山形大学庄内地域文化研究会

新たな研究会(会長:農学部渡辺理絵准教授、会員:岩鼻通明山形大学名誉教授・農学部前田直己客員教授)のブログに変更します。

『百姓生活百年記』にみる三山参り(村山民俗学会会報271号、2014.5.1 より)

2014年06月12日 | 日記
  『百姓生活百年記』にみる三山参り  岩鼻 通明
 この度、本学会より刊行された高瀬助次郎著『百姓生活百年
記』の文中で、三山参りについて触れられている。たいへん貴
重な内容ゆえ、誌面をお借りして、簡単に解説したい。
 この記述は著者が15歳の時の体験にもとづいたものとのこと
で、昭和60年に89歳で他界されたので、明治末年の頃の記録
となろう。本文には触れられていないが、村山地方で習慣となっ
ていた15歳の初参りの典型例といえよう。
 三山は明治前期に自由参詣(先達なしでの参詣が可能)となり、
女人禁制も解禁されていたが、この時点でも男性のみでの参詣
であったという。他の霊山でも、女人禁制は解禁されたものの、
女性が登ると山が荒れるなどと嫌われたのが、この頃の実態で
あったらしい。女学校の集団登山が、この因習打破に貢献した
とされるが、出羽三山では、どうだったのであろうか?
 村山盆地からは、志津を経て、装束場から湯殿山に下るルート
を歩くが、既に装束場の地名は使われていない。そこからの下り
を著者は「オガッコ場」と記すが、いわゆる「水月光・金月光」と
称された急坂である。
 興味深いのは、ここで「六根清浄・・・」と唱え、湯殿山のご神体
では「アーヤニアーヤニ・・・」と唱えていることである。言うまでも
なく、前者は神仏習合時代の唱え言葉であり、後者は神仏分離
後の神道の祝詞である。両者の混合を、神仏分離の不徹底と
みるべきか、あるいは明治末年には仏教勢力がある程度の復権
を果たしたとみるべきか、議論は尽きない。
 さらに、時代を感じさせるのは、装束場まで登り直した後に、月
山まで、さらには羽黒山へ下ることもあったという記述で、まさに
芭蕉の『おくの細道』の帰還ルートである。江戸時代は大網へ下
ってから羽黒山へ廻る例もあったようだが、臨機応変に行き先を
選んだところも、自由登山になったからこそ可能になったといえ
ようか。
 以上で簡単に解説を付したが、いわゆる聞き取りによる民俗調
査ではなく、参詣した当事者による記録ということで、信頼性の高
いものと評価することができる。
コメント
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