どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

卒業シーズン終了

2013-03-22 22:42:31 | インポート
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この盛岡も、国立大学の卒業式が終わって卒業シーズンは終わった。そういったところで世間に言う贈る言葉を書こうと思う。


まず世界が相対化しており、絶対が無くなった時代に生きていると言う事を伝えたい。どういった事か。情報が本質的に過剰になった時代に住んでいる。その選択がほぼ不可能な状況になっている。この状態で何を真実と思うか。

実は真実と言うのが相対化されているのだ。例えば代表は宗教だ。真実の代表がなぜ相対化されるのかだが、これが情報化の問題だ。宗教同士比較出来る状況だ。
本来宗教は地域のものであった。だがそれが広域化するにつれ対立などを生むようになった。この対立こそが情報化の始まりだ。対立するものの情報を集め戦略を練る。この中から宗派対立が更に大きくなる。
ここまではキリスト教を念頭に置いている。最近の教皇交替も、背景にカソリックの近代化問題が潜んでいる。本来は絶対だった権威も、今では信者の問題に解決出来ない。
イスラムはどうかとなれば圧倒的な多数がスンニだったので、ある安定はあった。しかし近代化の対応が遅れすぎた。急激に進む近代・現代の潮流の中で大きな矛盾を抱えている。相対化された神の権威を取り戻そうと言うのが、超保守・原理主義であって、その中で武力を持ってでも取り戻そうと言うのがアルカイダなどの過激派になった。

一神教の最大の問題は、他の宗教がある事だ。それが例えばアラブやヨーロッパの範囲であったなら戦って征服すれば良い話しだったが、戦えない状況では比較される対象になってしまう。優劣を超えた存在なはずの神が相対化され、比較される状況が許せない人から、原理主義者が生まれる。宗教の近代化は修正主義と蔑まれる。

相対化した社会の中では、人は不安定になりがちだ。安定を求めて宗教や歴史に身を任せがちになる。また社会に何か大きなことが起きた時に、なぜか普段はバラバラなのに、単純に一つの方向を向いてしまったりする。原発事故以来の反原発運動だったり、いじめ事件で桜宮高校の関係のない学生がバッシングを受けたりする。日本の保守化も、中国と韓国の台頭という圧力が方向を作っているように思える。
いじめ事件のようにある程度時間が経てば、その圧力が弱まりまたバラバラに戻ったりする。いい加減だと思う所があるが、相対化と言うのはそういったものだと思う。


相対化は比較出来る状況をいう。これはどうゆう事かと改めていえば、初めは書物などの情報で比較出来るようになった。ただ書物を読める人が少なかったので、これは顕在化しなかった。しかしルターの宗教改革から識字率が上がってゆく。それでもまだ顕在化しなかった。ようはエリートの物だったのだ。過去のエリートたちは、自分たちが選ばれた人間だと言う事に疑いも持っていなかったし自分が相対化されるなんて考えてもいなかった。だが、それが徐々に啓蒙主義の時代を通して近代に近づくと、怪しくなってゆく。ニーチェなんて生み出したのは、この中での事だったのだろう。積極的ニヒリズムともいわれたが、現代の文脈に置き換えれば相対化した世界に対して超越した個人であるべきだと、いっているような気がする。

決定づけたのは、第一次世界大戦だ。人が生み出した機械が、人をしかも大量に殺してゆく。そして大戦中にまるで機械が自立的に進化するように強力になってゆく。この進化を目の当たりにした芸術家たちがまず第一に変わった。旧来の価値観を否定し、一気に別な領域に突入した。大衆文化も映画・ラジオを初め雑誌などの大衆文化が花開いた。混乱の中で人が求めたのはまず情報だった。最も混乱したドイツでグラフジャーナリズムが花開いたのはこのためだ。具体的な情報が欲しい。写真入りの雑誌は具体的ではなかったが主観的に満足させるものだった。

大量に溢れる情報をコントロールすれば、いろいろ出来るとはじめに気がついた国はどこだろうか。多分当時の先進国はすべて大なり小なりやっていたと思う。大々的にやったのがナチスドイツであって、日本もそうだが他の国も大なり小なりやっていた。だが第2時世界大戦が終わり、その欺瞞が何となく解るようになると、更に政府が信用されなくなる。こうなってくると更に情報が欲しくなる。
戦後は更にテレビと言うメディアが加わり、情報が更に拡大してゆく。そして印刷物もそうだがレコードも映像もビデオになって流通するようになった。比較出来るようになったのだ。例えば音楽ではクラシックだ。ある曲のレコードを比較する事が出来る。だがその量が多くなりすぎて何が正しいのかよくわからなくなりつつある。ある意味演奏時間が演奏内容を判断する基準にもなっている。例えば世界最遅の演奏とかだ。

この比較するために、スペックや能力がカタログに載る事になる。その中から選択して商品を買うように、人生の今の瞬間をその時その状況で選択しつつ行動するようになる。
しかし選択は常に正しいとは限らない。そして作られた流行や選択を指南する選択書とかに翻弄されながら、右往左往するのが現代の状況だと思う。

相対化された中での個人の絶対と言うのはあり得るのだろうか。その前に、私らは自分がオンリーワンと信じたがっている。だが私のこの言説ですら、自分の言葉なのだろうか?私は個人であり続けられるのだろうか。

この相対から逃げられる事が出来るのだろうか。絶対的な方法はあった。ラリー・ペイジとセルゲイ・プリンのグーグルだ。情報を徹底的に集めれば神になれる、そういった狂信も感じるが、誰にでも出来る事ではない。

グーグルは新しい大きな物語を作りつつある。普遍的な価値観の創造とでもいえば良いのだろうか。
それぞれの国家にあった過去の大きな物語、例えば神話や民族の伝統を横断して新たな神話を創造しようとしている可能性がある。自動自動車が多分その先鞭だろう。

簡単な方法は、宗教に入る事だ。とても重要だが、問題が多い。それは宗教に自分の判断を半分以上ゆだねると言う事だからだ。右翼に行くのも左翼に行くのも、同じ事だ。
宗教の求める規律は重要だ。どの宗教もそんなに間違いがない。だが絶対を求めるあまり、逸脱しやすいのも宗教だ。自分を確立するために宗教を使うのは、お勧め出来ない。

最も簡単なのは情報の浪にのる事だ。最もヒット数の多い情報にのって行動判断する事だ。残念ながら私にはこれが出来ない。理由は行動障害があるからだ。


難しい方法は、情報を受け流す事だ。捨てるといっても良い。
ここで変な所に思い当たる。実は日本人の考え方がこれかもしれない。断捨離なんて話題になったが、すべてを捨てると言う考えが仏教伝来以降ある。すべてを捨てる事が出来ると言うのは、個の確立と言うより、相対的な選択の由えといったニュアンスを感じる。
会社での根回しも、立場があるだけで余りにも相対的だから起きる行動なのかもしれない

天皇がいて武家が支配する形式も相対的だ。

日本は元々相対的な社会であったとすれば、そこで有効に動いていた儀礼様式があったからこそうまくいっていた可能性がある。だがこの儀礼が壊れている。今エスカレーターにのる時には右に寄って乗るかとかの議論は、そういった儀礼の変遷過渡期なのかもしれない。



さて相対化した人生だが、ただ一つだけ原則がある。
それは人間が動物の一種だという事だ。個人差も大きいが、その時間の使い方で肉体は変わる。そしてその履歴が目に見える形である事だ。
スポーツをしなさいとは全くいいたくない。人によっては大脳が身体をコントロール出来るのに目覚めてよくわからないスポーツオタクになる例があるからだ。身体は人の絶対的なものだから、そこに気がつくと極端に走るのは、それこそ原理主義なのだろう。


現代は美容整形からドーピングまで、肉体までも相対化させてしまう。


それでもなお絶対なのは、時間だ。時間だけが人には平等に絶対的に与えられている。だが時間は有限だ。その時間をどう使うのかが問題になる。そこに何でもかんでも突っ込むと、当然何もならなくなる。相対化された自分を取り戻す事はかなわない。

何をするのか。いろんな事や物をそぎ落としてゆくのだ。特に他への執着を捨ててゆく。後は、出来る事を出来るだけやってゆく。それ以外の方法はないように感じる。後は時間の経過で、最後に残ったのが自分なのだろう。

今の自分、それだけが確からしい。


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