盛岡では小学校の4年生の時に、郷土史ということで慶長2年から4年にかけて掘削された、鹿妻穴堰について学ぶ。この一間幅長さ11メートルのトンネルからの用水で、紫波町まで水が引かれ3万石以上の米がとれるようになったと言う。
さて、1)教材としておおよそ2年間で幅2メーター長さ12メーター掘った。2)現在だと4日間で掘れる。3)江戸初期だったので手作業で大変だった。先人の努力は凄い。そう言った流れだ。
さて1)だが、年歴から3年間でしかない。勧進してから時間がかかったと言う事だろうか。長さと幅の違いは簡単にした結果だろう。実際ここを突っ込んでも意味がない。
2)だがここはもう少し違う。一日3メーターは大体正しい。ただ花崗岩の岩盤なんかにぶち当たると一日1メーターとかスピードは遅くなる。ここの場所は海底火山由来の凝灰岩だから、下手すりゃ3メーター以上だろう。多分12メーターにしたのはここの計算をしやすくするためなのだろう。
所が、現在のトンネルは大体幅10メーター以上だ。それを一日3メーター掘るのだ。10メーター幅として鹿妻穴堰の25倍の断面積がある。1年に6メーターしか掘れなかった江戸時代と比べればケタが違う。江戸時代を1とすれば現代は4562倍のパワーがあるとなる。
現代は一日3交替制で掘っている。江戸時代は一日平均8時間掘っていたとすればもう少し倍率は変わって現代は1521倍のパワーになる。
現代の重機がいかに凄いのかと言う事だ。
ただもう一つ、現代は一日3メーターだがその作業内容は、ダイナマイトや重機を使って掘る、土砂を取り除く、抑えの鉄枠を付ける、モルタルを吹き付け固定する、これらの作業をやりつつ3メーターだ。もっと凄いパワーだ。
3)にも問題がある。凝灰岩だと言う事だ。この石はその出来た所でも変わるが、花崗岩などに比べりゃ柔らかい。特に水を含んでいればかなり柔らかくなる。地中なのでそんなに困難ではなかったのではないかと考えられる。そして岩盤が全くの一枚だったら大変だが、大抵はひびやもろい所がある。海底火山の火砕流由来なので、均質と言えば均質だが、火山弾や周囲の石や土を巻き込んで出来るため弱い所は必ずある。だからいくら何でも一日16ミリしか掘り進めなかったとは思えない。
一番考えられるのは農閑期のみに掘削したと言う事だ。当時は不来方城の築城中で、人足もそんなに割けない。
そうすると1年に100日となるだろう。穴の中は油を使った照明が必要だが、土砂を運搬する屋外作業もある。そうすると夜間は出来なかったろう。専門の金堀がやったとしても、掘るスピードが遅すぎると思う。佐渡金山だと1年に1キロ掘っている計算になる。もちろん明治以降の掘った分まで含んでいるので、ちょっと違うと思う。
憶測ばかりだが、現代のパワーは本当に凄い。
9/23 数字に誤りがあったので訂正しました。4年間と言うのは2年弱と言う事の様です。認識違いでした。
さて、1)教材としておおよそ2年間で幅2メーター長さ12メーター掘った。2)現在だと4日間で掘れる。3)江戸初期だったので手作業で大変だった。先人の努力は凄い。そう言った流れだ。
さて1)だが、年歴から3年間でしかない。勧進してから時間がかかったと言う事だろうか。長さと幅の違いは簡単にした結果だろう。実際ここを突っ込んでも意味がない。
2)だがここはもう少し違う。一日3メーターは大体正しい。ただ花崗岩の岩盤なんかにぶち当たると一日1メーターとかスピードは遅くなる。ここの場所は海底火山由来の凝灰岩だから、下手すりゃ3メーター以上だろう。多分12メーターにしたのはここの計算をしやすくするためなのだろう。
所が、現在のトンネルは大体幅10メーター以上だ。それを一日3メーター掘るのだ。10メーター幅として鹿妻穴堰の25倍の断面積がある。1年に6メーターしか掘れなかった江戸時代と比べればケタが違う。江戸時代を1とすれば現代は4562倍のパワーがあるとなる。
現代は一日3交替制で掘っている。江戸時代は一日平均8時間掘っていたとすればもう少し倍率は変わって現代は1521倍のパワーになる。
現代の重機がいかに凄いのかと言う事だ。
ただもう一つ、現代は一日3メーターだがその作業内容は、ダイナマイトや重機を使って掘る、土砂を取り除く、抑えの鉄枠を付ける、モルタルを吹き付け固定する、これらの作業をやりつつ3メーターだ。もっと凄いパワーだ。
3)にも問題がある。凝灰岩だと言う事だ。この石はその出来た所でも変わるが、花崗岩などに比べりゃ柔らかい。特に水を含んでいればかなり柔らかくなる。地中なのでそんなに困難ではなかったのではないかと考えられる。そして岩盤が全くの一枚だったら大変だが、大抵はひびやもろい所がある。海底火山の火砕流由来なので、均質と言えば均質だが、火山弾や周囲の石や土を巻き込んで出来るため弱い所は必ずある。だからいくら何でも一日16ミリしか掘り進めなかったとは思えない。
一番考えられるのは農閑期のみに掘削したと言う事だ。当時は不来方城の築城中で、人足もそんなに割けない。
そうすると1年に100日となるだろう。穴の中は油を使った照明が必要だが、土砂を運搬する屋外作業もある。そうすると夜間は出来なかったろう。専門の金堀がやったとしても、掘るスピードが遅すぎると思う。佐渡金山だと1年に1キロ掘っている計算になる。もちろん明治以降の掘った分まで含んでいるので、ちょっと違うと思う。
憶測ばかりだが、現代のパワーは本当に凄い。
9/23 数字に誤りがあったので訂正しました。4年間と言うのは2年弱と言う事の様です。認識違いでした。
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