公式カメラマンなのですが、まあそこはさておいて。
2013.10/26・27日と盛岡市風のスタジオで行われた本公演、「漂流教室」なのですが実は副題がついております。『漂流教室 drift classroom』が正式名称です。「drift classroom」が副題なのですが、ここでドリフ調であると明示されています。決して梅図かずおの「漂流教室」からインスパイヤされている訳ではありません。
さて脚本のワイヤーワークス瀬川と香港活劇姉妹(以降略して香活)の関係は、香活の代表佐々木がワイヤーの設立に協力した因縁があります。そこで今回の台本執筆依頼になったようです。
香港活劇姉妹の前作が2008年8月の「リンゴキッドは電気ブランの夢を見るのか」で、ずいぶん間が空いています。理由は簡単で、香港活劇姉妹の劇団員がそれなりのお年頃になってしまった、と言う事です。もう控え室は、保育室状態、公演を作るのがいかに難しいのか解って頂けるかと。
おまけに座付きの作家がいなくなって幾久しいです。ここも公演回数の少なくなる原因の一つです。
さてゲネから見るのですが、台風一過の様子を。地道に降った雨は、かなりの増水を生みました。
香港活劇姉妹というのは、役者主体の劇団と言うコンセプトで立ち上がった劇団です。主に岩手大学の「劇団かっぱ」のメンバーで立ち上がりました。基本としてアングラ劇団です。
ここで簡単な解説をします。アングラ劇団と言うのは、新劇に対する言い方になります。新劇が戦前から60年代まで盛んだったのに対して、アンチテーゼとして起きたムーブメントです。ロシアやヨーロッパの脚本からの影響よりも、もう一度日本的な物を見いだそうと言うものだったと思います。
例えるなら、ロシアにおけるチャイコフスキーの音楽と、ムソルグスキーなどの6人組の関係でしょうか。
70年安保が非常に大きいですね。
画期的だったのは、役者のウエートが上がった事です。新劇だとどうしても演出の意向が大きくなります。というかそれが重要です。
なぜアングラだと、役者の自由度が上がるのか。それは日本人だったら解るだろうと言う、土着的なものがあります。
典型的なアングラ演劇は、「ことあげ」から始まる超長ゼリフがあります。そこで世界を反転させるのですが、劇中では更に反転させたり、反転した中で反転させたりします。もうトリップした状態になります。
実はこのあたり構造解析をした事があります。通常のドラマは二律で動きます。善悪とかです。悪の中に善をいれれば、橋田壽賀子の出来上がりです。好きだけど嫌いだとか、愛しているけど憎んでいるとか。登場人物には常に二面性があり、時間軸でそれが解消されたり更に対立したりします。
アングラの場合は役は二面性があっても、そこには更に裏と表があります。四重になります。そこの行き交いがドラマになるのですが、往々にして複雑奇怪になります。
入れ子構造になっている場合もあり、こうなると合理性のある解決がないと言う本も見てきました。
そこのカタルシスが、アングラの良さです。そして役者の力がなければ、出来ない問題です。
このシーンはゲネの、ライオンキングのシーンです。香港活劇姉妹と言う劇団はめちゃくちゃ芸達者な劇団です。手作り感と体当たり感がとても気持ちのいい劇団でもあります。
アングラに対して、ワイヤーの瀬川は真逆な方法論を持っています。元々映像作家です。フレームイメージのある作家です。映像の積み重ねで出来る映画の世界では、立ち位置や演技の矛盾は許されません。前にとったカットがパァになるからです。一見自由に見えるワイヤーの世界ですが、ここは厳しいです。とはいっても遅筆で有名ですから、様々な妥協があると思うのですが、実は今回の公演でこれがはっきり解ります。
さてアングラはなぜ衰退したのでしょうか。実は基本的にアングラの影響のない芝居なんてありません。アングラの衰退は、その技法が一般化したという所にあると思います。外来VS日本という構造が崩れている中で多様化した結果だと思います。
ポストモダンの多様性です。
アングラのアンチと考えられた、「静か系」も多様性を想定した芝居の形式です。そのままを見せて感じて考えて、それぞれがそれぞれの感想を持つようになっています。そしてワイヤーワークスも、ネタを中心とした「解る多様性」で来ています。ただ、「静か系」もそうですが、あんまりにもポストモダンに徹底しすぎるとお客さんにモヤモヤした感情を残しがちです。そこで瀬川は「お土産をもたせる」という言い方をしますが、笑いを残すとか、そう言った作業が必要になります。そうなるとメッセージ性が強くなりすぎたり、コントロールが難しくなるのが難点です。
日本再帰であったアングラは、その日本の多様性の前に伝わりにくい表現法になっていったと思います。ただ技法としては大変影響があると思います。舞台から役者が飛び出すとか、実は客席に役者がいたとか、いろいろな演出方法を作り出してきました。この影響は残るものと思います。
台風が通り過ぎであっさりした中央通りを、進みます。
香港活劇姉妹とワイヤーの瀬川の対決。このスリリングが今回の目玉です。
ゲネの時のちょっとをかかえつつ、2ステに向かいます。
そう2ステで終わりです。1時間10分の舞台で、2回しか公演出来ません。これもまた一つの現実です
名優を揃えていても、お年頃の市民演劇には限界があると言う事です。
ある時から、劇評に構造解析をしなくなりました。逆説的に言えば、構造のない本が増えていると言う事です。
この本の構造と言うのは、なんと言えば良いのか、形式なのだが、感情表現ではない。
芝居としてはかなり古い形式、オペラブッファを使っている。劇があって歌があると言う形式になる。とはいえ凄いいい加減なんだが。
ところが演劇で言う所の序・急・破でもなく、起承転結でもない。「主題と変奏」になっている。
さてこの舞台を見た人は、いくつかの区切りを見たはずだ。トップに朝から放課後までと明示される。
そして主題の鏡像系の、鉄仮面が現れる。ネガティブな役割だ。だが彼女の顔を見たいと言う妄想で、演劇部員の女子が狂言回しをする。
そう。この本は音楽になっている。4つか8つの変奏が現れては消える。
同じ主題、オバカな高校生、それだけが主題だ。それがシーンごとで区切られ変奏として流れる。副旋律で転校生の顔を見たいと言う動機もあるが、この二つが交わってコーダへ突入するかと言えばそんな事はない。ラストは主題に戻って大げさに演奏される。そして副題が「私はみっちゃんだ~」といって終わる。解説としては、この一言で鉄仮面のみっちゃんはクラスメートとして容認されたと言う話しになっている。
ずらしてずらしてが続く芝居でもある。
ただしアングラにある、土着の通奏低音が見つけにくい。
ある事はある。実はこの舞台は、ラブコメのパロディなのだ。ひっくり返っているがそうだ。マンガで言うと東村アキコだろうか。ただこの辺りは、アングラ的解釈では解りにくかったかもしれない。
ポストモダンにおいて、気づいてもらうのが大切になっている。客のし好と一致しているはずも無く、多様性の中で何を伝えるのかが難しくなっている。
実は静か系だろうが、アングラだろうが、野田系だろうが、四季系だろうが、演劇はそういった苦悩がある。
そして、消費される状況だ。ワイヤーは最ももがいている劇団だ。
私が今一番危惧しているのは、香港活劇姉妹もそうなのだが、世代交替が出来ない状況にある。ワイヤーの瀬川にしても、復活した香活の佐々木も同じ事をいっている。二人ともこの名跡を継ぎたいと言う人が現れれば、いくらでも渡す。もしかすると別なものになるかもしれないが、それはそれで覚悟はしている。そう言っているのだが、なかなかうまく行かないようだ。
まだワイヤーは良いかもしれない。公演回数もこなして来て新規の団員もいる。だが香港活劇姉妹は公演回数が少なすぎる。伝説の劇団になっており、どんな芝居なのかも忘れられてしまう所がある。それでは新規の団員も入らないし、名跡を継ぐ人も現れないだろう。
盛岡演劇を支えてくれる、新参者が減っている。そこまで魅力のない状態になっている可能性もあります。
人生の選択肢に、演劇はない。
そうなっている。
この舞台は、にがホロイ味がした。
弟は兄に挑戦状を突きつけた。ただし回りくどかった。兄はそれをマトモに受け取った。挑戦状だとは全く思わず、手紙だと思っていた。
そこあたりの味わいが、本舞台の蜜だろう。
10/29 追記とお詫び
10/27日にアップした記事なのですが、28日の朝に見直したらもう真っ青。補筆がかなり必要な文章で一旦閉鎖しました。かなり解りにくかったと思います。それは各劇団にとっても悪い事なので補筆して、改めて公開します。
関係各位からクレームはないのですし、暴言などは一切書いていないつもりなのですが、文責があります。直しました。
オマケ
前説でのワイヤーの瀬川。ホントやってくれます。本舞台を食う気満々です。
とはいえ後ろの介錯のたすきの文字が。自虐ネタです。自分の劇団からは「一ヶ月前に本をあげたって!」と今までの恨みつらみを爆発され、香港活劇姉妹からは「いままでこんな事いっぱいあったからサァ~」と慰められつつ、本の期日を2ヶ月遅らせた責任を取ろうと言うものです。
とはいえ、このコントはよく出来ていました。
なおこの「漂流教室」なのですが、香港活劇姉妹への当て書きになっています。歌のシーンが少し難しいですが、多分やろうと思えば、出来る本と思います。
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