子育て相談室

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「自立」=「やる気(意欲)」+「思いやり」

2013-02-27 18:20:54 | 教育
武田邦彦先生のブログ「体罰考」を受けて、
日本の公的教育の劣化の原因について、
文部省の存在と教育制度自体に最大の原因があることをお話してきた。
一方で教育を受ける側の「生徒」についても問題があることもお話しした。
ここでは触れなかったが「先生」についても「親」についてももちろん問題はあるが、
それらの問題は、「子育て相談室」の趣旨から外れるので、いつか必要なときに触れることにする。

生徒の問題について、
「自立」していないことが問題であること、
言い換えると「やる気(意欲)」が充分に育っていないところに問題があること、
特に、「三つ子の魂百までも」と3歳までの「子育ち(て)」がそれに大きく関わっていること。
などについて説明してきた。

「自立」と「やる気(意欲)の発達」とは、ほぼ同義に捉えてよいが、
「自立」の中身について、もう一つ加えておきたいものがある。
それは、「思いやり」。
つまり、「自立」とは「やる気(意欲)」と「思いやり」が共に発達した状態と見ることができる。

私は、「自立」と「やる気(意欲)」が同義であるという認識はあったが、
「思いやり」が加わって初めて「自立」だと教えていただいたのは、
これまで何度も登場していただいた平井信義先生からだった。

「やる気(意欲)」だけ育っていたのでは、ともすると自分勝手自分本位の行動になりがちだが、この「思いやり」が並行して育っていることによって、その考え方行動にバランスが取れるようになる。

「やる気(意欲)」は、自分自身に関わることなので他のことは考えなくてよいが、
「思いやる」気持ちというのは思いやる相手というか思いやる「対象」が必ず存在し、
その相手の立場に立って相手の気持ちになって見たり考えたり感じたりすることも必要になる。

相手や周りのことを「思いやり」ながら、しかも「やる気(意欲)」をもって行動することができて、はじめて「自立」した人と見なすことができ、「思いやり」を備えた生徒であれば、授業中に携帯をしたりゲームをしたり私語をしたりするような授業態度などあり得ない。



武田先生のブログを拝読してー④

2013-02-22 20:26:08 | 教育
◆ 人の問題

前回、
大学の授業の乱れの一因として、「人の問題」を取り上げた。
「自立」していない大学生が問題だと述べた。
オーストラリアの大学生の例を挙げ、比較して自立していない日本の大学生について説明した。

大学生が「自立」できていない原因について、武田先生は次のように述べておられる。

「多くの人は家庭の教育が不十分で、学校で暴れるたり、いじめたり、勉強しない子ども(おそらく1割ぐらい)がいることを知っているでしょう。そしてその原因が「優しく育てる」家庭にあることも知っているはずです。でも自らの非を認めたくないので、学校にその責任をかぶせるのはフェアーではありません。」


つまり、「自立」できていない原因は「家庭教育」にあると述べておられる。

大学では、「メール、ゲーム、私語、ジュース」と説明しておられたが、
ここでは「学校で暴れたり、いじめたり、勉強しない子ども」と述べられておられる。
これは、おそらく大学ではなく、大学以前の高校や中学あるいは小学校レベルのことを仰っておられるのではないだろうか。

家庭教育―子育ち(て)で、「自立」ができていないと、「いじめの加害者・被害者」「家庭内暴力」「校内暴力」「不登校」「自殺」「授業妨害」を将来引き起こす可能性があることを示唆されている。

「三つ子の魂百までも」、このブログで一貫して説明してきた「3歳までの子育ち(て)」が、その後の小学校中学校にとどまらず、高校や大学にまで影響を及ぼすものであること、たった4年間がその後の人生に影響を及ぼすことを知ることができる。

次回は、そこのところの重要性を再認識していただいたうえで、これまでのまとめと、さらに続けて深堀りを試みてみたい。





武田先生のブログを拝読してー③

2013-02-21 19:18:25 | 教育
「私も教室に行くことだけがイヤだった時もありました。また、あのうるさい、講義を聴かない学生に真剣に教育をしなければならないのは辛いのです。人が一所懸命話していても、メール、ゲーム、私語、ジュースですから、先生が冷静でいろというのは無理なのです。」

「多くの人は家庭の教育が不十分で、学校で暴れるたり、いじめたり、勉強しない子ども(おそらく1割ぐらい)がいることを知っているでしょう。そしてその原因が「優しく育てる」家庭にあることも知っているはずです。でも自らの非を認めたくないので、学校にその責任をかぶせるのはフェアーではありません。」

「学校で授業を聞かず、友達をイジメ、先生が少しでも力で制止しようとすると「訴えてやる」という子どもの存在は誰もがわかっているのです。まずは「当たり前のこと・・・礼儀も誠意もない子どもは学校に出してはいけない」ということを決める必要があります。」


武田先生はブログの中で上記のように述べられた。


◆ 人の問題

「授業中に、メール、ゲーム、私語、ジュース」
「学校で暴れたり、いじめたり、勉強しない子ども(おそらく1割ぐらい)」
「学校で授業を聞かず、友達をイジメ、先生が少しでも力で制止しようとすると「訴えてやる」という子どもの存在」

大学の授業の問題の原因の大半は「制度」にあると述べてきたが、
上記のように「生徒」つまり「人」にも原因がある。

18歳過ぎれば、もう社会人大人として自立してほしいところだが、
日本では、未だ自己中心性が抜けない幼児性を持った大学生を多く見ることになる。

オーストラリアでは、18歳を過ぎると家を出る。
18歳を過ぎても家に居ると、どこか問題があるのではないかと世間から見られる。
自活して大学の授業料も自分で支払う。
もちろん、アルバイトの稼ぎが少なく授業料を払えなくなるケースもよくある。
そんなときには休学制度があり、その間学業をストップして授業料を稼ぐために働くことに専念し、授業料が確保できるようになったらまた学業に復帰する。
それが、制度として許されている。

自腹を切って授業料を払うわけだから、授業も真剣に受ける。
大学の授業が1時間当たりいくらのコストになると具体的に言った学生もいた。
「自立」しているといえる。

日本では、親のすねをかじって、授業料がいくらかかかっているかも知らず、
これでは真剣に授業に臨む心構えなどできはしない。

つまり、
武田先生が指摘されている大学の授業の乱れの原因は、
制度のことを脇に置いて考えると、「人」の問題であり、それは大学生の問題であり、
大学生が「自立」できているかどうかの問題ではないかと思う。

「自立」できた大人なら自ずとけじめある授業態度がとれる。
また、「自立」できた大人であれば、無味乾燥とした大学の授業を見て、血気盛んで伸び盛りの年齢のときに、そこに席を置くことが果たして自分の人生にとってどれだけメリットがあるか、それよりもこの貴重な時期他のフィールドに出たほうが有意義ではないかと考えて、大学へ行かないという選択肢も選べるわけで、それが「自立」した大人の考えではないかとも思える。

中学卒業までは「自立」できなくてもいたしかたないが、高校生にもなれば「自立」してほしいものだ。大学が「自立」した大人の集まりになれば、授業の乱れは緩和され、
問題のある「大学制度」改革にも学生自らが立ち上がるのではないだろうか。
それは、「文部省」が最も望まないことかもしれないが。

霞のかなたで日本の国の主となって身を潜めている者たちは、
若者たちがずっと幼児のままでいてくれることに、ほくそ笑んでいるに違いない。
そんな幼児性の抜けない若者たちは、大学を卒業して社会に出ても、
携帯電話とジュースさえ与えておけば、視線を手元に落としたまま霞のかなたに視線を送ることなく何の疑問も抱かず、人間牧場で飼いならしやすい家畜となって、年貢をせっせと納め続けてくれることだろう。
当人に年貢を納める能力がない場合は、代わって親家畜がせっせと年貢を払い続けてくれることだろう。






武田先生のブログを拝読してー②

2013-02-20 20:25:34 | 教育
◆ 制度の問題

「私も教室に行くことだけがイヤだった時もありました。また、あのうるさい、講義を聴かない学生に真剣に教育をしなければならないのは辛いのです。人が一所懸命話していても、メール、ゲーム、私語、ジュースですから、先生が冷静でいろというのは無理なのです。」

武田先生はブログの中で上記のように述べられた。


伝家の宝刀補助金

大学によって若干の違いはあるが、授業は「単位制」と呼ばれる制度を中心に運営されている。卒業までにある決まった数の科目を履修し合格点を取らなければ卒業できないという制度だ。
合格点は、テストの点数と授業の出席時間数で決められる。

合格点の良し悪しによって就職が左右されるのであれば、必死に授業に臨むだろうが、大学での成績はあまり就職には影響しない。
要は、点数はぎりぎりでも決まった単位数合格点を取れれば卒業証書はもらえる。
卒業証書さえもらえればそれでいい。

我々が学生の頃は、「携帯電話」がなかったので授業中にメール・ゲームはなかった。
おしゃべり・居眠りは当たり前だった。
それに「代返」というのがあった。
授業に出ない学友に代わって出席の返事をするというもの。

いずれにしても、今も昔も変わらずの無味乾燥とした授業内容。

もっとも、30人以内のゼミ形式授業では、おしゃべり・居眠りの余地はなかった。
授業形態にも問題があるのではないか。

アメリカの大学のように、授業をしっかり聞いて、膨大な量の宿題を与えられて、消化できない学生はどんどん切り捨てていく、テストに合格しない生徒はどんどん留年させていく、そういう制度であれば、授業中にメールやゲームなどしている余裕はない。

文部省が子どもたちをよくしよう、国力を上げようなどと思っていないので、むしろ「一億総○○」を目論んでいるので、日本ではアメリカのような制度は採用されない。
大学側も教育よりも経営の採算性を最優先している。

文部省の意向を無視して、授業の質を高め教育の質を良くする方向を目指す大学が出てもいいようなものだが、
文部省は「お金」と「制度」で大学を縛って、それを許そうとしない。
文部省の言いなりにならないと大学の経営が成り立たない仕組みを作ってしまっている。

武田先生もブログでその点に触れられたことがある。
たくさんの落第生を出すと、「補助金」をカットされたりストップされたりすると。
落第生の比率はごく低い割合に抑えられているそうだ。
そのため、授業態度が目に余るとしても、落第させることが難しいそうだ。
文部省の意のままになるように、「伝家の宝刀補助金」をうまく使って大学を管理している。

「補助金」の額、東大だけでも年間200億を超えるのではないだろうか?
「補助金」で文部省は大学をコントーロールしている。
しかし、この「補助金」、元をただせば国民の年貢(税金)ではないか。

自分の払った金で、自分の望むところではないやり方を押し付けられ、
教師も生徒も時間と労力を空費している。
不思議な仕組みがまかり通っている。





武田先生のブログを拝読してー①

2013-02-19 20:59:42 | 教育
前回転載させていただいた武田邦彦先生のブログを拝読して

武田先生は、大学という公的な教育現場で教鞭をとられておられる。
その先生の忌憚のない意見が述べられている。
日本における現行教育の切実な問題が提起されている。

問題点は、「制度」「ひと」にある。


制度の問題

教育現場で問題が起きると、まず「先生」がバッシングされ次に「学校」がバッシングされる。
バッシングは主にテレビを中心としたマスコミによってなされる。
「学校」側が頭を下げ、「先生」が処分されてチャンチャン、幕が下ろされる。

問題点をさらに深く掘り下げようとはしない。
掘り下げれば、「教育委員会」の責任さらに最終的には「文部省」の責任を問わなければならなくなる。
日本のマスコミは、官僚のところまでは切り込もうとしない。
マスコミは、官僚の広報期間に成り下がってしまっているようにすら見える。
もしかしたら、マスコミは、官僚組織の管理下にあるのかもしれない。

現況の教育問題の元凶の大半は、「文部省」とその制度にある。
「文部省」は、原発事故の際またその後を通じても、日本国民特に子どもたちを守ろうとはしなかった。そこに「文部省」の正体を見て取れる。
「文部省」はこれまで一貫して、日本の教育をよくしよう、子どもたちをよくしようという方向を目指して動いて来てはいない。
むしろ、民度を落とし国力を削ぐ方向に舵を取ってきた。
「文部省」がやってきた一つひとつの中身を見ればそのことは明らかだ。
「文部省」が存在しなければ、もっと日本の教育は質的に高度に進化できたはずだ。

武田先生の指摘されている教育現場の問題の一因は、
「文部省」と「文部省」が作り推し進めてきた教育制度にあるといえる。
日本の公的教育制度には根本的に問題がある。
現場で教鞭をとる教師もあるいは生徒もそんな制度の被害者といえる。

しかし、だからと言って、文部省に働きかけて、果たして制度を改革するだろうか?
平気で子どもたちを被爆させるような文部省にそれを期待できるだろうか?
期待できないのであれば、さっさとその管理下から離れ、新たな道と制度を開拓すべきではないだろうか?


「文部科学省」が今は正式名だそうだ。
そんな仰々しい名称を与える価値を感じないため「文部省」とした。