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どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

盛岡私的観光案内 愛宕山山岸1

2011-11-05 22:01:04 | インポート
NHKFMの番組を聞きながら書いています。生演奏でスタニラフ・ブーニンの演奏を聴いてしまいました。ショパンコンクールでも、将来が圧倒的に豊かだと言われていましたが、巨匠への道を進んでいるようです。
ただ今現在の苦しみを表現しているような気がします。
さて観光案内です。今回は充実しています。


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上田から北山、バイパスを通って愛宕山への最短距離で向かいます。その手前で出会ったせんにんつるの花です。




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三ツ割に向かうトンネルです。なんと言う事も無い案件なのですが計画からえらく時間がかかって、作り始めた所、なぜかの落盤事故。紆余曲折で出来上がりました。
このトンネルが出来た結果なのですが、盛岡の山に広がった郊外の利便性が変わりました。山の方がよくなったと思います。




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バイパス沿いに、東禅寺があります。南部家の墓があるのですが質素な感じです。臨済宗です。




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門前の立派な焼却炉が、いい感じです。これでも盛岡五山に数えられる別格寺院なのですが。
盛岡の寺院なのですが、よそ者にはそのランクが解りにくい所があります。




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さてバイパスも秋です。この坂を越えると愛宕山に入ります。



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バイパスから外れて愛宕山に向かいます。


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いきなりな坂です。



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凍結を考えての石畳です。にしても急な坂。




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栗山大膳の墓。九州福岡黒田家家臣の墓がここにあるのは、黒田家騒動で栗山大膳が盛岡に流刑処分になったから。盛岡南部藩は、この栗山大膳をかなり厚遇したようです。
そのせいか、維新後に薩摩藩と妙に仲が良くなったり、西南の役以降九州人が岩手に来た事とは、無縁では無さそうです。



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坂を上りきる前に、ナイスな家が。ベランダをガラスで囲い込むのは、盛岡では珍しいです。




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愛宕山をには、盛岡で最高のホテルと言われている盛岡グランドホテルがあります。駐車場に人がいるというだけでも高級です。お殿様商売と批判された時もありますが、サービスはかなりいいと思います。



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さて愛宕山展望台に向かう間には、北山地区の墓地が目に入ります。まあ墓地のど真ん中に高級ホテルがあるのですが、これはどういった事なのかと言えば、愛宕山が盛岡にとって重要な戦略拠点だからなのです。
ここを制せば、といった場所です。



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墓所から少し外れると、果樹園です。ブルーベリーの紅葉がきれいです。



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愛宕山の頂上に近づいてきました。きれいな雑木林ですがその人為に気がつけば、よりいっそう美しいと感じれるでしょう。実は壮大な庭です。手がかなり入ってます。



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さて展望台に来ました。この展望台の礎石を探したのですが見つかりません。皇太子殿下のご成婚を記念して整備したという碑がありましたが、それ以前にこの展望台はあったと思うのですが記憶違いでしょうか。




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盛岡には三カ所展望台があります。南にある展望台は私有地なので現在閉鎖されています。岩山展望台が最も有名なのですが、市内が少し遠く見えるのでイマイチです。ただレストランなどのインフラが整っているので人気スポットです。私のオススメはこの愛宕山の展望台なのですが、ちょっと木がおい茂ったようです。




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ここで小学生が飛行機を飛ばそうと、必至に組み立てていました。チとアドバイスなどをしながらしばらく時間を過ごしました。



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ホテルの坂を下ってゆきます。やっぱり急な坂です。




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さて山岸に移ります。山岸は面白い街です。どこがどうと言われれば解らなくなるのですが、続きで。


盛岡私的観光案内 盛岡駅西口西南開発

2011-11-05 03:25:17 | まち歩き
バブルのときに出来た、駅西口を含めた西南開発。あれから20年経ってどうなっているのか。検証するまでもなく、まあどこにでもある町になっています。
植物育成用蛍光灯を買いに、西南開発にあるホーマックに出かけました。なのでサラっと紹介。


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まずは夕顔瀬橋から、ずっと行くと陸橋が。ここを渡ります。



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駅前再開発に伴って出来た風景。右の洋館は理容師学校。ちょっと盛岡らしくないけど、ここにはあっています。マンション群とマックスバリューはよくある光景。でもなんか薄っぺらに感じるのは私だけでしょうか。




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盛岡駅西口に向かいます。左に見える盛岡駅ですが、この陸橋から見える所に床屋の看板があります。かなり気になっています。



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陸橋を渡って、城西町に入りました。歩道橋から今来た道を見ます。右側は城西中学校です。



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この反対側は太田橋です。昔豪農が建てて、今はコンクリートの橋に変わっています。ここから少しウロウロしますが、あまり突っ込まない事にします。



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太田橋のたもとには、太鼓屋さんがあります。さんさの季節はよく太鼓の皮が張り直されています。



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盛岡駅西口は、昔は無くって広大な操車場がありました。それと民家が並んでいたのですが再開発でかなり変わりました。



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広大な操車場跡なので、盛岡らしからぬ道路が一杯です。



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ただ再開発地域との境目はこんな具合。



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駅裏開発は、かなりうまくいっていません。目玉の建物のマリオスと、県立図書館のアイーナが見えます。それではこの高層ビル?のマリオスに向かいます。



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マリオスのエレベーターの案内。いやかなり改善されました。出来た当初はバブルがはじけた頃で、第三セクターばっかりが入居していました。
本来駅裏開発は、大型商業地域として考えられていたものでした。マリオスはその中核となる建築だったのですがバブルがはじけて、このビルに入居する法人が無くって、計画変更して1階から4階まで盛岡市民ホールと展示場に作り替えられた上、そのホールに疑惑のパイプオルガンがあったりして、その上入居者が無くって給湯室共同の分割オフィスまであったという有様。完全商業地域なのにアパートの建設まで認めてしまった。



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マリオスの4階には操車場にあった大正時代の車庫の壁面が残されています。これを壊すのに反対運動があった名残です。




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誰だったか、エッフェル棟を見たくないからそのレストランが好きだと言っていた作家がいたような。マリオスから見た盛岡の西側の風景です。



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マリオスから南を見た風景。
マリオス最大の思い出と言えば、ソフトウェア開発支援の公的なインキュベーター施設があったこと。シリコングラフィックスのオニキスがありました。ワークステーション超充実、モーションキャプチャーのシステム、CGをとり込めれるビデオ編集スタジオなんかありました。私はもっぱらプリント出力に使っていましたが、パチンコのCMを作っている人がよくいました。まあ何億と言ったシステムでした。全く有効利用されていなかったのは確かです。オニキスなんて2回しか使わなかったという伝説を残して消えました。



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マリオスから東側を見ます。このゴチャゴチャ感が盛岡です。服に関してはすべてがあるが、全部が無いという評価がありました。標本箱のようにありとあらゆる種類があるし、その専門店もいっぱいあるのだが決定的なものが無い状況でした。今でもそうだと思います。



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マリオスから見た北側はこんな具合。正直な所この景観以外は、この建物には愛着が持てません。バブル崩壊後で無理矢理作ってしまったのはよかったのかどうか。西南開発まで含めて疑問に思っています。
ほんと、市税を年間8000万よけいに負担かけた赤字建築でしたから。


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さてラウンド1とかいろいろあるのですが、基本的には閑散としています。なのでゆとりをもって県立図書館と多目的施設のアイーナを写せます。この建物はなかなか良いのでそのうち紹介したいとおもいます。
赤字を出すなら、面白い方が良いです。



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雫石川を渡る橋にはこんなトンネルが。県立美術館を中心に先人記念館や子供科学館などの設備があるので、それらを結ぶ大きな公園を作って、道路はこうしたという感じ。デザインは面白いのだが、面積が大きいんですよ。ちょっとこの山を登って歩くのは辛いかもしれない。



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トンネルを抜けるとドカーンと空き地があります。盛岡市役所はここあたりに移転する予定だったのですが、財政的にムリとなってしまいました。左に見えるのはホテル建設途中で止めてしまった名残。



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そこからちょっと離れるとよくあるロードサイドが出現します。ただよくあるのと違って、歩道と自転車道がゴージャスです。これはすごい事なのですが、人間は最低労力で最大効果を考えるという事を忘れているようです。広すぎます。とりあえず歩行者には不便。
とってつけたような感じがします。


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さてホーマックで蛍光灯を買って、向かいにはイオンが。この狭い商業エリアに2店舗イオンのモールがあります。この異常さは何でしょうか。歩道と自転車道の感じもイオン臭いし。この都市計画はイオンなのかと思います。



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ちょっと外れて昔からの本宮地区の中心に来ました。なんかホっとします。この開発以降この地域で焼き肉屋が増えたのはどうなのかとも思っています。



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10年前に開発の終わった地域はかなり落ち着いています。でも私は相当違和感があります。ここは50年前に開発されるべき土地だったはずです。なんでイマサラという感じがあります。
農地法もそうですし複雑な利権もあったでしょうが、街をどうしようかという哲学の無さがすべてなのかなと思います。


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西南大橋を渡って、旧市内に向かいます。
さんざん都市計画の悪口を言っていますが、これだけは言っときます。駅裏から雫石川に渡る橋を新しく作るだけでこの西南開発は出来たはずです。ただ国の基準で利用者がどの程度見込めれるのかというのがあって、回りくどく計画を進めた結果、バブルにあって計画がギリギリになってしまったフシもあります。
そしてバブルがはじけた時点で計画を見直したのでしょうが、保身に走ったように見える、不味さがあったようにも思います。
川を挟んで両極端な町並みです。解りにくいと思いますが、この新しい街には濃厚に盛岡の歴史が張り付いています。


盛岡私的観光案内 材木町中央通3丁目

2011-11-04 02:03:13 | まち歩き
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材木町です。この町内は少し変わっていて普通は太い道路に挟まれたエリアが材木町なのですが、実はその道路の端に広がっています。これは江戸時代には夕顔瀬橋がもう少し北側にあったことと、南側の旭橋が出来た時の道路で分断されたため。なお手作り豆腐店が見えますが、盛岡は豆腐の消費量が日本一なのだとの事。昔はこういった小さい店がいっぱいあったのですが、最近ではかなり減りました。


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その豆腐店。隣の家との関係がどうだったのだろうか。家を半分に切って土地を売って、その材木で小さい家を造ったとかいろいろ考えられます。



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大きな染物屋さんがあります。南部型染めの店です。昔岩手は紫色の原料だった植物の「むらさき」が特産だったそうです。この店のウリでもあります。



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いわゆる材木町です。土曜日にはよ市が開かれて、近隣の農家やいろんな店が出店します。20年前に、この歩道と道が緩やかなカーブを書くように変更されました。また車が乗り越えるとデコボコする小さな山があったりして、車の速度が出ないようになっています。


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さて夕顔瀬橋から材木町の石垣を見ます。江戸時代から近代まで修理したり積み直したりして今日に至ります。



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下から夕顔瀬橋に近い方、上の方は旭橋に近い方になっています。夕顔瀬橋のすぐそばは橋の工事に伴って、新しくなっていますが、積み方がいろいろあるのが解ります。なんでも旭橋に近くなると石垣が安くなるらしいです。光源社のあたりは一度大きく崩れて新しくなっています。



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通りの間口からしばらくはまっすぐなのですが、途中で家が曲がっています。川に沿った家はほとんどこんな具合にくの字に曲がっています。船着き場の関係なのかもしれません。



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岩泉の高級家具店の純木家具があります。実は材木町に無いものは、材木屋です。新しい会社の事務所はありますが、江戸時代からの会社はありません。昔扱っていたのも、製材されたものだったようです。


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ちょっと空き地が目立ちます。奥に見える古い屋根は、あとで紹介します。



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地ビールのベアレンの店です。ここは昔蕎麦屋のいさみやのあった所。よ市でこの向かいに出店しているうちに、居着いてしまいました。


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有名な光源社。材木町が盛岡でも指折りの観光地なのは、この店があるから。
この店の前だけ歩道がありません。なぜなら道路の改修計画に反対していたから。仙台にも店があるので、この改修計画の問題点をよく知っていたようです。車通りが少なくなって商売がうまく行かなくなるのと、店舗そのものが観光地なのが理由ですが、町内会は改修に大賛成。町内会長から、「ここで300年商売しているのが引っ込むのに、60年しか経っていないのが従わないのか」と恫喝されたそうです。この白壁に墨汁をブチまけられたり散々だったようです。なお昔は棟方志功揮毫の看板が表に出ていたのですが、この頃から出さなくなってしまいました。


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道路改修の折に、道の脇に作られたオブジェが作られました。宮沢賢治の童話にちなんだものです。その中で宮沢賢治像。実は宮沢家に許可を取らずに作ったため、当時存命だった賢治の弟の静六さんが激怒したそうです。以降賢治の肖像を管理する会社が出来ました。ある意味歴史に残る像です。
なお光源社が賢治と関わっていた時代では、前九年に事務所があったので材木町とは関係ないのですが。


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旭橋の交差点です。目の前の土蔵作りの眼科は、昔この斜め向かいにあった眼科の土蔵です。一時期は喫茶店権ギャラリーだったのですが、斜め向かいに移転しました。


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道を渡ります。ここから少しで中央通に町名が変わります。江戸時代の地図を見るとこの辺りに武家屋敷があったようです。盛岡の武家屋敷は大体5カ所に分散してあったので、現在ではその痕跡はほとんど見当たりません。


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ずっと行けば中古カメラやさんが。国産カメラはニコン・キャノンまで、あとはライカしかカメラは無いみたいな親父さんがやってましたがどうなったのでしょうか。オリンパスユーザーだったので、縁のない店でした。


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ちょっと戻って桜城小学校。東屋がモダンです。


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若干のお屋敷とマンションの多い土地です。教会があります。盛岡は教会が多いように感じます。


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北上川に近い所には大きな駐車場があります。また小さい駐車場も増えています。



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うろうろしながら開運橋の方へ一旦出てしまいます。



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まあこの裏通りも家がかなり無くなってきました。ビルの裏側がよく見えます。


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なんかゴチャゴチャした印象のある所です。昭和22年の地図では新築地となっていますので、歴史が無いのでしょうか。



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古くからのおもちゃ屋さんです。宝くじもタバコも売っています。ここ数年パーティグッズに走っています。


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このおもちゃやのショーケースにはいろんな政治家がいます。小泉元首相もいます。小沢一郎はあまり似ていませんがいます。亀井静香もいますが、野田首相がいません。



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開運橋のたもとの自動車や。かなり古いようです。


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桜城小学校そばのビルの脇にひっそりと。どうも日本の近代製鉄の父と言われる人が盛岡出身のようです。これは知らなかった。


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また同じ道を通るのが嫌だから、中央通りに近い裏道を通ります。するとミニ公園が。これは妙に立派。公園には、幼児公園と児童公園、そして公園と区分があるようなのですがこれはいずれ調べてみなくては。



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ソウルバーとかはよくありますが、ロック専門のパブ?です。昔入った事がありますが、ロックこそが青春なのよと叫んでいた人がいたのが印象深かったです。マスターは控えめな人でした。



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元旅館でしょうか。大きな建物です。



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立派な雑居ビルです。建てられた当時、かなりモダンだったでしょうね。キッチリ正面向いてみて気がつきました。



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地価が高い+土地がまとまっていない+建物が老朽化=駐車場。よくある図式です。



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やっぱりあった、廃屋。駅まで5分の物件です。


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町の銭湯が次々と潰れる中がんばっているのが、梅の湯。ビルになって旅館も併設しています。薪で焚く柔らかいお湯が特徴です。本町の銭湯もこの系列のようです。


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材木町の裏側を歩くと、立派な蔵が並んでいます。


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ひときわ立派なのは、楽器店の蔵。確かに昔は楽器店はお金がないと出来なかったでしょう。


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真ん中に大きな寺があります。ここには酒買地蔵があります。丁度正面近くを向いている、山門脇のお堂です。よくある伝説で、地蔵さんが酒を買いにきていたというやつです。6月に大きなお祭りがあります。聞き酒大会もやっています。
今年のこのお祭りで、県内の日本酒の試飲が出来ます。私の感じた今年の傾向は、県南の酒は震災の影響が大きく、よく言えば味乗りが強い、悪く言えばヒネた手前と言った具合。盛岡地区は極めて安定。ただ何となくフレッシュな感じ。そして県北地域は、味が全然変わってどうしたのと言った具合。理由はなんと震災直後の花見自粛モードを批判した二戸の南部美人のYouTube画像がきっかけで、岩手県の酒が売れまくって大変な事になったらしい。特に南部美人は生産が追いつかない状況になったようだ。二戸出身者と何があったんだと思うくらいに味が違っていた。全く味がブレていない蔵があった。西根の鷲の尾だ。震災の影響がほとんどなかったのだが、なぜかこの岩手地酒ブームで取り残されてしまい逆に安定していると、蔵関係者が苦い顔をしていました。



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さて表から屋根しか見えていなかった建物がこれ。多分戦前からあるようだ。前にも紹介した長屋があったが、この関連か。仁王町とかにいくつかこういった建物が残っているので、何か流行があったのかもしれない。


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ちょっとスタイルの違う長屋が隣にあります。間取りが違いそうです。こういった物件は外壁や建具はそのままで、中をキッチリ直すと、若い人が喜びそうな気がします。



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アンティークの店と、漆工房があります。この裏には昔高校のテニスコートがありました。それが今大きなスーパーになっています。



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商人の町らしく、稲荷様があります。元個人宅のもあわせると二つあります。



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とても小さな歯医者さんです。


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さて光源社の中庭です。光源社の作りがこうですから、道路改修で引っ込めなかったのはよくわかる所です。
光源社は材木町商店街の中でも浮いた存在です。まずよ市に反対したらしいです。それをやったら地域の八百屋や魚屋が困るだろう。という事です。実際材木町には「奥様市場」という小さな市場があったのですが、よ市から間もなく消えました。それは土地利用の問題だったのかもしれませんが、影響はあったようです。小さなスーパーががんばっていたのですが、一旦閉店しました。しばらくして大きなスーパーになって戻ってきたのですがその間買い物難民が多かったのは確かです。
道路改修で、明らかに人通りが減りました。その上マンションの建設が多くなり、それこそ土地利用の観点から高級品を扱う店が増えました。そして光源社という観光地を抱えている事もあって、岩手県内の市町村のアンテナショップが一時期増えました。それも今では少なくなってきています。



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材木町があるから光源社があるのか?光源社があるから材木町があるというのが、私の考えです。
材木町はその名の通り、建材中心の町だったのかと言えばそうではないようです。江戸時代に夕顔瀬橋のたもとにあったので川向こうの農産物の集積地でもあったため発展したようです。同じく農産物の集積地だった南の仙北町の規模に比べるとかなり小さいと思います。たまたま盛岡駅が近いがために、地価が高いだけな町でもあると思います。
もしも光源社が材木町に無かったらどうなっていたのかは、解りません。多分今より更にマンション街になっていたのではないのかと思います。
材木町そのものは好きです。きれいにまとまっていますが、一皮めくるとオドロオドロしいところがとても好きです。よ市と光源社は別扱いで取り上げる予定です。


原発・驚くべき発言

2011-11-02 02:20:32 | インポート
震災以降、毎日と産経が妙に目立っている。毎日の記事で面白いのがあった。というかこの連載は面白い。


http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/konokunitogenpatsu/news/20111101ddm002040111000c.html


この記事の冒頭に、恐ろしい発言があった。


 「そちらの質問で初めて知りました」。10年12月、金属材料に詳しい井野博満・東京大名誉教授は、経済産業省原子力安全・保安院の課長補佐の回答にあっけにとられた。

 質問したのは、九州電力玄海原発1号機(佐賀県玄海町、75年運転開始)の老朽化を巡る問題。九電が1号機の圧力容器について、09年時点の状況を分析したところ、炉心からの中性子を浴びることで材質がどの程度もろくなったかを示す「脆性遷移(ぜいせいせんい)温度」が「98度」と国内最高を記録し、未知の領域に入った。この数値が高いと、事故時に圧力容器が損傷する恐れがある。93年時点の56度から一気に跳ね上がり、九電内では「こんなに高いなんて」と驚きの声が上がったという。



原子炉では、高温・高圧下での金属の疲労がかなり前から問題になっていた。「応力腐食割れ」という現象だ。これをどう防ぐか、どのような金属を使えばよいのか研究が進められていた。ただ解決策が難しいので、これを精度よく検査する方法などもかなり研究されている。だがこれら研究者の間で圧力容器の交換は、現在では不可能だと知られている。根本的に難しいのだ。
実際の原発では出力をしょっちゅう変えると、原子炉容器や隔壁の伸び縮みが起きてこの「応力腐食割れ」を進めてしまう可能性がある。なので原発は稼働すると昼だろうが夜だろうが稼働しなければ行けなくなる。
深夜電力は、原発で安くなっている所もある。ましてや、この質問にあった中性子線での問題もある。
そしてこれをどうするのかの研究費が多大に使われてきている。累積でいくら使われてきたのだろうか。金属の研究では大きなジャンルとして成立している。
私が驚いたのは、それらの成果を含めて彼らが発信してきた事を、保安院が知らないという事だ。もちろん知っていて知らないと発言したのかもしれないが、発言そのものが異常だ。
確かに研究費は国からだけではなく、原子力に関わる公的機関や企業からも出ている。だから情報の漏れはあるのかもしれないが、検査する機関で知らないというのはあり得ない。検査をしなかったとしても、原子力行政の機関である限り知る必要がある。
福島第一での報道で、極初期に原子炉の「応力腐食割れ」の状況が報道されていた。かなり進んでいる状況だったと覚えている。まさかこれも知らなかったのではないのかと、今更ながら驚いている。
原子力の「安全神話」の自家中毒。ここに極めれりだ。


東北の牛は?

2011-11-01 02:11:47 | インポート
セシウム牛問題で、福島・宮城・岩手の牛肉は評判を落としてしまった。このため全頭検査ということになっている。しかも県内で屠畜・解体してから検査するが、この三県には大規模なと畜場がない。なので一日の出荷数も限られている。おまけに検査の問題もある。現在アップアップの状態だ。機械を買ったりして努力しているのだが、生産量は激減しているようだ。
その上、この三県の牛肉というだけで安値になってしまう。生産農家としてはいっぱい出荷したいのだが出来ない状態だ。しかも生き物なので急な生産調整は出来ない。
そこに、アメリカ牛の輸入制限解除が言われている。牛丼業界や外食産業のロビーイングとAPECへのオバマ大統領への日本からの贈り物なのだろうが、状況が悪い。もちろん国内産の牛とアメリカの牛ではプレミアムが違うので、全体では打撃の受け方はそう無いと思うが、東北の三県ではかなりのダメージになるのではないか。これは心配だ。
前にTPPを楽観視している記事を書いたが、農家への所得保証制度があるのでこれを使えばうまく衝撃を回避出来ると思っている。サービス業は明らかに言語が障壁になっている。また韓国とアメリカのFTAのように、アメリカが一方的に訴訟を起こせられる制度が無ければまず大丈夫だと思っている。なお自由貿易が良いのは確かだが、緊急時の一時的な処置や有害物資の基準等そろえてこそのTPPだ。そこに至るまで長い年月をかけて話し合いを続けながら発展させるのが正しい。単純にアメリカの基準にあっていないからというのは、どうかと思う。
今回少し考えた。日本はBSE問題のときアメリカに全頭検査を求めて勝ち取った。ただアメリカの言う通り、神経部位を取り除いたものでも十分安全なはずだった。イギリスの例は、と畜した牛にその脳漿を刷り込む処理をしていた。とても古い方法なようだ。これが原因でイギリスでは肉からクロイツェル・ヤコブ病が発生していたのだ。しかしこんな方法は、アメリカでも日本でもやっていない。日本の全頭検査を要求したのは、かなりヒステリックな行為だった。
今、福島・宮城・岩手で全頭検査している。国内生産では少ない量かもしれないが、この状態でどうやって今後を打開出来るのか。生産量は上げられない、安値だ、そして牛は生後3年以上経つと暴落する。これで生産をどう維持出来るのか。BSE問題のとき、日本向けに飼料を工夫して生産していた大規模農場があったと思う。それらが全頭検査となった時の苦悩が、いま理解出来る。
打開策はない訳ではない。BSEを含め国内でこんなに厳しくしているのだから、ある意味安全な食品だ。アメリカや中国に輸出してみるのはどうだろう。もちろん今より更に厳しい管理になるだろうが、生き残るための可能性はある。