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何を書くかわからない

◆鎌倉三大御前

2018-03-22 08:28:35 | 文化


◆鎌倉三大御前と不破合戦(1) | これって、バッドエンドだよね?
https://www.alphapolis.co.jp/novel/36138718/81069205/episode/178400
講釈師、見てきたように嘘を吐くでありますが、事実は小説より奇なりとも申し、時には本当のことも混ざるモノであります。
世に三大御前と言えば、巴御前、静御前、板額御前とも言われますが、女傑として捉えた場合は、後々の世に伝わる三大御前は、尼御前こと北条正子、巴御前こと朝比奈巴、板額御前こと浅利板額。
特に 女武将 ひめぶしょう の道を拓いた日本三大女傑とも呼ばれ、後世に様々な物語が描かれていくこととなります。
特に建仁の乱が語りでは、 尼御前の檄に始まり、巴御前と板額御前が共に戦った演目 ...

◆鎌倉三大御前と不破合戦(2) | これって、バッドエンドだよね?
https://www.alphapolis.co.jp/novel/36138718/81069205/episode/178470
 時代によって人気が変わらない巴御前は、実際には日付として合わない部分もあるようですが、木曽義仲の愛妾として戦場に立ち、敗れ去って鎌倉へ召されて、頼朝の妾になりそうなところを尼御前に救われます。
ただ、鎌倉で預かっていたのが侍所別当であった和田義盛の屋敷であり、そのことから巴御前に惚れて娶ったと言われます。
 義秀の年齢上として、巴御前が鎌倉に召された時に既に生まれていたという記述があることから、義秀が巴御前の子というのに無理があるという否定説があるが、義秀について別の説として、木曽義仲と巴御前の子を義盛が自分の子として育てたという説が、最近では有力視されているそうです。
このために、和田姓を名乗らず、新たな朝比奈姓を名乗っていたという説が有力となっています。
 子を護るがために、和田義盛に嫁いだということもあり、生涯を捧げた相手を変えなかったということで、巴人気を高めているところもあるようです。
ちなみに、朝比奈義秀は、鎌倉きってのイケメン最強#武士__もののふ__#として、様々な物語に登場してきます。
 
◆鎌倉三大御前と女性当主
https://www.alphapolis.co.jp/novel/36138718/81069205/episode/178527
 建仁の乱が歴史的に有名なのは、公家政権から武家政権への移行が確定したことと、三人の女性が大活躍から、女性当主が生まれるようになったことにありました。
 尼御前こと北条政子は、頼朝の正妻として君臨し、頼朝亡き後の鎌倉幕府を支え、建仁の乱にあたっては、尼将軍と呼ばれる檄文をもって、京洛の朝敵となった鎌倉武士を纏め上げて、十数万の大軍を持って出撃し、長良川の合戦や不破の合戦。瀬田合戦と勝利することで、鎌倉幕府を護った女性となります。
 北条政子については、雰囲気としては、極妻の雰囲気バリバリの展開となります。巨大な頼朝が亡くなった後を支え、見事に鎌倉政権を護りきった女性となります。
 巴御前こと、朝比奈巴は、木曽義仲が愛妾として、平家打倒へと戦いに身を投じます。
しかしながら、平家を京洛から追いやったものの、頼朝との関係がこじれ、結果的に頼朝によって、義仲が滅ぼされます。
巴自身は、義仲に諭されて戦場を離れますが、鎌倉方に捕らえられ、鎌倉へと護送されます。
 美しき益荒女<ますらめ>として鎌倉に護送された巴は、頼朝の愛妾となるところを北条政子に助けれ、侍所別当の和田義盛に預けられます。
そこで、和田義盛に嫁いで、朝比奈義秀の母となります。
 どうも、資料を調べていくと、朝比奈義秀は、巴御前と義仲の子らしいという資料が坂東鑑に描かれており、和田義盛が自分の子でありながら、朝比奈姓を名乗らせ、家を立てたと記されていた。
 
◆板額御前 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/板額御前
板額御前(はんがく ごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての女性武将。名は『吾妻鏡』(2003年時点で現存する、当該人物が登場するおそらく唯一の一次資料)では「坂額」とされていたが、のちに古浄瑠璃などの文学作品で「板額」と表記され、現代では辞書も含めほぼすべてでこれに準じている。
ほかに飯角とも。城資国の娘。兄弟に城資永、城長茂らがいる。
日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前とともに女傑の代名詞として「巴板額」(ともえ はんがく)と知られてきた。

◆巴御前 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/巴御前
巴御前(ともえごぜん/ともゑごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の女性。女武者として伝えられている。
経歴
軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに源義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれている。
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。
強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。
義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。
巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。
その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。 ...
 
◆静御前 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/静御前
静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性、白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。
生涯
『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。
吉野で義経と別れ京へ戻った。
しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。

同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)。
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。 ...

◆越後の勇婦「板額御前物語」
https://youtu.be/jMsOYzeC9HY
新潟県胎内市出身で弓の名手で知られる鎌倉時代の女武将「板額御前(はんがくごぜん)」の人生。静御前・巴御前とともに日本三大御前の一人とされている。
 
◆義仲と巴御前 (紙芝居)
https://youtu.be/TCCDfWr97qo

 
◆義經 鎌倉幕府慶典白拍子 靜御前(石原里美飾)
https://youtu.be/KZsY3hh_nzQ


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