迷悟在己

痴呆寸前が巷間を漂いながら日々の雑感を書きます

水道水

2018-11-27 03:12:43 | 日記
わたしたち日本人は、「安全と水はただ」だと思っている とは良く言われることだが、この安全も最近では次第におびやかされている。西尾さんなどは、「戦時中は殺人事件の記事を見たことがない」というから、江戸時代は言うまでもなく、明治大正と、わたしたちの国は安全だったのだ。士族が警官になったということもその理由のひとつかも知れない。
水道水も同様に危うくなってきている。水道に塩素が入ってるのは消毒のためばかりではない。現在も日本人を支配している米国の占領軍が、日本人を弱体化する政策のひとつとして命令してているからである。貯水池のプールに定期的に塩素を入れる。セメント袋に入った塩をどぼどぼ入れる。なにか科学的な工程を経ているかと思いきや、案外簡単な作業をしている。まああれだけ塩素をいれりゃ、そりゃ臭いわけだ。私たちの飲んでいる木曽川の水はまだ美味しい方だと思う。京都の水なんかは琵琶湖を水源としているが、一度飲んでみると良い。驚くほど不味い。そして、ふしぎな臭いがする。よくあんな水を毎日飲んでると驚いてしまう。
私たちの木曽川の水だって、日ごろ山の岩清水を飲んでる私などがたまに飲むと、少しにおいがして飲む気がなくなる。その岩清水にしたところで、例のフクイチ原発の撒き散らした放射能のおかげで怪しくなってる。風にのって山間地に降れば、たちまち汚染される。放射能はにおいも味もないので始末が悪い。
和歌山の金貸しじいさんの話や森友事件の話を垂れ流しているTVは、水道の民営化がこそこそと立法化される一大事をまったく報道しない。まあこれも占領軍の指揮下にあるので仕方ないが、われわれがそのことを知ったところでどうしようもない。

さてYoutubeの動画で「水道水から塩素を取り除く方法」というのをやっていたので、私もやってみた。ネットで活性炭を購入してろ過する方法だが、たしかに塩素は激減するようだ。試験紙を浸してみるとよくわかる。しかしあの独特な匂いは消えていないので、いわゆる「美味しい」水にはならないのである。さらにこの水から臭いも取る、ミネラルを加えるなどということをするならば、いろいろな工程を経なければならない。そんなことは面倒だ。水道水は岩清水と違ってしばらく置いておくと腐ってしまうので、必要な時々に活性炭を入れてろ過する必要がある。いやあいちいちそんな面倒くさいことはやっていられない。
それで、購入した活性炭は物置にしまったままなのである。

読経

2018-11-26 01:59:29 | 日記
読経は芸人の歌唱力に似たところがある。上手な読経は聞くものに感銘を与える。般若心経などはもともと釈迦の哲学だが、それにエンターティメントを加えたものと言おうか。坊主が大勢集まって唱える”謡”は、モノクロ-ムで抑揚のない、それでいて歌謡のような、なんとも言えない心地よさを覚える。曹洞宗ではこの読経の合間に木魚を叩き、時折響く鐘の音はその歌謡に荘厳な響きを与えて、それ自身が立派に完成された音楽のようである。特にあの大木魚のどっどっと腹にこたえるような低音と、カーンと良く響く鐘の音が坊主の低い抑揚のない声とが渾然となって、一種の喜悦を私は感じる。
大きな伽藍はそれ自体が良く出来た音響ホールのようである。大寺院の伽藍が何故あそこまで大きいのかがわかる。
耶蘇教にもこれに似たようなものがあるだろうか。
仏教は印度で生まれ、支那を通て伝来したものだが、支那にもこのような読経があるのだろうか?。
総持寺の朝の勤行を見ていると、実に素晴らしいものがある。この荘厳な儀式が平安の昔から一時も休むことなく続けられて来たということは驚嘆に値する。

浅田真央

2018-11-23 20:30:26 | 日記




何度も書こうとして書かなかった作文を揚げようと思う。

多分に浅田君への中傷を含み、人種差別の謗りを受けかねない内容になるためだが、気持ちが抑えられず、ここに揚げることにした。
どうせ読者のいない末端のブログという開き直りととっても構わない。

浅田君が桧舞台に上がる前からTVなどで拝見していた。笑顔が可愛いし、なによりスケ-トが好きでたまらないというその懸命さ、ミスのない演技、完璧を目指す意気、それを具現化するための努力に魅せられた一人だった。まもなく世界の舞台でその美しい妖精は放たれた。好きだからと言って、誰もが彼女のような演技が出来るわけではない。やはり天性のものがあるし、手足が長いという容姿に恵まれている。他のスケーターと比べてもちょっと時限の違う感じだった。そのスケーティングはまもなく完成の域に達しようとしていた。

それはフィンランドで披露された。ハチャトリアンの仮面舞踏会は華やかな彼女のスケーティングにぴったりマッチした良い曲だが、これはタラソワの選曲による。優雅なステップはタラソワのコーチの賜物と言える。バレエのレッスンを重点に指導されたため、全体に華麗で流れるような美しさだった。
私は何度も何度も繰り返しこの映像を見た。ジャンプの正確さはもとより、ジャンプとジャンプの間の流麗なステップは、男女を問わず、その後のスケーターの見本となった。このフィンランドでの仮面舞踏は私が思うには女子フィギュアの、おそらく完成された演技である。現在でもこの浅田の演技を超える演技は出現していない。何度見ても感動を覚えるすばらしいものだ。

「リンクの中で宝石が舞っているよう」と言い、「おそらくこの後の誰も彼女を超えることが出来ないだろう」という解説はまさしく的を射た解説だ。「まるで宝石のように動きます」「まるで飛ぶように軽く、すべての点で解釈がすばらしい」「すべてが立派に完成されたもので」「誰一人としてこれ以上のものが出来ないでしょう」という解説者のことばはこの演技を的確に語っている。

その後、この史上最高の演技に泥を塗るような採点がなされたのは皆が記憶の通りだ。

これ以降の浅田は、どの大会においてもころころと転倒する。あの”サメほどの脳みその持ち主”という森喜朗が見ても”いつもころころ転ぶ人”と言ったほど。練習ではまったく転ばない、しかし本番では転ぶ。そして、ノーミスがモット-だった少女が、転んでも一向に悔しさも表情に見えない取り澄ました表情。大方は同情的だが、私は非常に意図的と解釈した。完璧な演技をした筈のオリンピックでは、醜い顔を整形によって作り変え、審査委員をも取り込んだキムの、おそらく工作されたインチキ採点によって銀メダルに終わった悔しさ。そして、努力を重ねて立派な演技をしたフィンランドでまたしても疑惑の採点がつけられた。観客は静まり返り、各国の解説は異口同音に採点の不当性を訴えたが、覆ることはなかった。彼女の無念さはいかほどであったろうか!。

以降の彼女の不本意な演技は、そうした審査員への抗議、あるいは面当てだと私は推測している。審査員への面当ては結局自身への面当てであり、彼女を応援する大勢のファンへの面当てに相違ないのだが、彼女はこれをどう捉えていたのだろうか。
何より熱心に応援してくれるファンや、それから彼女のファンには同僚の多くのスケーターもいた筈で、木っ端審判員がどういう採点をしようが、皆浅田が一番だということを知っている。それゆえに、ファンのために、なにより自身のために最善を尽くすのがまっとうな道だったのだ。

さて同じく冬季五輪で疑惑の判定によってメダルを逃した選手に上村選手がいる。世界中の誰もが銅メダルは上村 とネット上では書き込まれた。上村君はぼろぼろと涙をこぼしながら、さわやかな笑顔で「やることはやった。悔いはない」と言った。どのような状況でも最善を尽くす、それは私たち日本人の美徳のはず。この上村と浅田の態度は両極端である。

つまり、上村は日本人で、浅田は違うと、そのときに確信した。1000年も恨み続けるといった底知れぬ暗部を根に持つ民族。民族のアイデンテティが「恨」という半島人。これが民族の相違というものだ。日本人は胴長短足と相場が決まっている。当地の伊藤みどりや中野君なんかはその例だ。浅田は手足が長くって長身、これは半島人の特徴。だから、フィギュアにはもってこいの体型なわけである。
小さなころ、焼肉の種類にやけに詳しいわけだった。

浅田君を辱める意図はない。つまり、民族としての相違を言ってるのだ。今でも時折このフィンランドでの浅田の演技を見るが、何度見ても素晴らしい。メドべージェワにしてもザギトワにしても、現時点での女王だが、この浅田の演技に到底及ばない。審査員のおろかな採点に関係なく、浅田の仮面舞踏会は、女子フィギュアの最高到達点なのであって、「他の誰も同じことを出来ない」のである。

自らの栄光に泥を塗ったのは、ほかならぬ浅田君自身であったのは残念至極ではあるが、小金を貰って採点に手を加えた審判員は恥を知るべきだ。彼らのおろかな行為によって、浅田は栄光を失ってしまった。若し という言葉は禁句だが、あのような不肖の採点がなかったならば、と、返す返すも残念でならない。


ウクライナでも使い物にならなかったプリウス

2018-11-22 00:56:03 | 日記
のろのろ運転の最前列を見ると、大抵トヨペットのプリウスである。あるいはアクア。後ろの車が迷惑してても我がもの顔でへっちゃら。結果、連合艦隊よろしく渋滞とあいなる。車がのろいという所為ばかりではない。要するにこの車を選び、購入する運転手の性根による。自動車に対する興味も知識も薄く、みなが乗ってるからなどという理由で乗る。のろのろ走るというのは安全運転でもなんでもない。車の流れに乗って走るというのが常識。前の車がどんどん先に行ってもおかまいなしの自分よがりなのろのろ運転。30キロ制限の道路だから30キロで走って何が悪いとプリウスのドライバ-は言うだろうが、そうではない。この車は大迷惑である。

それを証明するように、ウクライナ警察でプリウスは使い物にならぬという理由で、この際630台を三菱アウトランダーに交換した。
どう使い物にならないかというと、欧州のハイパワー車を乗り回すウクライナのドライバーに追いつけないというのだが、これはなるほと思わせる決定的な理由だろう。取り締まりになんないのである。しかももっとも重要なのは車体の軟さ。事故を起こした際、ぐしゃぐしゃになってしまう車体の構造による。警察官の生命にかかわる大問題だろう。

アウトランダーの走行性能はプリウスよりゃましだろうと思うが、この車の真価は冬場の走破性にこそある。SUVだから悪路も走る。
静粛性は夜間のパトロールや張り込みには便利だろう。やはり折り紙付の堅牢性にこそ価値がある。スーパーの安売りチラシと一緒に入ってくるカタログとは一線を画す。

ウクライナでの成功は間違いないだろう。

夕日タン麺追記

2018-11-21 00:04:55 | グルメ







そのタン麺は笹川流れの駅の前、道の駅の2階にあったのだ。都合6~7回行ったが、冗談のようにいつも夕方だった。
夕日を眺めながら夕日タン麺をいただいたのは3回ほどか。沖に見える島を佐渡ヶ島だと思い込んでいたが、実は違っていた。佐渡ヶ島があんなに近くに見えるはずはないので、考えればわかりそうなものだが、私としては佐渡ヶ島に沈む夕日を眺めて食すタン麺の味に酔っていたのだ。311の震災から1週間ほど経ったあの大変なときにもタン麺を食した。
現在は経営者が変わって凝ったメニューはなくなったが、それでもラーメンなどは美味しかった。
当時の写真を懸命に探したところ、やっと見つけたのでここに載せる。
なつかしい味だ。