米国人によって乗っ取られたハワイの王女カウアイ。シドモアに似ています。
シドモア女史の記事を書いたので、ついでに駄文を上げることにした。
毎年春、桜の季節になると全米の各地からさまざまな人種のメリケンたちがワシントンDCのポトマック河畔にやってくるという。花が好きでお祭りが好き、パレードが好きな国民である。
youtubeの動画も数多く上げられていて、私も大抵見ているが、現場でこの桜はどこから来たかと言う問いには、流石に「朝鮮」などという答えはないが、半数以上の米国人は「チャイナ」と答えている。
であるから、これがシドモアという人の発案で、日米の友好の証だなどという答えは稀だ。もっともあの連中は自分の国の首都がどこにあるかなどということにも無関心で無知ときているし、ためしに日本という国がどこか、世界地図を広げて質問しても、ほとんどがトンチンカンな場所を指すだろう。
私たちならおおまかな国の名前や場所は中学生程度であれば澱みなく答えるはずだ。
「トウキョウまで車でどのくらいかかるんだ?」などと真顔で聞く人たちである。ポトマック河畔の桜が日本から贈られたなどということはほとんど知らないだろう。
当初の発案者はシドモアだが、彼女は桜の輸入だけに拘ったわけではない。
確かに惚れ込んだ桜の木が、故国の地で咲き競う姿を夢想しただろうが、本来は日本の文化全般の研究者であり、西欧にそれを紹介した人なのだ。
紀行文にしても、東京やその近郊の観光地の紹介に止まらず、東海道を西進して静岡、浜松、名古屋、琵琶湖と京都、奈良、大坂、神戸から長崎まで、しかも詳細に見聞きして、緻密な記事を書いている。
生麦事件当時のこと、皇室、宗教、茶の湯や武士道、人々の暮らしなど、客観的で、しかも私たちの国に対する愛着と尊敬に満ちている。美辞麗句だけではない、混沌とした当時の日本の抱える問題点や将来に対することなど、実に細やかで鋭い視線だ。
こうした女史の功績は、のちのヘレン・ミアーズの日本研究の布石になったと思っている。
彼女がどれほど日本を愛していたかは、故国で「排日運動」が起こったのに憤慨して、スイスに居を移したことでもわかる。
晩年スイスでの生活、日記には新渡戸稲造と頻繁に会っていたことが記されているが、彼女が新渡戸の思想に傾倒したことと、新渡戸の夫人が故国の人(メアリー・エルキントン)であったことも起因するだろう。
さて「シドモア桜」だが、携わった一人”エレノア・ルーズベルト”は
「この素晴らしい光景を見ると、いつも思い出します。エライザ・シドモアという1人の米国人のエネルギーとビジョンへの感謝を」
と言ったが、この女の言葉には日本に対する感謝の意などひとつもない。
私たちが桜を送ったお礼に彼女ら米国人が呉れたものは、長崎と広島のふたつの爆弾なのである。
エレノアこそ稀代の殺人鬼にしてわれわれ日本人が親の仇として末代まで語り継ぐべき”フランクリン・ルーズベルト”の伴侶なのである。
同じく女性旅行者であった英国のイザベラ・バードが日本での旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"を書いたのは1880年。シドモアが”Jinrikisha Days in Japan”を著した10年ほど前。
軍服を着た与太者マシュー・ぺリーが浦賀に来航したおよそ30年後である。彼女はシドモアの親の世代だが、異口同音に、日本のかっての封建時代、熟成した礼法、貧しいけれども幸せな生活を褒め称えている。
そして
「こうした日本的魅力を捨てて西欧的近代化に走るなら、ぺリーは最悪の敵となるでしょう」
と記したシドモアの憂いは、まさしく現実となった。