奥入瀬など
キャッスルホテルの朝食だが、バイキングは皿を持って並ぶのが面倒臭いので、もうひとつの選択肢である和定食を選んで、前日のうちに予約をしておいた。15年ほど前、温海温泉のグランドホテルに泊まった際、朝食がバイキングだった。大勢の宿泊客が並んでいたが、私の前の老人が「収容所の食事を思い出すよ」と言ったのが記憶に残っている。ソ連の収容所なら黒コッペパン半切れと水のようなスープだそうだから、彼のいた収容所はソ連のそれではないような気もする。グランドホテルは廃業していまはない。食事をするのに並んでまでは嫌だから、和定食にしたのだが、7階の食堂は結構空いていて、ゆっくり眼下の城跡を眺めながら食事が出来た。身支度を整えて1階に降りると、バイキングの食堂には長蛇の列が出来ていて、これは和食にして正解だったと思った。
ホテルの駐車料金は30分ごとにいくらということなので、都合4000円ほど払ったが、宿泊料金に入れてほしいもんだと思った。
7時半にはナビを頼りに旧友に会いに行った。40年来の友人にも会えて、旧交を温めたのは今回の旅の収穫だった。
今日は八甲田山の山麓にある「城ヶ倉」というところに行き、十和田を通って八幡平の宿に行く予定。八甲田山は小説の影響から恐ろしい山というイメージが定着して、検索してもそのような記事しか見当たらないが、山そのものは穏やかでやさしい山である。しかし周辺は原生林に囲まれた大自然である。自然への畏敬の気持ちがなければどこの山だって怖いことになると思った。
城ヶ倉から十和田へ至る道は、なんと言っても晴天の日曜日である。車が数珠繋ぎになって大渋滞、おかげで十和田の景色を見ることが出来なかった。
近年あれほど多くの観光バスを見たことがない。台湾や支那人が多いようだった。
八甲田や十和田はもうすでに紅葉の見ごろは過ぎていたように思ったが、それでも雄大な景色を眺められたのはよかった。
秋田にいる甥っ子が、結婚式に招待してくれたので、この際東北生まれの私が行ったことがない八甲田山、十和田、八幡平の紅葉を見物に行くことにした。
もう老人なので、途中で温泉にでも一泊したらという細君の助言に甘えて、温泉に泊まることにした。その温泉の場所選びがなかなか大変。本来ならば温海温泉あたりが最適なのだが、もう4度も行ったし、弥彦温泉では目的地に遠い。笹川流れで夕日を眺めながら食事をするのもよいが、あそこは温泉ではない。瀬波温泉も行った。あれこれ考えて、もう湯の浜温泉でいいわい ということにした。
三陸に帰郷するときには夜中に出かければ朝方には鶴岡に着いてしまうので、もうすこし早く出発すれば途中アウトランダー君に充電しながらのんびり行くことができると思ったので、夜中の一時に出発。途中関が原で一回目の充電、木之本で2回目の充電、北陸道のSAで3回目、一般道に降りて親不知の道の駅で4回目、柏崎のコンビにで5回目とやってるうちに昼ごろになってしまった。これではホテルのチェックインが夜になってしまうので、昼食もとらずに目的地に向かった。近場では不自由を感じなかった電力での走行も、こういう遠出ではあまりにも不足だ。最低150キロくらいは走ってほしい。以前はいつも空いていた充電機も、リーフが利用していることが結構あった。充電機の数も少なすぎる。エンジン併用のアウトランダーだからいいようなものの、これが電気オンリーだと先着が充電終了まで待たなくてはならない。改良を切望する。急いでスピードを出したので、結局燃費を伸ばすことはできなかった。これがエアコンを使用する夏場や冬場ではさらに燃費は悪化するだろうと思われる。
とまれアウトランダー君の快走のおかげで夕方の4時には現地に着いた。
宿泊したのは”ホテルテトラリゾート”というホテルだが、私がフロントに立っても係が立ち話をして、こちらを見ても一向に立ち話をやめないのにはあきれた。ホテルのフロントだから、これで大体程度が知れた。先回泊まった旅館もそうだが、湯の浜温泉はどうもよろしくない。今後は利用することもないのでどうでもよい。
もう老人なので、途中で温泉にでも一泊したらという細君の助言に甘えて、温泉に泊まることにした。その温泉の場所選びがなかなか大変。本来ならば温海温泉あたりが最適なのだが、もう4度も行ったし、弥彦温泉では目的地に遠い。笹川流れで夕日を眺めながら食事をするのもよいが、あそこは温泉ではない。瀬波温泉も行った。あれこれ考えて、もう湯の浜温泉でいいわい ということにした。
三陸に帰郷するときには夜中に出かければ朝方には鶴岡に着いてしまうので、もうすこし早く出発すれば途中アウトランダー君に充電しながらのんびり行くことができると思ったので、夜中の一時に出発。途中関が原で一回目の充電、木之本で2回目の充電、北陸道のSAで3回目、一般道に降りて親不知の道の駅で4回目、柏崎のコンビにで5回目とやってるうちに昼ごろになってしまった。これではホテルのチェックインが夜になってしまうので、昼食もとらずに目的地に向かった。近場では不自由を感じなかった電力での走行も、こういう遠出ではあまりにも不足だ。最低150キロくらいは走ってほしい。以前はいつも空いていた充電機も、リーフが利用していることが結構あった。充電機の数も少なすぎる。エンジン併用のアウトランダーだからいいようなものの、これが電気オンリーだと先着が充電終了まで待たなくてはならない。改良を切望する。急いでスピードを出したので、結局燃費を伸ばすことはできなかった。これがエアコンを使用する夏場や冬場ではさらに燃費は悪化するだろうと思われる。
とまれアウトランダー君の快走のおかげで夕方の4時には現地に着いた。
宿泊したのは”ホテルテトラリゾート”というホテルだが、私がフロントに立っても係が立ち話をして、こちらを見ても一向に立ち話をやめないのにはあきれた。ホテルのフロントだから、これで大体程度が知れた。先回泊まった旅館もそうだが、湯の浜温泉はどうもよろしくない。今後は利用することもないのでどうでもよい。
セルシオに12年乗ったあと、視界の良さと運転のしやすさから中古のハイエースを買って、これは3年乗った。行楽地に行くときに目線がガードレールの上になるので見晴らしがよいのと、路地から出るときなどは、ノーズがないので運転席が前に出て安全だからだ。本当は日野のレンジャーなんかが良いのだが、大きなトラックでは駐車場に困る。バンにしたのは仕事で荷を積むからなのだが、キャラバンやデリカなどに良い出物がなかったからハイエースにした。わたしはいつも思うのだが、何故国産車にはベンチシートがないのかということだ。キャラバンでも他のバンでもそうだが、ハイエースの運転席には中央にコンソールBOXという大きな突起があって、これは物入れになってるのだが、これがあるために疲れたときなどに横になって寝ることが出来ない。構造からその気になればフラットに出来そうなのに、何故そうしないのか。バンだけではない、他の車種でもほとんどがこれである。今日、車検の代車にコルトというなつかしい響きの小型車を貸してもらったのだが、驚いたことに助手席と運転席のシートの間が空間になってる。これこそベンチシートにしたらどんなに使用者が重宝するだろうかと、半ば呆れてしまった。
ベンチシートほど使い勝手のよいものはないのだが、何故そうしないのかは、メーカーのデザイナーの見識のなさと、おそらくユーザーの好みなのだと想像する。一昔前はフロントエンジン、リアドライブというのが普通だったので、床の中央に盛り上がりがあって、そこにBOXを作るほか仕方なかったが、ほとんどの車がFFになった今はこういう制約から解かれた筈。チェンジレバーをフロントコンソールに収めれば、運転席と助手席は平らなベンチシートに出来る筈である。そうすれば運転席から助手席への移動も楽だし、横なって仮眠も出来る。国産車の中にはこうしたベンチシートを備えたものが少数あるが、結構売れてるから、やはりこれはユーザーの無知、無感性が原因では無いと思う。便利なものを作ればやっぱり売れるのだ。国産車のカーデザイナーの程度の低さには大いに問題ありというべきだし、そういう車をへちゃらで世に出すのをOKとする上層部の無関心さ、センスの無さに原因があると思われる。
ある会社に入社させていただいたのが1985年。営業の集金かばんとして、変哲もない黒の集金カバンをもらった。以降10年にわたって毎日、仕事のない日には遊びで、使い倒した。
次第に外側のビニールがまだらに剥げて行き、中の仕切りもぼろぼろになった。そのうち黒いビニールはほとんど剥げ落ちて、布地だけになってしまった。それから布地はところどころほころびて、穴があいても、まだ使っていた。
愛着があるということも勿論だが、私にとっては大切なかばんだった。知り合いに「ほらこういうカバンを使ってるよ」というと、「あんたは金を残すねえ」などと言われたものだ。
出張に行った八日市の公衆電話ボックスで電話をかけ、車で5分ほどの食堂で昼食を済ませ、代金を支払う段になって、カバンがないのに気がついた。あわてて電話ボックスに戻ったら、台の上にそのまま鎮座していた。中には集金の50万ほどが入っていた。車の通りの多い、幹線道の電話ボックスである。私は感謝とともに、考え込んでしまった。これを奇跡といわずして何と言おう。それ以来、かかさず手元において使った。
ある日、とうとう開いた布地の穴から紙幣が顔を出すに至って、この親友と別れることとなった。が、要するに修繕すればまだまだ使えた筈である。しかし、もう新しいのに代えて、このカバンには休んでもらおう、そういう気になった。この堅牢なカバン、おそらく値段も2000円ほどだと思うが、感動した私は、このカバンの販売店に行き、「これこの通り、10年の間、雨の日は傘代わりに頭に載せ、あるときは雪の降りしきる中、一年365日、およそ10年使いました。実にすばらしいカバンです。あなたの店で買いました」と、応対に出た奥さんに話をした。奥さんはさして驚きもしない様子で、
「カバンも丈夫だけれど、ファスナーが壊れてないのがすごいわねえ」
とおっしゃった。なるほどそういわれればそうだ。1日50回開け閉めを繰り返しても、10年で20万回ほどになる。実際にはそれの倍以上になるかも知れない。それで、本体は穴が開いてボロボロになっても、ファスナー氏はむしろ銀色に輝きを増して、まだまだ と言ってるようだった。
世界のYKKだが、この製品の信頼性はどうだ! これこそメイドインジャパンだ と、私は感心したのだった。
今は同じものを娘に買って貰って使っているが、同様に堅牢である。
次第に外側のビニールがまだらに剥げて行き、中の仕切りもぼろぼろになった。そのうち黒いビニールはほとんど剥げ落ちて、布地だけになってしまった。それから布地はところどころほころびて、穴があいても、まだ使っていた。
愛着があるということも勿論だが、私にとっては大切なかばんだった。知り合いに「ほらこういうカバンを使ってるよ」というと、「あんたは金を残すねえ」などと言われたものだ。
出張に行った八日市の公衆電話ボックスで電話をかけ、車で5分ほどの食堂で昼食を済ませ、代金を支払う段になって、カバンがないのに気がついた。あわてて電話ボックスに戻ったら、台の上にそのまま鎮座していた。中には集金の50万ほどが入っていた。車の通りの多い、幹線道の電話ボックスである。私は感謝とともに、考え込んでしまった。これを奇跡といわずして何と言おう。それ以来、かかさず手元において使った。
ある日、とうとう開いた布地の穴から紙幣が顔を出すに至って、この親友と別れることとなった。が、要するに修繕すればまだまだ使えた筈である。しかし、もう新しいのに代えて、このカバンには休んでもらおう、そういう気になった。この堅牢なカバン、おそらく値段も2000円ほどだと思うが、感動した私は、このカバンの販売店に行き、「これこの通り、10年の間、雨の日は傘代わりに頭に載せ、あるときは雪の降りしきる中、一年365日、およそ10年使いました。実にすばらしいカバンです。あなたの店で買いました」と、応対に出た奥さんに話をした。奥さんはさして驚きもしない様子で、
「カバンも丈夫だけれど、ファスナーが壊れてないのがすごいわねえ」
とおっしゃった。なるほどそういわれればそうだ。1日50回開け閉めを繰り返しても、10年で20万回ほどになる。実際にはそれの倍以上になるかも知れない。それで、本体は穴が開いてボロボロになっても、ファスナー氏はむしろ銀色に輝きを増して、まだまだ と言ってるようだった。
世界のYKKだが、この製品の信頼性はどうだ! これこそメイドインジャパンだ と、私は感心したのだった。
今は同じものを娘に買って貰って使っているが、同様に堅牢である。