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どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

風評というもの・古層2

2011-11-12 02:15:45 | インポート
そもそもケガレとは何かというと、人の生死のはざまにあるもの、なのだろう。古事記ではよくまとめられていると思う。例のイザナギの黄泉下りの話しだ。そこに祓えがある。
妊婦の後産はケガレであった。(妊娠そのものもケガレとするばあいもあるようだ。)家畜の出産もケガレであり、当然死もケガレであった。人の死は最も重いケガレだ。これらを忌む習慣は、平安時代からあるようだ。そしてそのカガレを祓う儀式や祭りが発達した。
若干蛇足だが、私はこのケガレの元になった概念は、神話以前からあったのではないのかと考えている。縄文時代の埋葬で、手足を折られて埋葬しているのがよくある。これらから、死体そのものに何らかの禁忌するものがあったのではないのかと考えている。それが仏教と古事記から別の形で出来たのが、ケガレなのではないのかと思う。
問題は放射性物質とケガレがどこで一致したかだ。これは間違いなく、広島と長崎だろう。原爆で大量に人が死に、生き残った人も多くは突然発症し、急に亡くなってしまった。疫病にみられても仕方がないものがあったが、科学的な見解が流布しても、生き残りの多くは差別されたのだった。
一発の原爆による大量の死、そしてそこで生まれた地獄絵図とその後病にかかった人たちの無惨な死に方、ここからケガレと結びついたのではないのだろうか。そしてケガレた人を禁忌して差別が生まれる。
第五福竜丸の事件もそうだ。放射能は人に移らないと言われていたが、やはり生き残りは差別された。
放射能には、死と病のケガレと認識されたからこその差別だったのではないのか。
そして現在では、放射線による被爆と放射能物質による内部被爆と分けられて考えられているが、これがケガレを厳密化させている可能性もある。あまり私はしらないが、メチル水銀による水俣病やカドミウムによるイタイタイ病にも差別が起きたと聞いている。
霊ならば、宗教的に祓えが出来る。しかしこういった化学物質による祓えは可能なのか。水俣病やイタイタイ病は地域が限定され風土病の認識もあったため、全国的なケガレにはならなかった。しかし基本的には時間による解決しかなかった。
これに対して放射性物質の問題は、全国区だ。水俣の魚を市場に出さなければいい話しだった(しかし水俣の漁民は困窮した)。今回はそれと違い、ありとあらゆるものが東北から全国に流通している。被害も北関東から千葉・茨城・群馬・埼玉、東北は福島・宮城・岩手と広域にまたがる。風評で東北の残る山形・秋田・青森も巻き添えを食らっている。この広域と流通から、全国区になった。
放射性物質のケガレは強烈なイメージしかない。即死だ。髪の毛が抜けて血を吐いて血便が出る病だ。そして癌になって抗がん剤で髪の毛が抜けるのだ。
実は鉢路元経済産業大臣の、「放射能移しちゃう」発言のとき、記者たちが何を問題にしていたのかが実はよく解らなかった。原子単位で100個程度か、と思っていた。これをケガレとすれば、確かに問題がある。逆に死の街発言が、なぜ問題だったのかはよくわかる。死=ケガレ=放射性物質であったからだ。福島で若干の反応があったのもこれだろう。
しかしあまりにも単純に説明出来るのに、不安を覚える。


風評というもの・古層1

2011-11-11 02:36:58 | インポート
放射性物質の問題で、いろいろな風評をみてきた。
まず科学的な知識が余りにも無くて起きている件が多い。花火と橋に至っては論外なほど科学知識が無い。どの程度無いのかと言えば、中学生のレベルだ。これらの件に関しては、行政が判断を放棄しているフシもある。行政は科学的な知識を持って判断していないと思う。法や条例の上で判断出来ないのかもしれないが、住民の意見でと言った場合、まず判断を放棄したのだろう。
これらのやり取りをポストモダン理論で説明は出来る。つまり大きな物語が喪失した状態で、乱立する意見があり、行政はそれを集約出来なくなる。そして行政の判断も、行政がかならずしも正しく情報を収集・分析で来ているかどうか自身でも不安な状態にあり、これらの突発的な案件では思考停止に陥ってしまう。また大きな物語としての原子力神話が崩壊したため、、核物質に対しての両極端な話しばかり出てくるようになる。これもポストモダン的なのだが、とにかく意見ばかりで判断材料が全くない状態になっている。この状態で個人の判断が、先鋭化する現象が起きている。
ここまでは確かにそうなのだが、髙田松原の件なども含めてゆくと違う側面もある。
行政が中止などと判断すれば、10倍返しから100倍返しで、止めた事の抗議が殺到するのだ。これは逆の現象で、大きな物語に回帰しているからこそ起きるのではないのか。つまり被災地に対する同情とか優しさから生まれている可能性がある。もちろんただ単に行政をいじめるためにやっている人もいると思う。
確かに私の理解しているポストモダン理論は、底が浅い。なのでそれらしく語ってみてもどうもすっきりしなくなる。
福島県産の桃が暴落した。これは確かだ。他の福島県産の農産物でも同様だ。しかし風評被害とは言い切れないものがあった。もちろん現在の福島産の農産物は国より厳しい基準で出荷し、更に検出限界以下である場合でも装置の検出限界を明記する事にしている。そしてその結果をネット上で公開している。それでも暴落したのは、セシウムがあるかも知れないという疑問からだった。
この辺は知識が必要なもので今で言うリテラシーの問題なのだが、日本の科学教育が間違っていたとかという意見もあるが、何かが違う。
直感で申し訳ない。私のブログが直感で検証したりするようなものなので、以下は勘弁してもらいたいのだ。
これって、もしかすると日本の古い古い、その日本人の古層が起こしているのではないのか。目に見えない怪しいものが日本を覆っている。この怪しいものを排斥し、無くする事こそが正しい。そういったものは何か。
穢れ思想だ。ケガレを徹底的に払わないと気が済まない。これは汚いとか汚染とかそういった問題ではない。霊的な問題だ。特に放射性物質は今までの公害原因物質に比べ、長期間にわたってタタル物質だと認識されたのだろう。
広島でもそういった差別が起きた。現在でも福島で起きている。
福島の子供が、避難地でいじめられた件などもそうなのだろう。たたりを背負ったものが入る事で地域がたたられる。そういった古層が吹き出しているのだろう。
そういった意味では、最近右翼がおとなしい。もちろん原発推進派だったからかもしれないが、多分日本の古い部分が吹き出している状況では、なんとも出来ないのかもしれない。


拝啓・オリンパス様

2011-11-08 23:09:06 | インポート
拝啓オリンパス様。
下界では秋となっておりますが、そちらの高千穂はいかがでしょうか。
ここの所の騒動を心苦しく思っていました。
私のはじめて手にしたカメラはオリンパス・ペンだったと思います。その後XAを使い倒し、OM-1・OM-2?・OM-1n・OM-2n・OM-4・OM-4Ti、そしてなぜかM-1も使いました。デジタルではE-20も使っていました。
まあその間オリンパスのカメラはまがい物だという、いわれも無い言葉と一緒に暮らしてきました。それでも使い続けていたのは、レンズがすばらしかったからです。C社のレンズは完璧なんだけどベタベタしていた。N社のレンズはお手頃なのだが、ドンシャリ感があった。P社のレンズは色が重苦しかった。M社はなんか日本だった。
ドイツものは高すぎた。Z社のものはいいんだけどハッセルブラッド買った方がいいのが解っていた。ましてやL社のものは高すぎるのを通り越していた。
そのなかでオリンパスのレンズはその解像度の高さとコントラストの高さ、そして繊細な描写だった。この軽さと重さのバランスが絶妙だった。確かにモノクロプリントでN社みたいにパリっとならないし、それ以外の会社のように味が無いニュアンスがあった。
理論値通りのレンズであった。しかも安いも高いも変わらす同じニュアンスのレンズだった。
デジタルカメラでもそのよさが残っていた。特にEシリーズのレンズはすばらしい。特にマクロレンズがすばらしい。圧倒的な性能だ。そしてコンシューマーデジタルでも手を抜いていない。
でも私はオリンパスのEシリーズから、ニコンに鞍替えした。
それは確かに契約している会社との話しもあったのだが、製品の改良スピードに疑問があったからだ。アナログ一眼レフ時代からレンズの新製品が減っていた。時代遅れのレンズがカタログにあったりする。確かに医療品のメーカーになったのでそうなのだろうとあきらめていた。
ただデジタル時代では、そんな悠長なことは出来ない。
デジカメで何がいいと相談される事が多い。聞いてくるのは写真に興味が無い人だ。その上で色や使い勝手でオリンパスかキャノンを勧めていた。実はここまでは携帯電話のカメラがイマイチだった時代だ。
今はコンシューマーデジカメではニコンを筆頭に、キャノンをお勧めしている。もちろんキャノンはすばらしいが、ちょっと遅い。気づいたときに電源が入るニコンのあのスピードはコンシューマーデジカメの最も需要な要素だ。
圧倒的にオリンパスは遅いのだ。現在がんばっているようだがそれでも遅い。カシオより遅い。
オリンパスに一体何があったのかと思わせるほどの、研究・実装の最悪なスピードだった。デジカメ市場でトップを切っていたのがどんどん脱落してゆく姿は、みていても辛かった。
自社の技術力がなまじあるから凄まじい展開は出来る。例えばオリンパスが一眼レフ市場に参入した時、カメラ業界が一番驚いたのはレンズのラインナップだった。魚眼から超望遠まで一気に作ってしまった。
同様な事をデジカメ市場でやったのだと思う。一気に戦略的な製品を作ってシェアはとったがその後のフォローを何にもしてい無かったのでは。例えば電源を入れてからのタイムラグが、他社と比べて劇的に改善されていない。
OMシリーズの時も感じたが、レンズの再設計とかはほとんどない。この辺はM社とドイツCo社が参考になる。新製品を投入して市場を活性化させるのだ。それがオリンパスはほとんどない。
正直な所コンシューマーユーズの製品しか知らないが、オリンパスはこの辺りをなめきっていたと思う。確かに医療ビジネスではそのやり方はあるのだろう。
ただ今回の問題では、株主もそうなのですが、オリンパスの技術資産を私らコンシューマーに還元してこなかった理由なのでしょうか。あのスティーブ・ジョブスはあのプレゼンでユーザーをつなぎ止めていました。企業の振る舞いが無い上に、嘘をついていたとしか思えない。
確かに企業運営には、効率や株主への配当などあるかもしれません。でも結果20年近く株式市場を騙してきたのです。これは許される事ではありません。そして行き当たりばっかりとしか言いようが無い、コンシューマー部門の展開にも、これが濃厚に影響していると思います。
あなたはどこをみてきたのですか。株主でも無さそうです。コンシューマーでも無さそうです。
押さえているつもりなのですが、言葉がうまく使えなくなります。手紙なのにどうしようもなくなってしまいます。
何を伝えたいのかもよくわからなくなってしました。



拝啓、オリンパス様。
金額から推察する限り、上場廃止は決定でしょう。債務もすごい事になっています。でもその債務は企業買収が大きいですよね。経営陣のミスと作為と、長期間の悪意のある作為ですよね。
これでどうしようというの?
取り残されたコンシューマーはまだいいですよ。御社の社員はどうなるのでしょうか。
あのすばらしい製品を作ってきたのに、経営者に裏切られるのでしょうか。
私は今ニコンに乗り換えています。だから安全です。でもあのマクロレンズ群の特許がどこに行くのか気になっています。
それでも、今後バラバラに枝葉をもがれてゆくだろうオリンパスの姿は見たくないものです。
どれほどがんばれるのか、応援したいものです。
それほどのいい製品を作ってきましたから。いま期待しているのは、オリンパスのレンズ特許をニコンが買う事。これだけです。
期待はしますが、本当にさよならと言わせてください。もう待ちません。


岩手大学ののらねこ3

2011-11-08 02:10:24 | インポート
岩大の中で一番よく見かけるのらねこ。私は鼻の下についている小さなブチから‘はなくそ’と呼んでいますがどうでしょうか。




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本当に立派になりました。かなり冒険しているようです。行動範囲がよくわかりません。
さてこの子の、幼少期の写真があります。




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一番臆病で、病弱な印象だったのです。これがこんなになるなんて、誰が思ったでしょうか。



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母のミケと一緒の微笑ましい写真です。最近ミケは見ません。どうなったのでしょうか。


盛岡私的観光案内 愛宕山山岸2

2011-11-06 17:46:21 | まち歩き
中津川を挟んで向こう側の加賀野は高級住宅地ですが、なぜか山岸は高級とは目されていません。しかしこうして街あるきすると、結構良い土地なんじゃないのかと思います。



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いきなり袋小路に入ってしまいました。それにしてもこの貸家、よく残っているなと思います。



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これは廃墟ではありません。人が住んでいるようです。しかし土管で床を支えるとは。




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中央公民館です。ここには南部藩の薬草園があって、それから南部家の別邸になって、藩校にもなって、それが南部家は白石藩に転藩させられ、廃藩置県で南部家からこの家も取り上げられ、紆余曲折で盛岡にようやく戻って来れた南部家が作り直したもの。なので和洋折衷です。



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この中央公民館は、以前は博物館的な機能があって歴史展示が充実していたのですが、県立博物館や美術館、そして盛岡歴史館ができてその機能は無くなっています。ただこうして古民家が移築されていたり、蔵が移築されたりして以前の機能を感じさせています。
この家は、中村家という豪商の家です。どのくらい豪商かと言えば、三菱の岩崎家から嫁を取るほどと言えば解るでしょうか。



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建物の中は、言えば見せてくれるのですが面倒なので止めておきます。地下室があったり、狭いながらもかなりな作りになっています。裏庭は簡単に覗けます。管理上どうなんでしょうか。



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さて中央公民館は、紅葉の名所です。江戸時代の南部家別邸の頃には、借景になる愛宕山に京都から取り寄せた紅葉を植えていたようです。この庭は政府により一旦取り壊されていたものを、明治41年に作り直したものです。




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南部藩は面積ばかり大きく、幕府に納める年貢の量もそれに伴い過大だったようです。その上冷害多発地帯で貧乏でした。更に白石藩から盛岡に戻るためにいろんな努力をしたようで、伯爵ではあっても豊かではなかったようです。確かに庭も建物も立派なのですが、ちょっと控えめです。



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この茶室は、原敬の作ったもの。移築して現在に至っています。公民館なので、石とか待ち合いの位置とかちょっと無粋なのは仕方がありません。




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この建物は明治天皇行幸の際に作られた、お成りの間を移築したもの。数寄屋作りなのでお茶会に使われているようです。



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こちらは俳人山口青邨が幼少期に過ごした家。この作りの家は、ほとんど残っていないのではないのかと思います。今の所一件だけありました。もしかすると下級武士の家なのでしょうか。貴重な家だと思います。
主に句会に利用されているようです。



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この公民館では結婚式もできます。この庭バックで写真を撮っているのをよく見かけます。食堂も、雫石の手打ち蕎麦屋が入っていて、特徴を出しています。
大きな蔵が2棟あるのですが、震災の影響で壁が部分的に崩れて工事中でした。ただなんでも屋根に土を盛っていないと工事関係者が話してくれました。ちょっと珍しい作りです。そのせいかかなり急勾配な屋根なのかと納得。



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さて山岸町内に入ってゆきます。メインの通りは道路拡張の計画があるのでしょうか、ちょっと閑散とした印象です。



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脇に入ってゆきます。あえて古いうちを撮影していますが、新築のうちも多いです。盛岡の街の中では、道路が極端に狭くないようです。これはホメ言葉です。これより狭い所が多いです。



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山の上に神社を発見。いってみます。



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神社からの眺め。



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さてこの神社。岩谷稲荷というそうです。表からよく見える建物が神社というより、この崖がご神体のようです。
ちょっと来歴が変です。隣の北山にある榊山稲荷が南部家の神社なので、民間用に作られた稲荷となっていますが、この稲荷は南部家が青森の三戸から盛岡に引っ越してきたときに一緒につれてきた永福寺の別院でもあったのです。当時は神仏混合なので不思議でもないのですが、盛岡五山に数えられ、南部家の歴史でもある別格寺院を民間に出すとは思えません。多分この稲荷はその前から民間信仰の場所で、見晴らしが良いためその場所を南部家が確保したと考えるべきでしょう。実は北山の頂上付近に南部家の墓があるとか、北山の端にある突き出た山に金比羅産があるとか、北山ー愛宕山ラインは城がすぐに見えるため、重要視していたのではないのかと思います。
また岩泉街道と奥州街道を押さえる意味でも、東禅寺と永福寺は機能があり、中央公民館の別邸の裏にあるこの神社はなんらかの機能があったのではないのでしょうか。



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いや上りました。この階段チト辛かった。



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さて山岸はまだまだ山奥まで続きますが、一旦ここで山岸駅の方へ向かいます。



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文具やプラモデルなどおもちゃを扱っている古い店がありました。こういった店が残っているのは良い事です。



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さて駅に向かいますがここで大問題発生。ここの家って立派だなーとおもって止まったら、おばあさんから突然「ここどこですか?山岸小学校に行くにはどこにすすめばいいですか?」と質問。キター!おばあさん、あなたがいるのは山岸小学校の前ですよ!
帰りたいんだけど家が分からないとの事。自分の名前と息子の名前が言えるのと、山岸小学校のそばに住んでいるというので一緒に探す事にしました。電話は今家に誰もいないとの事でそれもダメなようです。300メートル歩いた所で同じ名字の家がありました。そこで話しを聞いてみようかと思いましたが、おばあさんは疲れたと座ってしまいました。以外と車通りが多いので、ちょっと目が離せない。そしたら近くの家から一家で出かけるのでしょうか、人が出てきたので、話しをした所50メートルも離れていないという事。娘さんに電話してもらって、やはり家に誰もいない事が確認されました。そこでこの家族が車で送ってくれる事になりました。めでたしめでたし。




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さて気を取り直して駅を探します。古い寿司屋がありました。



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さて山岸駅です。何とも言えない手作り感がいいです。町中の無人駅なので何となく都会っぽくもあり、田舎臭くもあり、いい感じです。



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さて神社があります。大正時代の鳥居が立派です。でも何かおかしい。なんとこれが盛岡五山の永福寺です。城の鬼門を守る寺なのだそうですが、どう見ても神社。境内に入ると太いひもと金が吊るされています。



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住居と一緒なのでしょうか、風情があります。



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平らな所にポコっと小山があって、その前に寺、山の上には神社があります。こういった場所は信仰の対象になりやすいのですが、ここまで混沌とした場所は滅多にありません。
神仏分離などの公権力にもめげないこの民間信仰は、すばらしい。
しかし盛岡五山と言われる別格寺院なのに、東禅寺といい永福寺といい質素だな。



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道を挟んで小さな畑があります。ベンチがいい感じです。線路を挟んで向こう側に薮があります。なんでしょうか。



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永福寺の敷地なようです。道路と線路に土地を取られて敷地が分断されているようです。道理で永福寺の敷地がやたらに狭い訳だ。ベンチがあったりして休憩出来るようですが、寺というより人のうちの庭先のようで入りにくいです。



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駅前駐輪場。何もかも小さくてかわいらしいです。



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いやいや大発見の山岸駅でした。このまっすぐな線路は、超難所の北上山地へ続いています。これで列車の本数が多かったら、山岸に住んでも良いかなと思います。加賀野と違ってスーパーがありますし。
ホームにいたら、犬を散歩させている人が通りました。何とも言えない光景です。駅だけど駅ではないのどかさがあります。



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さて中津川に出てきました。



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またウロウロします。駅まで5分の廃屋なんてありましたが、まあどうでも良いか。お年寄りが夕方の散歩をしているのを見かけますが、ちょっとドキドキします。



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中津川から水が引かれて、親水公園になっています。昔は農業用水だったのでしょうが、こうして整備すると土地の格が上がって見えます。ちょっと住んでみたくなりました。



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唐突に結婚式場に出てしまいました。式があったようです。花びらが散っています。



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ネコ発見。この辺りの家もなかなかの古さで、個性的なのですが、いっぱいありすぎます。ただちょっと写真を撮らない方が良いような気もします。なんででしょうか。




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これも農業用水でしょうか。コンクリートの堰にしていないのに好感が持てます。



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川沿いに戻ります。この山岸町は盛岡なんだけど盛岡ではない、街なんだけど田舎のような不思議な空気があります。道路も広くはないが狭くないのもいいです。都市計画がありそうで無さそうな感じもいいです。バスの便もいいですし町中にとても近いのもいいです。バイパスにすぐ出れるので車でも便利です。ちょっと気に入りました。



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さてそんな山岸町の最大の欠点は、秋から冬にかけて愛宕山にからすが集結する事。半端な数ではないのです。盛岡中のからすが集まっているとも言われています。電線にズラっとからすが並ぶ姿は壮観です。夕方4時から5時、日の暮れる頃愛宕山に集結してギャーギャー鳴いています。一旦集結して夜の9時までは更に山奥へ移動しますが、その間鳴き声や糞の被害があるのです。そして今までも対策してきたのですが、ほとんど失敗に終わってます。
ただ昔はそんなに問題ではなかったのですが、やはりからすが増えているのでしょう。住宅が増えたからという問題では無さそうです。




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さてからすが帰るから、私も帰ります。ちょっといろいろありすぎた山岸町でした。