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何を書くかわからない

●くノ一

2018-01-10 15:13:39 | 歴史

◆くノ一 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/くノ一
くノ一(くのいち)は元来は女を指す隠語であり、近代の創作物においては女の忍者を 指すとされる言葉である。 ただし歴史上、女は男の忍者ほどの活躍をみせず、論者 によってこれを「女の忍び」とみなすものと、そうは見做さず女の忍者は存在しないとする ものがいる。 創作物においてくノ一が女忍者の意味に用いられるようになったのは山田 風太郎の忍法帖シリーズの影響が大きいとされる。
 
◆江戸期における「くノ一」の語
語源
く ノ 一
くノ一が女を指すのは、女という漢字を書き順で一画ずつに分解すると「く」「ノ」「一」となるためであると思われる。
江戸期における意味
江戸期には「くノ一」は「女」を指す隠語として使っており、女忍者の意味はまったくない。

古い用例
くノ一の古い用例として以下の句
香炉峰くノ一籠る簾(すみ)のひま
— 俳諧点者遠舟(1653~)の自薦句集『遠舟千句附』(延宝8年刊)
がある[1]。これは『徒然草』299段を踏まえたもので、「くノ一」は清少納言を指す。
しかし江戸期には用例が少ない。これは当時「女」という字は「くノ一」に分解できる楷書体ではなく、くずし字の草書体で書かれる事が多かったからかもしれない。
くノ一の術
忍法書の『万川集海』巻八には「くノ一の術」が載っている[6]。これは男では潜入しにくい場合、代わりに女を潜入させるというものである[7][8]。
また「くノ一の術」の次に載っている「隠蓑の術」は「くノ一」が木櫃を取り寄せるという口実を奥方に述べる事により、二重底の木櫃を使って人を潜入させる術である。
どちらも「女を使った術」という趣旨である[7]。前述のようにこれを女の忍びとみなすか、女の忍びは存在しないとみなすかは論者によって分かれる。
また、作家の戸部新十郎は、実際の語源は陰陽道における房術を指す「九一ノ道」が本義であり、「九」の字がたまたま、平仮名の「く」の字と同じ発音のうえ、「一」と合すれば、ともに「女」となることから「くノ一」というふうになったとする「九一ノ道説」を主張している。
 
◆女忍者!?『くノ一(クノイチ)』って本当にいたの? | noren japan:日本の ...
http://norenjapan.jp/tradition_history_culture/ninjya-kunoichi/
忍者(NINJA)という単語は侍(SAMURAI)や寿司(SUSHI)などと共に日本文化を代表 する物として広く海外にも広く知られています。忍者の中でも、女性の忍者のことを「くノ 一」(KUNOICHI)と呼んでいます。この言葉は、「女」という漢字の中に、ひらがなの「く」 、カタカナの「ノ」、漢字の「一」の形が入っていることに由来します。また、「くのいちの術」 という呼び方で、女性をしかけとして利用した仕事もあったと言われています。ちなみに、 男性の場合は「男」という字の中に「田」と「力」が含まれているため「タヂカラの術」と呼びます。

そもそも忍者とは?

忍者とは、特殊な技能を備え、それを使った戦や諜報・偵察などを得意とした個人や集団を表します。鎌倉時代から江戸時代にかけて日本各地で活動していました。起源は飛鳥時代にまで遡り、農作物が育ちにくい険しい山奥で暮らしていた豪族が、その地形を活かして平地とは異なるゲリラ戦法や情報収集術を身に付け、それを利用して生業としたことに始まると言われています。戦国時代に入ると、その特殊な技能を大名や領主たちに買われ、傭兵として仕えます。諜報活動や偵察、破壊工作や暗殺などを行い、戦があれば得意のゲリラ戦法を使い足軽として参加することもありました。その多くが関西地方の伊賀や甲賀の出身と言われています。

くノ一は男忍者のように破壊工作や暗殺などは行いませんが、情報収集を行うためのスパイとして敵の屋敷や城に潜り込み活躍したと言われています。

 

くノ一の役割

映画や小説の世界ではくノ一は色仕掛けで男性に近寄り、相手を上手く翻弄しながら情報を引き出すように描かれますが、実際のくノ一は色仕掛けで男性に近寄ることはなく、より確実で、しかし手の込んだ方法を使って情報収集をしていたと考えられています。

くノ一となる女の子が年頃を迎えたら、敵のいる城や屋敷に下女・女中として送り込みます。くノ一はそこで働きながら様々な情報を見聞きし、仲間に報告をします。

くノ一からの報告を受けるメッセンジャー役には、屋敷を頻繁に訪れることができ、女性と接しても怪しまれない小間物屋や呉服屋が対応していました。また、奉公中は定期的に親元へ帰される休みをもらえるため、その時に情報を伝える事もあります。くノ一の家庭は親元も身元引受人も仲間の忍者で、周囲に溶け込みながら忍者としての諜報活動にあたっていました。そのため周辺住民からの信頼も篤く、一見すると忍者の家庭だと疑われにくかったそうです。

色仕掛けで男性を陥れるくノ一はまったくのフィクションだったようです。

 

くノ一が使った技

隠れ蓑(みの)の術

特に美しい女子は妾として敵の殿様がいる城へ送り込まれます。そこでもう一人別の忍を送り込みたい時に使われたのが「隠れ蓑の術」です。城内にいるくノ一が、親元から衣裳や家財道具を送ってほしいと口実を付け、許可をもらいます。すると大きな木でできた衣裳箱が送られてきます。この衣裳箱は底が二重になっており、中を開けると通常の衣類が入っていますが、その底には男の忍が姿を隠せるような仕組みになっています。こうして門番のチェックをくぐり抜けて入り込むことで、忍は城内で様々な活動を行うことができました。隠れ蓑の術は成功率が高い侵入方法だったとも言われています。

 

歩き巫女、武田信玄が利用したくノ一

日本各地で戦が勃発していた戦国時代、敵国を攻めるため、また自国を守るための情報収集は非常に重要でした。その役割をくノ一に与えていたのが甲斐の国の戦国大名、武田信玄です。

信玄の甥の妻であった望月千代女(もちづきちよめ)は甲賀流忍者の家系の出身でした。戦によって若くして夫を亡くしたところを信玄にくノ一としての腕を見込まれ、くノ一の養成をすることになりました。戦国時代、絶えず戦があちらこちらで起こっていたため、親を亡くした子供や捨て子が多く、千代女は彼女らを集めて巫女として育成します。当時の巫女は神社に所属する者だけでなく、日本各地を歩きながら祈祷などを行っていた「歩き巫女」がいました。千代女は彼女たちに呪術や護身術などを教え、1人前の歩き巫女に育て上げ全国へ送り出しました。歩き巫女となったくノ一は各地を廻る間に見聞きしたものを報告し、このようにして武田信玄は城内にいながらにして全国の様子を知る事ができたと言われています。

映画などで派手なアクションや色仕掛けを使った術で見る人を魅了するイメージの強いくノ一ですが、実際には女性であるという立場に合わせ、より効率的で確実な方法を用いて情報を収集する諜報活動のスペシャリストといった役割をこなしています。現代のイメージと大きくかけ離れていますが、くノ一は作り話ではなく実際に存在した職業なのです。
 
◆歩き巫女 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/歩き巫女
歩き巫女(あるきみこ)は、かつて日本に多く存在した巫女の一形態である。 特定の神社 に所属せず、全国各地を遍歴し祈祷・託宣・勧進などを行うことによって生計を立ててい た。旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女も存在した。そのため、遊女の別名である白湯 文字、旅女郎という呼称でも表現される。鳴弦によって託宣を行う梓巫女、熊野信仰を 各地に広めた熊野比丘尼などが知られる。 ワカ(若宮と呼ばれる神社に仕えていた巫女 )アガタ シラヤマミコ モリコ(山伏の妻)総じて神を携帯し各地を渡り歩き竈拂ひ(かまどはらひ)や口寄せを行ったらしい。
 
◆信濃巫
現在の長野県東御市から出て、日本各地を歩いた歩き巫女。戦国時代、望月千代女が武田氏の為に、この巫女を訓練し、いわゆるくの一として使ったとされる。

発祥
柳田國男によれば、もともとノノウ(のうのう、と言う呼び声あるいは聖句から)と呼ばれる諏訪神社の巫女で、諏訪信仰の伝道師として各地を歩いていたらしい。

巫娼への零落
神にせせられるパッションが薄くなると同時に、祢津村の辺りに巫女コミュニティを構える事になり、柳田によれば後に「死人の口をきく」口寄せを行う巫女として各地に再びさすらう事となったと言う。各地でマンチあるいはマンニチ(万日供養から)、ノノウ、旅女郎(新潟)、飯縄あるいは飯綱(京都府下)、コンガラサマ(舞う様がミズスマシに似るため 岡山県)、をしへ、刀自話(島根県)、なをし(広島県)、トリデ(熊本県)、キツネツケ(佐賀県)、ヤカミシュ(伊豆新島)と呼ばれた彼女達は、17~8歳から三十代どまりの美女で、関東から近畿にいたる各地に現れ、「巫女の口ききなさらんか」と言って回ったと言う。外法箱と呼ばれる小さな箱を舟形に縫った紺色の風呂敷で包んで背負い、白い脚胖に下げた下襦袢、尻をからげて白い腰巻をする、と言う姿で、二三人連れ立って口寄せ、祈祷を行い、春もひさいだので、山梨、和歌山県辺りでは「白湯文字」という。
儀式は、外法箱と呼ばれる箱に枯葉で水をかけ、うつ伏して[3]行った。中の神は確かではないが、堀一郎によれば「五寸ほどのククノチ神(弓を持った案山子)像、捒物のキボコ(男女が合体している木像)、一寸五分の仏と猫頭の干物、白犬の頭蓋骨、雛人形、藁人形」が入っていたという記録がある。
旧暦の正月から四月にかけて、祢津村の旧西町にあるノノウ小路から出発し、各地へ回って仕事をし、遅くとも大晦日までには帰る、というサイクルで活動していた。帰ると寒垢離を行ったらしい。
巫女村各戸の親方である抱主(かかへぬしあるいはぼっぽく)が巡礼の折、各地(関東から紀州にかけて、主に美濃、飛騨から)で8、9歳から15、6歳のきれいな少女を、年を定めるあるいは養女としてスカウトし、信州に連れ帰って先輩のノノウに付け、三年から五年ほど修行して一人前となった。谷川健一によればちょっとしたものを、中山太郎によれば身の回りのものをあらかた持って各地を訪れると、地元民から歓迎され、中山によれば「信濃巫は槍一本(千石取り)程の物持ちで、荷物は専門の者が持ち、各地を手形なしで歩ける」という伝説までついたと言う。勿論、俗世に浴しているため気前よく「金をばらまく」事が多かった為に他ならないが、旅先での借金は必ず返し、聖職者である為肉食は禁じられていたらしい。
明治初期辺りまで関西(河内長野辺り)にやってきていたらしい。
 
◆忍者・忍術の研究ノート - 武田信玄の忍者 〈歩き巫女と望月千代女〉
https://ncode.syosetu.com/n2851cy/15/
武田信玄の忍者 〈歩き巫女と望月千代女〉. 戦国大名は大なり小なり忍び組を持ってい たが、武田信玄・徳川家康・毛利元就は複数の忍び組を持っていた。 その中でも武田 信玄は珍しい女性の忍び集団を組織していた。つまりリアルくノ一忍者である。今回は その話をしよう。 信州小県郡 ( ちいさがたごおり ) の 禰津村 ( ねづむら ) 古御館 ( ふるみたち ) にくノ一養成機関はあった。その名は「甲斐信濃巫女修練道場」という。 昔 の農家風の小さな家が小路ぞいに何軒も集まっていた。『日本巫女史』(中山太郎著) によると、この道は『ののう小路』と称し、巫女の家々を『ののう屋敷』と呼ばれたという。
 
◆歩き巫女の言及
【比丘尼】より
1449年(宝徳1)には,白髪の巫女めいた老尼が都に現れ,みずから若狭白比丘尼とも八百歳老尼とも称したという(《康富記》《臥雲日件録》)。このような白比丘尼,八百比丘尼の伝承は,中世にいたるまで普遍的にみられた歩き巫女の存在を暗示している。漂泊の女性についての伝承は,八百比丘尼であれ,和泉式部であれ,熊野比丘尼が語り歩いたものが多いと推定されている。

【遊女】より
売春婦の古称。日本の文献に遊女のことが出るのは《万葉集》の遊行女婦(うかれめ)が最も古く,以後10~12世紀ころまでに,うかれめ,遊女(あそびめ∥あそび),遊君(ゆうくん),および中国語の妓女(ぎじよ),娼女(しようじよ),傾城(けいせい)などの称が使われるようになった。以後これらの用語が併用されるなかで,遊女の語が音読して〈ゆうじょ〉となって広く用いられた。16世紀以後はさらに女郎(じよろう),おやま,花魁(おいらん)などの名称が加わった。
 
◆歩き巫女
あるきみこ
神社に所属せず,村落に寄食し,漂泊する民間巫女。都鄙を遊行し,口寄せを行い,仏教と習合した。歩き巫女の下級の者は,中世から近世にかけて私娼として里巫女 (さとみこ) ,旅女郎,白湯文字などと呼ばれた。
 

◆真田女忍者:歩き巫女
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/sanada.html
(1) 歩き巫女平安時代の末頃、 源平争乱の頃、 後白河法皇は、 白拍子たちによって 当時歌われていた今様 (いまよう) 歌謡を掻き集めて集成し、 「梁塵秘抄」 (りょうじん ひしょう) と名付けた。 言わば、 当時の流行歌謡集である。 その中の364番は、 老いた 母が幼い我が娘を思って涙を流す歌である。 「わが子は十余になりぬらん 巫 (こうなぎ) してこそ歩くなれ ・・・ 」 ここに、 巫してこそ歩くなれ = 歩き巫女 (あるきみこ) をして 各地を回っている。
そして、 「歩き巫女」 とは、 特定の神社に属しないで各地を遍歴し、 祈祷 ・ 託宣 ・ 口寄せ (霊媒) ・ 巫女舞いなどを行って生計を立て、 大道芸人 ・ 売春婦を兼ねる者もある、 さすらいの遊女である。
 この歩き巫女の中から、 戦国時代に女忍者 (くのいち) が発生した。 歩き巫女の姿を借りて諸国の情報探索を行った女性たちが生まれてきた。
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/img/miko1.jpg



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