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「体罰考(11) 先生も苦しみ、子どもも辛い」 武田邦彦先生ブログ

2013-02-18 22:53:02 | 教育
「体罰考(11) 先生も苦しみ、子どもも辛い」武田邦彦先生のブログから「子育て」について、考えてみたい。まずは、先生のブログをそのまま転載させていただく。

(今回は学校の平均的授業や活動の場面を取り上げています。スポーツ部は次の機会に考えます。)

広島・尾道の先生が自殺し、「どんなときでも先生が悪い」ということで先生を自殺に追い込んだ生徒はなんのおとがめもありませんでした。そこで先生の奥さんがたまりかねて裁判に訴え、生徒が自殺の原因になったということで「業務上の死」になりました。

それほど、子どもの状態は悪いのです。家庭で礼儀を一つも教えられず、それを先生がすべてを受け止めるのは無理です。尾道の場合、悪いのは家庭なのです。

大阪の体罰による子どもの自殺が起こると、先生の自殺とは全く違う反応を社会はします。「悪いのは先生、子どもはよい子」という建前だけで事実を見ないようにしています。

滋賀県大津の子どもによる子どものイジメと自殺も「学校が悪い」という事ですが、子どもがいじめたのですから、子どもが悪いに決まっていますし、次に悪いのは家庭です。

23才の先生が実験に失敗した子どもに塩酸を飲ませました。明らかに行き過ぎですが、この先生は23才ですから、子どもとあまり変わりません。

私は「子どもが悪い」とも言いたくないのですが、事実は事実として受け止めないと解決にならないと思います。

私も教室に行くことだけがイヤだった時もありました。また、あのうるさい、講義を聴かない学生に真剣に教育をしなければならないのは辛いのです。人が一所懸命話していても、メール、ゲーム、私語、ジュースですから、先生が冷静でいろというのは無理なのです。

多くの人は家庭の教育が不十分で、学校で暴れるたり、いじめたり、勉強しない子ども(おそらく1割ぐらい)がいることを知っているでしょう。そしてその原因が「優しく育てる」家庭にあることも知っているはずです。でも自らの非を認めたくないので、学校にその責任をかぶせるのはフェアーではありません。

子どもの人権教育をもっとも強調したルソーは「子どもを甘やかすことが、子どもの人権をもっとも傷つける」と言っています。

この問題が解決しないのは、コメンテーターから責任者に至るまで、「自分がよい子」になるために、「知っている事を知らないことにし、先生に責任を負わせる」と言うことが続いているからです。

学校で授業を聞かず、友達をイジメ、先生が少しでも力で制止しようとすると「訴えてやる」という子どもの存在は誰もがわかっているのです。まずは「当たり前のこと・・・礼儀も誠意もない子どもは学校に出してはいけない」ということを決める必要があります。

それからが改革です。スポーツ部の事件はこのような「まともではない学校」という土壌の上にできたものです。

(平成25年2月1日)



武田邦彦






小沢一郎代表テレビ出演

2013-02-16 21:45:12 | 教育
今日、生活の党小沢一郎代表がテレビに出演していた。
「日本に真の民主主義を築きたい。
そのためには、国民一人ひとりが自立する必要がある。」
「自立とは、自分で考え自分で選んで自分で行動すること」と述べておられた。

まさに、平井信義先生やこのブログで伝えてきた「やる気(意欲)」についての定義
「自分であれこれ考え、自分のしたい行動を選び出し、他人に頼らずに行動する力」
とオーバーラップする。

「マスコミ」や「文部省」は、国民を家畜のように管理するために、
意図的に国民が「自立」しないように、洗脳や教育を進めてきた。

3.11の震災直後、よくマスコミや政府によって流布された言葉に「絆」がある。
「絆」のもともとの意味は、家畜が逃げないように杭(くい)に固くつなぎとめおく綱を意味し、それが転じて、家畜同士を縛り付けて逃げないようにする意味となった。
うがった見かたをすると、民(たみ)を家畜扱いしているようにもとれる。

日本の民主主義は、主(あるじ)が民を治める民主主義で、
日本における「法治国家」とは、
主が民を法によって治める意味での「法治国家」と言える。
民の姿はよく見えるが、主の姿は霞のかなたにある。

絆でしっかり結び付けられおとなしく飼いならされた民に、
増税・TPP・原発再稼動・徴兵制
やりたい放題だ。

これからの子どもたち、
未来の日本、
それを守れるのは、もはや「母性」の力しかないところまで来ている。

「心の基地はお母さん」
グアムでの殺傷事件、子どもの盾となって刃に倒れたお母さん。
わが子を守れるのは「母親」しかいない。
お母様一人ひとりが、
これまでの先入観や固定観念、マスコミや文部省からの洗脳を排し、
わが子だけでも「やる気(意欲)」と「思いやり」が全身に充満した自立した人格に育つよう、子育ちを応援してあげてほしい。

母親が外に働きに出る風潮、
託児所に子どもを預けるのが当たり前の風潮、
それは、最後の頼みとなるこの母子の「へその緒の関係」をも断ち切ろうとする目論見にほかならない。

どうかそのような目論見にまんまと乗せられ外に目を奪われるのでなく、
わが子の「自立」へ向かっての成長をしっかり見定め見守ってほしい。
理不尽な世、不条理な世を変えることができるのは、
あなたのお子さましかいないのだから。






「けんか」のルールー③

2013-02-15 20:29:03 | 教育
③ 物を使うことは卑怯な行為。相手の身体を傷つけることは卑怯な行為。

普段から折(おり)に触れて、
「けんかのときに、棒や鋏(はさみ)や石など物を持つことは卑怯(ひきょう)なこと。」
「相手の身体を傷つけることは卑怯なこと。」
と、さりげなく話しておくとよい。

いざ「けんか」のとき、
その潜在意識に刷り込まれたものが威力(いりょく)を発揮して抑止(よくし)力になる。
子どもは、ずるいことを嫌い、ずるいことを許さない気持ちを強く持っているので、
「卑怯なこと」はしたくないという気持ちが働き、身体を傷つける事態を防ぐことができる。

「けんか」が起きているときに、もし危険なものを手にしているのを目にしたら、
「物を持つことは卑怯だ。堂々と戦え。」と、声をかけて、物を捨てさせてほしい。
「けんかはお止め、お相撲はおとり。」と、昔からよく言われているが、
これは、「素手で戦え」と、解釈することもできる。
「けんか」は、止めようとするとお互いが意地になってより激しさを増すが、
「戦え」と言われると、どういうわけか戦意喪失して終わってしまうことがある。

年齢が小さければ小さい程、素手で戦う限りそんな大きな怪我を負うことはまずない。
ひとを投げ飛ばしたり叩いたりする中で、あるいは突き飛ばされたり叩かれたりして、
これまで経験したことのない痛みを経験したり、
予想外のダメージを相手に与えてしまって驚いたり、
腕力行使の際の「加減」というものを少しずつ身体で覚えていくことになる。

大きくなって暴力沙汰になっても、小さい頃からよく「けんか」をしてきた子は、
無意識のうちに加減をしたり急所を外すことができる。
暴力を被(こうむ)る「におい」を察して、一目散に逃げることもできる。
暴力を受けても、受身を取ることもできる。

昔は、当たり前のように子どもたちは相撲もしていたので、
このあたりの加減が自然にできていたし、投げられ方(受身)も自然に身につけていた。
今は相撲をしないのかもしれない。
少年たちのけんかで相手を死に至らしめるような悲惨なニュースをよく耳にする。
昔であれば、相手が戦意を失った時点で矛を収めたものだった。
止(とど)めはささなかった。

男の子は、本能的に「攻撃性」というものを持っている。
腕力を振るうのは、その攻撃本能によるものだと思う。
したがって、腕力に訴える「けんか」は避けることができない。

なので、普段から「物を使うことは卑怯」「相手の身体を傷つけることは卑怯」を
刷り込んでおく必要がある。






「けんか」のルールー②

2013-02-14 23:07:24 | 教育
② 双方の言い分を聞く

さて、前回の続き、
もし、「けんか」をしていて、泣きついて来たらどうするか?

そのときは、泣きついて来た子の言い分をしっかり聞いてあげることが大切だ。
「けんか」のときは特に感情的になっているので、
その感情的になっている中身は何なのか、なんで怒っているのか理由を聞いてあげ、
その子が心から叫びたいこと言いたいことをひとつ一つ具体的に声に出させ、
それを聞いたあなた自身も確認しながら声に出して繰り替えしてあげるといい。

ただし、評価や裁きを口に出してはいけない。
「たかし君蹴ったんだ。ひどい、女の子を蹴るなんて。暴力はやっちゃいけないよね。
いつもあの子は口で勝てないとなると暴力を振るう。どうしようもない子だ。」
これは、評価や裁きになる。

これを
「たかし君蹴ったんだ。あたまに来たんだ、蹴られて。何処を蹴られた。痛かったよね。悔しいよね。」
と。

「けんか」は、お互いの「自己主張」のぶつかり合いであり、「感情」のぶつかり合いだ。
「主張」したい中身は何なのか、訴えたい「感情」は何なのか、
それを外にぶちまけさせることがまず必要だ。
ぶちまけるだけで、「主張」の動因が解消され、
押さえ込んだ感情が発散され、
たいてい、感情が収まり冷静になれる。

さらに、
その「主張」や「感情」をあなたが代わって具体的に言葉に出してあげることによって、
主張していた内容、何で感情的になったかの理由などを、
その子が、鏡に映し出すように「客観的」に見ることができる。

客観的に事象を見ることができると、
「なんてちっぽけなことでけんかをしてしまったのだろう。」とか、
「たかし君が蹴ったのも無理ないなあ。からかいすぎちゃったかな。」
などと、自己反省や相手を思いやる気持ちも沸いてくることもある。

ただし、これで終わりではない。
たかし君を放っておいてはいけない。

女の子は、「先生に言いつけるから」とか「お母さんに言いつけるから」
と、捨て台詞を残してあなたのところへやって来ているに違いない。
たかし君のほうは、
「後で先生から叱られるのじゃないだろうか?」
「お母さんに暴力を振るったことがわかってしまうのじゃないだろうか?」と、
心中穏やかではないはずだ。

そこで、たかし君のほうにも行って、たかし君の言い分を聞いて上げる必要がある。

方法は、同じで、「評価しない」「裁かない」は絶対原則で、
たかし君の「主張」と「感情」を表に出してあげ、
それらを鏡に映し出してあげるだけでいい。

繰り返しになるが、
これは、あくまでも子どものほうからSOSを大人に伝えてきたときの対応であって、
「けんか」をしている最中に大人のほうから介入しては、
「社会性を身につける学習」の妨げ、余計なお節介となる。





「けんか」のルールー①

2013-02-13 23:12:19 | 教育
「けんか」は「社会性を身につける」重要な学習。

その学習が円滑に運ぶために、どのようなことに気をつければよいか?
次の3つのことが考えられる。

◆ 裁かない。
◆ 双方の言い分を聞く。
◆ 物を使うことは卑怯な行為。相手の身体を傷つけることは卑怯な行為。


① 裁かない

以前、「けんか」について触れたとき、
「子どものけんかに親が出るな」ということを話したが、
きょうだいげんかであろうが、友達同士のけんかであろうが、
親や大人が介入してはいけない。
あくまでも自分たちで解決させるべきだ。

幼稚園などで見る光景でこんなことがある。

女の子が、「たかしくんが私のことを蹴った。先生たかし君を叱って。」
と先生を呼びに来る。
先生がその女の子を連れて、たかし君のところへ行き。
「たかし君、本当に蹴ったの?」と、たかし君を問いただす。
すると、たかし君は、「だって、メガネザル、メガネザルって言うから」
「たかし君、何言われたか知らないけど、蹴ることはないでしょ。暴力はいけません。謝りなさい。」

このように裁いてしまうとする。

この裁きでは、
たかし君の言い分は認められず、
女の子がからかったことは糾弾されず、たかし君が全面的に悪いとされた。
とたかし君は受けとめるだろう。
これでは、たかし君の心に傷が残ってしまう。

特に、きょうだいげんかなどでは、たいてい上の子が我慢させられる。
「お姉ちゃんだから」「お兄ちゃんだから」と。
上の子は不公平感を抱き、心に傷が残り、不満が鬱憤となって後々まで残ってしまう。

いずれにせよ。
親であれ先生であれ、
大人が介入してしまうと、どうしても裁いてしまう。
裁くと、どちらかに不公平感や心の傷が残ってしまう。
また、双方に残ってしまう場合もある。

したがって、
あくまでも「けんか」は自分たちで解決させるべきで、
介入を請われても突き放したほうがよい。

とは言っても、親に泣きついてきたり、先生に泣きついてくる子はいる。
そんな場合どのようにすればよいのだろう。
次回そのことについて考えてみよう。