記すが、実は、この年が映画館入場者数のピークであったのであり、先と同じく先見の明である。当時は国民一人が年に十二回映画を見たことになるのだが、近年は年間二回にも満たない水準である。
 一九五九年には、今年前半期の日本映画制作本数が二八〇本で、アメリカの一年分より多いことが指摘されるが、一貫して邦画は大半が愚劣で、そうした映画ほど国内で商品価値が高いことを嘆いておられる。その指摘は現在の日本映画にも、そのままあてはまるのではなかろうか。
 
 六 おわりに
 江田先生の著作の中から、個人的関心のおもむくままに書き連ねてきたが、戦前の朝鮮在住時代を回顧するものは、けっして多くはなく、とりわけ、研究生活に関する記述はほとんどみられない。
 それは、引き揚げ時に、たいへんな苦労をされたようで、ご両親とご長女は北朝鮮から、江田先生のご家族はソウルから別々に引き揚げられ、しかもご尊父は引き揚げの途中で病没され、ご母堂も引き揚げ後まもなく逝去されたという。
 さらに、引き揚げ直後は、江田先生は米沢で単身生活を、ご家族は会津若松で暮らされていたそうで、山形大学に赴任された理由のひとつに、官舎に住むことができ、家の問題から解放されることがあったそうである。
 また、『こけしのささやき』の略歴から、米沢映画教育研究会の会長であったことに加えて、詩吟を趣味とされ、一九三九年に早くも、第一回全朝鮮吟詠コンクールで優勝されたことと山形県吟詠研究会の会長であったことを知った。
 以上、江田先生の学問について、私的関心から出発した記述にすぎないが、誤解曲解が含まれていれば、筆者の責任であり、忌憚のないご批判をいただければ幸いである。

 [付記]本稿を成すにあたっては、山形大学教養部の先輩であり、かつて江田先生と同僚であった山形大学名誉教授早川正信先生、および農村文化研究所から、資料の提供をいただいたことを明記して感謝いたします。

 注
 一 拙稿「映画をめぐる現代民俗-日韓の比較から-」村山民俗二九号、二〇一五年七月。
 二 泉貴美子『泉靖一と共に』芙蓉書房、一九七二年九月。
 三 大井魁「江田忠先生の学風を偲ぶ」米沢文化十一号、一九八一年五月。
 四 拙稿「山形県民俗(学)研究の歩みー各地域民俗研究団体の発足と諸先学」
  (野口一雄と分担執筆)『第三〇回東北地方民俗学合同研究会 予稿集 各県民俗学の始まりと今』二〇一三年一一月。
 五 国土地理協会サイト「過去の学術研究助成の実績」のPDFファイル参照。
 六 江田忠『こけしのささやき 米沢新聞連載コラム集(上・下)』一九九二年四月(山形大学工学部図書館所蔵)。
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文久三年 月山湯殿山羽黒山道中日記(山形大学農学部図書館所蔵)

2015年09月13日 | 日記
文久三年 月山湯殿山羽黒山道中日記(山形大学農学部図書館所蔵)

出羽三山の旅日記の画像をアップしました。
 文久三年(1863)の出羽三山道中日記です。群馬県の福地書店より購入した古文書です。この史料の写真を論文などに引用される場合には、必ず所蔵先を明記いただき、私宛に、ご一報ください(imichiaki@mail.goo.ne.jp)。
 この史料の作者と居住地は不明であるが、冒頭に栃木県の壬生、終わりに群馬県の太田という地名がみえるので、おそらくは栃木・群馬県境付近の可能性が大きい。
 途中、八溝山を経て、奥州街道を北上し、仙台城下町から松島を見て、石巻から金華山に渡り、古川から銀山温泉、尾花沢を経て、古口から最上川の川舟で清川で下船して羽黒山へ至る。
 羽黒山御本坊(山頂の御本社)に詣り、月山に登り、湯殿山へ下って、仙人沢から田麦俣、大網を経て、金峯山(きんぼうさん)に詣り、湯田川温泉を経て、帰路は日本海に沿って、村上から新潟を経由して、柏崎から高田を経て、柏原から戸隠へ詣り、長野善光寺を経て、中之条から伊勢崎を経て、帰路についている。
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映画をめぐる現代民俗-日韓の比較から-(「村山民俗」29号より、末尾に追記あり)

2015年07月26日 | 日記
  映画をめぐる現代民俗-日韓の比較から-
                           岩鼻 通明
 一 はじめに
 本論文は、二〇一五年度東北地理学会春季大会において報告した「映画祭を通した地域活性化-日韓の比較から」の内容に加筆修正したものである。映画を通した地域活性化の概要に関しては、既に前稿で記したこともあって、ここでは前稿以降の推移や補足を論じることとしたい(注一)。
 また、日韓の映画祭の比較に関しても、まもなく別稿が刊行される予定であるため、ここでは、その内容とできる限り重複を避けながら論じることとしたい(注二)。
 
 二 映画祭をめぐる現代民俗
 映画祭は映画の百年余りの歴史の中で生み出された近現代的祝祭であり、現代民俗の研究対象となりうる。一般的には新作映画のお披露目(いわゆるプレミア上映)の場であり、その中から優秀な作品に対して賞が与えられるコンペティション部門が設定されることもある。
 映画祭の担い手は、国際映画祭などの大規模な場合は映画業界人が中心となるが、地域で開かれる映画祭では、地域住民がスタッフとして支える例がしばしば存在し、多くの場合はボランティアとしての活動となっている。
 一方、映画祭の観客は、業界人に加えて、シネフィルと呼ばれる、いわゆる映画ファンが集まる場となるが、映画祭と連動して、その地元で制作された地域発信型の作品が上映されることもあり、その場合はエキストラとして出演した地域住民たちが数多く上映に集まる現象がみられ、地元と密着した映画祭となり、地域活性化に寄与する効果が大きいといえよう。
 さて、日韓の映画祭の歩みを比較すると、日本ではテレビの普及にともない、映画が不況になって、大手映画会社が撮影所を維持できなくなった一九八〇年代に入り、映画産業の復活を賭けた宣伝の場として、東京国際映画祭などが立ち上げられたものと憶測される、
 現存する映画祭で、最古の歴史を有するのは、大分県の湯布院映画祭で、今夏で四〇回目を数える。小規模で、地元観光業界のサポートが得られ、日本映画の特集が組まれることから有名な監督や俳優がゲストとして来場し、毎晩ゲストを招いた交流パーティーが開催されることなどが息長く継続できた要因といえようか。
 その一方で、映画祭の消長も激しく、たとえば東北では、中世の里なみおか映画祭(青森県)は上映作品をめぐる軋轢と広域合併の過程で消滅した。みちのく国際ミステリー映画祭(盛岡市)はスポンサーの撤退などの理由から消滅し、個性的な映画祭として知られた、あおもり映画祭や、しらたか的音楽映画塾も消滅に至った。沖縄国際映画祭や京都国際映画祭のように新たに生まれた映画祭もみられるが、それらは吉本興業の国際戦略上のものであって、観客重視の映画祭とは言いがたいものがある。
 それに対して、韓国では、多くの映画祭が前世紀末以降に立ち上げられた。一九九七年末に起こったアジア通貨危機によって、国際通貨基金の管理下に置かれた韓国は、折りしも誕生した金大中政権下で、輸出産業の奨励政策を断行せざるをえなかった。
 その柱のひとつがIT産業育成であり、もうひとつが映像産業の育成であった。いわゆる「韓流」ブームは国策として推進されたのであり、まず東南アジアの華僑を含めた中華圏がターゲットとされ、日本にブームが到来したのは、二〇〇二年のW杯日韓共催の後で、ブームの掉尾を飾るものとなった。
 韓国政府は映画産業にさまざまな支援を実施し、その一環として多くの映画祭も誕生することとなった。韓国三大映画祭として、釜山国際映画祭・全州国際映画祭・富川国際ファンタスティック映画祭をあげることができるが、いずれもソウル以外の地方都市で開催されていることが大きな特徴となっており、地域振興の役割も担っている。
 一方、ソウルでは、ソウル国際女性映画祭など、人権や環境といったテーマ別の映画祭がいくつも存在しており、女性映画祭は仁川や光州でも近年に始まり、結果的にソウル国際女性映画祭が凋落するに至っている。韓国古典映画の上映を中心に据えて始まった忠武路映画祭のように数年で消滅した映画祭もあるが、日本に比べると、全国各地で新たな映画祭が立ち上げられており、地方自治体が地域活性化を目的に映画祭を支援する例が多い。
 映画祭の予算は、金東虎釜山国際映画祭前委員長によれば、公的支援・民間支援・自己収入が均衡する比率が望ましいとされるが、実際には釜山のような大規模映画祭においても、入場券などの自己収入は一割程度にすぎない。
 韓国の映画祭の多くは公的支援の比率が大きいが、日本では例外的であり、手弁当によるボランティア運営の映画祭が多くを占め、しかも自治体による支援は縮小の傾向にある。日韓ともに、一億円の予算で延べ二万人の観客を動員するという対費用効果は共通しているが、日本では映画祭事務局のスタッフも事務所も過小であるが、韓国ではスタッフ・事務所ともに充実しており、待遇の差異は非常に大きいといえる。
 また、国際映画祭は、自国の映画を海外に輸出する絶好の機会でもあることから、映画のマーケットが開催される。とりわけ、釜山国際映画祭のマーケットは大規模であり、二〇一一年にはマーケットが開催される国際展示場に近接して映画祭専用劇場の「映画の殿堂」がオープンした。この専用劇場は屋根をかけた巨大なオープンステージを有し、数千人の観客を収容することができ、開幕・閉幕上映を天候に左右されずに行うことが可能となった。
 一方、東京国際映画祭は六本木をメイン会場に開催されてきたが、近年、マーケット部門がお台場開催に分離された。釜山が映画上映とマーケットを一体化して、相乗効果を高めたのに対して、東京が映画上映とマーケットを切り離したことは不可解であるといえよう。
 また、韓国では、KOFIC(韓国映画振興委員会)という政府の外郭団体が存在し、百人ほどのスタッフを抱えているが、日本では、これに相当する組織は存在しない。この点でも、日韓の行政による支援の相違をうかがうことができる。日本では、一時期、経産省がコンテンツ産業育成の観点から映画に対する支援を始めたが、結果として文化庁との二重行政となり、二〇一一年の大震災以降は熱意を失ったようにみえなくもない。
 ただ、韓国では、政府や自治体の指導者が変わると、政策が大きく転換することがあり、保守化傾向が著しいパク・クネ政権下において、映画に対する検閲とも言える事態が相次いで生じるに至っている。
 二〇一四年秋の釜山国際映画祭で、この春に起こったセウォル号沈没事件を批判的に描いたドキュメンタリー映画「ダイビング・ベル」に対して、釜山市長が上映中止を要請した。映画祭事務局は要請に従って上映を中止した前例はないことから上映を実施したが、上映館に多くのマスコミが殺到した場面を筆者も実見した。
 その後、映画祭委員長に対して辞任勧告が市長から出され、KOFICもまた、今年度の釜山国際映画祭に対する支援を半減することを決定した。また、ソウル国際青少年映画祭に対しても、支援打ち切りが決まるなど、映画祭に対する政治的圧力が増しており、映画人から反発が高まっている。

 三 フィルム・コミッションをめぐる現代民俗
 韓国では、一九九六年にスタートした釜山国際映画祭を追うように、一九九九年に釜山フィルム・コミッション(以下FCと略記)が立ち上げられた。釜山の市街地でのカーアクションや大火災シーンの撮影をフォローした実績が高く評価され、またオール釜山ロケ・釜山弁の映画「友へ チング」が当時の観客動員記録を塗り替える大ヒットとなったことなどから、多くの商業映画のロケが釜山に集まることとなり、二〇〇〇年代前半には、劇場公開される韓国映画の半数近くが釜山でロケされるに至った。
 それ以前から、KOFICはソウル南郊の南楊州市にソウル総合撮影所と称する大規模な撮影スタジオと野外セットを有し、二〇〇〇年に公開された映画「JSA」では、現地での撮影が不可能な板門店のセットを組んで、ここで撮影が行われた。このセットは今も存在して、国境の板門店へ簡単には行くことのできない韓国人観覧客の人気を集めている。
 釜山に少し遅れて、全州でもFCが立ち上げられ、国際映画祭と協調しながら実績を積み重ねてきた。ただ、近年は仁川や京畿道FCが立ち上げられ、ソウルFCも二〇〇四年に公開された「僕の彼女を紹介します」では、国会議事堂前でのカーアクションと爆発シーンの撮影をサポートするなどの実績をあげ、ソウル近辺でのロケが多くなりつつある。
 映画ロケには、多くの人手を要し、長期間の撮影となることもあって、費用を抑えることのできる近距離でのロケが、日韓ともに増加しつつある現状といえよう。そのため、釜山国際映画祭では、プロジェクト・ピッチングなとと称して、これから制作を開始する映画のシナリオを公募し、プレゼンを実施して、優秀作品には釜山ロケを条件に支援金を助成する試みを行いはじめた。
 日本でも、釜山FCに刺激を受けて、二〇〇〇年代に入ると、雨後の筍のようにFCが続々と立ち上げられた。神戸FCは映画「GO」の地下鉄駅の線路内シーンの撮影をサポートし、首都圏では撮影不可能だった原作小説の重要な場面の再現をフォローし、高い評価を得るに至った。
 日本では、韓国とは異なり、警察組織が自治体から独立しているために、カーアクション場面など、警察と協力して道路封鎖の必要なシーンの撮影が、とりわけ大都市の市街地では困難であるが、神戸においては深夜のロケなどによって、この点を克服している。
 山形県においては、山形FCが二〇〇五年に立ち上げられ、近年では映画「超高速!参勤交代」や「るろうに剣心」の撮影をサポートしている。また、二〇〇六年に株式会社として設立された庄内映画村は月山麓に広大な野外ロケセットを有し(二〇一四年からスタジオセディック庄内オープンセットに移管)、時代劇を中心に数多くの映画を生み出してきた。アカデミー賞外国語映画部門賞を受賞した「おくりびと」もまた、庄内映画村が制作に関わった作品である。
 しかしながら、日本では諸外国のFCが実施している戻税の制度が税制上から実施困難であり、海外から大規模なロケを誘致することは難しい。二〇〇九年にジャパンFCが設立されたものの、大規模なハリウッド映画ロケの誘致には至っていない。

 四 映画館をめぐる現代民俗
 映画を上映する場となる映画館も大きく変貌してきた。テレビが普及する前は小都市にも映画館が存在したが、今日では人口十万人以下の地方都市で商業映画館を維持することは非常に困難となりつつある。
 また、一九九〇年代以降は、シネコンの台頭とミニシアターの出現によって、スクリーン数は旧に復した。もっとも、かつてのような数百人を収容できる大劇場は少なく、シネコンも百人から二百人規模のスクリーンが主体で、スクリーンごとに収容人数が異なる構造となっている。
 これは、ヒット中の作品を大規模スクリーンで上映し、不人気作品は小規模スクリーンへ移動させるといった操作で、来場した観客を取りこぼさないための工夫とされる。上映時間も三〇分ごとに始まるようなスケジュール管理が行われ、鑑賞作品を決めないで来た観客が長時間待たずに映画を鑑賞できるようなシステムになっている。
 初期のシネコンは郊外の大規模小売施設に併設して設置されたが、近年では大都市の都心部に鉄道ターミナルの再開発などにともなって設置されるようになり、立地傾向が変化しつつある。シネコンの小規模スクリーンでアート系映画が上映されたりすることから、ミニシアターの経営が厳しくなってきている。
 もうひとつ、映画館に大きな変革の波が押し寄せている。それは、この数年で急速に普及したデジタル上映である。撮影機器のデジタル化の進展にともない、ポスト・プロダクションと呼ばれる編集作業もパソコンで行われるようになったが、上映時には三十五ミリフィルムに焼き付けての上映が続いていた。
 しかし、フィルムの焼付けにコストがかかるために、全国の大規模公開時でも数百本のフィルムを用意する程度で、この上映が、いわゆる封切り上映と呼ばれた。一番館と称された封切り館での公開を終えたフィルムは、地方の二番館と呼ばれる映画館へ移動されて公開が行われていた。
 ところが、デジタル上映は、データを運ぶだけなので、全国の映画館のどこでも封切り上映が可能となった。この点は画期的といえようが、デジタル上映設備の導入には一千万
円単位のコストを要するとされる。最近は少し値下がりしたようだが、シネコンにメリットはあっても、ミニシアターには大きすぎる投資が必要となり、ほとんどの新作映画がデジタル配給となったために、地方の映画館の閉館が相次いだ。
 一方、韓国では、日本よりも急速にシネコン化とデジタル化が進展した。二〇一四年夏に公開され、観客動員記録を大幅に塗り替えた時代劇「鳴梁」の上映時には、映画館の多くのスクリーンが、この作品に独占され、同時期に公開された映画をほとんど鑑賞できないという事態に陥った。
 今の韓国では、映画制作会社がシネコンを経営するスタイルになっているため、かつての日本映画のように、自社の上映館で重点的に自社作品を上映する傾向が強まっている。もちろん、大ヒット作品は他社作品でも数多く上映するのではあるが、低予算映画や不人気映画は短期間しか上映されなかったり、しかも早朝と深夜しか上映が行われないといった極端な不公平が生じるに至っている。
 そのために、KOFICが支援して、大都市では低予算映画やインディペンデント映画を上映するスクリーンが確保されてはいるものの、観客は非常に少ないという課題が顕在化している。

 五 おわりに
 韓国へ地域調査に訪問する間に、韓国映画に関心を持ちはじめ、また、韓国では映画を通した地域活性化が政策的に実行されていることを認識したことから、日本との比較研究を行うようになって、十年余りが過ぎた。この間、予期せぬ韓流ブームが起こるなど、日韓ともに映画をめぐる変化の波は顕著なものがあった。
 しかしながら、この波は頂点を過ぎたように思われてならない。映画のデジタル化とともに、ネット配信の新たな波が到来しつつある。かつては、ビデオやDVDで鑑賞するようになった映画が、いまやパソコンの画面上で容易に鑑賞できるようになりつつある。
 もちろん、画質などの面で不満は残るものの、わざわざレンタルで借りる必要もなくなりつつある。DVDの百円レンタルによって、映画館の観客が減少したともされるが、それ以上の危機が映画館に迫りつつある。
 実は映画産業は、劇場公開のみでペイする作品は少なく、DVDやテレビ放送などの二次使用から得られる収入で補われてきたところが大きかった。韓国では、日本以上の高速ネットの普及もあって、以前から二次使用料が激減しているとされ、映画制作費を抑制せざるをえなくなっている面があるとされる。
 日本においても、テレビ局が制作に加わっていない映画は予算をかけられない状況下にあり、質的な低下を免れることが困難になって、観客も入らないという悪循環になりかねない。これらの課題を克服することは次世代にゆだねられているといえようか。
[付記]本論文は、二〇一二~二〇一四年度科学研究費補助金「映画を通した地域活性化の日韓比較研究」(基盤研究(C)、研究代表者:岩鼻通明、の研究成果の一部である。
注1 岩鼻通明「映画館をめぐる現代民俗-鶴岡まちなかキネマを事例として-」山形民俗二十八、二〇一四年。
注2 岩鼻通明「地方における映画文化の育成と活用-映画祭・フィルムコミッション・映画館の連携-」『コンテンツと地域』所収、ナカニシヤ出版、近刊。

[追記]投稿後の朝日新聞に、映画館でのポップコーンを食べる音が気になって、映画に集中できなかった旨の読者投稿があり、これをめぐって読者間の議論が続いた。実は谷国大輔氏の著書『映画にしくまれたカミの見えざる手』講談社+α新書、2009年、の冒頭に「なぜ映画館でポップコーンを売っているのか」という節がある。そこでは、せんべいなどに比べて音がしない、掃除しやすい、加熱するので衛生的、原価が安く儲けが大きい、という4点が理由として指摘されている。
 もちろん、映画館内部でのマナーは大事だが、観客を泥棒よばわりする、くだらない映画泥棒のCMの代わりに、ミニシアターの中には観客マナーを呼びかける工夫に満ちたCMを流す映画館もある。日本の観客は、ある意味で上品にすぎる。韓国の映画館では、コメディー映画では大笑いし、サスペンス映画のクライマックスでは拍手喝采があがるなど、映画と観客が一体感を有しており、このような雰囲気が個人的には好ましいものだ。朝日新聞のポップコーン論争は、まさに映画館で映画を見る文化の終焉を告げるものに思えてならない。
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「出羽三山信仰と秋田」(『秋大史学』61号、所収、2015年3月刊)

2015年06月09日 | 日記
「出羽三山信仰と秋田」秋田大学に拠点を置く『秋大史学』に今春、掲載した論文を編集責任者の了解を得てアップします。原文は縦書きですので、見づらいかもしれませんが、お許しを。

  はじめに
 大学院の修士論文作成以降、ほぼ三〇年余りも出羽三山信仰の地理学的研究を続けてきた。その間、三冊の著書を上梓することができた(一)。その際に立脚点として、心がけてきたことがあった。
 ひとつは、従来の出羽三山信仰研究は、羽黒修験道の宗教学的研究が中心であり、いわば修験者の立場からの研究であった。しかしながら、出羽三山信仰を支えてきたのは、修験者のみならず、広い範囲に拡がる信者の組織化があってこそで、両者の相互的関係から、出羽三山信仰は成立しているのであり、信者側の視点から広域的な地域調査が必要であるとの認識から出発した。
 もうひとつは、近世の出羽三山は「八方七口」の別当寺が同等の祭祀権を有していたのであるが、それぞれ個別に調査研究が行われていたため、それらを総体として考察し、かつ客観的に分析する視点が必要であると認識した。その両方の視点から調査研究を進めてきた。
 ただ、近年は自身の研究テーマを韓国地域研究および映画を通した地域活性化研究へと大きく変えたこともあって(二)、出羽三山信仰に関わる近年の変化などに言及することによって、与えられた論題に代えさせていただきたい。

 一 広域信仰圏の縮小
 出羽三山は東日本一円に広大な信仰圏を形成してきた。この信仰圏は、三山山麓の宿坊の山伏が信仰圏内の信者を組織化することによって維持されてきたのだが、信者の高齢化や都市化にともない、信仰圏が縮小ないし希薄化しつつある。信者の高齢化だけでなく、信仰が若い世代に継承されないといった問題も生じてきている。
 また、三陸沿岸部は、古来、出羽三山の有力な信仰圏であったが、東日本大震災で甚大な被害を受けたことも影響しているとみられる。羽黒山頂の霊祭殿には、震災犠牲者の供養塔が建立されている。
 元来、山岳信仰は豊作をもたらす水源の神として農民の篤い信仰を集めてきたが、農村の都市化や農家の兼業化の進展によって、信仰の基盤が失われつつある。
 近年は、パワースポットや山ガールなどのブームによって、参詣者や登山者が増加している例も散見されるが、信仰の山から観光の山へと変化せざるをえない時代といえよう。近世の月山登拝口は「八方七口」と称されたが、新たに「新八方十口」と名づけた周辺市町村の観光振興の連携も模索されている。

 二 秋田県における出羽三山信仰
 興味深いことに、湯殿山の史料上の初見は、戦国大名の佐竹氏の起請文である。それに加えて、常陸国南部に江戸初期の湯殿山碑が数多く存在することから、湯殿山と常陸国との密接な関わりが指摘されてきた(三)。
 ただ、なぜ山形県から遠く離れた茨城県で湯殿山信仰が早い時期に浸透したのかは、いまだに解明されていない。また、佐竹氏の秋田入部にともない、湯殿山信仰が、どのように秋田へと、もたらされたのかについても定かではない。
 さて、秋田県における出羽三山信仰の特徴的な面は以下の三点といえよう。ひとつは由利郡における女性の羽黒山参りである。羽黒山は前近代においても女人禁制ではなく、五重塔の脇に存在した血の池で越中立山と同じく女人救済儀礼として血盆経奉納が行われていた(四)。
 二〇一四年九月二十一日に、富山県立山町で再現された布橋灌頂儀礼を現地で見学することができたが、これほど大規模な儀礼ではなかったとしても、女性が直接に血盆経を血の池へ奉納できた羽黒山の事例は近世の庶民信仰を具現化したものとして貴重である。
 もうひとつは、農閑期の伊勢参宮の途上での羽黒山参りである。月山と湯殿山は女人禁制かつ夏の開山期しか参詣できなかったが、里山である羽黒山は一年中、参詣者に開かれていた。かつて、雪の積もった石段を山頂まで登ることを試みたことがあったが、不可能ではなかった。北東北からの伊勢参宮道中日記には、しばしば羽黒山に参詣に立ち寄った記述がみられる。
 最後に、鉱山労働者の信仰を集めたのが、西村山郡西川町の本道寺のすぐ東に位置する八聖山である。明治の神仏分離以降は金山神社と称しているが、近世には本道寺の末寺であり、秋田県内の鉱山労働者の信仰は今も続いている。

 三 即身仏
 ついで、即身仏に言及しよう。この課題は私の専攻する地理学から最も遠いものといえるのだが、湯殿山の石碑の分布との関連から問題提起を行った拙稿(五)は波紋を投げかけたものの、従来の見解とは、あまりに議論がかみあわなかった。
 しかしながら、その後に収集した江戸時代の出羽三山参詣道中日記の分析から、越後国寺泊の弘智法印の即身仏を拝観する参詣者は多かったのに比して、出羽三山参詣において、即身仏はほとんど信仰の対象となっていなかったことが判明したのは、先の問題提起を補強したものと考えたい。近年は山澤学氏によって、湯殿山行人に関する史料を踏まえた調査研究が精力的に進められており、その実態が解明されつつある(六)。
 なお、秋田との関わりでは、菅江真澄が天明四年(一七八四)九月十九日の日記において、即身仏の評価に触れている。当時既に存在していた湯殿山系の即身仏である酒田の海向寺の忠海上人および東岩本の本妙海上人の即身仏を、弘智法印には及ばないと明言していることは興味深いものがあり、当時の世評を反映したものと理解できよう。以下に日記から当該箇所を引用しよう。
「七日町やどつきたり(中略)あるじのもの語を聞ば、こ    の里の開口寺、又岩本といふ村のみてら、此ふたところに、越後の国野積の山寺にて、「墨絵にかきし松風の音」とよみ給ひてけるにひとしき、いきぼさち(生菩薩)もおましませりと聞えたり。こはみな、木の葉、草の実をくひものとしてをはりをとりて、なきがらのみ世にとゞめたる也けり。しかはあれど、弘智大とこには、をよばざりき」(七)。
 旧論では、いささか誤解していたのであったが、菅江真澄は鶴岡の宿で主人から、当地の即身仏について伝聞したのであり、全集の脚注にも記されているように、実際には拝観していなかったと思われる。当時に「生菩薩」という表現が使われていたことは興味深い。 

 四 出羽三山信仰と鳥海山信仰
 出羽三山の縁起でも、かつて三山のひとつに鳥海山が含まれていたことを示すものがみられるが、立山と白山との関係と同様に、月山と鳥海山には共通する地名や伝承などが散見する。
 たとえば、近世の月山で天台宗と真言宗の境界となった「装束場」という地名が、鳥海山にも存在し、その場所はおそらくは宗教上の境界であったことを論じた(八)。現在でも、県境線は鳥海山の山頂より北側へ、はみ出すように引かれているが、これは近世の宗教上の境界を反映したものとみてよかろう。
 これまでは、出羽三山信仰と鳥海山信仰は別の次元で、調査研究されることが多かったが、両者の比較研究が今後の課題となろう。

 五 文化財保存
 出羽三山は山形県の推進する世界遺産登録の中核に位置付けられ、筆者も山形県の世界遺産に関わる委員会の委員となって、この運動に取り組んできた。
 ただ、途中から出羽三山に代わって最上川が登録の中核となったのであるが、文化庁の暫定登録リストから外れ、知事が交代したことから、世界遺産登録は棚上げされることとなった(九)。
 その一方で、最上川を重要文化的景観として重要文化財指定をめざす試みは継続され、二〇一一年度末に報告書が刊行されるに至ったが、指定には、まだ数年以上を要すると思われる。
 その過程で、鳥海山における文化財登録に進展はみられたものの、一方で出羽三山に関わる文化財登録が十分とはいいがたいことが明らかになった。たとえば、羽黒山の門前町である手向集落に立ち並ぶ茅葺き屋根の宿坊の街並み景観は、重要文化財の一角を占める重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けるに十分な資格を有していた。
 実際に、一九九〇年代に街並み調査が実施されたものの、指定に向けた動きはみられないまま、現在に至っている。その間に、貴重な茅葺き屋根の景観は櫛の歯が抜けるように減少しつつあり、今はわずか四軒を数えるのみという。宮城県村田町の蔵の町並みの指定により、東北六県で、伝統的建造物群保存地区の指定が皆無であるのは、ついに山形県のみになってしまった。
 それもあって、旧羽黒町を含めて広域合併した鶴岡市では、新たな街並み保存に向けた取り組みを始め、通称歴史まちづくり法に基づく「鶴岡市歴史的風致維持向上計画」を策定し,山形県内初の認定を二〇一四年に受けた。実施計画期間は二〇一五年度からの十年間であり、重点地区に門前町手向が含まれていることから、今後の保存修景と活用が期待される。

 六 神仏分離
 研究上の取り組みが、いまだ困難な側面を有しているのが、神仏分離の実態解明といえよう。神仏習合であった霊山が、明治初期に神道と仏教に二分されたまま、現在に至っている。
古来の羽黒修験道の秋の峰入り修行もまた、神道と仏教に分かれて、それぞれ別個に実施されている。 
 新世紀を迎えて、高齢化や第一次産業人口の減少にともなう信仰の変化も大きく、いわば神道と仏教が一体となっての出羽三山信仰の立て直しが必要な時期を迎えているといえよう。
 前述の世界遺産登録運動も、それによって観光客の増加を期待する部分があり、昨今のパワースポットのブームなどは、おそらく一過性のものに過ぎないであろう。毎年八月下旬に実施される羽黒修験の峰入り修行は多くの参加者を集めてはいるものの、それが信仰を広めることにさほど貢献していない状況にあるといえよう。
 修行の動機が布教ではなく、自己鍛錬的なものに変容しているからであり、それはやむをえない情勢かもしれない。かつては峰入り修行に参加することによって修験の資格を得た宗教者が信仰の拡大に寄与してきたのであるが、現代においては両者が有機的に結びついていない。
 宗教者にとって、百年以上が経過した今でも、神仏分離のわだかまりは消えてはいないようであるが、出羽三山信仰の将来像にとっても、神仏分離を歴史的に位置付ける作業が必要な時期に来ているのではなかろうか。
 近年の研究動向として、三山神社第二代宮司の子孫による論考がWEB上に発表されており、当方の研究室所属の大学院生の手による論文も公表されていることから、今後の新たな展開が期待される(十)。

  おわりに
 秋田県内にも、ローカルな山岳信仰が存在し、それらは出羽三山信仰や鳥海山信仰と重層的な構造を有している。それらの関係を地理学の立地論的立場から解明することが課題として残されている。
 村落共同体の内部には、様々な宗教的講集団が組織化されており、それらの空間的相互関係を検証していくことによって、重層的な山岳信仰相互間の空間構造が明らかにされることを期待して、結びに代えたい。

 注
(一)拙著『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』名著出版、
一九九二年。『出羽三山の文化と民俗』岩田書院、一九九六年。『出羽三山信仰の圏構造』岩田書院、二〇〇三年。
(二)拙稿「朝鮮半島と東北文化の歴史的交流」山形県地域史研究三十二、二〇〇七年。拙著『韓国・伝統文化のたび』ナカニシヤ出版、二〇〇八年。拙稿「被災地をめぐる現代民俗―映画館の観客アンケートを通した試論」村山民俗二十七、二〇一三年。
(三)拙稿『常総・寛永期の大日石仏』の刊行によせて、村山民俗一七、二〇〇三年。
(四)拙稿「旅日記にみる羽黒山の女人救済儀礼」村山民俗十三、一九九九年。
(五)拙稿「湯殿山即身仏信仰再考」歴史手帖一三―八、一九八五年(拙著『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』名著出版、一九九二年、所収)
(六)山澤学「湯殿山山籠木食行者鉄門海の勧化における結縁の形態」(地方史研究協議会編『出羽庄内の風土と歴史像』雄山閣、二〇一二年。
(七)『菅江真澄全集 第一巻』「あきたのかりね」所収、未来社、一九七一年。
(八)拙稿「鳥海山の境争論と装束場」山形民俗二十二、二〇〇八年。「宗教と境界―飯豊山・鳥海山・蔵王山を事例として」地図情報一一六、二〇一一年。
(九)拙稿「出羽三山と最上川が織りなす文化的景観まんだら」庄内民俗三十四、二〇〇八年。「山形県と世界遺産」村山民俗二十三、二〇〇九年。
(十)渡部功「出羽三山における神仏分離」山形鶴翔同窓会HP、二〇一一年。難波耕司「出羽三山の神仏分離」宗教民俗研究二十一・二十二、二〇一三年。
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山形県の即身仏 致道博物館土曜講座より(2014年10月)

2015年06月05日 | 日記
 2015年6月にNHK「歴史秘話 ヒストリア」で放送された即身仏に関する番組は、いくつもの問題点を含むために、昨秋の講演要旨に要点を加筆して、私見を述べたい。なお、同時にアップした『秋大史学』の拙論も参照されたい。

1.はじめに
・即身仏に関する拙稿
「湯殿山即身仏信仰再考」歴史手帖13-8 1985.8. p.32-39.
. 「大網地すべりと大日坊の移転」庄内民俗30 1991.10. p.1-9.
『出羽三山信仰の歴史地理学的研究』名著出版,1992.2. 270p.に上記2論文を所収

2.湯殿山行人碑の分布と年号
庄内地方各地に建立された石碑から即身仏となってからではなく、生きて活動した
宗教者としての行人が信仰を集めたことが明らかに。

3.既往の即身仏研究
『日本ミイラの研究』平凡社、1969.
佐野文哉・内藤正敏『日本の即身仏』1969.
戸川安章『出羽三山のミイラ仏』1974.
松本昭『日本のミイラ仏』臨川書店、1993.
内藤正敏『日本のミイラ信仰』法蔵館、1999.
畠山弘『湯殿山と即身仏』2001.
・土中入定を自発的とする堀一郎説を踏襲
・飢饉と土中入定を関連づける内藤説

4.一世行人と即身仏
即身仏=一世行人だが、一世行人>即身仏
湯殿山行人碑の建立年→多くが行人の生前
即身仏になっていない行人の銘文多数
即身仏信仰というより生身の行者への信仰
3年3ヶ月の土中入定→飢饉を予測できず
土中入定の確証がある即身仏は皆無
『日本ミイラの研究』では、新潟大学医学部の実地調査によって、調査した全ての即身仏に死後加工の痕跡があることが明記
高温湿潤な日本の気候環境下では不可能
内臓を除去してから乾燥させる死後加工を施さねばならない必然性

5.江戸期の即身仏拝観

江戸期の著名な即身仏→越後の弘智法印
湯殿山の即身仏に関する拝観記録
置賜からの夫婦の道中記で注連寺の鉄門海
を拝観、女人禁制と関連するか
菅江真澄遊覧記には、東岩本の本明海は弘智法印に及ばずと明記
多くの道中記で、弘智法印を拝観している記録がみられるが、湯殿山系は上記2例のみ

6.神仏分離と即身仏
神仏分離にともない、寺院としての存続の道を歩んだ注連寺と大日坊は湯殿山の祭祀権を喪失
西川須賀雄宮司による三山祭祀権の羽黒山への統一(八方七口の対等な祭祀権の消滅)
蜂子皇子を開山者として明治政府が認定し、
羽黒山頂に宮内庁管轄の墓所が設置
湯殿山に代わる本尊として即身仏を前面に

7.一世行人への注目
山澤学氏による湯殿山行人に関する精力的な研究
「17世紀越後国における湯殿山行者の活動」日本史学集録22,1999.
「18世紀信濃国における出羽三山修の存在形態ー佐久郡の湯殿山行人を中心にー」信濃61-3,2009.
「19世紀初頭出羽三山修験の覚醒運動ー湯殿山・木食鉄門海の越後布教を中心に」社会文化史学52,2009.
庶民の信仰を集めたのは、生きて宗教活動を実践した行人であったことを実証的に論じた

8.湯殿山行人の活動
山澤学「湯殿山山籠木食行者鉄門海の勧化における結縁の形態」
『出羽庄内の風土と歴史像』地方史研究協議会編、2012.
鉄門海は、いわばスーパー一世行人!!
鉄門海以前と鉄門海以降を区別する必要

9.飢饉と千日行
湯殿山行人の千日行と比叡山千日回峰行
比叡山は百日の回峰行を十年間続ける
湯殿山は千日山籠行 2回は冬を過ごす
温泉の湧き出している湯殿山でこそ可能
行人仲間や寒参りの信者のサポートが必要
飢饉は、このようなサポートを不可能にした
飢饉と即身仏の関係は真逆ではないのか?
餓えに苦しむ庶民を救済するためという仮設は成立せず、逆に山野での木食行が不可能になったと想定することが自然な理解

10.おわりに
庶民を救うための入定という俗説は証明不可能
史料に依拠した考察の必要性
研究者相互の論争の必要性
縁起、伝承と史実(偽文書の排除)の区別
幻想をふりまくマスコミ(2時間ドラマ・小説・随筆など)

 以上、今回のNHK「歴史秘話ヒストリア」の放送に関連して、アップしました。




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長野県戸隠高原の三十年~信仰と観光のはざまで~(「山形民俗」20、2006年、より)

2015年04月18日 | 日記
 一 はじめに
 筆者は、長野県戸隠村(二〇〇五年に長野市と広域合併)中社集落におけるインテンシブな現地調査を、一九七五年以来、一九八五年、一九九五年、二〇〇五年と継続的に行い、過去三度の調査データについては、文末の参考文献に記したように、既に論文にまとめて活字化した。
 その大まかな特徴を指摘すれば、七五年までは発展期、八五年までは停滞期、九五年までは下降期、〇五年までは構造転換期ということができようか。この間、一九九八年には長野冬季五輪が開催されたが、戸隠村の地域振興への直接的な寄与貢献には乏しかった。むしろ、五輪に向けて整備が進んだ長野新幹線や高速道路などの高速交通網は、北信地域を首都圏からの日帰り観光圏に取り込む役割を果たしたといえよう。
 本稿においては、二〇〇五年に行った現地調査のデータを中心に、戸隠高原の三十年間の歩みを総括し、今後の展望を述べることを目的としたい。

 二 戸隠信仰
 近世においては、戸隠は三院(奥院・中院・宝光院)より成り立つ山岳信仰の霊山であり、近隣地域の北信においては水神としての雨乞い信仰、遠隔地の北関東などにおいては五穀豊穣の神として、広い信仰圏を有していた。
 明治初期の神仏分離の混迷期を乗り越え、いち早く神道へ移行し、奥社の衆徒は中社と宝光社の里坊へ移動したものの、全体の宿坊数は近世末期と変わらずに維持されたのであり、このような事例は、日本全国の霊山をながめても稀有なことであった。
 そして、中社と宝光社の四十軒弱の宿坊の主は、戸隠講聚長として信仰圏内に存在する村々の戸隠講の組織を束ねる宗教者としての役割に加えて、高度成長期に有料道路「戸隠バードライン」と戸隠スキー場が整備されたことによる観光客の急増に対応して、観光旅館の経営者の役割をも兼ねるようになった。
 近年までは、宿坊と旅館という、この一種の兼業は、きわめて順調であったが、二十一世紀に入って、変化がみえはじめている。ひとつは、山岳信仰という伝統的な民俗宗教の衰退にある。戸隠信仰は、水神的性格にしても、五穀豊穣神にしても、農民からの信仰が基盤となってきた。ところが、農村における高齢化と兼業化の進行にともない、講集団が弱体化し、農家そのものも後継者不足の時代にあって、当然ながら講集団もまた、後継者難を迎えている。このような傾向は、ある程度は日本全国の山岳信仰に共通するものである。
 また、観光地化の進展にともない、戸隠講の信者に対するお札配りなどは、もっぱら郵送に頼るようになり、かつてのように冬季の檀那場廻りが困難になったために、信者との精神的つながりが希薄になってしまったこともあろう。
 そのような理由から、信者の戸隠参詣が落ち込み、かつては連日のように神社から聞こえた戸隠神楽の響きも耳にすることが減ったという。夏は避暑客、春と秋は信者の参詣、冬はスキー客、と通年観光を支えてきた基盤が弱体化したために、宿坊経営は厳しくなり、ついに後継者難などから無住となる宿坊が現れはじめた。中社門前の表通りに面した宿坊が解体され、更地が出現したことは歴史的にも大きな景観変化であるといえよう。
 一方で、宝光社では、蕎麦屋を兼業する宿坊が目立ちはじめた。宝光社では、中社ほどに観光地化が進まなかったために、旅館よりは宿坊経営の比重が大きかったが、信者の宿泊者の減少から、兼業化に至ったものと想定される。
 いずれにせよ、信仰を基盤とした伝統的な宿坊経営が過渡期にさしかかっていることは疑いなく、今後の方向性が問われる時代となったことは確かである。一方、集落全体の景観整備がなかなか進まない中で、文化庁の推進する登録有形文化財の制度を活用して、茅葺屋根の宿坊の伝統的景観を保全する動きが出てきたことは評価できよう。

 三 戸隠観光
 宿坊とともに、中社と宝光社の集落には、在家と呼ばれる農民が居住しており、この在家の観光地化への対応によって、戸隠観光は大きく成長してきた。中でも、中社集落においては、民宿経営が七五年までに急増したが、この十年間で、それらの民宿のうち、半分近くが廃業する事態となっている。
 こちらも、宿坊と同じく、後継者難が大きな理由であるが、ちょうど民宿開業から三十年前後を経て、建物が老朽化し、今後も民宿を継続して営業するには改築ないし新築の必要があり、廃業するか新改築するかの二者択一に迫られた結果ともいえようか。
 その一方で、これまではなかった外来者による、バードウォッチングなどを主体とした民宿の開業もみられるなどの動きもある。十年前までは、紙ベースによるパンフレットやチラシを媒介とした観光宣伝が中心となってきたが、二十一世紀に入って、インターネットを介した電子情報化時代となり、宿泊施設でも、宣伝および予約手段として、インターネット・ホームページを有することが不可欠となりつつある。
 戸隠の宿泊施設においても、若い世代の後継者が存在するところの多くは、ホームページを開設しており、スキー場に程近い越水集落の宿泊施設は、ほぼすべてがホームページを開設している一方で、中社と宝光社の宿泊施設では、まだ一部にとどまっており、その格差は大きく開いているといえよう。戸隠観光協会などの公的機関のホームページは充実してはいるものの、やはり個別の宿泊施設がホームページを持たずしては、電脳化時代に充分な対応ができないのではなかろうか。
 そして、戸隠観光を支えてきた冬季のスキー客が激減したこともまた、大きな影響を与えている。皮肉なことに、スキー客離れが顕著になりはじめたのは、九八年の長野冬季オリンピックの時期であった。当時は、オリンピック会場として混雑が予想されることから、スキー客が他地域のスキー場に流れたのだとも説明されていたが、オリンピックが終わり、開催地としての長野県は国際的に有名になったにもかかわらず、スキー客は回帰しなかったどころか、むしろ減少に向かった。
 その理由としては、いろいろな要素が考えられるが、若者の趣味が多様化したこと、特にスキーに代表されるアウトドア・スポーツが、かつてのように若者の通過儀礼的な役割を果たした時代は過ぎ去ったといえよう。もちろん、若者の多くがスキーからスノーボードに移行したのだが、それを含めても、スキー人口そのものが漸減傾向にあることは確かであり、スキー王国の長野県観光に深刻なダメージを与えつつある。
 もうひとつは、スキー場の過当競争が指摘できる。バブル経済の時期に、リゾート法の後押しの下、雪国の各地に、地域振興の掛け声で雨後のタケノコのように、新設のスキー場が乱立した。九〇年代後半以降はスキー場の倒産が現実のものとなってきている。
新設スキー場の中には、首都圏に隣接する地域に、人工雪ゲレンデを有するものも多く、これらの日帰り圏のスキー場に、首都圏のスキー客を奪われた面も存在する。
 また、かつてのように、夜行バスで学生中心の団体が押しかけた時代ではなくなり、マイカーによる日帰りスキー客が主体となった今、国内旅行の全体的動向である「高・遠・長」(高額・遠距離・長期滞在)から「安・近・短」への移行が進みつつある。
 そのことによって、とりわけ宿泊施設の受ける影響は大きく、冬季の長期滞在客を主たる客層としていた民宿への影響は極めて大きいものがあったといえよう。中社の民宿が半減したのも、スキー客の減少が一因であることは確かであろう。
このスキー場の不振にともない、中社集落に隣接して設置された国営スキー場は村営に移管されたが、長野市との合併にともない、経営形態が模索されており、当面は長野市営戸隠スキー場として運営を続け、数年後の民営化に向けて詰めていくとのことである。
 さて、中社集落における民宿経営は、竹細工業との兼業で行われてきたことは旧稿で指摘したが、観光地化以前は中社の在家の主業であった、この竹細工業にも後継者難が深刻となりつつある。中社門前の製造直売店は別として、民宿兼業世帯では、竹細工の後継者は少なく、竹を細工する技術は持ち合わせても、原材料の竹を細かく割る技術を有する者は多くはないといい、戸隠に継承されてきた伝統工芸品の竹細工の将来も、けっして明るいとはいえない。
 一方で、日帰り観光は、それほどの減少ではなく、名物の戸隠蕎麦を提供する食堂は、まずまずの繁盛をみせており、この十年間で、特に大きな変化はないといえる。旧国営スキー場のゲレンデ駐車場には、日帰り温泉施設も誕生し、施設内には食堂も備えており、新たな名所として観光客を集めているが、近在の来客もある程度は存在するものと思われる。お土産店もまた、大きな変動はなく、中社集落内には、おしゃれなカフェやスナックも開業しているが、飲食店の総数にさほど大きな変化はなく、観光客の好みに応じた、いわば多様化現象とみることができよう。
 四 おわりに
 これまで指摘したように、二十一世紀を迎えて、戸隠観光は大きな転換期にさしかかったといえよう。かつて、一九八五年夏の地滑り災害の際も、戸隠観光にとっては、大きな危機的状況であったが、村を挙げての観光宣伝と、その後のバブル経済によって、その危機を克服することができた。
 しかし、そのバブル経済の崩壊以来の景気低迷下にあって、この転換期に、どのように対応すべきであろうか。もとより、ここで明確な方向性を提示することは困難であるが、茅葺きの宿坊の町並みを中心とした景観保全や、スローフードの伝統食としての戸隠蕎麦の提供、地域に根ざした伝統工芸品である竹細工の育成などの地域特有の歴史と伝統を有する民俗文化を基盤とした地道な地域づくりを、行政と神社および住民が三位一体となって取り組んで行くことが第一となろう。本稿が、豊かな自然環境と伝統ある歴史に恵まれた戸隠高原の安定的な地域発展の一助となれば、望外の幸いである。
 以上、二〇〇五年夏に行った現地調査にもとづいて、この十年間の戸隠観光の動向を述べてきたが、今回の調査は過去三回に比して充分な余裕がなく、詳しい分析のできなかったことをお詫びしたい。
 ただ、過去三回の調査では、中社集落の全世帯を対象とした聞き取り調査を行ったが、プライバシーの面からも、今後は調査データを図示することは困難な時代になったといえる。地理学の調査研究として、調査資料の図表化は、いわば調査結果のとりまとめとしての意味を有しているのであるが、それが活用できないことは残念ではあるが、やむを得ない情勢といえよう。同時に、これまでの研究成果を著書として集大成することにも、上述の面から躊躇せざるをえないので、恐縮ながら参考文献としてあげた下記の原論文を参照していただきたい。
 最後に、旧戸隠村の故松井憲幸元村長をはじめとする、多くの地元の方々に支えられて、この調査が継続できたことを感謝して結びとしたい。
 本稿は、二〇〇五年十二月に遠野市立博物館で開かれた東北民俗合同研究会での口頭発表にもとづいたものである。
[参考文献]
岩鼻通明「観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌」人文地理三三-五、一九八一年(人文地理学会のWEBサイトより閲覧可能)。
岩鼻通明「戸隠中社の講集団」あしなか(山村民俗の会)一九五、一九八六年。
岩鼻通明「近世の旅日記にみる善光寺・戸隠参詣」長野一六五、一九九二年。
岩鼻通明「戸隠信仰の地域的展開」山岳修験一〇、一九九二年。
岩鼻通明「観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌(第2報)」山形大学紀要(社会科学)二三-二、一九九三年(山形大学機関レポジトリより閲覧可能)。
岩鼻通明「観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌(第3報)」季刊地理学五一-一、一九九九年(東北地理学会のWEBサイトより閲覧可能)。
岩鼻通明「権現さまに参ろじゃないか」地域文化(八十二文化財団)五六、二〇〇一年。
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実在した西川須賀雄(出羽三山神社初代宮司)の記念碑

2015年02月11日 | 日記
実在した西川須賀雄(出羽三山神社初代宮司)の記念碑
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「映画館をめぐる現代民俗-鶴岡まちなかキネマを事例として」

2014年11月26日 | 日記
 本論文は『山形民俗』第28号、2014年11月、に寄稿したものです。誤記などを若干の修正の上でアップします。いちばん下の表が見づらいですが、お許しを。

 映画館をめぐる現代民俗-鶴岡まちなかキネマを事例として
                           岩鼻 通明
 一 はじめに
 本論文は、2011年度東北地理学会春季大会および2012年度人文地理学会大会において報告した「鶴岡まちなかキネマと中心市街地活性化」に関して、その後の継続的な調査の結果をとりまとめて報告するものである。
 筆者は、この数年来、映画を通した地域活性化についての調査研究を行ってきた。従来の地域活性化に関する研究は、どちらかといえば経済効果を中心に行われてきたが、本論文では、それのみにとどまらず、文化地理学的および民俗学的アプローチからの地域活性化研究を模索するものである。

 二 映画を通した地域活性化
 映画を通した地域活性化は、大きく3つに大別される。
 ひとつは、映画のロケを通した地域活性化であり、地域で映画が撮影されることによって、スタッフや俳優が滞在する期間中に宿泊・飲食費などの直接的な経済効果が発生する。大規模な映画撮影の場合は総勢百人を超え、現地ロケの期間もひと月以上におよぶことも少なくない。
 それに加え、その映画がヒットすれば、いわゆるロケ地観光もしくはスクリーン・ツーリズムと称される旅のスタイルで、映画の中の名場面を訪問する観光客が増加し、間接的な経済効果がもたらされる。韓流ブームにおける、いわゆる「冬ソナ」効果は広く知られており、ロケ地となったソウルや春川を多くの観光客が訪問した。
 もうひとつは、映画祭の開催にともなう地域活性化である。たとえば、アジア最大の映画祭とされる韓国の釜山国際映画祭は、毎年10月上旬の2週間近い開催期間中に延べ20万人の観客が来場する経済効果は非常に大きいものがある。
 日本の例としては、山形市で2年に一度開催される山形国際ドキュメンタリー映画祭もまた、一週間の会期中で延べ2万人の観客を集める国際的に知られた映画祭である。地方都市における地域活性化効果は大きいものがあり、国際的な知名度アップにもつながるといえよう。
 最後に、映画館を通した地域活性化をあげることができる。日本の映画館は、テレビの普及以来、どんどん減少に向かったが、1990年代半ばに、いわゆるシネマ・コンプレックス(以下ではシネコンと略する)が登場して以来、スクリーン数は増加傾向に転じた。
 ただし、このシネコンは郊外大型店舗に併設される傾向が当初は一般的で、映画館そのものの立地が郊外化し、中心市街地に存在した旧来の映画館は閉鎖が相次いだ。中心商店街が、シャッター通りと化した原因のひとつに、集客力のある映画館が郊外化したことがあげられる。

 三 中心市街地と映画館
 そこで、21世紀に入る頃から、地方都市の中心市街地に小規模な映画館を設置して、人の流れを呼び戻そうとする試みが始まった。国土交通省や経済産業省の補助金事業として、ミニシアターと称される小規模映画館が空き店舗などを活用して、中心商店街の一角に設置されるようになった。
 東京などの大都会では、大手映画会社の系列の映画館が自社作品やハリウッド映画しか上映しないために、自主制作や低予算映画、ないしハリウッド以外で製作されたアート系の映画を上映するミニシアターが1980年代に立ち上げられた。その動きが、地方都市にも波及したものといえよう。
 地方都市におけるミニシアターの先駆的な例としては、群馬県高崎市のシネマテークたかさきや、埼玉県深谷市の深谷シネマなどをあげることができる。それらの先行事例を参考にして、新たに開業した映画館が、本論文で取り上げる山形県鶴岡市の鶴岡まちなかキネマである。

 四 鶴岡まちなかキネマの誕生とその後の展開
 鶴岡まちなかキネマ(以下では、まちキネと略する)は、鶴岡の中心市街地に位置する松文産業の工場跡地を再開発して造成された映画館である。2010年5月にオープンしたが、木造の工場建築を映画館として再生したもので、その建物は世界的建築賞であるリーブ賞の2010年における商業建築部門で入選している。
 映画館の内部には、広いロビーと定員165名から40名までの4つのスクリーンが存在し、レストランも併設されている。将来に施設を拡充できるスペースも用意されている。
 さて、山形大学農学部の2010年度卒業論文で、このまちキネに関する調査研究をまとめたものを、卒業生との連名で2011年度東北地理学会春季大会において発表した。
 この卒業研究の要点を示すと、農学部学生およびまちキネの観客に対して実施したアンケート結果から考察したものであり、農学部学生に関しては、新しくオープンした映画館よりも、三川町にあるシネコンのほうをよく利用していることが判明した。その理由としては、まちなかキネマでは見たい映画があまり上映されていないという意見がめだった。
 一方で、まちキネの観客は、旧鶴岡市内のみならず、庄内地方のかなり広域的な範囲から集まっていることが明らかになったが、連携する近隣の商店街はあまり積極的に利用されていないことも明らかになった。以上の卒業研究の結果について、その後の展開を明らかにするために、以下のような追跡調査を実施した。

 五 追跡調査の結果について
 この調査を踏まえて、まちキネのその後の利用の変化を把握すべく、2012年5月および2013年7月に農学部学生に対するアンケート調査、2012年7月および2013年5月に映画館での観客アンケート調査を実施した。その集計データを、2011年のデータと比較しながら、以下で分析したい。
 その結果として、まず農学部学生が、どのような手段で映画を鑑賞するか、という設問については、まちキネの利用は漸増傾向にあるものの、三川町のシネコンの利用は大きく落ち込んでいて、レンタルで映画を見るという回答が年々増加傾向にあり(表1)、むしろ映画館で映画を見る機会が全体的には減少していることが明らかになった。その背景には、百円レンタルなどのDVDレンタル業者の過当競争などが存在するものと推測される。
 その一方で、まちキネ利用者は若干の増加があり(表2)、認知度は開業当初から比べると大きく増加しており(表3)、開業から3周年を迎えて、それなりに浸透しつつあることが確認された。
 また、まちキネの建物や設備、雰囲気に対する評価は高いものの、上映作品および上映時間に対する不満の声は依然として継続している(表4)。その面では十分な改善が映画館側で試みられたかは微妙であろうか。そもそも、まちキネの観客層は、いわゆる交通弱者とされる高齢者および高校生までの未成年層が主たる対象と想定されているために、大学生が見たい映画とのずれが生じるのは、やむをえない側面が存在するといえよう。
 それに対して、まちキネの観客アンケートの結果からは、固定客が増えつつある状況を把握することができた。2012・2013年の結果では、男女比で女性のほうが多くなっているが、これは平日の午後に調査を行ったことが影響したものとみられる(表5)。
 また、観客層も、かなり高齢者に偏っていることが明らかになった(表6)。これもまたアンケートの実施が平日の日中の時間帯であったことに加え、上映作品自体も高齢者向けの内容であったことから、若年層の意見を十分に集約できなかったという課題が残された。
 一方、職業別では、会社員と無職が多くみられるが、2012年は自営業が多かったのが、2013年では主婦が多くみられる。いずれも平日の午後という時間帯に来場しやすい職業といえ、それが反映したものといえよう(表7)。
 そして、居住地では、いずれも旧鶴岡市内が圧倒的に多いが、2011年では羽黒・朝日・温海・藤島といった周辺部からも、それなりの観客を集めており、これは休日に調査した影響があるとも考えられる。また、2012・2013年では、酒田や遊佐といった最上川以北からも観客を集めており、集客圏が拡大したものとみられる(表8)。さらに、映画の鑑賞回数からは、年々、鑑賞回数の多い観客が増えつつある傾向がうかがわれ、いわば常連客が定着しつつあることを物語るといえようか(表9)。
 映画の情報源としては、新聞や館内のチラシ・上映プログラムなどの紙媒体の比重が意外に大きく、ホームページをあげる回答は、さほど多くはなかった(表10)。高齢層の観客が多いとはいえ、若い世代の観客を集めるためには、多様な情報発信が不可欠であると思われる。
 交通手段としては、自動車という回答が圧倒的多数で、まちなかに位置するにもかかわらず、徒歩や自転車利用は少数にとどまった(表11)。このことは近隣商店街の利用とも関わる問題であり、徒歩や自転車利用による商店街との回遊性を高める工夫が必要であろう。
 同行者については、2011年の調査では家族が多かったが、これも休日の調査が影響したものと思われ、2012・2013年の調査では単独が多くなっている(表12)。これは、かつて被災地の映画館での調査時も同じ傾向がみられたのであるが、日本人は単独で好みの映画を鑑賞するというパターンが存在するといえる。韓国では、デートや家族ないし友人と映画鑑賞するパターンが一般的であり、好対照ではあるが、観客を増やすためには複数で映画鑑賞することを習慣づける動機付けも試みられるべきであろう。
 商店街での買い物行動との関連をみると、買い物をしないという回答が少しづつ減少傾向にはあるものの、まだまだ連携が十分とは言いがたい(表13)。駐車場の開放などが実施されてはいるものの、さらなる商店街との連携強化は大きな課題であろう。
 最後に、この映画館がなければ、どの手段で映画を鑑賞するか、という回答では、他の映画館で鑑賞する、というものが多数となり、三川のシネコンの影響力が大きいことを物語っている(表14)。ビデオやテレビで、という回答は多くはないものの、ウェブ上での映画のネット配信が急速に広まっていることから、若い世代の映画館離れがますます加速する不安は大きい。
 
 六 おわりに
 まちキネは、工場跡地の再開発であるために、もよりの商店街から数百メートル離れており、それらの連携が当初からの課題となってきた。見終わった映画の半券で、近隣商店街での割引などの特典が存在し、協力店も次第に増加してはいるのだが、この半券利用の浸透度は、依然として十分とはいいがたい。
 映画館へ自家用車で訪れる観客が近隣商店街を行き帰りに利用する機会は、まだまだ多くはなく、商店街との連携を如何に深めていくかが、中心市街地活性化の成功例となるかどうかの岐路であるといえよう。
 また、鶴岡市には、庄内映画村という、野外ロケセットを有する撮影場が立地しており、この庄内映画村で撮影が行われた作品が、まちキネでも、いくつも上映されてきた。地元出身の小説家である故藤沢周平氏の作品の映画化も活発に進められてきており、それらのいくつかは鶴岡城下町が舞台となっている。
 このような、地元を舞台とする時代小説の映画化と地元での上映がリンクすることによって、相乗効果が得られるのであり、冒頭で紹介した映画ロケや映画祭などと一体化しながら、文化事業としての側面を高めていくことで、鶴岡市の中心市街地活性化が、真の効果を発揮するものと期待したい。
 以上、まちキネをめぐる分析を試みたが、映画が誕生して百年余りで、映画をめぐる環境は大きく変わりつつある。まず、テレビの普及によって、家庭のお茶の間で一家団欒しながら映像を楽しむことが可能になった。
 ついで、1980年代になると、ビデオの普及によって、映像を記録することが容易になり、また、旧作映画をビデオで鑑賞することも可能となり、しかも映像を静止画面でくまなく確認することすら簡単に行えるようになった。
 さらに、1990年代後半になると、ウインドウズ・パソコンの普及によって、映像をパソコンで編集できるようになり、ビデオカメラで撮影した映像を編集して、映像作品を制作することが手軽に行えるようになった。そのために、自主制作やドキュメンタリー作品が大幅に増加した。
 21世紀に入ると、映像のデジタル化が進み、記録媒体も磁気テープからメモリーカードなどへ移行し、2010年代に入ると、映画の配給そのものも急激にデジタル化が進み、フィルム上映はほとんど消滅しつつある。
 ただ、デジタル化にともない、公開するスクリーン数だけ、フィルムを焼き増しする必要はなくなり、全国の映画館で同時公開が可能となった。これまで、まちキネでは大都市より数ヶ月遅れての公開作品が散見したが、デジタル化にともない、宮崎アニメの同時公開も実現した。
 最後に、前述のようにインターネットの高速化にともない、大量のデータ通信が可能となり、映像のネット配信が盛んに行われるようになりつつある。これこそ、現代民俗の一端を如実に示すものといえ、映画の鑑賞スタイルが短期間で大きく変貌する可能性を含んでいることを再度、指摘して結びに代えたい。

<参考文献>
岩鼻通明:スクリーンツーリズムの効用と限界、季刊地理学63-4(2012)
岩鼻通明:被災地をめぐる現代民俗ー映画館の観客アンケートを通した試論、
     村山民俗27(2013)
岩鼻通明:震災特集上映をめぐる現代民俗ー映画祭の観客アンケートを通した試論、
     村山民俗28(2014)
半田 幸:山形県鶴岡市中心市街地の活性化に関する考察ー鶴岡まちなかキネマを核としてー、
     山形大学農学部2011年度卒業論文(2012)

<付記>
 本稿で利用した統計データの集計には、2012・2013年度日本学術振興会科学研究費基盤研究(C)「映画を通した地域活性化の日韓比較研究」(研究代表者・岩鼻通明)の一部を使用した。

 まちキネ イオン三川 レンタル 自己所有 その他 計
2011 3    19 61  10 9 102
2012 4 6 45 9 3 67
2013 3 6 27 6 4 46
表1 映画鑑賞の手段

有 無 不明 計
2011 18 89 2 109
2012 24 47 0 71
2013 20 26 0 46
表2 まちキネの利用

知らない 場所不明 みたい映画なし 高い 映画ぎらい その他 計
2011 4 23 42 10 7 23 109
2012 4 15 29 1 2 11 62
2013 1 4 13 1 2 30 51
表3  まちキネの認知度

建物 設備 作品 上映時間 料金 雰囲気 その他 計
2011 15(1) 8(2) 4(12) 1(7) 5(5) 14(0) 7(11) 54(38)
2012 18(1) 10(1) 2(17) 0(6) 8(3) 17(2) 1(1) 56(31)
2013 14(0) 8(5) 6(12) 0(7) 8(5) 17(0) 0(1) 53(30)
表4 まちキネの評価 ( )内は不満とする意見

男性 女性 計
2011 52 52 104
2012 18 24 42
2013 12 22 34
表5 観客の男女比

10代 20 30 40 50 60~ 計
2011 0 7 20 22 20 35 104
2012 0 3 5 4 8 24 44
2013 0 2 3 5 6 20 36
表6 観客の年齢層

会社員 公務員 自営業 パート・バイト 主婦 学生 無職 その他 計
2012 8 3 9 2 5 0 11 6 44
2013 11 0 1 2 11 0 9 1 35
表7 観客の職業

旧鶴岡 羽黒 櫛引 朝日 温海 藤島 三川 庄内 酒田 遊佐 鶴岡市 その他 計
2011 64 5 1 5 5 5 21 106
2012 24 3 0 0 1 0 0 2 2 1 11 0 44
2013 27 0 1 1 1 1 0 0 2 1 1 35
表8 観客の居住地

1回 2回 3回 4回 5~9回 10回~ 計
2011 3 9 9 4 16 11 79
2012 5 2 15 0 12 9 43
2013 3 2 3 3 9 14 34
表9 観客の映画鑑賞回数

新聞 館内 HP その他 計
2011 60 10 20 40 130
2012 15 10 4 15 44
2013 8 8 7 12 35
表10 観客の情報源

徒歩 自転車 自動車 バス 鉄道 計
2011 6 2 94 0 2 104
2012 2 5 35 0 1 43
2013 7 4 25 0 1 37
表11 観客の交通手段

家族 友人 親戚 その他 単独 計
2011 68 11 1 1 23 104
2012 14 7 0 0 22 43
2013 7 9 0 0 19 35
表12 観客の同伴者

買物せず 時々する する 計
2011 74 26 1 101
2012 22 17 3 42
2013 16 13 2 31
表13 観客の商店街利用

他の映画館 DVD テレビ 見ない 計
2012 26 7 5 5 43
2013 25 2 4 3 34
表14 映画鑑賞の他の手段

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韓国映画上映会のお知らせ

2014年10月27日 | 日記
 韓国映画上映会のご案内です。山形県内(東北地方も?)初上映の韓国映画「南営洞1985」上映会を山形大学にて開催します。入場無料です。
鶴岡キャンパス:11月2日(日)14時~16時 農学部3号館301講義室にて(大学祭での上映)
山形・小白川キャンパス:11月6日(木)14時40分~16時40分 基盤教育1号館111教室にて(講義内での上映を一般に開放)
映画に関する情報は、以下のサイトを、ご覧ください!!
http://jimakusha.co.jp/nam1985/ 
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「震災特集上映をめぐる現代民俗ー映画祭の観客アンケートを通した試論ー」

2014年07月08日 | 日記
 本論文は「村山民俗」第28号、14~21頁に発表した内容です。

震災特集上映をめぐる現代民俗―映画祭の観客アンケートを通した試論
                             岩鼻 通明

一 はじめに
 本稿は、東日本大震災が与えた影響について、震災を描いた映画を鑑賞した観客のアンケートを通して明らかにしようとする試みであり、昨年の本誌に掲載した拙稿「被災地をめぐる現代民俗―映画館の観客アンケートを通した試論」に続く報告となるものである。    
 なお、前稿との比較検討を念頭に置いたために、今回のアンケート項目は、ほぼ前稿で用いたアンケート項目と同様の設定とした。よって、アンケート項目は前稿の末尾に付したものを、ご参照いただきたい(拙ブログにて公開中 http://blog.goo.ne.jp/imichiaki )。
 さて、本稿では、二〇一三年三月に山形市内の映画館フォーラムにて山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局の主催で開催された「ともにある Cinema with Us 忘れないために1」において、二日間にわたり実施した観客アンケートの分析を行う。
それに加え、二〇一三年十月に開催された第十三回山形国際ドキュメンタリー映画祭の特集「ともにある Cinema with Us 2013」においても、三日間にわたり実施した観客アンケートとの比較分析を行う。
 アンケートは、両者ともに、会場内の観客へ封筒に入れたアンケート用紙を手渡し、上映後に返信用封筒を郵送で回収する方法で実施した(一部は会場受付で回収)。前者ではアンケート配布数二百二十二、回収数六十で回収率は二十七%となり、後者では配布数百八十八、回収数四十二で回収率は二十二%となった。前者では、映画祭のボランティア経験者の姿も多く見受けられたことが、後者よりも回収率の高くなった一因かと想定される。

二 山形国際ドキュメンタリー映画祭と震災特集上映
 まず最初に、山形国際ドキュメンタリー映画祭(以下では、山ドキュと略称する)の歩みを簡単に紹介しておきたい。この映画祭は、一九八九年の山形市市制百周年記念事業として開始され、成田空港建設反対のドキュメンタリー映画で知られる小川紳介監督をディレクターに迎えてスタートした。
 小川監督は、当時、上山市牧野集落にプロダクションのスタッフとともに住み込んで、農村を主題とする映像制作に取り組んでいた(木村迪夫『山形の村に赤い鳥が飛んできた 小川紳介プロダクションとの25年』七つ森書館、二〇一〇年)。その代表作として、「ニッポン国古屋敷村」および「一〇〇〇年刻みの日時計-牧野村物語」をあげることができる。
 小川監督は、第二回の映画祭を無事に終えた翌年の一九九二年に惜しくも亡くなったが、
アジアの国々でドキュメンタリー監督を養成しようとの遺志は、この映画祭に受け継がれ、その後はインターナショナル・コンペ部門と並んで、アジアの新人監督のコンペ部門であるアジア千波万波として回を重ねている。
 山ドキュは、隔年の秋に開催されてきたが、世界でも数少ないドキュメンタリー映画に特化した映画祭として、国際的に高い評価を得るに至っている。これも、草創期の小川ディレクターの尽力が大きく貢献しているといえよう。
山ドキュが歴史的な転回点を迎えたことが、私見では過去二度あった。最初は、二〇〇七年にNPO法人化した時期である。山形市の記念事業としてスタートしたこともあって、映画祭事務局は市役所内に置かれ、事務局員の人件費も市当局が負担していたのだが、諸般の事情からNPO法人化され、事務局も市役所の外に置かれた。その経緯は、かつて小川プロに属し、第一回山ドキュの公式記録映画「映画の都」を制作した飯塚俊男監督の手による二〇〇七年の作品「映画の都ふたたび」に詳しく描かれている。
 次の転回点は、二〇一一年秋の映画祭開催であった。三月の東日本大震災の影響で、準備が間に合うのか、また作品は例年通りに海外から応募されるのか、など多くの課題を抱えながらも、困難な状況下で模索された結果、映画祭は開催された。放射能汚染の不安からか、例年になく海外からのゲストに欠席者が目立ったものの、映画祭そのものはつつがなく終了した。
 その目玉になったのが、東日本大震災復興支援上映プロジェクト「ともにある Cinema with Us」であった。この特集上映では、大震災の現場に入った映画監督や、被災地での救援活動を続ける人々によって撮影された二十九本の作品が上映された。その選考は映画祭直前まで続けられたようで、プログラムのチラシが上映開始日に映画祭本部へ届けられたことが印象に残っている。筆者は映画祭のボランティアを務めていたことなどもあって、この特集上映の一部しか鑑賞することはできなかったが、ほとんど情報の入らなかった仙台市の東北朝鮮学校の被災を描いた作品が印象深かった(ちなみに、この作品を共同制作したコマプレスが大阪朝鮮高校ラグビー部を描いた長編ドキュメンタリー映画「60万回のトライ」は二〇一三年の山ドキュでワールドプレミア上映され、二〇一四年の全州国際映画祭の韓国長編映画コンペ部門で、CGVムービーコラージュ支援賞を受賞した)。
 この特集上映は、ある意味で玉石混合とも批判されたが、ともかくも現場で撮影された最新映像を集大成して上映した関係者の努力は高く評価され、この特集はコミュニティシネマ賞を受賞し、その後に各地で巡回上映が企画されるに至った(拙稿「震災映像と被災地上映」季刊地理学六十四、二〇一二年)。
 それを受けて、二〇一三年の山ドキュにおいても、この特集上映を継続することになり、まずは三月に地元の山形市内で、映画祭事務局の主催する上映会がプレ企画として実施された。ここでは、大震災関連のみならず、放射能汚染の問題を描いた作品も上映され、とりわけ高知県のマグロ漁船乗組員の被曝を丹念に追跡した「放射線を浴びたX年後」に強い感銘を受けた。この作品は二〇一四年三月の第一回グリーンイメージ国際環境映像祭においてグランプリに輝いた。ちなみに、早い時期に調査を行った例として、この作品に登場する高知県の県立高校の「幡多高校生ゼミナール」は、一九九四年制作のドキュメンタリー映画「渡り川」(キネマ旬報文化映画ベストテン第一位)の主人公でもある。
 そして、二〇一三年十月の映画祭において、「ともにある Cinema With Us 2013」と題した特集上映が行われ、十五本の作品が上映された。このうち、十三作品の監督インタビューが映画祭公式サイトにアップされている。二〇一一年の特集上映では、前述のように直前まで準備に要したためか、三人の監督のみのインタビューにとどまっていたが、その面でも、今回の映画祭は充実したものになったといえよう。個々の作品の内容も多岐にわたり、震災の内面を描いたものが多くみられた。

 三 観客アンケートを通した震災と映画祭の関わり
 本章では、観客アンケートの集計結果を通して、被災後二年余が過ぎた時点で、観客が東日本大震災を、どのように感じているのかを把握したい。
 そこで、以下では、アンケートの集計結果を、基本的属性と震災関連項目に二分した上で、比較検討をすすめたい。

 (一)基本的属性に関する比較検討
 まず、性別に関しては、三月の上映会(以下では前者とする)では、ほとんど差がみられなかった。もっとも、アンケートの位置的な関係で無回答が多かったので、十月のアンケート時にはアンケート項目の位置を修正した。それに対し、十月の映画祭(以下では後者とする)では、やや男性が上回る結果となった(表1)。映画祭全体を見回した感触では、やはり男性観客が多い印象だったので、その傾向を反映したものといえようか。
 次に、年齢構成に関して、前者では、五十代・六十代の高齢者が多くみられたが、後者では二十代から四十代の観客層もかなり存在し、若い世代も集客したことが明らかとなった(表2)。ただ、十代の未成年は、きわめて少数で、この年齢層に映画祭を浸透させることが将来へ向けての大きな課題となろう。
 そして、職業別では、会社員と公務員が共にかなりの割合を占めるが、前者でパートアルバイト、主婦、学生層の観客が一定数みられたのに比し、後者では、それらの観客層はさほど多くはなく、むしろ無職やその他がかなりみられた(表3)。この中には映画関係者が、ある程度存在するのではないかと憶測される。
 また、居住地については、前者では山形市内が圧倒的に多く、県外からの集客は多くはなかったのが、後者では、県外が七割強を占め、東京・神奈川・埼玉の首都圏や隣接する宮城・秋田から広く観客を集めており、この映画祭が国内で高い評価を得ていることを反映しているといえよう(表4)。ただ、日本語によるアンケートであったために、外国人の観客の回答は得られなかったが、映画祭自体には数多くの海外からのゲストを迎えていたにもかかわらず、この震災特集上映の会場を訪れる外国人は珍しかったように記憶している。
 さらに、同伴者については、前者で同伴者なしが多数であり、次いで家族、友人、が続くが、後者では同伴者ありが過半数を越え、家族、友人に加え、親戚、その他、という回答もあり、誘い合って来場したことが知られる(表5)。これは、被写体となった被災者の方々が連れ立って来場されたこととも関わると想定される。
 続いて、交通手段については、前者で自動車が過半数を越え、前稿で調査した被災地の映画館に近い結果となり、地方都市の映画館においては、駅前の便利な立地であっても、自動車利用が多いことが明らかになった。それに対して、後者では鉄道利用が自動車を上回り、映画祭が広く全国から観客を集めたことを反映しているといえよう(表6)。
 また、情報源については、前者では映画館内で知ったという回答が最多で、新聞がそれに次いだ。後者では、ホームページなどのネット情報が最多であり、おそらくは世代による情報源の差異が存在するものであろう。しかし、紙媒体が依然として一定の役割を果たしていることに留意すべきであろう(表7)。
 さらに、これらの上映会や映画祭の必要性に関しては、必要とする回答が圧倒的に多く、ほぼ全員が賛意を示しており、ここでも映画祭に対する高い評価と信頼をうかがうことができ、今後の映画祭の運営にとって、ありがたい結果となっている(表8)。
 最後に、後者のアンケートでは、二〇一一年の山ドキュ、および三月の上映会への参加の有無についての項目を加えたところ、半数近くの観客がいずれかに参加したと答え、両方に参加したという回答も一定数みられ、この映画祭を支える固定層が存在することを示唆する結果となった(表9)。

 (二)震災関連情報に関する比較検討
 まず、前稿と共通項目である震災後の映画鑑賞回数の変化については、同じという回答が前者・後者ともに最多となっているが、ともに増加の回答が減少を上回っている(表10)。これは、震災から二年が過ぎたこと、そして、上映会や映画祭の観客は映画ファンが多いことと関連しているのかもしれない。
 一方、震災映像の苦痛性については、被災地でのアンケート結果よりも苦痛を伴うという回答は減少したものの、依然として一定の割合を占めることが明らかになった(表11)。これは観客に福島県からの避難者や、映画に描かれた被災者の観客が含まれることとも関わるかと考えられる。震災の記憶が薄れつつも、その傷はいまだ癒されていないことを如実に物語るデータといえよう。
 最後に、震災関連アンケート項目として、前稿と同様に、以下の五項目を設定した。それぞれについて、そう思う・どちらでもない・そう思わない、の三段階での回答を設けたので、回答結果の比較検討を試みたい。
Ⅰ 癒しと安らぎの場としての必要性
Ⅱ 余暇と娯楽の場としての必要性
Ⅲ 多様な文化を知る場としての必要性
Ⅳ 情報入手や交換の場としての必要性
Ⅴ 青少年・生涯教育の場としての必要性
 まず、そう思う、の回答率が最も高くなったのは、多様な文化を知る場、という選択肢であった。これは、ある意味で映画祭という場の特性上から当然の結果というべきであろうか(表12)。
 余暇と娯楽の場(表13)、情報入手の場(表14)、教育の場(表15)、という回答は、あまり差がなかったのだが、癒しと安らぎの場という回答については、前者では、そう思う、の回答率が高かったのに対して、後者では、さほど高くはなかった(表16)。前者の観客の大多数は山形県民ないし近県の県民であったことから、被災地としての東北、もしくは地方都市における映画館の役割といった側面が垣間見える。前稿においても、宮古と古川の映画館でのアンケート結果では、この項目が高い回答率を示したのであったが、山形でも、回答率はやや低いとはいえ、同様の傾向を示したことは興味深い結果である。

 四 おわりに
 以上、山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局の協力を得て、二〇一三年三月の上映会と十月の映画祭における震災特集上映の場での観客アンケートの結果に関する比較考察を試みた。前稿とあわせて、被災地における映画館の果たす役割に加えて、被災地からの情報発信として、東北地方で開催される映画祭の場で、東日本大震災を語り継ぐ映像を上映することの重要性と意義が、観客アンケートを通して明らかになった。
 このことは、アンケートの自由記述欄からも、うかがうことができる。前者では、以下のような記述がみられた。「震災の記憶を風化させないためにも、何度も上映してほしい」、「様々な視点による震災の記録の必要性を改めて感じた。このような催し物を引き続き行ってほしい」、「3.11近くには毎年上映して、忘れ去られないようにしたい」、「映画は記録・伝承など文字だけでは伝わらないリアルな感情を伝える貴重な記録」、「映像で見ることの大切さ、記録を残すことの大切さを感じます」。
 一方、後者においては、熱心な記述が多くみられたが、おおむね以下の三点にまとめられる。ひとつは、マスコミが震災に関して、ほとんど真実を伝えない中で映画の役割が重要だとする意見で、ふたつめは震災後に前向きに生きていこうという姿勢が重要、被災者によりそった内容が大事、復興や今後の被災地の歩みを描くことも必要、という意見で、最後は、今後の災害への警鐘となる、できるだけ多くの作品を集めたアーカイブつくりに監督や製作者が力を貸す、という意見であった。おそらくは、映像関係者からの貴重な見解が反映しているものとみられ、震災後、数年を経過した時点での震災ドキュメンタリー映像の役割を象徴的に示唆していると評価されるコメントである。
 また、九州では震災の記憶が忘れられつつある、という意見があり、筆者も、二〇一三年および二〇一四年の三月十一日は大阪アジアン映画祭の震災特集上映を鑑賞したが、阪神大震災との関わりなど工夫された上映にもかかわらず、けっして観客は多くはなかった。震災の記録映像上映を通して、人々の震災に対する記憶をつなぎとめることもまた、大きな役割となろう。
 最後に、阪神大震災時は、紙ベースの記録が大部分であったといわれるが、東日本大震災においては、デジタル撮影機器の普及にともない、数多くの映像記録が残された。今後は、これらの映像を保存活用していくことが大きな課題になるといえよう。その意味において、山形国際ドキュメンタリー映画祭と、そのライブラリーが果たす役割に期待したい。

[付記] 本稿は、二〇一三年度日本地理学会春季大会において研究発表を行った内容を骨子として成文化したものである。発表時にご意見をいただいた方々および観客アンケートに協力いただいた方々、またアンケートの実施をお認めいただいた映画祭事務局や関係者の方々に厚くお礼を申し上げたい。なお、本稿で利用した統計データの集計には、二〇一三年度日本学術振興会科学研究費基盤研究(C)「映画を通した地域活性化の日韓比較研究」(研究代表者:岩鼻通明)の一部を使用した。


表1
   性別構成
    3月  10月
男性  15(25) 23(55)
女性  16(27) 19(450
無回答 28(48) 0(0)
合計  59(100) 42(100)


表2 
   年齢別構成
     3月  10月
10代 1(2) 0(0)
20代 1(2) 4(10)
30代 10(17) 6(14)
40代 7(12) 8(19)
50代 22(37) 11(26)
60代以上 18(30) 13(31)
合計   59(100) 42(100)


表3 
   職業別構成
      3月  10月
会社員 16(27) 13(31)
公務員 6(10) 7(17)
自営業 7(12) 3(7)
パート 6(10) 1(2)
主 婦 4(7) 2(5)
学 生 4(7) 1(2)
無 職 8(13) 7(17)
その他 8(13) 8(19)
合 計 59(100) 42(100)



表4
   居住地別構成
      3月   10月
市内 33(58) 7(17)
村山 10(17) 2(5)
庄内 2(4) 1(2)
置賜 2(4) 0(0)
県内計 47(82) 10(24)
秋田 2(5)
宮城 5(12)
埼玉 2(5)
東京 10(24)
神奈川 2(5)
県外計 10(18) 32(76)
合計 57(100) 42(100)

表5
    同伴者別構成
      3月    10月
家族    15(27) 10(24)
友人 4(7) 9(21)
親戚 0(0) 2(5)
その他 0(0) 2(5)
なし 37(66) 19(45)
合計 56(100) 42(100)

表6
     交通手段
      3月    10月
徒歩    8(13) 6(13)
自転車 4(6) 1(2)
自動車 36(57) 14(30)
バス 5(8) 5(11)
鉄道 10(16) 21(45)
合計 63(100) 47(100)

表7
     情報源
     3月    10月
新聞   12(19) 9(19)
館内 15(23) 1(2)
HP 8(13) 22(47)
その他  29(45) 15(32)
合計   64(100) 47(100)


表8
     必要性
     3月    10月
はい   55(95) 42(100)
いいえ   0 (0) 0(0)
どちら 3(5) 0(0)
でもない
合計 58(100) 42(100)


表9
      上映会・映画祭参加
           10月
2011年のみ参加     5(13)
2013年3月のみ 0(0)
11年と3月両方 8(21)
不参加 26(66)
合計  39(100)

表10
      映画鑑賞回数
       3月    10月
増加     15(25) 11(26)
変わらず 37(63) 26(62)
減少 7(12) 5(12)
合計     59(100) 42(100)

表11
       苦痛性
      3月   10月
はい    8(14) 5(14)
いいえ 50(86) 30(86)
合計 58(100) 35(100)


表12
      文化を知る場
     3月    10月
はい   46(82) 40(95)
どちら 8(14) 2(5)
でもない
いいえ 2(4) 0(0)
合計 56(100) 42(100)


表13
      余暇と娯楽の場
     3月     10月
はい   38(68) 32(76)
どちら 13(23) 5(12)
でもない
いいえ 5(9) 5(12)
合計   56(100) 42(100)
表14  
      情報入手の場
     3月     10月
はい   39(70) 30(72)
どちら 14(25) 9(21)
でもない
いいえ 3(5) 3(7)
合計 56(100) 42(100)

はい   39(70) 30(72)
どちら 14(25) 9(21)
でもない
いいえ 3(5) 3(7)
合計 56(100) 42(100)


表15
     生涯教育の場
     3月    10月
はい   37(66) 30(71)
どちら 16(29) 9(22)
でもない
いいえ 3(5) 3(7)
合計 56(100) 42(100)


表16
    癒しと安らぎの場
      3月    10月
はい    39(70) 21(50)
どちら 14(25) 13(31)
でもない
いいえ 3(5) 8(19)
合計 56(100) 42(100)
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『百姓生活百年記』にみる三山参り(村山民俗学会会報271号、2014.5.1 より)

2014年06月12日 | 日記
  『百姓生活百年記』にみる三山参り  岩鼻 通明
 この度、本学会より刊行された高瀬助次郎著『百姓生活百年
記』の文中で、三山参りについて触れられている。たいへん貴
重な内容ゆえ、誌面をお借りして、簡単に解説したい。
 この記述は著者が15歳の時の体験にもとづいたものとのこと
で、昭和60年に89歳で他界されたので、明治末年の頃の記録
となろう。本文には触れられていないが、村山地方で習慣となっ
ていた15歳の初参りの典型例といえよう。
 三山は明治前期に自由参詣(先達なしでの参詣が可能)となり、
女人禁制も解禁されていたが、この時点でも男性のみでの参詣
であったという。他の霊山でも、女人禁制は解禁されたものの、
女性が登ると山が荒れるなどと嫌われたのが、この頃の実態で
あったらしい。女学校の集団登山が、この因習打破に貢献した
とされるが、出羽三山では、どうだったのであろうか?
 村山盆地からは、志津を経て、装束場から湯殿山に下るルート
を歩くが、既に装束場の地名は使われていない。そこからの下り
を著者は「オガッコ場」と記すが、いわゆる「水月光・金月光」と
称された急坂である。
 興味深いのは、ここで「六根清浄・・・」と唱え、湯殿山のご神体
では「アーヤニアーヤニ・・・」と唱えていることである。言うまでも
なく、前者は神仏習合時代の唱え言葉であり、後者は神仏分離
後の神道の祝詞である。両者の混合を、神仏分離の不徹底と
みるべきか、あるいは明治末年には仏教勢力がある程度の復権
を果たしたとみるべきか、議論は尽きない。
 さらに、時代を感じさせるのは、装束場まで登り直した後に、月
山まで、さらには羽黒山へ下ることもあったという記述で、まさに
芭蕉の『おくの細道』の帰還ルートである。江戸時代は大網へ下
ってから羽黒山へ廻る例もあったようだが、臨機応変に行き先を
選んだところも、自由登山になったからこそ可能になったといえ
ようか。
 以上で簡単に解説を付したが、いわゆる聞き取りによる民俗調
査ではなく、参詣した当事者による記録ということで、信頼性の高
いものと評価することができる。
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2013年度後期成績講評

2014年03月23日 | 日記
 農学部「地域・環境問題概論」レポート提出者11名、うちSは1名、Aは3名、Bも3名、Cも3名、Fが1名となった。レポートに加え、出席点を加味したが、F評価は出席不足のため。全般として、地理学のレポートには地図や図表・写真などを、できるだけ巧みに活用してほしい。ネット検索のみに頼らず、図書館での文献探索が重要。
 基盤教育「日韓のドキュメンタリー映画から学ぶ」(教養セミナー)レポート提出者119名、うちSは99名、Aが19名、Bは1名、CとFは0名となった。セミナーゆえ、出席点を重視したために、おおむね出席状況がよく、S評価が多くなった。ただ、レポートでは作品名のみならず、監督名および制作年は明記してほしかった。
 人文学部「民俗文化講義」レポート提出者69名、うちSは3名、Aが30名、Bは28名、Cが7名、Fは1名となった。今年度が最後の講義となるために甘めの評価をしたが、Sは優秀、Aは普通、Bは物足りない、Cは不出来、Fは論外といった評価である。ネット検索と文献探索をうまく組み合わせ、深く掘り下げられたものは、S評価とした。F評価はまったく参考文献がないもの。
 以上、13年度後期の成績講評まで。
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