どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

盛岡の古い建物廻りしてきたよ

2016-10-07 21:21:13 | まち歩き

 

今日は午後からいわてアートプロジェクト2016

 

 

 

を中心に盛岡にある重要建築物の一部を見てまわろうと前から考えていた。ただ起点をどうするのか。最後には徳清倉庫にたどり着こうと考えていた。なので一ノ倉亭や原敬生家などは外れた。

ということでトップバッターは、中央公民館にある中村家。糸や織物、そして呉服を扱う豪商だった。

 

 

やっぱり作りがいいなというのがある。商人の家なので吟味して作っても、質実剛健にまとめられている。前の写真の吹き抜けは、その中でも豪商たる証のような空間だ。見栄にも見えるが、そこも必要な空間として存在している。商家としては増改築がなく、最初っからよくできた建物だったのだろう。

 

 

中央公民館にきたのだから、旧南部家別邸も外観だけ。サイトから説明を転用します。

旧南部家別邸は,明治41年(1908年),明治維新後に華族となった旧盛岡藩主南部家の別邸として新築された建物で,設計監修は東京駅や岩手銀行中ノ橋支店旧館(旧盛岡銀行本店)などを手がけた葛西萬司が行っています。」

いい建物なのですが、今回は中に入りません。殿様の見栄が少しだけ感じられます。何かケチった印象が少しあるのが玉に瑕。



うなぎの寝床発見!古い町ではよくある話です。



ということで盛岡の典型的商家です。平屋の軒を高くして天井裏に部屋を作った構造です。この天井裏が高くなればなるほど、当時の経済状況がわかります。総2階となれば、かなりの豪商です。

なおこの家、文化財とかになってはいませんが、多分マンガに出た建物の中で多いのではないのかと思います。盛岡の建物で一番マンガで目立ったのは、上の橋のそばにあった2階建ての長屋だったと思います。ボロボロの長屋でしたが、あそこは風景でした。



ということで、ござ九です。名前の通り茣蓙などの荒物を扱う商店です。江戸期から明治・大正・昭和と増改築を繰り返して複雑奇怪な建物になっていると想像できますが、現役の建物なので内部を見たことはありません。思い切って中に入って建物を見ると、よくできています。

馬毛の裏ごしがあったのは驚きでした。荒物というのでそういった高級品から安いものまであるのですが、ほとんどの商品が国内産なので値段はなかなかでした。荒物でもカゴとか民芸的に美しいものは光源社にあったりしますし、葛巻や遠野の荒物屋にもいいものがありますが、ここで扱う荒物は少しだけ違います。実用品だということです。

ということで巻き寿司に使えるすのこを買いました。

 

 

 

ということで盛岡信用金庫本店です。盛岡ウォール街の始まりですね。

 

 

で、岩手銀行旧本店赤煉瓦館です。

 

 

やぱりすごいです。写真家のマグナレダ・ソレさんの写真がメインに飾られていますが、これはいわてアートプロジェクト2016の一環。徳清倉庫で行われているインスタレーションと同じ作家ですが、こちらの方が個人としてわかりやすいかと思います。

震災によりそう絵は、人柄を感じさせます。

 

 

窓から見える景色とのギャップ、古いガラスの歪みが見せる今、古い建物にはそういった交錯があって面白いのです。

 

 

ということで旧九十銀行ですね。今は盛岡啄木・賢治青春記念館として知られています。外観が派手な割には、中は質実剛健です。といっても誰もわかんないだろうな。

 

 

2階には、現代アートのスペイン出身のホセマリア・シシリアさんのインスタレーションが展示されていました。

これほどわかりやすい現代アートも滅多にない。垂れ幕は震災の時の科学的情報をグラフィック化したもので、その下に置かれた子供用の家具は死んだ子供たちのものである。そこに載せられたオブジェクトは、今生きる子供たちの現状、それを「箱庭療法」の結果のようにして、提示している。

本物の箱庭療法のあの凄まじい表現がそのままか、もしくは表現者として作り直されたものかどうかはわかりませんが、そういった箱庭の前に、子供の椅子に座ることで大人がそれを体験をするという、学ぶべきは大人なのだというメッセージがあります。

宗教的な場を垂れ幕で演出し、そこには不可解な震災のデーターがグラフィック化してある空間で、死者と生者が交錯する。そこを目指したのかもしれません。音も震災後のインタビューとかをつなぎ合わせた音源を、別々に違う装置で流して違和感を示唆していた。

そこに震災がなぜ風化するのかという問題が、ある。天災というのはなぜ風化するのか。

 

 

石井県令邸です。何度紹介したことか。

東北でも滅多に無い洋館です。

 

 

明治19年の東北では数少ない洋館です。

ただ、今回公開されたのはバイヤーのためのイベントで、小洒落た人たちが集まっていたが、売り側がこの建物を知らないというのは困ったものです。

 

 

ということで近所の南昌荘。私はあまり好きでは無い建物だ。

 

 

瀬川安五郎氏が明治18年に作った建物だ。両替商人の家で、生糸相場で巨利をえて鉱山まで持った実業家だ。時期的に石井県令邸があり何かあったのでは無いかと思う。

ただこの家を見れば見るほど、遊びにここまでやってんだという勢いを感じる。もしも正しくこれが本邸だったら、かなり暮らしにくい家だったはずだ。だから商人の別邸だと思っているのだが、本邸と言われてもピンとこない。

ただ利用者が4代かわったので、床とか廊下がどう変わったかがよくわからないが、この建物で感じるのはスノッブだ。

 

 

ものすごく遊んだ建物であるのは間違いがない。建物が3棟に別れていてその回廊とか遊び要素が豊かだ。そこが面白いし、地面の高低差をうまく使った建設法もいいし見事なのだが、その遊びがなんなのかというのがよくわからない。数奇屋だけどなりきっていないところは、まだ益田飩翁が本格的に数寄者になる前だったからだろうか。

なおこの一角だが、中村家があったり料亭の大清水多賀があったり、お屋敷の多い一角だ。武家屋敷があったあたりになるので廃藩置県と関係あるのだろうか。

 

 

ということで鉈屋町まで下がってきました。盛岡の誇る商家群ですがほとんど明治期以降の建物です。軒の高さが不揃いなのが特徴です。

 

 

岩手川の建物も再利用されています。現代の使用に耐えられるように補強されたり、集成材を部分的に使ったりしています。仕方がないのか。観光に使うとなると以前は階段に一気に10人が乗るとか考えなくてもよかったことが、実際起きますから。

 

 

旧岩手川の蔵にきました。2階に行けるようです。

盛岡の民家で吹き抜けがあるのは、そうそうないからね。どこかのNPOが言ってますけど。

 

 

岩手川の2階からの眺め。

 

 

以前この岩手川の井戸で、甕の底が水受けにあったのだが、それがなくなっていた。指摘したら、気がついていなかったようだ。

あの甕の底が、建物の生きた時代を表していたように思えるから、気がつかないくらいの認識だと残念だ。

 

 

木津屋ですね。ここも現役の建物です。

中みたいな。なお盛岡の商家で土蔵作りにするのは、大火があったため。

 

 

ということで徳清倉庫です。作品がはいらなければ写真を取っていいし商用利用しなければいいという言葉を受付でいただいたので、写真を取るしかないじゃないですか。そういった言い訳をします。

事務スペースに明かり窓があったというのは、いつ作ったっんだろう。そこに格子をつけて電灯を下げるために格子が歪んでいる。

正確には歪ませて重量のバランスを取っているのだ。

 

 

その最大の問題の廊下の説明になっていない写真ですね。2尺幅のケヤキの板をなぜ横に並べるのか。歩幅制限かな。武士は歩幅60センチで歩けと。

 

 

ゴージャススでシックというのはそうそうない。

ただもしかするとこの部屋で藩財政の問題で、農家に晩稲米の多収品種を強制して、大凶作を招いた場所なのかもしれない。それを米問屋が買ったというのも、面白い妄想だ。南部家の諸問題はこの部屋から出ていたと考えれば尚一層面白い。下閉伊一揆を起こした原因は殿様だが、その対応にバタバタした武士たちの姿を想像して楽しんだ。

 

 

建物をつなぐ渡り廊下です。ちょっと地面が見えるところがありますが、木の経年変化なので仕方がない。手抜き感がないデザインです。

 

 

蔵をつなぐ廊下です。台所とこのスペースは城の裁量は使っていないようです。でも大工が相当緊張して作っている感じがします。そりゃ隣の建物が凄すぎますから。安い材料でもきちっとしなけりゃ行けないですから。

 

 

台所です。フローリングがいいです。フランク・ロイド・ライトの弟子が設計したと言います。天窓とか棚とかにそう言った影響を感じますが、年代から行くと遠藤新たになるのかなぁ。

後代になるのだが光源社の建物に何か似ているが、もしかすると大工が一緒なのかもしれない。

 

 

中庭と井戸です。とても品のいい作りです。

 

 

3階建ての建物は、女中部屋だったのではないのかと言われていますが、奥なのは間違いがないと思います。とはいえ奥が櫓になっているというのは少し変。城の正しい図面が残っていなく、幕府にムチャクチャな図面を出していた(軍事上の理由)ためどうだったかがよくわかっていない。だが敷地面積が狭かったために建物がぎゅうぎゅう詰めだったと推測されていて、まあ軍用なのに女官がいるということになったのでしょうか。

本宅と違って瀟洒な作りになっていますが、数奇屋のような派手さはありません。掘りごたつがありました。

 

 

えっと、殿様が使った便器という方がいましたがこれは少し違うな。この奥にある大便器は黒漆の木枠でこれは当時のものかもしれない。で、染付古便器は実は結構新しいものでして、19世紀末と言います。大々的に普及するのは明治24年と言いますから、お城のあったものではないと思われます。そしてこの建物は上級武士が働くところであって、殿様が「御成」になることはあってもしょっちゅういる場所ではない。なので殿様が使ったことがある便所かもしれないが、大体は上級の武士のためのものだっただろう。

とは言っても便器は大奥にあったとすれば、話は別だが。そして何かの物置のスペースをトイレに改造したとも考えられるので、上級武士のためとも断言できないところがあります。

小便器に関しては、明らかに後代です。

 

 

徳清倉庫は明治維新以降、米の集荷や貯蔵の業務を停止します。南部藩の仕事だったからです。藩がなくなって仕事がなくなり倉庫業に変わったのですが、建物に付随して広大な荷受け場があります。ただ単に倉庫を貸すだけではなく、集荷や配送の業務も行なっていたのでしょう。

でもおかげで建物の屋根組みの断面が、はっきりわかるのが嬉しいです。

 

 

さてこの建物でのマグナレダ・ソレさんの写真なのですが、その力量はよくわかるのですが、ポストモダンの写真の持つ限界というのがありまして、写真はかつてのように時代を動かすのではなく、時代によりそう形で存在するようになっています。まああんまり芸術的に仕事をすると批判されてしまう世の中です。

そのせいもあって、建物に完璧に埋もれてしまっているし、床の間に掲げるとかそう言った日本的なフォーマットに埋め込むことで装飾としての震災の写真になってしまうわけで、震災を訴えるのではなく、単なる自己満足にしか見えなくなるわけです。で、多分本人もよくわかっていない可能性を感じてしまう。仏間の扉付きの床の間に流された観音像を飾るのはなかなかのセンスなのだが、その異様さを突き詰めるだけの知識がないのは仕方がないことなのかもしれないが、日本人でもわかっている人は少なくなりつつあるので、仕方がないのか。

ただ氏が気がついていないだろうことに、この家に写真が飲み込まれることで、写真がいつ撮られたものなのか不明になった。この建物は明治も昭和も平成の大津波を知っているわけで、建物によって写真の時間軸が歪んで見えるわけだ。そこに意識を持ってゆくと、もしかするとこの中に使われた木は、貞観の津波も知っているのかもしれない。そう考えるとこの前の津波は、また来るものと、建物が言い始めているような気がして来る。

日本人なので建物に魂が宿ると考えているから、そう感じるだけだろう。だがサムライハウスと喜んでいるようでは、そう言った考えになっていないだろう。

 

 

おじいさんが茅の穂を振り回しながら通り過ぎていった。


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