自転車を歩道から閉め出すという話しが大きくなってから、二ヶ月ほど経った。この間私の見ている範囲ではどうなったかと言えば、自転車の法令遵守が進んでいる。とはいっても大人・特に女性が守っているように見える。60過ぎの男性と中学生以上はまだまだだが、社会人だったらかなり守っている。
それほどのインパクトがあったのだ。やはり自転車で老人とぶつかって死亡事故になった場合の賠償金を考えたら、法律を守った方が良いのだ。
ただ一連の話しから気になっている事がある。
まず、ブレーキの無い純粋な競技用ピスト自転車の流行からはじまった事件だ。まずこの流行は論外なので考えない。
まず道路が誰のためにあるのかを考えるべきなのだ。今現在車道とか歩道とか利用別になっているが、本来は交通の便利さのために整備されたもので、利用制限は無いものだと言い切れる。高速道路以外では別に車道に歩行者がいてもおかしくない。馬がいてもおかしくない。
この点はもう少し考えられるべきだろう。本来そうなのだ。
ただここでルールはある。強いものが優先されるという事だ。この場合の強さは速さでもある。歩行者は脇、自転車や馬、人力車、大八車、リヤカー、バイク、自動車は車道と区別された。この中で馬と大八車は滅多にお目にかかれないものになっている。しかし強者にはモラルが特に強く求められた。人を殺す可能性があるのだ。このモラルは法律の中で決められた。悪質な事故とそうでない事故の差はここにある。
さて自転車が歩道を走れるようになった経緯は、モータリゼーションの発達となっているが少し違う。昭和30年代まで自転車には毎年の車検制度があった。このため自転車を維持するのは経費のかかる事で、だれでも持てるものではないのだ。なので事業用の運搬に多く使われていた。これが車検制度の廃止で、一気に需要が広がったのだ。折しもベビーブーマーが通学用に使うようになった。実は自転車の増大と、その後に来た自動車の増大が70年代に自転車事故を大きく引き起こしたのだ。
70年代までは自転車は路側帯を走る事になっていた。しかし自動車の左折巻き込み事故が増大した。それ以外の事故も増えた。ここで政府は後に禍根を残す事になった。自転車の車検廃止も産業育成の目的があった。しかしそれ以上に自動車の普及と運送は高度経済に欠かせないものだ。更にこれに伴う道路の整備があった。自転車道の整備もこのころ言われていたが、増大する道路需要の中で自動車道を整備する予算が無かった。わずかに河川敷に自転車道が作られるだけだった。
結局自転車の歩道の走行を認めることで、この件をごまかしてしまった。実はここで歩行者と自転車の差を曖昧にしてしまったと思う。また歩行者と自転車は弱者として扱われるようになり、歩道のモラルの荒廃を生んだと思う。
さて問題は次から次へと起きてくる。まず自転車の盗難の増大だ。これは当初は転売が目的だったが、自転車が普及して低価格化が進むと、寸借盗難が増える。そして整備不良車の増大。実際自転車をずっと使おうと思ったら、今でも最低年間5千円は維持費にかかる。特に新車を購入してから二年目当たりに両タイヤの交換やブレーキシューの交換が一気に来る。それをだましだまし乗るのが増える。実際新車を購入した方が安くて快適になるようになった。そして最後には放置自転車の増大だ。これで駅前の交通を妨げるようになったりした。
さてここですごいことが起きる。放置自転車の寸借盗難だ。場合によっては、盗難車を探しに駅前に行き、見つからなかったからそこらの放置自転車に乗って帰るとか。当然そうやってゆけば整備不良車がはびこる事になる。ひどい例だと、自転車を盗まれて自分だけが理不尽だと、他人の自転車を盗んで、それがまた盗まれたという話しを聞いた事がある。
警察も盗難車に関してはあまりにもの件数なので、手がつけられない状態だ。調査すらもおぼつかないのだ。盗まれて警察に届けても、警察はまたかとうんざりした対応しかしない。それ以上は何とも出来ないほどだ。
自転車という乗り物そのもののモラルがほぼ消滅したのだ。実際あまりにもひどいので、駅前に関しては通学用のレンタサイクルを用意しようと言うのもあったが、簡単に挫折した。管理する経費も問題だったが、レンタル費用より買った方が安いからだ。
行政はここで超法規的な対策しか出来なくなった。そこにあるものはすべて撤去するという手段だ。もう所有権なんてかまってられないのだ。
さてこのひどい状況の説明はもう良いだろう。自転車は歩行者と変わらなくなった。自転車そのものが足であるからだ。この時点で傘をさして自転車に乗るのは当たり前だ。自転車で走りながらケータイでメールを送っていても歩行者とどこが違うのか。iPodで音楽聞きながら自転車に乗ってどこが悪いのか。この三つを同時にやってどこが悪いのか。警察ですらあんまりもの件数にうんざりしていちいち取り締まらない。
この状況で、第三の弱者が現れたのがこのところの死亡事故の原因だ。老人の出現だ。昔だったらアクロバットな自転車に対して危険を察知してすぐに逃げられたが、耳も遠く目も悪く、足腰が弱い人たちが増えたのだ。なぜ昔は無かったのかと言えば、今現在高齢化社会なのだがそれ以上に高齢者のみの世帯が増えて、日々の買い物のために出歩かなければ行けない老人が増大しているのだ。
そこにモラルのぶっ壊れた自転車がいたのだ。
さてこの問題に対する、本質的な答えはあるのだろうか。まず自転車の歩道乗り入れを制限する対策だが、これには限界がある。実際むりやり三車線にするため路側帯を削っている道路がかなりある。左折巻き込み防止のためにはそういった場所では自転車は歩道に上がらなければ行けない。その上自動車も左折巻き込み事故を防止する目的で、左折する場合に左側ギリギリに車を寄せるのはよくない事になるだろう。実際これで何度危険な目にあったか解らない。
次が路側帯の整備だろう。穴ぼこや事故の破片だらけの路側帯では、それをよけながら走るだけでも精一杯。路側帯の整備が大切だ。
自転車保険も大切だが、これには問題がある。あまりにも事故が多くて自転車保険を受け付ける会社が無くなったのだ。自転車整備保険みたいなものもあるが、小さな事故には対応していない。保険料の増額が考えられるが、ただでさえ安い自転車に保険をかける人はとても少ない。
そして自転車のモラル向上だが、これには何年かかかるか解らない。ただ取り締まりの厳格さがあるが、警察もそこまで人を割けない状態だ。もうサンプリングみたいなことをしているが、不公平感は残る。
実はもっともよくないのが、自転車道の整備だと思う。なぜならこれでよくなるとは思えないからだ。自転車道に歩行者がいる事なんてザラだ。自動車だって止まっている。ただでさえ狭い自転車道で、自転車が逆走してくる。
最近自転車道の整備をいう議論がよく見かけるが、正直な所道路整備のための予算獲得の口実だと思う。本質的な議論ではない。
最も重要なのは、道路はなぜあるのかという議論だ。この中で弱者としての子供や老人・障害者の保護、一般歩行者、自転車、スクーター、バイク、自動車がどうあるべきなのかを、改めて考えるべきなのだ。その上で強者に求められるモラルを考え直さなければ行けない。自動車は自分たちばっかりが道路交通法規を一方的に遵守させられていると思っているようだが、この10年間で左折のウインカーを出さずに左折する車や細い道での速度違反が目立っている。自動車が自転車化しているのも事実なのだ。
最も重要な対策は、人はどう動くのかを深く考える事だ。これはとても難しい。人は最短で最速で目的地に着く事しか考えていない。これは自動車も自転車も歩行者もそうだ。なぜ歩道橋が失敗した政策なのか考えて欲しい。その上で、どうすれば安全が確保出来るのかを考えて都市計画を作成しなければ行けないのだ。
なぜドイツの自転車道がうまく出来るのかとか、オランダで自転車事故が少ないのはなぜなのか参考事例はあるだろう。ただこれらを簡単に模倣しただけでは失敗に終わるだろう。深い哲学があるからうまくいっているのだ。大体市街地の自動車乗り入れが制限されているから出来るとかを無視しては行けない。
実は、自転車事故の増大とそれらが積極的に報道されているのには、意味があると思っている。つまり法令遵守の呼びかけなのだ。誘導しようというやり方だ。まずはここからはじめるのが大切だ。
自転車道整備は、まだ先の議論だ。
最後なのだが、本質的に高齢化社会がはじまったのだ。これが自転車問題を大ききさせているのだ。しかし高齢者問題は解決策が無い。高齢者にも自由はある。閉じ込める事など出来ない。
自転車だけの問題ではない。社会がどうなるのかという大きな枠組みの、一つなのだと思う。
それほどのインパクトがあったのだ。やはり自転車で老人とぶつかって死亡事故になった場合の賠償金を考えたら、法律を守った方が良いのだ。
ただ一連の話しから気になっている事がある。
まず、ブレーキの無い純粋な競技用ピスト自転車の流行からはじまった事件だ。まずこの流行は論外なので考えない。
まず道路が誰のためにあるのかを考えるべきなのだ。今現在車道とか歩道とか利用別になっているが、本来は交通の便利さのために整備されたもので、利用制限は無いものだと言い切れる。高速道路以外では別に車道に歩行者がいてもおかしくない。馬がいてもおかしくない。
この点はもう少し考えられるべきだろう。本来そうなのだ。
ただここでルールはある。強いものが優先されるという事だ。この場合の強さは速さでもある。歩行者は脇、自転車や馬、人力車、大八車、リヤカー、バイク、自動車は車道と区別された。この中で馬と大八車は滅多にお目にかかれないものになっている。しかし強者にはモラルが特に強く求められた。人を殺す可能性があるのだ。このモラルは法律の中で決められた。悪質な事故とそうでない事故の差はここにある。
さて自転車が歩道を走れるようになった経緯は、モータリゼーションの発達となっているが少し違う。昭和30年代まで自転車には毎年の車検制度があった。このため自転車を維持するのは経費のかかる事で、だれでも持てるものではないのだ。なので事業用の運搬に多く使われていた。これが車検制度の廃止で、一気に需要が広がったのだ。折しもベビーブーマーが通学用に使うようになった。実は自転車の増大と、その後に来た自動車の増大が70年代に自転車事故を大きく引き起こしたのだ。
70年代までは自転車は路側帯を走る事になっていた。しかし自動車の左折巻き込み事故が増大した。それ以外の事故も増えた。ここで政府は後に禍根を残す事になった。自転車の車検廃止も産業育成の目的があった。しかしそれ以上に自動車の普及と運送は高度経済に欠かせないものだ。更にこれに伴う道路の整備があった。自転車道の整備もこのころ言われていたが、増大する道路需要の中で自動車道を整備する予算が無かった。わずかに河川敷に自転車道が作られるだけだった。
結局自転車の歩道の走行を認めることで、この件をごまかしてしまった。実はここで歩行者と自転車の差を曖昧にしてしまったと思う。また歩行者と自転車は弱者として扱われるようになり、歩道のモラルの荒廃を生んだと思う。
さて問題は次から次へと起きてくる。まず自転車の盗難の増大だ。これは当初は転売が目的だったが、自転車が普及して低価格化が進むと、寸借盗難が増える。そして整備不良車の増大。実際自転車をずっと使おうと思ったら、今でも最低年間5千円は維持費にかかる。特に新車を購入してから二年目当たりに両タイヤの交換やブレーキシューの交換が一気に来る。それをだましだまし乗るのが増える。実際新車を購入した方が安くて快適になるようになった。そして最後には放置自転車の増大だ。これで駅前の交通を妨げるようになったりした。
さてここですごいことが起きる。放置自転車の寸借盗難だ。場合によっては、盗難車を探しに駅前に行き、見つからなかったからそこらの放置自転車に乗って帰るとか。当然そうやってゆけば整備不良車がはびこる事になる。ひどい例だと、自転車を盗まれて自分だけが理不尽だと、他人の自転車を盗んで、それがまた盗まれたという話しを聞いた事がある。
警察も盗難車に関してはあまりにもの件数なので、手がつけられない状態だ。調査すらもおぼつかないのだ。盗まれて警察に届けても、警察はまたかとうんざりした対応しかしない。それ以上は何とも出来ないほどだ。
自転車という乗り物そのもののモラルがほぼ消滅したのだ。実際あまりにもひどいので、駅前に関しては通学用のレンタサイクルを用意しようと言うのもあったが、簡単に挫折した。管理する経費も問題だったが、レンタル費用より買った方が安いからだ。
行政はここで超法規的な対策しか出来なくなった。そこにあるものはすべて撤去するという手段だ。もう所有権なんてかまってられないのだ。
さてこのひどい状況の説明はもう良いだろう。自転車は歩行者と変わらなくなった。自転車そのものが足であるからだ。この時点で傘をさして自転車に乗るのは当たり前だ。自転車で走りながらケータイでメールを送っていても歩行者とどこが違うのか。iPodで音楽聞きながら自転車に乗ってどこが悪いのか。この三つを同時にやってどこが悪いのか。警察ですらあんまりもの件数にうんざりしていちいち取り締まらない。
この状況で、第三の弱者が現れたのがこのところの死亡事故の原因だ。老人の出現だ。昔だったらアクロバットな自転車に対して危険を察知してすぐに逃げられたが、耳も遠く目も悪く、足腰が弱い人たちが増えたのだ。なぜ昔は無かったのかと言えば、今現在高齢化社会なのだがそれ以上に高齢者のみの世帯が増えて、日々の買い物のために出歩かなければ行けない老人が増大しているのだ。
そこにモラルのぶっ壊れた自転車がいたのだ。
さてこの問題に対する、本質的な答えはあるのだろうか。まず自転車の歩道乗り入れを制限する対策だが、これには限界がある。実際むりやり三車線にするため路側帯を削っている道路がかなりある。左折巻き込み防止のためにはそういった場所では自転車は歩道に上がらなければ行けない。その上自動車も左折巻き込み事故を防止する目的で、左折する場合に左側ギリギリに車を寄せるのはよくない事になるだろう。実際これで何度危険な目にあったか解らない。
次が路側帯の整備だろう。穴ぼこや事故の破片だらけの路側帯では、それをよけながら走るだけでも精一杯。路側帯の整備が大切だ。
自転車保険も大切だが、これには問題がある。あまりにも事故が多くて自転車保険を受け付ける会社が無くなったのだ。自転車整備保険みたいなものもあるが、小さな事故には対応していない。保険料の増額が考えられるが、ただでさえ安い自転車に保険をかける人はとても少ない。
そして自転車のモラル向上だが、これには何年かかかるか解らない。ただ取り締まりの厳格さがあるが、警察もそこまで人を割けない状態だ。もうサンプリングみたいなことをしているが、不公平感は残る。
実はもっともよくないのが、自転車道の整備だと思う。なぜならこれでよくなるとは思えないからだ。自転車道に歩行者がいる事なんてザラだ。自動車だって止まっている。ただでさえ狭い自転車道で、自転車が逆走してくる。
最近自転車道の整備をいう議論がよく見かけるが、正直な所道路整備のための予算獲得の口実だと思う。本質的な議論ではない。
最も重要なのは、道路はなぜあるのかという議論だ。この中で弱者としての子供や老人・障害者の保護、一般歩行者、自転車、スクーター、バイク、自動車がどうあるべきなのかを、改めて考えるべきなのだ。その上で強者に求められるモラルを考え直さなければ行けない。自動車は自分たちばっかりが道路交通法規を一方的に遵守させられていると思っているようだが、この10年間で左折のウインカーを出さずに左折する車や細い道での速度違反が目立っている。自動車が自転車化しているのも事実なのだ。
最も重要な対策は、人はどう動くのかを深く考える事だ。これはとても難しい。人は最短で最速で目的地に着く事しか考えていない。これは自動車も自転車も歩行者もそうだ。なぜ歩道橋が失敗した政策なのか考えて欲しい。その上で、どうすれば安全が確保出来るのかを考えて都市計画を作成しなければ行けないのだ。
なぜドイツの自転車道がうまく出来るのかとか、オランダで自転車事故が少ないのはなぜなのか参考事例はあるだろう。ただこれらを簡単に模倣しただけでは失敗に終わるだろう。深い哲学があるからうまくいっているのだ。大体市街地の自動車乗り入れが制限されているから出来るとかを無視しては行けない。
実は、自転車事故の増大とそれらが積極的に報道されているのには、意味があると思っている。つまり法令遵守の呼びかけなのだ。誘導しようというやり方だ。まずはここからはじめるのが大切だ。
自転車道整備は、まだ先の議論だ。
最後なのだが、本質的に高齢化社会がはじまったのだ。これが自転車問題を大ききさせているのだ。しかし高齢者問題は解決策が無い。高齢者にも自由はある。閉じ込める事など出来ない。
自転車だけの問題ではない。社会がどうなるのかという大きな枠組みの、一つなのだと思う。
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