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第31回東京大空襲資料展 2018.3

2018-03-12 11:06:34 | 浅草界隈

2018.3.10(土)

昭和20年(1945)3月10日未明、現在の台東・墨田・江東区の下町地区は、米軍の爆撃機B29(300機)による空襲を受け、死者およそ10万人、負傷者4万人、罹災者100万人という未曾有(みぞう)の大被害を被った。約1700トンもの焼夷弾(13000発)を投下し、根こそぎ焼き尽くす。

浅草公会堂で開かれた展示資料の1部を紹介します

 


 

観光客で賑わう浅草公会堂周辺

写真パネルの展示 

浅草松屋デパート、屋上からの写真 隅田川に架かる吾妻橋、駒形橋、厩橋と並行する江戸通り

 

浅草寺の仲見世から見た浅草松屋デパート

銃後の守りに立ち並ぶ「国防婦人会」                                   消防演習

 

廃墟となった浅草   コンクリート製の浅草本願寺が残っている

 

当時の大空襲を東京新聞が伝える

 

浅草区は宮城県の鳴子、作並、秋保、松島、蔵王他の温泉旅館、お寺、ホテルに小学3~6年生7500名が学童疎開    

 

上野 寛永寺両大師堂脇に収容された遺体

 

地獄絵 耐えられぬ火炎に、自ら水を求めた人々が本所横川に打ち上げられた。                               水彩画 「隅田川 厩橋の惨劇」

浅草側の言問橋たもと(仮埋葬した)に設けられた慰霊碑(昭和61年3月建立)


 ☆当時の浅草区は、東京で最も人口密度が高く空襲の標的にされ住民の46%、12000人弱の死者を出す。

☆当時の惨事は想像を越えた写真が残されおり悲惨なものはカットした。

☆当時疎開された人々は、現在80才~83才になり随分と悲しい経験をしたものと察します。

☆焼夷弾を使った無差別爆撃で東京大空襲を指揮した米空軍のカーチス・ルメイに、佐藤内閣は、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与した。

 


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