これまで首相府はケリー博士の名前公表や議会証言決定が国防省内で行われたと主張してきたが、フーン証言によって、公表過程や議会証言決定に首相府が密接に関わっていたことが濃厚になった。
しかしフーンは国防相の地位にありながらも、重要な決定にはほとんど関与していないという。
この政権内で、力の無い能無しだったと自分から言っているようなものだ。
これが、フーン証言の要点だ。
ある人物が名乗り出たと公表する決定は首相官邸が行った。
国防相の広報担当部門がケリー博士の名前を確認したときも、自分には相談は無かった。
ケリー博士の処遇について国防省幹部の考えを退けたのは、首相の意向に沿うものだった。
すでに、BBCの情報源が明らかになっていない段階で、フーンがBBC会長に親書を送り「ケリー博士がBBC報道の情報源か」と問いただしていたことが明らかになっている。
<ジョン・クラーク空軍大佐 (ケリー博士の同僚)>
ケリー博士は「何とかイラクへ戻って、10年前に始めた仕事を片付けたいと言っていた」と証言。
クラークはケリー博士と外交委員会へ向かうときいっしょにいた人物だ。
「ケリー博士は外交委員会と翌日の治安に委員会への出席がこれまでで一番のストレスを感じるものだ。特にケリー博士はBBCのスーザン・ワッツに話した内容を問われたときが一番辛かったと言った」と述べた。
<真打 ブレア 登場>
8/28 ブレア首相が独立調査委員会で喚問された。
去年9月のイラク大量破壊兵器の報告書について、広報の仕方にキャンベル補佐官が協力したとしながらも、内容については情報機関などが責任を持ったと強調。
その情報の作成についてMI6など情報機関から不満は無かったか?との問いには、
「そういうことは、まったく認識していない」と述べた。
BBCは首相府が情報機関の意にそぐわない内容を盛り込んだと報道し、その張本人はキャンベル補佐官だったとしている。
ブレアは、そのレポートについての感想を聞かれた。
ブレア「とんでもない言いがかりで重大だ。もしこれが本当なら私の辞任に繋がるものだ。」さらに「このあとギリガン記者が6/1ザ・メール紙に書いた記事でこの問題が大きく膨らんだ」と語った。
このメール紙でギリガン記者はキャンベルが文書の改ざんをしたと名指しをした。
ブレア「自分が特に大げさに考えたとは思っていない。これは首相府中心部への直接の攻撃であるにとどまらず、イギリスの情報部の活動、ひいては国家の信用に関わる問題だ」と述べた。
キャンベルがBBCに謝罪を要求する中、ブレアはBBCのデービス経営委員長と話し合って解決しようとしたことを明らかにした
「首相の誠実性に対して疑問を呈しているのではありません」とするデービスに対して、ブレアは「「しかし、この報道はまさにそういう内容です。これが撤回されない限り、私の誠実さを疑っていることになります。」そして話し合いは物別れに終わった。
国防省のある人物がギリガン記者と接触したと知ったとき(7/3)ブレアは「我々は慎重に行動しなければならない」と語ったと証言。
「適切な情報が必要です。その段階ではこの情報を他に漏らさないようにすることがポイントだと考えた」と証言。
7/7 外務省委員会が報告書を発表。
文書の作成に関して政府の不適切な行為は無かったとしながらも、この報告は委員長の最終決定で採択された。
ケリー博士がBBCの取材に応じたと名乗り出ると、ブレアは側近から「これを隠すのは懸命ではない」と助言された。
首相の周りではケリー博士は問題をはっきり決断できる人物だと信じられていた。
ブレア「この問題をどう解決していいか、八方塞だと感じていた」「政府関係者によって作成されたものであるが、最終的な責任は自分にあると思った」「私は首相として決断した。しかし、規則に従ったということをわかって欲しい」と述べた
そして7/8国防省が「ある当局者が取材を受けたのを認めた」と公表。
ブレア「報告書にいくら目を通しても私は確信できなかった。」
ケリー博士の身元を明らかにした質問書、しかしその手がかりを抜いてあったことについて
ブレア「私はそのような戦術に至った具体的決定については知らない。しかし一般的にいって名前がいつか明らかになるのはハッキリしていた。ケリー博士はその点に気づいていたのではないかと思う。」と述べた。
審問ではケリー博士は「この問題は極秘に扱われると信じていた」と述べていた。
なぜ、政府は情報を流したのがケリー博士だとスンナリ言えなかったのか?との問いには
ブレア「正しい人物かどうか確証が持てなかった」と述べた。
そして報道陣がヒントからケリー博士の名前を当てさせると、国防省もこれを追認。
なぜ情報源が名乗り出たと公表する必要があったのですか?との問いに
ブレア「私はこの情報を公開することで、あとで政府が情報の隠蔽を図ったと言われないようすることが大事だと思いました。この決定の責任はすべて私にあります。今でも正しい決定だったと信じています。」
そして、ブレアは議会の2つの委員会でケリー博士が証言すべきだということに同意した。
ケリー博士に圧力をかけることについては懸念はありませんでしたか?の質問に
ブレア「明らかに異なった認識をもって振り返ってみるものではあるが、私が言えるのは問題がある点は何も無かったということだ。」と述べた。
しかし、ケリー博士の名前の公表については誰がその決定をなしたのかは明らかにされていない。
だが、ブレアは全責任は自分にあると公言した。
<デービスBBC経営委員長>
デービス「首相府報道局長という立場の人による前例の無いBBC攻撃です。キャンベル局長はBBCとギリガン記者がウソをついたと非難しました。またBBCがブレア首相をウソツキ呼ばわりしたと言いました。私はBBCがそんなことをしたと思ったことはありません。」
「キャンベル補佐官はイラク戦争についてBBCが反戦的だったと非難した」とも述べた。
そして経営委員会はキャンベルの非難に反論する声明を発表した。
しかし、BBCはこういった報道が脚本無しでいいのか再検討していると述べた。
またBBCがケリー博士の名前を公表したことはケリー博士の信頼を裏切ることにもなったと述べた。
ケリー博士が外交委員会で質問を受ける前に、自由民主党のチジ議員に、ギリガン記者が、ワッツ記者の情報源がケリー博士であると打ち明けていたことについて「あるジャーナリストが他のジャーナリストの情報源を明かすことは間違っていると思う」と語った。
政府との対立でBBCが一歩も引かなかったのは、情報源の発言を正確に伝えたと信じていたからと述べた。
ブレアがこの問題を解決するためにデービスと接触していたことも明らかにした。
ブレアは「BBCが報道する権利を標榜しながら、その報道が間違っていたことを受け入れるということは思慮深いやり方ではない」と述べたと語った。
そしてデービスは「首相、私たちはそういったことができるかどうかは、よくわからない。なぜならBBCは正確に信じる人物を報道しているからだ。」と反論したと述べた。
<キャンベル辞任>
8/29 イギリス政府首相府は、アレステア・キャンベル戦略広報担当官が辞任することを明らかにした。
キャンベルは「昨夏に辞任する予定だったが、イラク問題もあって首相から慰留された」と述べた。
また、独立調査委員会には「協力する」と語った。
キャンベルはブレアに9年間付き添った側近中の側近で、影の副首相とまで言われていた。
<ジェニス・ケリー夫人証言>
9/1 ケリー博士の夫人ジェニスが、独立調査委員会で証言。
証言によると、ケリー博士は仕事中毒などと主張し真面目なケリー博士の印象を強めた。
ジャニスはTVニュースでBBCにリークしたのは政府関係者だと報道されたのをケリー博士と見たとき、ケリー博士に「あれは私だ」と打ち明けられたと述べた。
そして、ジェニスは、名前が公にされるのは避けられないと感じた。
翌日、サンデータイムズ紙のラフォード氏が家に来て「マスコミが大挙してやってくる」と教えてくれた。
ケリー博士は「幻滅した。裏切られた。大丈夫だと確約されていたのに。」ととても怒っていた。
ケリー博士の上司と、BBCのインタビュアーから証言の秘密は補償されていたと述べた。
そして、国防省発表後、複数の朝刊紙がケリー博士を特定したが、実名が新聞に出る前夜、国防省広報担当者から自宅に電話があり、「間もなく報道陣が押し寄せるので即刻自宅を出るように」と命じられた。
夫妻は慌ただしく荷造りし、数日間外泊を余儀なくされた。
死亡の当日はひどく幻滅し落胆していたと述べた。そして散歩に出て死亡した。遺体の横にはボーイスカウト時代から使っていたナイフが落ちていた。
<ケリー博士の関係者証言>
9/2 7/18の朝にケリー博士の遺体が自宅近くの森で発見されたときの証言がされた。
遺体発見者の捜索にボランティアで参加したデニース・ホームズ氏「捜査の前、探しているのは非常に重要な人物で、自殺の可能性があると告げられた」、発見したとき「博士は木の下にうずくまっており、左腕にキズを負っていた。」と語った。
現場で指揮をとったアンドリュー・フランクリン巡査「博士は苦しんだ様子は無かった。」と述べた。
そして、地面に置かれた博士の時計やナイフ、ボトル入りの水の写真撮影を命じ、救急救命士が心臓モニターで博士の死を確認する現場に立ち会ったと語った。
ケリー博士を最後に見た隣人のルース・アブサルム氏「数分だけ立ち話をし、別れ際に博士が、ルース、またねと言って別れた。」「そのときの博士にいつもと変わった様子はなく、普通に見えた」と語った。
警察が、ケリー博士の捜索と同時に、ケリー博士の自宅にも刑事が捜索に入ったことを明らかになった。
ジェフェリー・ウェブズ巡査部長は「書斎で国防省のリチャード・ハットフィールド人事局長から送られた手紙を発見しました。」「マスコミとの会話と題され たこの手紙は、BBCのアンドリュー・ギリガン記者との接触を正式に譴責する内容で、博士も受取ることを覚悟していました。送られたのは1週間以上前でし たが未開封のままでした。」
30年間、自殺の研究をしている精神科医のヒース・ホートン教授が証言し、博士が自殺をしたのはほぼ間違いないと述べた。
博士がお気に入りでよく散歩していた美しく人里離れた目立たない所を死の場所に選んだのもひとつの要素だと語った。
しかし、博士が死ぬ朝、11時15分過ぎに同僚たちに「イラクに戻って仕事を再開するのが楽しみだ」とeメールを送っていたことも明らかになった。
直前まで博士が将来を楽観視し、とても自殺をしようとは考えていなかったことも判明した。
ホートンは、博士が死を決断したのは昼前か散歩をする直前になって死を決心したではないかと推察を述べた。
なぜ博士は、最後に会った仲のいい隣人に「またね」って言ったのか?
何を切欠に自殺を決意したのか? 警察は博士の自殺前に、なぜ刑事を博士の家に家宅捜索に入れたのか?
どうして警察は自殺の可能性が高いと判断したのか? 博士はなぜ自殺を決意していないのにハットフィールドの手紙を1週間も放っておいたのか? オカシイなことが多すぎる。
<ブライアン・ジョーンズ元国防省情報分析官証言>
<ブライアン・ジョーンズ>
9/3 独立調査委員会でイラクの生物化学兵器の分析に当たっていたブライアン・ジョーンズ元国防省情報分析官が証言した。
国防省の情報担当職員は旧陸軍省の古い建物の中で、2002/9イラク大量破壊兵器に関する問題の報告書を作成した。
当時、イラクの大量破壊兵器はブライアン・ジョーンズ国防省情報分析官を中心に分析していた。
委員会で、ジョーンズは報告書の草稿について「調査を正確に反映していない表現があると指摘した国防省の自分のスタッフがいたが無視された。自分自身の不 満もあったが、何の措置もとられなかった。」「修正を提案したが、大きな提案だったので受け入れられなかったものがある。」と述べた。
化学兵器専門スタッフはそれをどう受け入れていましたか?との問いに、
「非常に心配していました。」
一部の表現は間違っている。つまりそういう情報は得られていないということですか?との問いに、
「一部に傾向として、評価をことさら誇張する部分がありました。特に1998年以降の化学物質や化学兵器の生産に関する部分です。そのような生産の明確な 証拠が無いということでした。」「イラクが化学・生物兵器をすでに持っている、あるいは化学兵器工場が稼動しているという確証はありませんでした。」と述 べた。
委員会は、ケリー博士が報告書作成の最終段階で関わったことを確認した。
ジョーンズも十分納得いかなかったところがあったという。
「45分脅威論」については「その表現については私自身クレームを持っていました。イラクの生物化学兵器に関する入手できる情報を正確には反映していませんでした。」
ケリー博士は当時、それを知っていたのですか?の問いに、
「彼は当時、あるいはその後、45分の表現に関しクレームを持っていました。」
ジョーンズは、報告書草案作成中には首相府も関係していましたという。
「情報当局意外から影響力が行使されたという印象があったように思います。」と述べた。
報告書作成の終盤に近づくと「シャッターが下ろされつつあった」と述べた。議論は終わっていたと言うわけだ。
そして、2002/9/17、当時、「我々の懸念は報告書の最終版には反映されないだろうという気がした。」と語った。
「ジョン・スカーレットの合同情報委員会は私の知る限り、最終版の検討はしなかった。」と述べた。
→⑤に続く