夕暮れの光景を見て思い出す美しい曲のことを書いてみよう。
高校生活も卒業が近づいたある日の夕暮れ、いつものようにガールフレンドと小高い丘の上にあった校舎の前に長く伸びている坂道を下って家路へと向かう途中に見た夕暮れの西の空をいまでも時々思い出す。
辺りにはまだ東京らしくない自然が残っていて、下校時のほどよい疲れと彼女と一緒の幸福感の中でふと、ほんとうに突然、<死とはなんなんだろう>とこの夕暮れを見て思ったのだ。
ちょうど幸せを感じている時に最悪の不幸につい想像をはたらかせてしまうかのように。
そして、
歳月は過ぎ、鈍色の梅雨空から西の空にほんの少しの晴れ間が見えた先日の夕方、ほとんど唐突に、あの日と同じ感情が再びよみがえったのだった。
違うのは未来が有り余るほどあった10代の頃と、もうあと今まで生きた時間と同じだけは生きられないんじゃないかという歳になってしまった今ということだけか。
同じ夕暮れの風景を見ても、当時は<漠然>、今は<近未来>のこととしてとらえている<死>というものへの感情の質は当然ちがう。
しかし<死>という<人間の究極の平等>は、同じように人々すべてが見ることのできる夕暮れの風景と似て静かに受け入れるべき未来なのだ。
高校時代の僕はある意味早熟な若者だった。
ガールフレンドに(若者なら当然のように)性的興味を持ち、ロックやクラシックにもはまり、天文や地学や生物のサークルにも籍を置き、
コーラス部で指揮をし、生徒会役員をやりつつ、いつも何かをしていた人間だった。
そしていつも彼女といっしょにいてお互いに喜びあい、時には傷つけあい、多感な時を過ごしていた。
僕は彼女が心から好きだった。ずっと二人で生きていきたいと思っていた。
そんな若者が考えた<死>という概念は当時けっして身近なものではなく、人生も終わりにさしかかった時に考えればいいという程度のものだった。
その僕は数十年間変わらずに<夕暮れ時の感情>と<死という未来>に共通したなにかをいつも感じつつ、結びつけて生きてきた。そしてそこにはいつもこの音楽が鳴っていた。
リヒャルト・シュトラウス作曲
「4つの最後の歌」
第1曲 「春」 Fruhling
第2曲 「9月」 September
第3曲 「眠りにつく時」 Beim Schlafengehen
第4曲 「夕映えのなかで」Im Abendrot
演奏時間にして4曲で20分ちょっとのソプラノとオーケストラのための曲集だ。
1~3までがヘッセの詩、終曲のみがアイヒェンドルフの詩だ。
全曲にわたって<死>という静けさと黄昏の予感を見つめる感情が支配しているが、中でも特に多くの人々が一致してすばらしい作品だと評価しているのが第4曲「夕映えのなかで」である。
そして前述のとおり、僕は僕なりの<死>というものへの考えを音として、または音楽として完璧なまでに表現していると思えるこの曲を再び手元に置いてこよなく愛聴するようになってきた。
タイトルの「最後」という言葉があまりにも非現実的であった若い頃はあまり聴く気がしなかったこの歌曲。
こんな単語がタイトルについている音楽などたぶん他にはないと思えるこの作品は作曲者が死ぬ間際になって、ほんとうの「最後」につくった作品らしい。
ヘッセの三編の詩とアイヒェンドルフの一編の詩にメロディをつけたリヒャルト・シュトラウスの4曲は、静謐な明るさに輝く音楽である。澄み切った透明な音楽であり、ほんのわずかの濁りすらない。完璧に澄明な美しい音楽である。
しかも抹香臭くなく、宗教臭くもない!
それは「天国のような明るさ」といえなくもないのだが、我々のそんな俗界にはなんの未練もない「大人の心境」を表現している点が今の僕の共感を呼ぶ。
もうすぐ眠りの時間
たった二人きりの寂しさ
はぐれないようにしよう
広々とした静かな平和
深い夕映えに染まるなかで
旅の疲れが・・・
ひょっとして、これが、
死というものだろうか・・・?
『四つの最後の歌』は、終曲に至ってそんな言葉で終わる。
シューベルトの描き出した青春の歌のように、恋に破れてひとりで絶望するのではない。人生の最後に「たった二人きり」というのが、いい。大人の感覚である。
そんな歌詞が、センチメンタルでもなければ、ノスタルジックでもなく、いっさいの執着心が存在しない、静穏で、静謐で、淡々としたメロディにのって歌われる。
たぶん、この楽曲を10代のあの時に聴いても、シューベルトやマーラーを聴いた時のような感動はなかったに違いない。大人にならないと解らない心境、解らない歌というものが存在するのだ。
今回ここに紹介した『四つの最後の歌』のなかの「最後の歌」(ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ「夕映えのなかで」Im Abendrot)は、奇跡のような素晴らしい詩と音楽だ。
しかしCDのライナーノートや解説書に載っている訳詞がどうも不満で、いろいろと調べてみた。あまりにも堅苦しく現実感が希薄な訳ばかりで不満があったのだ。
夕映えの中で (Im Abendrot) (一般的な直訳)
Wir sind durch Not und Freude
gegangen Hand in Hand;
Vom Wandern ruhen wir
nun überm stillen Land.
私たちは苦しみと喜びとのなかを
手に手を携えて歩んできた
いまさすらいをやめて
静かな土地に憩う
Rings sich die Täler neigen,
Es dunkelt schon die Luft,
zwei Lerchen nur noch steigen
nachträumend in den Duft.
まわりには谷が迫り
もう空はたそがれている
ただ二羽のひばりが霞の中へと
なお夢見ながらのぼってゆく
Tritt her, und laß sie schwirren,
bald ist es Schlafenszeit,
daß wir uns nicht verirren
In dieser Einsamkeit.
こちらへおいで ひばりたちは歌わせておこう
間もなく眠りの時が来る
この孤独の中で
私たちがはぐれてしまうことがないように
O weiter, stiller Friede!
So tief im Abendrot.
Wie sind wir wandermüde
Ist dies etwa der Tod?
おお はるかな 静かな平和よ!
こんなにも深く夕映えに包まれて
私たちはさすらいに疲れた
これが死というものなのだろうか?
以上がごく一般的な日本語訳である。
しかしクラシック評論家の一人がこんな<意訳>をしていて、これがとても要点をついているので転載させてもらう。
夕映えのなかで (うんとくだけた意訳)
苦しいことやら 楽しいことやら いろんなことが いっぱいあったなあ
どんな時でも わしらはいつも 手ぇつないで歩いてきたんや
そやけど いまは もう 歩かんでもええ
この丘の草のうえに ちょっと腰でもおろそうや
一緒に このきれいな盆地の景色を ながめようや
田舎の景色はきれいやなあ あっちに小高い山があって 谷があって
こっちの方まで小川が流れとるやないか
早いもんやで 今日は もう日が暮れかかってきよった
ひばりだけが元気に啼いとるなあ まだ昼間のつもりでおるんかいなあ
二羽で 仲良う 夕闇の中を のぼっていきよるやないか
おまえも もうちょっと こっちよれ もうじき 眠る時間になるんやで
二人きりになってしもうたなあ さびしいか
そうか ほな はなれんようにしょ はぐれんようにしょ
見てみい 夕焼けや 狭い田舎も こうしてみると 広々と見えるもんやないか しずかやなあ 平和なもんやで
あたり一面が夕焼けやで だいだい色にに染まってきよった
これが夕映えいうやつやで
ほんに きれいなもんやないかいな
疲れたか そうか わしも疲れた
なんやしらんけど 旅の疲れいうやつかいなあ
えらい重とう ずうんと肩に のしかかってきよる
これが 死ぬ・・・ということなんかいなあ・・・
第4曲「夕映えのなかで」の前奏のオーケストラ・サウンドが最高だ。
大自然の中で目の前に雄大な夕暮れの光景が広がるさまが音で完璧に表現されている。この部分で僕はいきなりあの日の夕方の光景にタイムスリップしてしまう。
見事という他にない管弦楽の奇跡だろう。
そしてソプラノが静かにゆっくりと感情をこめて歌い始める。
ソプラノといえばオペラなどで聴く劇的な絶唱とか甲高い笑い声とかもろもろを想像するが、ここではそんな心配?は無い。
僕なんか夜寝る時に静かにCDをかけたりするくらいだ。
あくまで優しく、耳馴染みがいい。
今回は先日ふと目にした夕暮れの風景の感動から、みなさんに紹介しておきたいと思った曲について書いてみた。
このブログでクラシックをテーマとするとレスポンスがきまって無いことがさみしいが、いつかどなたかがこの曲を聴いてみてくれることを期待して書き込みを終えたい。
(トップの写真はこの曲の初演者:フルトヴェングラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団、キルステン・フラグスタートのソプラノ のLPジャケット:1950年)
追記
クラシックの歌曲なんて紹介されてもなぁ、なんて思う方も多いだろう。
たぶんその困惑は当たっている。
でも、僕のようなハードロックのベーシストがこういう曲を聴いて感動しているという事実だけは理解してほしいと思っている。
今はピンと来ない人でもいつかはこの音楽に出会えて感動する場面が人生に残されているかもしれない・・・。
高校生活も卒業が近づいたある日の夕暮れ、いつものようにガールフレンドと小高い丘の上にあった校舎の前に長く伸びている坂道を下って家路へと向かう途中に見た夕暮れの西の空をいまでも時々思い出す。
辺りにはまだ東京らしくない自然が残っていて、下校時のほどよい疲れと彼女と一緒の幸福感の中でふと、ほんとうに突然、<死とはなんなんだろう>とこの夕暮れを見て思ったのだ。
ちょうど幸せを感じている時に最悪の不幸につい想像をはたらかせてしまうかのように。
そして、
歳月は過ぎ、鈍色の梅雨空から西の空にほんの少しの晴れ間が見えた先日の夕方、ほとんど唐突に、あの日と同じ感情が再びよみがえったのだった。
違うのは未来が有り余るほどあった10代の頃と、もうあと今まで生きた時間と同じだけは生きられないんじゃないかという歳になってしまった今ということだけか。
同じ夕暮れの風景を見ても、当時は<漠然>、今は<近未来>のこととしてとらえている<死>というものへの感情の質は当然ちがう。
しかし<死>という<人間の究極の平等>は、同じように人々すべてが見ることのできる夕暮れの風景と似て静かに受け入れるべき未来なのだ。
高校時代の僕はある意味早熟な若者だった。
ガールフレンドに(若者なら当然のように)性的興味を持ち、ロックやクラシックにもはまり、天文や地学や生物のサークルにも籍を置き、
コーラス部で指揮をし、生徒会役員をやりつつ、いつも何かをしていた人間だった。
そしていつも彼女といっしょにいてお互いに喜びあい、時には傷つけあい、多感な時を過ごしていた。
僕は彼女が心から好きだった。ずっと二人で生きていきたいと思っていた。
そんな若者が考えた<死>という概念は当時けっして身近なものではなく、人生も終わりにさしかかった時に考えればいいという程度のものだった。
その僕は数十年間変わらずに<夕暮れ時の感情>と<死という未来>に共通したなにかをいつも感じつつ、結びつけて生きてきた。そしてそこにはいつもこの音楽が鳴っていた。
リヒャルト・シュトラウス作曲
「4つの最後の歌」
第1曲 「春」 Fruhling
第2曲 「9月」 September
第3曲 「眠りにつく時」 Beim Schlafengehen
第4曲 「夕映えのなかで」Im Abendrot
演奏時間にして4曲で20分ちょっとのソプラノとオーケストラのための曲集だ。
1~3までがヘッセの詩、終曲のみがアイヒェンドルフの詩だ。
全曲にわたって<死>という静けさと黄昏の予感を見つめる感情が支配しているが、中でも特に多くの人々が一致してすばらしい作品だと評価しているのが第4曲「夕映えのなかで」である。
そして前述のとおり、僕は僕なりの<死>というものへの考えを音として、または音楽として完璧なまでに表現していると思えるこの曲を再び手元に置いてこよなく愛聴するようになってきた。
タイトルの「最後」という言葉があまりにも非現実的であった若い頃はあまり聴く気がしなかったこの歌曲。
こんな単語がタイトルについている音楽などたぶん他にはないと思えるこの作品は作曲者が死ぬ間際になって、ほんとうの「最後」につくった作品らしい。
ヘッセの三編の詩とアイヒェンドルフの一編の詩にメロディをつけたリヒャルト・シュトラウスの4曲は、静謐な明るさに輝く音楽である。澄み切った透明な音楽であり、ほんのわずかの濁りすらない。完璧に澄明な美しい音楽である。
しかも抹香臭くなく、宗教臭くもない!
それは「天国のような明るさ」といえなくもないのだが、我々のそんな俗界にはなんの未練もない「大人の心境」を表現している点が今の僕の共感を呼ぶ。
もうすぐ眠りの時間
たった二人きりの寂しさ
はぐれないようにしよう
広々とした静かな平和
深い夕映えに染まるなかで
旅の疲れが・・・
ひょっとして、これが、
死というものだろうか・・・?
『四つの最後の歌』は、終曲に至ってそんな言葉で終わる。
シューベルトの描き出した青春の歌のように、恋に破れてひとりで絶望するのではない。人生の最後に「たった二人きり」というのが、いい。大人の感覚である。
そんな歌詞が、センチメンタルでもなければ、ノスタルジックでもなく、いっさいの執着心が存在しない、静穏で、静謐で、淡々としたメロディにのって歌われる。
たぶん、この楽曲を10代のあの時に聴いても、シューベルトやマーラーを聴いた時のような感動はなかったに違いない。大人にならないと解らない心境、解らない歌というものが存在するのだ。
今回ここに紹介した『四つの最後の歌』のなかの「最後の歌」(ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ「夕映えのなかで」Im Abendrot)は、奇跡のような素晴らしい詩と音楽だ。
しかしCDのライナーノートや解説書に載っている訳詞がどうも不満で、いろいろと調べてみた。あまりにも堅苦しく現実感が希薄な訳ばかりで不満があったのだ。
夕映えの中で (Im Abendrot) (一般的な直訳)
Wir sind durch Not und Freude
gegangen Hand in Hand;
Vom Wandern ruhen wir
nun überm stillen Land.
私たちは苦しみと喜びとのなかを
手に手を携えて歩んできた
いまさすらいをやめて
静かな土地に憩う
Rings sich die Täler neigen,
Es dunkelt schon die Luft,
zwei Lerchen nur noch steigen
nachträumend in den Duft.
まわりには谷が迫り
もう空はたそがれている
ただ二羽のひばりが霞の中へと
なお夢見ながらのぼってゆく
Tritt her, und laß sie schwirren,
bald ist es Schlafenszeit,
daß wir uns nicht verirren
In dieser Einsamkeit.
こちらへおいで ひばりたちは歌わせておこう
間もなく眠りの時が来る
この孤独の中で
私たちがはぐれてしまうことがないように
O weiter, stiller Friede!
So tief im Abendrot.
Wie sind wir wandermüde
Ist dies etwa der Tod?
おお はるかな 静かな平和よ!
こんなにも深く夕映えに包まれて
私たちはさすらいに疲れた
これが死というものなのだろうか?
以上がごく一般的な日本語訳である。
しかしクラシック評論家の一人がこんな<意訳>をしていて、これがとても要点をついているので転載させてもらう。
夕映えのなかで (うんとくだけた意訳)
苦しいことやら 楽しいことやら いろんなことが いっぱいあったなあ
どんな時でも わしらはいつも 手ぇつないで歩いてきたんや
そやけど いまは もう 歩かんでもええ
この丘の草のうえに ちょっと腰でもおろそうや
一緒に このきれいな盆地の景色を ながめようや
田舎の景色はきれいやなあ あっちに小高い山があって 谷があって
こっちの方まで小川が流れとるやないか
早いもんやで 今日は もう日が暮れかかってきよった
ひばりだけが元気に啼いとるなあ まだ昼間のつもりでおるんかいなあ
二羽で 仲良う 夕闇の中を のぼっていきよるやないか
おまえも もうちょっと こっちよれ もうじき 眠る時間になるんやで
二人きりになってしもうたなあ さびしいか
そうか ほな はなれんようにしょ はぐれんようにしょ
見てみい 夕焼けや 狭い田舎も こうしてみると 広々と見えるもんやないか しずかやなあ 平和なもんやで
あたり一面が夕焼けやで だいだい色にに染まってきよった
これが夕映えいうやつやで
ほんに きれいなもんやないかいな
疲れたか そうか わしも疲れた
なんやしらんけど 旅の疲れいうやつかいなあ
えらい重とう ずうんと肩に のしかかってきよる
これが 死ぬ・・・ということなんかいなあ・・・
第4曲「夕映えのなかで」の前奏のオーケストラ・サウンドが最高だ。
大自然の中で目の前に雄大な夕暮れの光景が広がるさまが音で完璧に表現されている。この部分で僕はいきなりあの日の夕方の光景にタイムスリップしてしまう。
見事という他にない管弦楽の奇跡だろう。
そしてソプラノが静かにゆっくりと感情をこめて歌い始める。
ソプラノといえばオペラなどで聴く劇的な絶唱とか甲高い笑い声とかもろもろを想像するが、ここではそんな心配?は無い。
僕なんか夜寝る時に静かにCDをかけたりするくらいだ。
あくまで優しく、耳馴染みがいい。
今回は先日ふと目にした夕暮れの風景の感動から、みなさんに紹介しておきたいと思った曲について書いてみた。
このブログでクラシックをテーマとするとレスポンスがきまって無いことがさみしいが、いつかどなたかがこの曲を聴いてみてくれることを期待して書き込みを終えたい。
(トップの写真はこの曲の初演者:フルトヴェングラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団、キルステン・フラグスタートのソプラノ のLPジャケット:1950年)
追記
クラシックの歌曲なんて紹介されてもなぁ、なんて思う方も多いだろう。
たぶんその困惑は当たっている。
でも、僕のようなハードロックのベーシストがこういう曲を聴いて感動しているという事実だけは理解してほしいと思っている。
今はピンと来ない人でもいつかはこの音楽に出会えて感動する場面が人生に残されているかもしれない・・・。
残念ながら生れ落ちたときから「死」へのカウントダウンが始まっているわけです。
若い頃は「死」なんてじいさん、ばあさんから歳の順に逝くのだろう位しか思っていなかったけど、以前にも書いたS君の水死事故から考えが変わった。
いつ自分や家族がそれに直面するのか、朝元気でも夕暮れ時には会えないのかも知れないと感じるようになった。
だから我が家では朝から怒らない、喧嘩しない。 明るく「行ってらっしゃーい」と送り出すのがモットーとなっています。
でも、いざ50歳すぎると自分はどんな最後を迎えるのかなあとつくづく思いますねえ・・・最後の晩餐は何を食べたい?とか
引き潮の時、夕日を眺めながら、何も残さず苦しまず静かに眠るように・・・が理想かな?
Beim Schlafengehen は第3曲目「眠りにつく時」です。この曲もみごとな曲ですね。
もし今回書いた第4曲目「Im Abendrot」を未聴でしたらここで聴いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=hw2eYc3RThM&feature=related
私は音楽のことに詳しいわけでもなく、この曲を聴いたことも無いのですが、〈意訳〉、とてもいい詩だなあと思いました。
もしよろしければこの詩を私のブログでも紹介させていただければと思い、コメントさせていただきました。日々の暮らしを細々と書いている拙いブログです。
一生の中で、
この音楽、絵、景色、人...に出会えて本当に良かったと思える感動の瞬間が、一つでもあればいいなと思います。
失礼致しました。
はじめまして!
コメント、ありがとうございます。
どのようにしてこちらにおいで頂いたのか分かりませんが、この曲(詩)に特別な感想をもっていただいて、とてもうれしいです。
一生のうちには出会えて本当によかったと思えることはいくつもあると思いますよ。一つあれば、とおっしゃいますが、tomoさんにもたくさんの出会いが待っていますよ。
要はそれをタイミングよくキャッチするかしないか、だと。
ぜひこの詩をあなたのブログにも載せていただいて、読者さまを増やしていただきたいと思います。
あなたのブログのアドレスをぜひお教えください。
ありがとうございました。
お返事くださりありがとうございました。
こちらにお邪魔したきっかけは、「静穏」という言葉の検索でした。
感動の瞬間はいくつでも多くあったほうがいいと思うのですが、欲張りかなと思い、ひとつでも、と書いてしまいました。
「たくさんの出会いが待っていますよ」と言っていただけて、ほんとにそうだといいなと嬉しくなりました。
この詩は機会をみてうちのブログでも紹介させていただこうと思います。ありがとうございます。
うちのブログのことはほんの数人にしかお知らせしておらず、ひっそっりやっております。igakun@発行人さまにはあまり興味の無い内容と思われますが、もしよろしければお越し下さいませ^^。「小江戸長屋暮らし」で検索していただければ辿りつけると思います。
長々と書いてしまいました。失礼致します。
これからもたくさんの感動があるでしょうが、ぜひそれを感じた時はあなた様のブログにそっと書き残してください。
それを読んだ人にも分けてあげられればもっといいですね。
またぜひお越しください!