山形大学庄内地域文化研究会

新たな研究会(会長:農学部渡辺理絵准教授、会員:岩鼻通明山形大学名誉教授・農学部前田直己客員教授)のブログに変更します。

「大江町における国重要文化的景観選定の意義」 岩鼻 通明(「村山民俗」30号より)

2016年06月28日 | 日記
一 はじめに-重要文化財指定における空間的時間的拡張
 この重要文化的景観というジャンルが設定されたのは、国の重要文化財の指定というのが、文化財保護に関わる時代の流れの中で、その枠組みが空間的にも時間的にもかなり広がってきたという経緯があるということです。空間的に申しますと、保存が元々は点的な形で、たとえば単体としての建築物の保存があったわけです。
 その代表的なものとして名古屋の郊外に明治村があります。これは名古屋鉄道が経営をしている、いわば民間のテーマパーク的な施設ですが、たとえば貴重な文化財である古建築が取り壊されそうになった時に、この明治村に移築をして、場所を移して保存をするというスタイルです。具体的には山梨県の東山梨郡の郡役所や西郷隆盛の弟の政治家であった西郷従通の屋敷が移築されています。現地保存ではなくて場所を移して保存をするという方法です。
 当初はこのような、いわば点的な保存で、個々の建物を保存する、しかも場所は移してもやむを得ないという文化財の保存の発想が一般的であった訳です。それが時代の流れで変わってきまして、一九七〇年ごろから、面的といいますか、むしろ線的といった方がいいのかもしれない保存方法が登場するようになりました。線的というのは、宿場町の町並みなどが典型例ですが、道路に沿った両側の建物の町並みを保存するという発想に少し切り替わってきました。
 その中で生まれたものが、通称伝建地区と略されている、「国重要伝統的建造物群保存地区」という重要文化財のひとつのジャンルになります。
 たとえば、岐阜県の飛騨高山の町並み、および高山のもう少し北にあります飛騨古川というところの町並みですが、基本的には宿場町的な町並みで、道路の両側の街区を保存するという発想で、線的な保存がこの伝建地区の選定によって一九七〇年代から始まったということになります。
 それを更に空間的に広げ、面的に広がりのある空間として保存しようというのが、二十一世紀に入って登場した、この「国重要文化的景観」という新たなジャンルになるというわけです。
 また、時間的にも保存の対象となる建築物がいつ建てられたかという点においても、時の流れの中で、次第にある程度新しいものも保存の対象になってきています。たとえば伝建地区ですと、当初は江戸時代の宿場町の町並みですとか、あるいは江戸時代の城下町の武家屋敷の町並みといったような歴史的町並みが選定対象にされたわけで、前近代、すなわち明治以前のものが優先された時代があったわけです。
 それが明治以降の建物、たとえば明治の洋風建築なども近代化遺産という形で文化財として保存の対象に含まれるようになってきました。さらに重要文化的景観の場合は、第二次大戦より前の建築、つまり昭和初期あたりの建築物も、今は戦後七十年という時代ですから昭和はじめのものも既に百年近く時代がたっているということになります。
 そのような流れの中では、第二次大戦前の町並みというものも、現時点では保存の対象に含まれてくるわけです。ですから、具体的には昭和の戦前の町並みまで文化財保存の対象に入ってくるというような変化が出てきています。

 二 国重要伝統的建造物群保存地区の課題
 それで、まずは伝建地区に関する課題に触れましょう。東北の事例を具体的に示すと、二〇一五年十一月に青森県弘前市と岩手県金ヶ崎町へ行ってきました。弘前はおそらく十年以上前に訪問したきりで、二十一世紀に入ってからは初めて行ったのかもしれません。
 駅前なども町並みはかなり近代化しておりましたけれども、弘前は東北では早い時期に伝建地区に選ばれたところです。一番最初に選定された長野県の木曽の妻籠の宿場町が有名です。東北では秋田県の角館が一番最初で、妻籠と同じ一九七六年に選定されましたが、弘前はもう少し後の一九七八年です。
 今回歩いてみて、たとえば、武家屋敷の建物がつい最近建築物として、国の重要文化財の指定を受けるということになりました。それは弘前藩の史料によって、この建物の建築年代がはっきりわかったからです。それで建築物としても重要文化財の指定を受けることになったんだそうです。
 同じく、少し前のニュースで島根県の松江城の天守閣の棟札が見つかったことで、建築年代がはっきりして重要文化財の指定を受けることになったということもありました。
 同様に、伝建地区の町並みの中でも建築年代がはっきりわかった建物が建造物として重要文化財の指定を受けることになったというニュースがつい最近流れましたので、現地を見てきたわけです。酒屋さんの商家が弘前城を出てすぐのところの伝建地区の一角にありますけれども、建物には実際に人が住んで商売をされていますが、内部を見学させていただくことができます。
 ここでは、ワンコインの百円で見学をさせていただきました。今後の課題になるでしょうが、大江町の町並みの中でもこういった伝統的な商家のような民家の内部を見せていただけるような取り組みも必要になってくるかなと、弘前の町並みを見て感じたところです。若干の入場料的なものをいただくことも含めて、そういった試みも今後は必要になってくるでしょう。
 それから、岩手県金ヶ崎町は北上市の少し南にある町ですが、ちょうど南部藩と伊達藩の境界に立地しており、伊達藩のいちばん北の守りの要になる小さな城下町です。そこの武家屋敷が比較的良く残されています。武家屋敷ですが、二軒ある一つの方が母屋として使われています。南部地方では曲屋と呼ばれ、一軒の建物がL字型になっていますが、この伊達藩では母屋と馬屋を離して建てるような武家屋敷になっていたようです。
 近くに町立の資料館があり、それは二年ほど前にできたようですが、伝建地区の選定は二〇〇一年です。伝建地区の展示を含めて、この地域の歴史がわかるような展示施設がつくられたということで、左沢の場合にも、このような文化的景観に関する展示施設が、これから必要になってくるでしょう。
 さらに東北の事例で、とりわけ最近に伝建地区に選定されたところとして、秋田県横手市(旧増田町)の増田という蔵の町と、宮城県の村田町が同じく蔵の町で、どちらも商人町の蔵の町並みが伝建地区に選ばれました。
 増田の方は雪の多いところでして、ここ二年続けて橫手のあたりは大雪が降ったようです。普通の蔵もありますけれど、内蔵と呼ばれる、建物の内部に蔵がある、あるいは蔵に覆いが付いているといいますか、建物の中に蔵座敷のようなものが造られています。
 雪国独特の町並みということで、この増田の建物は無料で見学できる公共の展示施設として一軒のお宅が使われています。通常は入場料が三百円で内蔵を見せていただけるような民家が十軒近くありますが、あまり時間がなかったので、十分その見学ができませんでした。建物の中にある蔵を観光客が見学できるような形になっています。
 増田は二〇一三年に選定をされた所です。それから宮城県の村田町は二〇一四年の春で、東北の中では一番新しく選定された伝建地区になります。この選定に際しては、山形大学人文学部の岩田浩太郎教授が、ずいぶん努力をされ、当地の紅花の史料を分析されました(注一)。
 山形県から紅花を集荷した商家が紅花問屋として江戸時代は機能をしていたのであり、その町並みが伝建地区になりました。立派な蔵の町並みが続いておりますが、実は東日本大震災で大きな被害を受けまして、かつては水田であった低湿地に町並みがつくられたそうで、かなり大きなダメージを受けました。 
 その修復も兼ねて伝建地区に選定されました。文化庁から修復に際しての補助金を得たという経緯もあったようです。よろず屋さんのような店の二階で昭和の様々なレトログッズを展示されていまして、それを無料で自由に見せていただけました。このお店のご夫婦が熱心で、ボランティアとして案内をされているようです。地元住民の方々の熱意によって、この伝建地区というのは支えられているところがあると感じました。 
 この村田の蔵の町が伝建地区になったことによって、東北六県の中で、伝建地区が存在しないのは、ついに山形県だけになってしまいました。今後も伝建地区の選定が山形県では厳しいところがあるのかもしれませんが、後述のように、むしろ伝建地区というよりも重要文化的景観を目指す取り組みの方が二十一世紀の文化財保護としては重要であると思われます。
 さて、伝建地区は現在四十三道府県の百十地区というふうにかなり拡大をしております。一九七六年から長野県の妻籠や秋田県の角館をトップにしてスタートしたわけで、現在は百十地区に及ぶということになるわけです。
 山形県内では、かつて上山市楢下の宿場町、米沢市の武家屋敷、旧羽黒町手向の門前町などの候補地が若干調査されたことはありましたが、詳細な報告書は作成されたものの、選定に至らないままになっています(注二)。
 実は伝建地区の選定には、地区内の全世帯の同意が必要だということで、これが高いハードルになるところがあります。ですから伝建地区に行ってみますと、町並みは残っているけれども、地区の外に位置していることもあって、わりと町並みが残されているところでも、その中の限られた部分しか、伝建地区になっていないということもあります。
 つまり、そういうケースは地区内の全世帯の同意を得られた部分だけしか地区指定ができないということを示しています。そのあたりの難しさがネックになって、県内では伝建地区を目指すことに、なかなか地元の合意が得られにくいというところがあったのではないのかと思われます。

 三 国重要文化的景観の登場
 それから重要文化的景観という枠組みが、伝建地区のスタートから数十年たって、二十一世紀に入って二〇〇六年から選定が始まり、この十年で五十地区が選定をされています。伝建地区が百ヶ所余ですから、十年間で、かなりのスピードで、この文化的景観が選定をされたということになります。
 ただ地域的には、かなり偏っていて、西日本には選定地区が沢山ありますけども、関東には一件しかありません。そして、北海道が一件、東北では、最初に選定されたのが、一関市の本寺です。この地区は中世に骨寺と呼ばれた平泉中尊寺領の荘園集落であり、二〇〇六年のスタートの時点で選定されました。
 この荘園集落を描いた鎌倉時代に作成された二枚の絵図が中尊寺に伝来しており、一九八〇年代に荘園絵図研究の仲間たちと絵図を見学させていただき、また荘園集落の現地調査にも何度か参加する機会がありました(注三)。
この選定は、平泉の世界遺産登録とかかわるところがありましたが、残念ながら世界遺産登録の段階では、この本寺地区を切り離して、まず平泉の核心部分だけを登録するという形になってしまいました。この本寺地区について、今後に世界遺産の範囲を拡大して登録を目指すことで棚上げになったわけです。
 それに加えて、岩手県遠野市の荒川高原牧場、および追加選定で二〇一三年に遠野市土淵山口集落、ここは遠野物語を柳田国男に語った佐々木喜善氏の生まれ故郷ですが、その地も文化的景観に選定されました。
この文化的景観という概念は、きわめて歴史地理学的な側面が強く、伝建地区が線的保存にとどまっていた面があったところを、面的空間へと保存の対象を拡張したことに大きな特徴があります。この枠組みの成立には、我々の先輩にあたる歴史地理学者の方々が奮闘努力された背景がありました(注四)。

 四 大江町の重要文化的景観の課題
 この文化的景観の選定ということでは山形県で大江町が初めてということになりますし、東北ではまだ数少ない事例の一つになります。それで大江町の重要的文化景観の選定後については、この重要文化的景観を来訪者にどのように見学していただくか、また地元住民の方々に、この文化的景観というものの重要性をいかに認識していただくかということが、将来的な課題になると思われます。
二〇一五年十一月七日に、県教育委員会主催で「未来に伝える山形の宝シンポジウム」が開かれ、そこでデービッド・アトキンソンさんが講演をなさったわけですが、そこで印象に残った言葉として、「保護しか考えない観光戦略のない文化財行政」がありました。
 そのような批判をなさったわけですが、このあたりの議論はなかなか難しいところがあります。たとえば、重要文化財にしても世界遺産にしても、単に観光目的だけではないという、逆の批判もあるわけです。世界遺産の場合は、世界的な展開の面で、あまりにも観光目的が優先されてしまっているという批判も一方であるわけですが、そのあたりはバランスが必要なところだと思われます。 
 ホストとゲストの関係で説明すれば、ホストとしての地元の住民の方々の意識を如何に高めるか、また一方ゲストとして外から来る方々に対して如何に文化的景観を理解していただくかということになります。その両方のバランスをうまく取りながら、進めていくという事業になると思います。
来訪者に何を見ていただくかということについては、先に伝建地区の例でも触れましたが、建築用語でファサードと呼ばれる町並みを、道路から眺めて観察するということが重要になります。
 もう一つは可能であれば、建物の内部を見学できるところがあったほうが好ましいです。これは地元の住民の方々のご協力がかかせないわけですが、実際に住民の方々の生活の場の中に入っていくということになるからです。
そうなると、ある程度きれいに家の中を片付けないといけないというような必要に迫られたりするところも出てくるわけです。ただ、外観だけの観察では、その全貌を十分に理解できないところがあります。
 すなわち、文化的景観というジャンルは、人々の伝統的な暮らしそのものも保護対象の中に入っているような概念になりますので、建物を外側から見ることだけで、文化的景観の全体像を理解するのは、なかなか難しいだろうと思われます。
 そのあたりを、地元の方々に協力していただけるかどうかが一つの鍵になってくるでしょうし、それから、たいへん立派なパンフレット類をつくっていただいておりますけれども、現地の掲示板などや、情報収集源となるインターネットのホームページを活用して、事前に情報を集めることが今では一般的になってきております。
 山形大学農学部環境地理学研究室の卒論でも会津出身の学生が会津若松市で観光客がインターネットをどのように利用しているかについて、現地で実態調査を行ってまとめました。スマホで観光情報をチェックしながら現地を歩く来訪者が増えている時代ですので、いかに情報を提供していくかということが重要になってきます。
 古いインターネットのホームページですと、スマホに対応していないケースがあったりします。山形大学農学部は改組をして六年になり、六つのコースごとに教育研究を行っておりますが、各コースのホームページを立ち上げる必要に迫られ、スマホ対応のホームページをつくらなければならないということで、ようやく動き始めているところです。
 そのようなスマホ対応のインターネットホームページが重要になってきておりますし、もう一つは先ほどのアトキンソンさんが強調されていたことですけれども、外国人に対する説明です。これはなかなかたいへんなことですが、やはり外国人が理解できるような英語以外も含めた多言語のホームページをつくる必要があり、ホームページのみならずパンフレットや案内板なども、日本語だけなくアジアに向けた中国語や韓国語を含めた案内板を出すとか、多言語のパンフレットやホームページをつくっていく必要があるということです。
 外国人の観光客は、いまやインバウンド観光と呼ばれ、重要性を増しております。特に二〇一四年から外国人の観光客が年間一千万人を超え、二〇一五年は千九百万人を超えたと言われておりますけれども、それだけ外国人の観光客が増えているわけです。
 ただ、残念ながら東北地方は、やはり東日本大震災のマイナス影響が残っているということがありまして、外国人の方々になかなか足を運んでもらえないというところが、まだまだあります。そのあたりを、どのように情報発信して克服していくかということが、今後の課題になると思われます。むしろ東北地方は日本の伝統文化がよく残されているところですので、そのようなプラス面を外国人の観光客にどんどんアピールをしていく必要があるだろうということです。
 東北を歩いていても、外国人観光客に出会うことは多くはありません。一方、数年前に九州・太宰府の天満宮へ行った時には中国や韓国からの観光客がたくさん歩いていまして、数割くらいは外国からの観光客が目に付くような状況と比べると、東北はまだまだ外国人の来訪者が少ないと言えます。外国人の方々に来ていただく受け皿としても、先述の多言語でのPRがますます重要になってくると思われます。 
 その一方で地元の住民の方々への啓蒙ということが不可欠で、重要文化的景観というものを具体的に理解していただくことが先決です。来訪者に何を見てもらいたいのか、何を見せればいいのか、それも地元の方々で取捨選択をする必要があるだろうということです。
 先のシンポジウムの時も富山県高岡市の代表の方がみえておりましたが、地元の人に何人も聞いても「何もないところです」ということをついつい話してしまうというか、地元でふだん暮らしているような場合に何が大事なのかということが、なかなか見えてこない世界があるということです。
 それこそ、その地域特有の伝統的なお宝というものがあるはずなのですが、何が大事なのかを地元住民に認識していただく必要があるということです。たとえば、昭和の暮らしぶりそのものが見えるような、少し前のレトロなグッズを並べるだけでも最近の若い人たちにとっては見たことがないような世界が展開するわけです。
 より具体的に示せば、今はパソコンの時代になっておりますけれども、一九九〇年代は、ワープロ専用機が使われていたような時代があったわけで、今の大学生にとっては、ワープロ専用機など見たことも触ったこともないということがあったりします。
 電化製品でも、少し古いものは若い世代にとっては珍しいものになるわけです。結果的に過去のものはどんどん捨てて処分していますが、案外そのような高度経済成長期に入ったころの電化製品なども、今の時代には保存すべきものといえましょう。
 私自身は大阪の出身で、ちょうど物心ついた時には大阪市のはずれの鉄筋コンクリートの中層団地に住んでいました。今はもう解体されてしまい、新しい高層住宅ができております。大阪の天神橋六丁目にある「大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館」には、高度成長期に入った時期の住宅団地の一室が再現されて展示されています。この博物館施設は二〇〇一年に開館しておりますが、高度経済成長期にさしかかるころの暮らしぶりというものも、それこそ博物館の中でしか見られないような時代になっているわけです。
 先ほど戦前の町並みが文化財として保存の対象になってきたことを指摘しましたが、現実には高度経済成長期にさしかかる頃までのさまざまな「もの」もまた、保存すべき対象になりつつあります。民俗学では「民具」という呼び方をしますが、そのジャンルにおいて、博物館などで展示して残しておくべき対象が二十一世紀には拡大してきているといえましょう。
 再度繰り返すと、地元の方々に重要文化的景観というものを如何に認識していただくかということですが、これまでも大江町教育委員会で様々なイベントを実施していただいております。たとえば、講習会とかワークショップですとか、あるいはボランティアガイドの養成ですとか、そのようなイベントを通して、地元住民の方々が、来訪者に対してガイドをする中で、外から来た人が何を見学したいのか、先述のホストとゲストの関係性の中で何を見せればよいのか、ということが次第に深まってくると思われます。つまり、住民参加のイベントなどを重ねていく中で、意識が高まることによって、何が課題であるのかについて、答えがみえてくるということがあるのかと思われます。
 ところで、最上川の流通往来ですが、最上川は、かつて生産地と消費地を結びつけるという役割を有していたわけです。最上川の流域の生産物が河口の酒田の港町を通して、日本海の海運で上方、あるいは江戸まで運ばれるという、日本全体の生産地と消費地を結ぶような流通体系の中で大きな役割を果していました。
 さらに、ミクロにみれば左沢の港というのは上流と下流をつなぐ中継地点のひとつでした。川舟のサイズが上流と下流で違っております。つまり、下流に向うにつれて、より大きな舟が行き来することができるわけですので、左沢と大石田というのは舟のサイズを切り替えるための重要な中継地点でした。
 また、左沢の場合には大江町の行政区域が最上川の支流の月布川の流域沿いに広がっているわけですが、先ほど冨樫教育長からお話しいただきました青苧は月布川の上流地域が江戸時代に生産の拠点であったわけです。
 その青苧を左沢まで運んできてそこからまた舟で下流に運ぶといった、左沢の港は月布川流域の生産物を積み出す拠点としての役割をもっていたわけです。私の専攻する地理学においては後背地という表現をしますけれども、その左沢の港の後背地との結びつきということも、左沢の港が栄えた一つの理由ということになります。
 実は、当初に重要文化的景観の選定を目指した際には、月布川の上流の山村、中山間地域の調査もしまして、私自身はどちらかというと、その調査をメインにさせていただいたわけです。ただ、この後背地の中山間地を文化的景観の範囲に、いかに取り込むかということが、なかなか難しく、第一次選定としては左沢の町並みを対象にしようということになりました。後背地の山村には、若干ながら茅葺きの民家が残っている地区もありますので、左沢の町場と山村との繋がりという要素も、重要な課題として残されているということになるわけです。

 五 おわりに-最上川流域全体への拡大
 それでは、最後に世界遺産と文化的景観との関係を触れておきます。前知事の時代に世界遺産登録に向けたシンポジウムが何度か行われましたが、ご承知のように当初は出羽三山をメインに世界遺産登録に取り組もうという流れがありました。
 それが、ある時点で富士山が有力候補として世界遺産に登録されそうだというふうな流れになってきて、また既に紀伊山地の大峯山が世界遺産に登録をされていたわけで、山岳信仰の霊山としては二番手、三番手になってしまうという経緯もあって、中心が最上川に切り替わるという流れに変わりました。
 最上川の文化的景観として世界遺産登録を目指そうというふうな流れに切り替わってきたということですが、知事が交代する中で世界遺産登録が棚上げになりました。そこで、知事が世界遺産登録から文化的景観に方向を切り替えたという報道が山形新聞紙上でなされ、それをそのまま引用している文献もみられますが、それは正確な報道とは言いがたい、ということを強調しておきたいと思います(注五)。
 すなわち、世界遺産というのは実は条件がありまして、国内法で保護されていることが世界遺産登録の前提になります。したがって、国重要文化的景観の選定は、世界遺産の前提条件をクリアするということに他ならないというわけです。その点では、大江町は非常に先駆的な動き、取り組みをなさったわけでして、この世界遺産登録を目指している段階で、いちはやく重要文化的景観の選定を目指して委員会を立ち上げられたのです。
 県内での取り組みを最初に始められ、それが選定に至ったわけですので、これから最上川流域の各市町村が、この取り組みを繋いでいく必要性があるということです。上流から下流まで、それぞれの市町村で重要文化的景観に選定をされるべく取り組みを進めていって、それが繋がった時にようやく世界遺産登録の可能性がでてくると、私自身はそのように理解をしております。ですから大江町が選定をされたということは、世界遺産登録へ向けてのスタートラインとして非常に重要なことであると考えております。
 ところで、二〇一五年七月に長野県長野市の戸隠へ久々に調査に訪れました。当地は私の卒業論文のフィールドでして、それ以来、十年ごとに追跡調査をしてきました。最初は、一九七五年に卒業論文の調査をしまして、それから四〇年目になりますので七五年、八五年、九五年、〇五年、一五年と、十年ごとに調査を継続してきたわけです(注六)。
 旧戸隠村は、二〇〇五年に長野市と広域合併をしました。旧戸隠村は小さな村でしたが、長野市街地のちょうど北西にあたるところです。広域合併をしてから、十年たって、ようやく政策的な効果が少し現れてきたということを今回の調査時に実感しました。
 長野市では、二〇一三年度から十カ年計画で、国交省の通称「歴史まちづくり法」という法律に基づいて、事業を推進しています。各市町村で歴史的風致向上計画というものを策定して承認されれば、国交省から補助金が出るという制度が、まちづくりの法律として新しくできました。
 長野市では、この制度を導入して、戸隠の中社と宝光社の二つの門前集落を対象に、町並み整備を始めました。宝光社の集落にある、越志さんと武井さんという宿坊旅館が、長野市町並み環境整備事業補助工事というかたちで、長野市からの補助金で、宿坊の屋根の修復をしていました。
 おそらく以前はトタン屋根になっていたと思われますが、トタンを外して茅葺き屋根を再現するという町並み整備を始めたところでした。数年後に、先述の伝建地区に選定されることを目指して、事業を始めているということでした。 
 その宿坊の並ぶ通り沿いに、二〇一五年春にオープンしたアクセサリーショップの店があり、経営者の若い女性の方は住民ではなく、市外から通っておられる方だそうでして、ちょっと白い明るい色の外壁に塗り替えて開業したそうです。ところが、伝建地区の選定を目指す長野市役所の方が突然みえて、その外壁を、もう少し茶色っぽい色に塗り直してもらえませんかと、いきなり言われたそうで、ちょっと憤慨されておられました。
 伝建地区の選定には、建物の色調を全体的に整えるというようなことも必要になってくるわけです。この建物のすぐ反対側には、数軒の宿坊が並んでいるところですので、地区指定をしようとすれば、この建物の色などが問題になってくるということです。そのような地区の合意形成というものが、やはり難しいところがあると実感しました。
 ただ、この長野市の政策というのは、国交省の歴史まちづくり法と文化庁の伝建地区あるいは文化的景観といった文化財保護法とを、うまく組み合わせていると思いました。国交省と文化庁という、それぞれの省庁が行っている、いわば別々の補助金事業になるわけですけれども、両者は対立するものではなくて、両輪の輪として活用すべきもので、歴史まちづくり法で補助金をもらいながら、町並み整備を進めて伝建地区や文化的景観を目指すという先駆的モデルであると感じました。
 鶴岡市の場合も歴史的風致向上計画の取り組みを進めているところですが、最終のゴールとして伝建地区なり文化的景観の選定を目指すというような設定をしてもよいのでないかと思われます。このような歴史まちづくり法なり文化財保護法をうまく組み合わせて使いながら国内法での保護を進めていけば、数十年かかるかもしれませんが、最上川の文化的景観が世界遺産に登録されることは、決して不可能ではないと考えております。
 それから、若干余談になるかもしれませんが、韓国に通う中で例年ゴールデンウィークに国際映画祭が行われる韓国の全州というソウルから南へ二百キロくらいのところに位置する都市を毎年のように訪問しました。ここには、韓国では数少ない朝鮮王朝時代の伝統的町並みが残っています(注七)。
 首都ソウルの一角にも残っていますが、この全州および新羅の古都である慶州の三つの都市には、一部の区画に朝鮮王朝時代の町並みが残されています。以前は何の変哲もない町並みでしたが、それがこの十年くらいで朝鮮王朝時代の町並みを復元というよりは再現したような、いわば人工的に造りあげた町並みが出現しました。
 当初は、私も違和感を持っていまして、いわば偽物という言葉は悪いかもしれませんが、否定的なイメージがあったのです。しかしこの十年間で、この町並みが急速に整備を進められてきて、韓国国内から多くの観光客が集まるようになってきました。
 この町並み整備は二〇〇二年の日韓ワールドカップ共催の前後からスタートしたのですが、十年間も続けていく中で、町並み整備の地区が広がって、それがまた観光客を集めるというふうに繋がってきたわけです。日本でも、このような再現的な町並み整備を工夫できないものか、あるいはファサードだけを伝統的なスタイルにすればよいわけです。郵便局でも商店でも昔風の外観にすればよいわけで、このような町並み整備も、そろそろ日本でも許されてもいいのかなというように感じております。
 最後に付言すれば、前述のアトキンソンさんは新著で、日本は文化財を「観光資源」にしないと生き残れないこと、観光戦略次第で文化財予算を増やせる可能性があること、文化財指定には「保護の視点」と「観光の視点」があり、従来の文化財指定は幅が狭く、「人間文化」という視点を重要視する必要があることを強調されています(注八)。これは、まさに重要文化的景観の活用に、ぴったり当てはまる指摘ではないでしょうか。

[付記]本稿は、二〇一五年十一月十二日に、山形県西村山郡大江町にて開催された、山形県博物館連絡協議会研修会における講演内容を、協議会事務局において成文化していただいた原稿に若干の加筆修正を加えたものである。講演の機会を与えていただいた山形県博物館連絡協議会および大江町教育委員会の関係者の方々に感謝して、稿を終えたい。

[注]
(一)岩田浩太郎『村田商人の歴史像:「蔵の町」をつくった人々』村田町文化遺産活用地域活性化事業実行委員会、二〇一四年。
(二)米沢市教育委員会『南原地区芳泉町 伝統的建造物群保存対策調査報告書』一九九六年(『日本の町並み調査報告書集成』第一八巻、海路書院、二〇〇七年、所収)。
(三)吉田敏弘『絵図と景観が語る骨寺村の歴史:中世の風景が残る村とその魅力』本の森、二〇〇八年。
(四)金田章裕『文化的景観 生活となりわいの物語』日本経済出版社、二〇一二年。
(五)菊地和博『やまがたと最上川文化』東北出版企画、二〇一三年。
(六)岩鼻通明「長野県戸隠高原の三十年~信仰と観光のはざまで~」山形民俗、二〇、 二〇〇六年。
(七)岩鼻通明「韓国都市における伝統的町並景観の保全と利用―ソウルと全州を事例に」季刊地理学五七-三、二〇〇五年。
(八)デービッド・アトキンソン『国宝消滅 イギリス人アナリストが警告する「文化」と「経済」の危機』東洋経済新報社、二〇一六年。
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