Luminance 遠い沖天

ぼくの日の出は、これも、まだまだです。

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 中央集権への戦争

2008年03月05日 23時31分00秒 | Diaries
諸国漫遊にあった河合継ぐのすけ、

 が備中松山で山田方谷に師事し、その藩政改革

(当時なんと言ったか、御家直し とは言わぬか)

 を学んで江戸に帰り、藩主の信を得て筆頭家老となった。長岡で米の販売の公営化

 阿賀野川舟運の地元商人による取り仕切り(:一種の税金)撤廃で自由貿易的繁盛

 この施策で藩財政を立て直し、近代的軍備を強化した。ガトリング銃3台中2台買った。

 官軍と会津の間で中立を唱えて、交渉したが、

 決裂、北越戦争となる。

 長岡城を奪還したが、再度奪われた。

 ガトリング銃は正面に飛んでいくが、サイドからの攻撃に弱く、

 自ら、回転ハンドルを回して撃っていた河合は脚を撃たれた。


 城を落ちて、会津へ向かった。

 八十里越え峠は、司馬遼太郎「峠」

 となる。

 只見町塩沢で息を引き取った。

 その前ので、松本良順蘭範疇 から はんを取った号 の往診を受けたが、城下で待つとのことだった。

 さんたんたる落ち武者と長岡住民の大移動であった。

 あとから、官軍は、付いてくる。

 参考 NHKそのとき 河合の決断


 ”世の中になくてはならない人か、在ってはならない人になるがいい。”

 
 ところで話は江戸初期になり、備中松山の殿様が、 水谷さんだった。

 水谷家は三代で御家断絶となり、このころまだ、末期養子の制度はできていなかったことになる。
 そういうことなのだ。

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