どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

第一人称の唄

2016-10-24 00:53:50 | 日記

 

今日はゆぴあすに泳ぎにゆく。途中高松の池によりハクガンを探すが、やはり旅の途中のようでもはやいなかった。せっかく望遠を持ってきたのに残念なことだ。ただただ重い荷物になった。

 

 

ゆぴあすまで重いレンズと一緒だったせいか、随分疲れた。泳いだら泳いだで、昨夜少し重いものを持った時に手首をクキっとやってしまい、腱鞘炎が悪化しているのが響く。パフォーマンスが出なくて苦しかった。

ハアハア休んでいると、BGMが空想委員会のような気がする。随分とまあマニアックだこと。そう思っていたらB'zのヘビーローテーションになる。ゆぴあすのBGMは90年代のJ-POPが多い。空想委員会とB'zは自然につながっていた。多分まあ年代的に空想委員会は影響を受けていたのだろう。ただB'zのなんというか癖のようなこぶしメロディラインはないが。

聞いているうちに、第一人称の唄というのが頭に浮かんできた。私の恋、私の恋愛、私の失恋、私の見た景色、私の時代、私私わたしたわし…。

それではわたしではない他人を歌った曲というのはあるのだろうか。あんまり思いつかない。そこにはわたしが見た誰かということになってしまう。さだまさしの「親父の一番長い日」なんかそうだな。殿様キングスとか前川清とクールファイブの女唄というのは私視点だが、男が歌うのでズレまくってある意味他人の願望を歌っているので他人唄だな。ご当地ソングなんかは作詞家と歌手の立場のズレみたいなのがあって、他人の唄と言えるだろう。

民謡には他人唄が多い。正確に言えば古くて過去の私の唄になってしまって、他人の唄でもある。歌い継がれることでそうなってしまう。宗教曲は宗教の曲なので、私視点はできない。合唱曲では最近私視点の曲が増えているように感じるが、合唱なので制限はある。

浪曲歌謡というジャンルがあった。これは全部他人唄だ。古典だしね。演歌はほとんど自分だ。

フォークはどうだったのだろうか。なぎら健壱の曲とかフォーククルセイダーズの曲にあるような気がする。とくに「いっぽんでも人参」なんかそうだな。コミックソングは基本他人の唄だ。ただフォークソングは社会的視点がなければいけないと言われた時代があって、私の唄という概念は少し違うところにあったと思う。それがメジャーフォークになると、私の唄が増えてゆくような気がする。

 

 

沢田研二の「Tokio」なんかは東京を擬人化した唄で、他人唄だ。でもあれはかっこいかった。沢田研二だからこそ冒険できた曲なのかもしれない。

そう考えてゆくと、どうも何かプロの作詞家が少なくなった90年代と、それ以前のものとでは様相が違うように思える。プロの作詞家は他人が歌うのを前提にして書く。だから第一人称でも少しだけ突き放したところがある。戸川純に書かれた詩は、その意味では極端に他人の唄が多いような気がする。

昭和歌謡史を全て知っているわけではない。だからなんとも言えないのだが、それでも第一人称の唄は多いだろう。特に90年代ポップスは私が私たちと複数形になっても、私の唄であって、他人の唄ではない。

レキシというソロバンドがあるが、個人の妄想だ。作家の世界観を出すためには作家を打ち出す必要がある。結果第一人称の曲が多発しているのが現在なのだろう。もっと進んで業界の内輪ネタをそのまま曲にするものもある。それも他人を語っているわけではない。

ただ、一人だけ他人の唄を歌える歌手がいたのに気がついた。中島みゆきだ。中島みゆきの「時代」と「地上の星」だ。他にもあるだろう。かなり特異的な人なのだ。

ただ、第一人称の唄でもヒットした曲を考えてゆくと、他人の唄という変な感じなのだ。自分の体験を他人に共感できるように変換した曲だけが生き残っているように思える。それが時代だったのかもしれない。

今はもう少し複雑な気がする。ポリリズムも変拍子も当たり前のリズムの世界になっている。その中での歌詞は、私を超えないと難しくなるのかもしれない。

 

 

帰りに響によると、なぜか「シン・ゴジラ」のCDがある。お客さんがプレゼントしてくれたもののようだ。なんとお客さんがシン・ゴジラを見た人で揃ってしまったのでかけてもらう。

真面目に、映画音楽としてここまでやってんだというほどすごいのだが、これが常識な世の中なのね。音楽は超高度に発達しているのです。

たぶん誰もが遅れてしまう勢いで。


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