「反抗期」も「やる気(意欲)」が育つ大切な時期。
そもそも「反抗期」なんてネガティブな名前が付けられていること自体おかしい。
「いたずら」は「探索行動」と言ったほうが当を得ているのと同様に
「反抗期」も「自立期」と言ったほうが適切。
「反抗期」に現れる行動は「自己主張」と捉えることができる。
「反抗期」を邪魔しないために大切なのは、
「自己主張」についての日本人意識を変えること。
当たり前のように抱いている「自己主張」についての先入観・固定観念について再考していただきたい。
「自己主張」の捉え方に海外と日本とで差が見られる。
海外特に欧米人や中国の人たちは「自己主張」が盛んでそれができることを高く評価している。
逆に「自己主張」ができない人は「自立」した人格とみなされず蔑(さげす)まれることすらあるが、
日本では「自己主張」しないことを「奥ゆかしさ」とややポジティブに評価し、
一方「自己主張」をする人は「でしゃばり」「生意気」「無作法」などネガティブに捉えられてきた。
若者達の間でも、例えば授業中に「わかる人?」と言って挙手を求められたとき、
日本人は周りを気にしながら遠慮がちに手を挙げ、手を挙げる行為自体「ダサイ」とみなしているが、
海外では少々わかっていなくても競争で手が挙がる。
世界の高校生たちが集まって地球環境についての話し合いが持たれたときなども、
海外の高校生たちは活発にフランクに意見を述べ合っていたが、
日本人の発言はごくわずかだった。
その孤軍奮闘していた日本人女高生も、日本育ちでなく帰国子女だった。
サッカーでも
日本では、シュートをふかして失敗したシーンを見ていて観客はため息をつく。
海外では、シュートをふかしても拍手が沸く。シュートしたこと自体を評価しているわけだ。
サイドバックの選手はキーパーに近い位置で主に守備の役割をしているが、相手ゴール近くまで攻め上がって攻撃に参加することがある。
ところが、その上がった後ろ(スペース)をつかれて反撃を受け失点を被(こうむ)ることがある。
日本では、任された守備をおろそかにして出しゃばったことをしたとバッシングを受けるが、
海外では、全く責められることはない。
むしろそういう積極性のある選手は「ベストイレブン」に選ばれたりもする。
以前、世界最高峰のリーグのひとつとされるイタリアのセリエAのあるチームに日本人ストライカー柳沢が入団した。
柳沢は公式戦のある試合で、巧みなボールさばきを見せゴール前までボールを運び相手キーパーと1対1の状況を作った。
楽々ゴールのシーンで彼は併走していた味方の選手に横パスを出し、
そのチームメイトがゴールを決めた。
日本ではゴールを譲った奥ゆかしいプレイと評価されるのかもしれないが、
イタリアでは「おかまか?」という評価でその後スタメンから外れることが多くなった。
サッカー日本代表を率いているザッケローニ監督も口をすっぱくして言っているのが、
「ゴール前で勇気を持て」だった。
「決定力不足」が最大の欠点とされていた日本代表が、ザッケローニ監督になってからその決定力不足が改善されるようになった。
何を言いたいかというと、
日本では、トライした「結果」であれこれ評価される。特に「失敗」について寛容ではない。
ところが、海外では「トライ」したこと自体を評価するが、結果は二の次。
子育ての考え方も同様。
その結果、海外の人たちは「自己主張」を当たり前のようにするようになるが、日本人は「自己主張」に臆病になる。
倫理的に見て、どちらがよいかについての評価は問えないが、
「やる気(意欲)」が育つかどうかの観点から見ると、海外式のほうが間違いなくいい。
そもそも「反抗期」なんてネガティブな名前が付けられていること自体おかしい。
「いたずら」は「探索行動」と言ったほうが当を得ているのと同様に
「反抗期」も「自立期」と言ったほうが適切。
「反抗期」に現れる行動は「自己主張」と捉えることができる。
「反抗期」を邪魔しないために大切なのは、
「自己主張」についての日本人意識を変えること。
当たり前のように抱いている「自己主張」についての先入観・固定観念について再考していただきたい。
「自己主張」の捉え方に海外と日本とで差が見られる。
海外特に欧米人や中国の人たちは「自己主張」が盛んでそれができることを高く評価している。
逆に「自己主張」ができない人は「自立」した人格とみなされず蔑(さげす)まれることすらあるが、
日本では「自己主張」しないことを「奥ゆかしさ」とややポジティブに評価し、
一方「自己主張」をする人は「でしゃばり」「生意気」「無作法」などネガティブに捉えられてきた。
若者達の間でも、例えば授業中に「わかる人?」と言って挙手を求められたとき、
日本人は周りを気にしながら遠慮がちに手を挙げ、手を挙げる行為自体「ダサイ」とみなしているが、
海外では少々わかっていなくても競争で手が挙がる。
世界の高校生たちが集まって地球環境についての話し合いが持たれたときなども、
海外の高校生たちは活発にフランクに意見を述べ合っていたが、
日本人の発言はごくわずかだった。
その孤軍奮闘していた日本人女高生も、日本育ちでなく帰国子女だった。
サッカーでも
日本では、シュートをふかして失敗したシーンを見ていて観客はため息をつく。
海外では、シュートをふかしても拍手が沸く。シュートしたこと自体を評価しているわけだ。
サイドバックの選手はキーパーに近い位置で主に守備の役割をしているが、相手ゴール近くまで攻め上がって攻撃に参加することがある。
ところが、その上がった後ろ(スペース)をつかれて反撃を受け失点を被(こうむ)ることがある。
日本では、任された守備をおろそかにして出しゃばったことをしたとバッシングを受けるが、
海外では、全く責められることはない。
むしろそういう積極性のある選手は「ベストイレブン」に選ばれたりもする。
以前、世界最高峰のリーグのひとつとされるイタリアのセリエAのあるチームに日本人ストライカー柳沢が入団した。
柳沢は公式戦のある試合で、巧みなボールさばきを見せゴール前までボールを運び相手キーパーと1対1の状況を作った。
楽々ゴールのシーンで彼は併走していた味方の選手に横パスを出し、
そのチームメイトがゴールを決めた。
日本ではゴールを譲った奥ゆかしいプレイと評価されるのかもしれないが、
イタリアでは「おかまか?」という評価でその後スタメンから外れることが多くなった。
サッカー日本代表を率いているザッケローニ監督も口をすっぱくして言っているのが、
「ゴール前で勇気を持て」だった。
「決定力不足」が最大の欠点とされていた日本代表が、ザッケローニ監督になってからその決定力不足が改善されるようになった。
何を言いたいかというと、
日本では、トライした「結果」であれこれ評価される。特に「失敗」について寛容ではない。
ところが、海外では「トライ」したこと自体を評価するが、結果は二の次。
子育ての考え方も同様。
その結果、海外の人たちは「自己主張」を当たり前のようにするようになるが、日本人は「自己主張」に臆病になる。
倫理的に見て、どちらがよいかについての評価は問えないが、
「やる気(意欲)」が育つかどうかの観点から見ると、海外式のほうが間違いなくいい。