迷悟在己

痴呆寸前が巷間を漂いながら日々の雑感を書きます

玉温泉の記憶

2019-08-20 15:05:32 | 日記


陸前高田市竹駒町に”玉乃湯”という温泉がある。

私は幼時気管支が弱く喘息持ちであったそうで、湯治のためタマ温泉に行って治ったのだと、母親から聞いた。
かすかに記憶がある。
木製湯船のすぐ下に川が流れていた光景が浮かんでくる。
おそらく国鉄バスに乗って竹駒まで行き、徒歩で温泉まで行ったものだと思うが、
詳しくは知らない。
昭和30年ころの記憶である。
それ以来喘息とは縁が切れて、いったい子供時分に気管支が弱かったなどという話を聞いて驚いたくらいだが、
私の子供も気管支が弱いので遺伝かと思う。

あおり運転に思う

2019-08-19 01:42:31 | 日記
過日の東名で2人が亡くなった事件でも、今回の騒ぎにしても、
一方的に煽った側ばかり悪者にされているが、
一方でされた側の過失はまったくないのかと思う。
まったく理由もなしに煽り、はては100キロですっ飛んでくる高速の路上に停車して運転手に殴りかかる
それはただの変質者か阿呆だろう。
なにか気に障ることをしたから煽られたに違いないと私は見てる。
もちろん被害者と加害者の立場は明らかだが、こうした小競り合いは
車を運転するものならしょっちゅう目にすることだ。

こと高速道に限って言えば、通常は左側通行で、追越をかけるときに右車線を走る。
左車線が開いているのに追越車線を譲らない。
あるいは十分な車間距離を開けないで割り込む
一定速度で走らず、極端に遅くなったり速くなったりする。
追い越した車が今度は追い越して前に割り込む
などなど、
こういう場合には大抵の熟練ドライバーは憤慨するだろう。
そういうドライバーが皆煽り運転をするわけではないが、皆我慢しているのだ。
しかし、された側がいかにも被害者面をしていることには少々異論がある。

菰野町で老人が前の車に割って入り
「貴様わざとゆっくり走っとんかい!」と恫喝している動画を見た。
言ってるのは私と同じじじいで、言われてるのは若い者。

「そやけどここは30キロ制限ですよ」
などと寝言を言ってる。
実際広い農道を30キロで走られる迷惑を想像するとよい。
50キロ制限の道なら60キロ、40キロ制限なら50キロ と、
世間相場というものがあるだろう。

そりゃ法的には若い者の言う通りだが、
わたしゃこの元気なじいさんの言い分に
「そりゃそうだ」
と思ったです。


エリザ・ルアマー・シドモア 大いなる人

2019-08-18 23:50:22 | 日記



米国人によって乗っ取られたハワイの王女カウアイ。シドモアに似ています。


シドモア女史の記事を書いたので、ついでに駄文を上げることにした。

毎年春、桜の季節になると全米の各地からさまざまな人種のメリケンたちがワシントンDCのポトマック河畔にやってくるという。花が好きでお祭りが好き、パレードが好きな国民である。
youtubeの動画も数多く上げられていて、私も大抵見ているが、現場でこの桜はどこから来たかと言う問いには、流石に「朝鮮」などという答えはないが、半数以上の米国人は「チャイナ」と答えている。
であるから、これがシドモアという人の発案で、日米の友好の証だなどという答えは稀だ。もっともあの連中は自分の国の首都がどこにあるかなどということにも無関心で無知ときているし、ためしに日本という国がどこか、世界地図を広げて質問しても、ほとんどがトンチンカンな場所を指すだろう。
私たちならおおまかな国の名前や場所は中学生程度であれば澱みなく答えるはずだ。
「トウキョウまで車でどのくらいかかるんだ?」などと真顔で聞く人たちである。ポトマック河畔の桜が日本から贈られたなどということはほとんど知らないだろう。
当初の発案者はシドモアだが、彼女は桜の輸入だけに拘ったわけではない。
確かに惚れ込んだ桜の木が、故国の地で咲き競う姿を夢想しただろうが、本来は日本の文化全般の研究者であり、西欧にそれを紹介した人なのだ。
紀行文にしても、東京やその近郊の観光地の紹介に止まらず、東海道を西進して静岡、浜松、名古屋、琵琶湖と京都、奈良、大坂、神戸から長崎まで、しかも詳細に見聞きして、緻密な記事を書いている。
生麦事件当時のこと、皇室、宗教、茶の湯や武士道、人々の暮らしなど、客観的で、しかも私たちの国に対する愛着と尊敬に満ちている。美辞麗句だけではない、混沌とした当時の日本の抱える問題点や将来に対することなど、実に細やかで鋭い視線だ。
こうした女史の功績は、のちのヘレン・ミアーズの日本研究の布石になったと思っている。
彼女がどれほど日本を愛していたかは、故国で「排日運動」が起こったのに憤慨して、スイスに居を移したことでもわかる。
晩年スイスでの生活、日記には新渡戸稲造と頻繁に会っていたことが記されているが、彼女が新渡戸の思想に傾倒したことと、新渡戸の夫人が故国の人(メアリー・エルキントン)であったことも起因するだろう。

さて「シドモア桜」だが、携わった一人”エレノア・ルーズベルト”は
「この素晴らしい光景を見ると、いつも思い出します。エライザ・シドモアという1人の米国人のエネルギーとビジョンへの感謝を」
と言ったが、この女の言葉には日本に対する感謝の意などひとつもない。
私たちが桜を送ったお礼に彼女ら米国人が呉れたものは、長崎と広島のふたつの爆弾なのである。
エレノアこそ稀代の殺人鬼にしてわれわれ日本人が親の仇として末代まで語り継ぐべき”フランクリン・ルーズベルト”の伴侶なのである。

同じく女性旅行者であった英国のイザベラ・バードが日本での旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"を書いたのは1880年。シドモアが”Jinrikisha Days in Japan”を著した10年ほど前。
軍服を着た与太者マシュー・ぺリーが浦賀に来航したおよそ30年後である。彼女はシドモアの親の世代だが、異口同音に、日本のかっての封建時代、熟成した礼法、貧しいけれども幸せな生活を褒め称えている。
そして
「こうした日本的魅力を捨てて西欧的近代化に走るなら、ぺリーは最悪の敵となるでしょう」
と記したシドモアの憂いは、まさしく現実となった。

シドモア女史と気仙地方の思いがけない接点

2019-08-17 10:20:50 | 日記


三陸町の老人クラブが発刊した冊子に滝田アヤメという方が寄稿した一文がある。

明治29年の大津波の前、外国人三人の乗ったボートが漂流しているのを三陸町砂子浜の漁師が助けてしばらく砂子浜の大屋で世話をしていた。そのうち今泉(陸前高田)の通訳で山内春之助という人が来てわかったことは、三人はアメリカ人で、オットセイ猟に来ているうちに霧のため本船にはぐれてしまったということがわかった。
それで横浜のアメリカ領事館まで送り届けた。
この間、砂子浜のひとたちはアメリカ人の食事から身の回り一切を親切に世話をしたという。
この一件について、横浜の米国領事館より砂子浜の大屋に対して感謝状が届いた。

米人漂着
拝啓 陳者米国風帆船スクーネル型アルトン号、水夫ハンス、ビクトル、フレデリック儀 海上にて非常に困難を極めたる末、1896年4月4日貴村に上陸致し、其の後1週中は貴下並びに隣人より最心切且丁寧なる待遇を相受け段彼殊に満足に存じ将又貴下の大量なるこの心切なる注意に対し敢えて金銭上の報酬を要求せざる趣承知致し茲に深謝を表し、貴下の高尚なる品操に感謝いたした。
横浜日本帝国神奈川駐在米利堅合衆国代理総領事 ジーエーチ・シドモール
1896年4月14日
岩手県気仙郡綾里村 千田仁兵衛殿


とある。
総領事のシドモールという記載を見てこれはエリザ・シドモアの一族の誰かだと直感した。シドモア女史の兄は外交官であった筈。
エリザ・シドモアの初来日は1884年だが、このころすでに兄のジョージは外交官として横浜の領事館に勤務している。したがって、この感謝状の贈り主はエリザの兄G・H・シドモアに間違いない。
米国人救助に関してすべての面倒を見て、横浜の領事館まで送り届け、しかも金銭的な要求は一切しない。この一件に関する日本人特有の行動の顛末を聞いて、エリザの日本愛はさらに深いものとなったことは想像にかたくない。
その後すぐに起こった明治の三陸大津波の際には再来日。ナショナルジオグラフィックの編集長として三陸の被災地に入って取材した。この時の彼女の記事に使った津波(Tunami)という語句は使用された最古のものである。

エリザ・シドモアが明治の三陸大津波の取材で気仙地方に来ていたということは初めて知った事実で、身震いするような感動を覚えた次第。



千田家は旧家。所蔵する古文書の解読が進められている。