迷悟在己

痴呆寸前が巷間を漂いながら日々の雑感を書きます

私の密かな入院願望

2019-12-06 16:36:38 | 日記
過去に入院した回数は2回。一度目は中学性の時に虫垂炎で、2度目は友人がいたずら半分に投げた陸上競技用の槍が頭にヒットした時。頭の怪我の時には生死の境だったと後で聞いたが、当の本人はケロっとしていて、そのようなことは思いもしなかった。私の隣の病室の方が一晩中苦しんで、とうとう明け方に亡くなったのだと、母親から聞いた。その方が身代わりになったのかも知れないと思った。どうもガンだったらしい。それから、輸血の際に長いことO型だと思い込んでいた自分の血液型がB型であることを知ったのは少々驚いた。それ以来入院は無縁である。
「明るい個室」で「かわいい看護婦」「美味しい病院食は上げ膳据え膳」「読書三昧の毎日」こういう光景を思い浮かべては憧憬していた。
突然にそういう現実が目の前に現れて少し戸惑った。しかし、腕に無遠慮に突き刺さった点滴チューブさえなければ、それなりに快適な療養生活といえる。一つの誤算は味覚障害によって病院食の味がさっぱりわからないこと。大体腎臓の病気なので所謂美味しいものはNGなのだから仕方がない。少しずつ症状は良くなっているようで、何となく雰囲気でわかる。

与えられた猶予

2019-12-05 17:16:44 | 日記
35歳で脱サラで商売を始めてから、毎日早朝6時から閉店22時半まで、働いて來た。家族旅行の時だけ休ませていただいたが、あとは働きずめの毎日だった。というと随分責任感の強い父親だと感心する人もいるかもしれないが、そうではない。商売が面白いので勝手に働いてきただけのことである。結果として家族のためにはなったが、男としての責任感で頑張ったわけではない。だから、仕事に興味を失ったら止めてしまったと思う。運がよかったと思っている。老後は晴耕雨読の生活、趣味生活と思いながら、ずるずる来てしまった。「お前の老後は何時?」などと自問するときもあったが、惰性でここまで来てしまった。それで、ここらが与えられた区切りとしても、余命3か月とは神もつれない仕打ちではないか。ただ、私よりも若年で逝った人も多いし、いまだかって死ななかった人などいやしない。兎に角3か月という猶予をいただいたわけで、この期間内に人生のピリオドとして終活の道を与えられたと解釈して、懸命に生きるほかない。愚禿の言う「夕べに後願ありて・・・」という言葉を思い出している。

昨晩は一晩中苦しんだ

2019-12-04 16:15:05 | 日記
寝返りを打つのが一苦労で、トイレに行くのも点滴のスタンドを引きづって行かねばならないので大変。ベッドは起き上がるのに電動補助が付いてるとはいえ、あくまで手助けである。起き上がるのも大変だが、横になるときにも一苦労なのである。これから毎日点滴と安静の日々を送ることとなった。点滴の所為か、幾分体が楽になったのを感じる。

多発性骨髄腫により即日入院決定

2019-12-03 13:23:39 | 日記
MRI検査はお断り、薬物療法は拒否、点滴も身内に事故があって亡くなった者がいるので拒否というのではK副院長だって「いったいあんたは治療する気があるのかと激昂するのが当たり前というもの。生半可な雑学で一杯の私が何を考えているのかは、あの方々にして見れば一目両全なのだと思うが、それでも「一度帰って考えて、若し調子が悪くなったら「救急車で」いらっしゃい と、やさしく諭された私は、この先生の言う通りでやってみようかと思ったのだった。医療との拘わりにしたところで人間関係で、こういう出会いに私は感謝している。後日、両先生には謝罪をした。対症療法とは言えども、西洋医学にはそれなりの実績もある。東洋の医術と西洋の医術、良いところを利用させてもらえばよいのだ。案の定、帰宅した私は激しい骨の痛みに耐えることができなくなって、その晩モリエイ病院に入院ということになった。