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何を書くかわからない

●凧揚げ●コマ回し●カルタ取り

2018-01-01 14:15:44 | 文化

●凧揚げ●コマ回し●カルタ取り
◆たこあげ【凧揚げ】
( 名 ) スル
凧を空に揚げること。
多く、正月の子供の遊び。
地方により、節句その他にも揚げる。
その行事。《季 春》

 
◆いか【×凧/紙=鳶】
《イカに形が似るところから》凧(たこ)のこと。
主に関西地方でいう。いかのぼり。
《季 春》「―きのふの空のありどころ/蕪村」
 
◆たこ【×凧/紙=凧】

細く割った竹で作った骨組みに紙を張って糸を結びつけ、風を利用して空高く飛ばして遊ぶ玩具。絵凧・字凧・奴(やっこ)凧など種々ある。いかのぼり。いか。《季 春》「糸のべて―の尾垂るる水田かな/子規」
[補説]「凧」は国字。


たこ【凧】
竹や木を組んで骨とし,これに紙や布を張り,糸をつないで,風の力で空中に揚げる玩具(図)。〈凧〉の字は国字である。たこの呼名は江戸時代に江戸から広まったもので,関西では〈いか〉〈いかのぼり〉〈のぼり〉,九州では〈たこばた〉〈はた〉,その他地方によって〈たか〉〈たつ〉〈てんぐばた〉など方言も多い。英語のkiteはトビ,ドイツ語Dracheは竜,スペイン語cometaはすい星,ヒンディー語patangはチョウが原義で,いずれも空を飛ぶものを表している。

はた【凧】
 凧たこのこと。

◆日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


たこ
竹や木を骨にして紙または布、ビニルなどを張り、風力を利用して糸で引き、空に揚げる遊び道具。凧が空高く舞い上がるのは、風の流れぐあいによって生じる揚力(凧を上に揚げようとする力)と、抗力(押し流そうとする力)によるものである。起源はきわめて古く、最初は宗教的な占いや軍事などに用いられた。多くの種類があり、アジア、ヨーロッパ、南太平洋地域など広く世界各地にみられる。[斎藤良輔]

日本の凧
平安時代以前に中国から伝わり、紙老鴟(しろうし)または紙鳶(しえん)とよばれて、凧揚げは技芸の一種として行われていた。それがしだいに一般化されて発達した。1572年(元亀3)の端午の節供に、松平頼母(たのも)らが浜松城大手前で源五郎凧を揚げたと記録にあり、当時すでに各種の凧がつくられていたことがうかがえる。元和(げんな)年間(1615~24)のころには、長崎代官長谷佐兵衛が、烏賊幟(いかのぼり)にろうそくをつけて夜中に揚げるなど、しだいにくふうされ、江戸時代には正月の子供遊びとして流行するようになった。凧を揚げる時期は、このほか3月、5月の節供や盆に揚げる所もある。本来は単なる遊びではなく、子供の成長を祝い、将来の多幸を祈って誕生祝いなどに揚げた。高知県で還暦の祝いに凧揚げをする風習があるのも、同様の趣旨からであろう。また成人の競技として、大凧揚げや凧合戦などを行う地方があり、現在、埼玉県春日部(かすかべ)市宝珠花(ほうしゅばな)地区、新潟県三条市・新潟市南区白根(しろね)、静岡県浜松市などで、年中行事として行われている。年占い、豊作祈願、厄除(やくよ)けなどいろいろの意味をもっていた。また全国各地に、それぞれの特色をもった郷土凧がある。字凧と絵凧があり、角形、長方形、菱(ひし)形、五角形、六角形などがある。このほか凧の形にあわせて描彩した唐人(とうじん)凧や、各種の細工凧(奴(やっこ)凧、虻(あぶ)凧、あんどん凧ほか)もある。[斎藤良輔]

中国
中国では凧のことを紙鳶(チーユワン)とか風箏(フォンチョン)とよぶ。子供は時節にかかわらず凧揚げをするが、一般には立春から清明(せいめい)までの60日間が放箏(ファンチョン)(凧揚げ)の季節である。俗信によれば、清明が過ぎて凧を揚げると思いがけぬ災害にあうとか、凧をつかさどる神は清明が過ぎると天に帰るから凧揚げしても高く揚がらないとかいわれる。凧揚げに適さない気候になったことを示すものであろうか。凧の起源として古いものでは、紀元前200年代に漢(かん)の武将韓信(かんしん)が、楚(そ)軍と戦ったときにつくったとか、未央宮(びおうきゅう)との遠近を測るのに用いたなどといわれる。凧の種類は、6、70種類もあり、飛行機、香炉などをかたどったものから、文判官、武判官、牧童、鍾馗(しょうき)などの人物や孫悟空(そんごくう)、さらに福、寿、喜などの文字を書いたもの、雁(かり)、魚、蟹(かに)、百足(むかで)、鳳凰(ほうおう)、孔雀(くじゃく)、飛虎(ひこ)、胡蝶(こちょう)、蜻蛉(とんぼ)などの動物や鳥、昆虫に至るまで、実にさまざまである。北中国では、揚げた凧の糸が風で切れて飛び去ってしまうことを放災(ファンツァイ)といって、災いがなくなったとする。そして災難よけのために、わざと糸を切って凧を飛ばす風習もある。また、南中国では、凧が自分の屋敷内に落ちるのを忌み嫌い、災難が凧にのって家に落ちてきたとしてお祓(はら)いまでしたという。このほか、昔は凧が高く揚がり、雲の中に入るのを吉兆とした。[清水 純]

西洋
中国で発明された凧は、16世紀にオランダ経由で西洋に伝わり、17、18世紀に普及した。凧はそれ以前にも知られていなかったわけでなく、北欧では15世紀に凧揚げが現れ、1450年のウィーンの古文書にも凧のことが出てくる。凧は、秋に子供が揚げた。1752年アメリカのフランクリンが凧で稲妻の放電現象を確かめ、避雷針を発明したように、凧は実用面でもよく利用された。18世紀のゴヤの凧の絵(1778)では、大人たちが長いしっぽのある菱形の凧を揚げている。その菱形を強く下に引っ張ったような十字形骨組みのボウ・カイトbowed kiteが西洋の凧の基本形である。ボウ・カイトで鳥の姿の凧もよくみられる。凧は英語ではトビ、ドイツ語で竜、フランス語でクワガタ虫、スペイン語で彗星(すいせい)を転用する。最近は紙のほかビニルも使い、形も四角、三角、丸、立体具象と多様化し、大人も楽しんでいる。[飯豊道男]

凧の科学
空中に凧が静止するのは、凧に働く力が全体としてつり合っているからである。凧に働く力は、(1)凧の重量(凧に働く重力)W、(2)凧に働く風の力F、(3)凧糸を通して人間が引っ張る力T、である。この三つの力がつり合うためには、三力の作用線が1点を通り、かつ三力を表すベクトルが三角形をつくらなければならない。このうちFは、風に対する凧の姿勢と風速によって決まるもので、風の向き(水平方向)の成分Dを抵抗、鉛直上向きの成分Lを揚力という。三力のつり合いは次のように解釈される。凧の重量Wを支えるためには揚力Lが必要で、揚力Lに伴って現れる抵抗Dを打ち消すために、糸による推力Tが必要である。
 水平飛行する飛行機と比べると、凧は原理的に同じである。ただ、飛行機では、抵抗を打ち消すために、プロペラやジェットなどの推進装置を使うのに対して、凧では人間が糸を引っ張るという違いがあるだけである。飛行機では抵抗Dをできるだけ小さくするように翼の設計が行われ、翼の傾きも小さい。これに反して、普通の凧では風に対する傾きが大きく、凧の前面に沿って流れてきた空気は凧の縁ではがれて、背面には渦の領域ができている。そのため抵抗Dが大きく、これに打ち勝つための推力を大きくする必要がある。凧の揚力Lはその重量Wのみならず、糸の張力の下向き成分Tsinθを支えなければならないが、風速が大きくなると、Lは風速の二乗に比例して大きくなるので、大きいTsinθを支えうることになる。したがって、水平に対する糸の傾きθを大きくすることができる。風速が大きいとき凧が頭上高く揚がるのはこのためである。
 風速が変わったり、凧の姿勢が変わったりすると、三力のつり合いは破れる。このとき自動的に凧の姿勢が回復してつり合いの状態に戻る場合、凧は安定であるという。凧がよく揚がるためには、凧は安定でなければならない。凧の形や糸目のつけ方、さらに尾をつけるなどのくふうがされるのはそのためである。[今井 功]
『伊藤利朗・小村宏次著『凧の科学』(1979・小学館) ▽広井力著『凧』(1973・毎日新聞社) ▽広井力著『凧――空の造形』(1972・美術出版社) ▽比毛一朗『凧大百科――日本の凧・世界の凧』(1997・美術出版社)』

 
◆凧(たこ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A7
糸で牽引して揚力を起こし空中に飛揚させる物で、木や竹などの骨組みに紙、布、ビニールなどを張って紐で反りや形を整えて作られる。紙鳶、ハタ、イカなどとも言う。日本では正月の遊びとして知られている。
 
◆独楽(こま)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%A5%BD
何らかの塊を軸を中心として回転させて遊ぶ伝統的な玩具の一種。軸の先は細くなっており、周りにバランスをとるための重りがついている。
 
◆歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%A5%BD#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
独楽は極めて古い歴史を持つ。ひねりゴマが最も簡単なこまで、これが初めであると考えられるが、実質的な証拠としてはぶちゴマが古くから存在したことが確認されている。エジプトでは紀元前1500年ごろの独楽が発見されているが、これは木製で円柱の下を逆円錐に削ったもので、ぶちゴマと考えられる。古代ギリシャにもぶちゴマやひねりゴマに関する記述が見られる。

ぶちゴマは、胴を横から鞭で叩いて回す独楽であるが、回し始めの時には先ず紐を巻いてそれを引くことで回すものがある。どうやらこれが紐で回す投げゴマの起源となったらしい。ヨーロッパでは17世紀頃から投げゴマに関する記述や絵が見られるようになる。そこで見られる独楽は投げゴマとぶちゴマが半々程度である。19世紀末からは、工業の機械化や加工技術の進歩によって、より複雑な独楽が工夫されるようになった。また、コマの性質を工学的に応用したジャイロスコープもこの頃実用化された。
日本における歴史

日本では6世紀ころにぶちゴマのような木製の出土品があるが、確実にぶちゴマだとは言い切れない。また、平城京跡や奈良県藤原宮跡などからも7〜10世紀ごろのものと思われる独楽、または独楽型の木製品が出土している。平安時代ごろにはすでに大陸から伝わっており、独楽を使って遊んでいたと言う記録がある。これもぶちゴマであったらしい。また、宮廷の儀式などにも使用されていた。14世紀、『太平記』にはこまという言葉が出てくるが、これはこまつくり(古末都玖利)を略したものである。また、東北地方では、すぐりなどと、最初の2文字を略していた。

18〜19世紀にかけてヨーロッパでは独楽が流行したが、日本でも江戸時代には独楽が大進歩を遂げた。博多ではそれまでよりはるかに精密で長く良く回る独楽が作られた。これは博多ゴマと呼ばれ、この独楽を使って曲芸を見せるのが現在まで伝わる曲ゴマの始まりとなった。元禄年間にその記録がある。しばしば禁令も出されたようである。

江戸の子供たちは巻貝を加工した小さな独楽の回しっこをしていたことが伝えられており、これが明治中期に金属となって現在のベーゴマになった。ベーゴマも当初はぶちゴマであったらしいが、次第により強く回せる投げゴマに変化したらしい。ぶちゴマは江戸中期に次第に投げゴマに取って代わられたようで、明治以降には日本国内ではあまり見かけられなくなり、昭和後期には商品としては皆無といってよい存在となった。それに代わって投げゴマが日本では独楽の標準の位置についた。子供の遊びにもこれが使われ、天保年間には喧嘩ゴマとしてより強くなるように胴の外側に鉄輪をはめた鉄胴ゴマが作られるようになった。この形の独楽は永く残り、昭和末まではどこの駄菓子屋にも置いてあったものである。今治市の生産業者は、最盛期には年間200万個も生産したと言う。

しかし、昭和末より次第に投げゴマはすたれ始める。この時期は団塊ジュニア(1971年〜1974年生まれのベビーブーマー)が子供の遊びをしなくなる思春期に達していく時期に重なっており、小学生は1981年(昭和56年)の1192万4653人をピークに減少が始まった(参考:2014年の小学生数は約660万人)[1][2]。また、1983年(昭和58年)に任天堂より発売された「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)を初めとする家庭用ゲーム機がバブル景気期にかけて広く一般家庭に普及した時期であり、バブル景気によって不動産価格が上昇し、子供が遊んでいた空き地が減った時期でもある。ガンプラ、ビックリマン、キン肉マン消しゴム、チョロQなど、新しい子供の遊びのブームも影響したと考えられる。駄菓子屋で独楽が山をなした風景は現在では見ることができない。代わって室内で機械式の回転装置をもつ独楽がよく見掛けられるが、室内遊戯である。1999年にベイブレードが出て子供の間でブームになったが、やはり投げゴマではなく回しやすい機構を備えている。

2011年から全国の中小製造業が自社の誇りを賭けて作成したコマを持ち寄り、一対一で戦うコマ大戦が行われ、2012年2月2日には、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2012」にて、第一回全国大会G1が開催された。第一回全国大会G1にて優勝したコマは、株式会社由紀精密のコマで、レプリカモデルが販売されている。コマ大戦にて使用されるケンカゴマは直径20mm以下、一円玉より小さいコマで、その小さなコマを製造業が設計し、切削機や旋盤などのプロの機械を用いて自社の持てる技術を全て注ぎ込み作成したものである。

当時、心技隊という団体が運営していたが、現在はNPO法人全日本製造業コマ大戦協会が運営している。

2013年2月7日に、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2013」にて、第二回全国大会G1が開催された。第二回全国大会G1にて優勝したコマは、有限会社シオンのコマで、ミニレプリカモデルが販売されている。 2015年2月15日には「世界コマ大戦2015」が横浜大さん橋ホールで開催され、7カ国29チームが参加し、優勝は日本の企業、準優勝はインドネシアの企業となった。 2017年4月1日に第三回全国大会G1 Japan Cup 2017がクイーンズスクエア横浜 クイーンズサークルにて開催された。
 
◆ひもコマの回し方とコツ!上手にコマ回しができる上達方法
http://gamusharana.com/mametishiki/hobby/himokoma/
伝承遊びでけん玉と並んで人気なのがひもコマです。

保育園や幼稚園の4歳児くらいからひもコマに挑戦するところが多いです。

ひもを巻き投げて回すまでの工程は子どもにとっては非常に難しいです。

大人が子どもに教えれるように、きちんとした巻き方・投げ方・コツなどを紹介します。
 
◆準備その1)ひもの巻き方 – こままわし講座
http://spingear.jp/koma/2017/02/07/windup/
2017年2月7日 - 最初のこまの頭部分にひもを引っ掛けるところは、下の写真も参考にやってみてください 。 koma_02_01 ツバメやヒバリは、ひもの先端の結び目を使ってひっかけるようにし ます。 koma_02_02 ハヤブサは予め輪っかを作っておいて、それを引っ掛けるようにし ます。輪を作らずによりを解いてひもを軸に刺すやり方でも大丈夫です。引っかからない 方を選んでください。 koma_01_05. この写真のように、きれいに巻くことができたら完成 です。 koma_01_06. このような状態だとコマを投げても回りません。
 
◆独楽の種類
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%A5%BD#%E7%8B%AC%E6%A5%BD%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E
    ひねりゴマ
    手よりゴマ
    糸巻きゴマ
    投げゴマ
    ぶちゴマ

特殊なコマ

    逆立ちゴマ
    地球ゴマ
    ベーゴマ
    ベンハムの独楽

特定企業が開発したコマ

    1983年 ベーロボ(トミー)
    1992年 キャラコバッチ(バンダイ)
    1995年 すげゴマ(タカラ)
    ぷよぷよバトルトップ(タカラ)
    1999年7月 ベイブレード(タカラ)
    2007年 スピンセイバー(カバヤ)

地域の独楽

    ずぐり独楽(青森)
    江戸ゴマ(東京)
    京こま(京都)
    伊予独楽(愛媛)
    佐世保独楽(長崎)

応用

    ジャイロスコープ

その他

    曲独楽

 
◆こままわし - 甲賀市
http://www.city.koka.lg.jp/4537.htm
こままわしの技. こままわしには、いくつかの技があります。ここにのせられている技は 一部分で100前後あるといわれています。 ひとつづつマスターすれば、これらを 組み合わせ、連続(こまが止まるまで)に挑戦するなど、やり方によっては競技性のある 楽しいあそびだと思います。
 
◆お正月に独楽(こま)回しをする意味とは?独楽の起源や歴史とは?
http://jpnculture.net/koma/
2017年11月6日 - 最近は独楽回しをする子どもを見ることは少なくなりましたが、童謡の「お正月」に「♪ こまをまわして あそびましょう~♪」という歌詞があるように昔から独楽回しはお正月の 風物詩でした。 それでは、なぜ、お正月に独楽回しをするのでしょうか? 今回は、独楽 の起源や歴史、お正月に独楽回しをする理由について調べてみました。 スポンサー ドリンク. 独楽の起源や歴史とは?
 
◆正月にコマ回しをするようになったのはいつからといわれてますか ...
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1468957794?__ysp=5q2j5pyI44Gr44Kz44Oe5Zue44GX
2017年3月19日 - 独楽まわしは、奈良時代に寺や神社の縁日の余興として催されていたものが、次第に 子どもの遊びになったものです。 その名の由来は、中国の唐から朝鮮半島の高麗(「 こま」とも読む)を経て伝わったからだと言われています。初めは、先のとがった貝穀を 使っていました。独楽の古い別名を「つむくり」と言いますが、これは貝殻を意味する「 つぶり」から出た語です。その後、どんぐりなどの木の実を利用するようになり、やがて木 を細工してまわしやすいように工夫し、現在の独楽の形ができたのです。 江戸時代には 、大人たち ...
 
◆正月といえば、かるたとりをして遊びましたが、なぜ正月にかるたをするよ... - Yahoo ...
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1178744196?__ysp=5q2j5pyI44Gr44Kr44Or44K%2F5Y%2BW44KK
正月といえば、かるたとりをして遊びましたが、なぜ正月にかるたをするようになったの でしょうか?何か意味や由来があるのでしょうか? >なぜ正月にかるたをするようになっ たのでしょうか?少し調べてみましたら、以下の記述が..
正月といえば、かるたとりをして遊びましたが、なぜ正月にかるたをするようになったの でしょうか?何か意味や由来があるのでしょうか? >なぜ正月にかるたをするようになっ たのでしょうか?少し調べてみましたら、以下の記述が..
 
◆カルタ取り(カルタトリ)
カルタ取りの用語解説 - いろはガルタや歌ガルタで、一人が読み札を 読むのに従って、場に散らしたそれに対する取り札を取り合って遊ぶこと。
 
◆かるた - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9F
かるた(歌留多、加留多、嘉留太、骨牌)とは、カードを使った主に正月に遊ぶ室内遊具 である。 元々はトランプなどのカードゲーム一般を指した。現代日本では、花札か、後述 する読み札にあわせた絵札をとってその枚数を競う競技を意味するようになった。 また、 小倉百人一首の場合は読み札には短歌が書かれ、取り札には下の句が書かれている。
 
◆道具
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9F#%E9%81%93%E5%85%B7
文字札・絵札ともに、あいうえお46枚ずつの札がある。一音につき一セットの読み札・取り札が用意されている。

    文字札 - 取り札の絵の内容を書いた短い文章が書かれており、読み手(多くは大人)が声に出して読む。
    絵札 - 読み札の内容を描いた絵と、読み札の短い文句の頭文字がひらがなで目立つように書いてあり、読み札を読むのに合わせて取り人が手を出して札を取る。

ルール

2人以上で行う。

    取り札を平面(畳の上が多い)に広げ、取る人に見やすくする。
    読み人が読み札を読む。
    できるだけ早く、読み札に合った取り札を叩く(はじく、または押さえることもある)。先に叩いた方がその札を手に入れる(札を取る)。
    全ての読み札、取り札がなくなるまで繰り返す。
    より多くの取り札を取った方の勝ち。

子供が文字を覚えるための遊びでもある。
起源

語源はポルトガル語だが、同様の遊戯は日本とポルトガルとの接触前からあったものと考えられている。元々は、平安時代の二枚貝の貝殻をあわせる遊び「貝覆い(貝合せ)」である。これとヨーロッパ由来のカードゲームが融合し、元禄時代頃に今日の遊び方となった。

日本のかるたは、16世紀末頃、筑後国三池(現在の福岡県大牟田市)で作り始められたと言われており、大牟田市には三池カルタ・歴史資料館がある[1]。
古典的ないろはかるた

いろは47文字に対応した「いろはかるた」が最も古典的で有名である。なお、歴史的仮名遣いや字音仮名遣いに必ずしも準拠しているものではない。

ことわざを使っているが、内容は江戸、京都、大坂、上方、尾張などで各々異なっており、地方の特色が表れて、「郷土かるた」も各地に存在する。「犬も歩けば棒に当たる」で始まるものは、江戸かるた(犬棒かるた)である。

以下に示すものは伝統的な札の一例である[2]。2012年現在市販されているものには、一部の札が差し替えられているものも多い(「ゐ」「ゑ」「京」の削除対象も含む)。江戸いろはかるたの場合では、表現が難解あるいは死語となっている(「月夜に釜を抜く」→「月とすっぽん」、「総領の甚六」→「損して得取れ」など、「芋の煮えたもご存じない」「子は三界の首かせ」も同様に差し替え対象となっている)、下品な表現が含まれる(「屁をひって尻すぼめる」→「下手の長談義」[上方より流用])、差別的ニュアンスがあるなどが差し替えの理由として挙げられる。「良薬は口に苦し」はもともとは慣用仮名遣いの「れうやく」、「れ」の札だったが(字音仮名遣いでは「りやうやく」)、現代仮名遣いの「りょうやく」、「り」の札に配置変更され、元の「り」の札、「律義者の子だくさん」が不採用となったこともある。こういった時代に合わせた変化については賛否両論となっている[3]。
    江戸     上方     尾張
い     犬も歩けば棒に当たる     一寸先は闇     一を聞いて十を知る
ろ     論より証拠     論語読みの論語知らず     六十の三つ子
は     花より団子     針の穴から天覗く     花より団子
に     憎まれっ子世にはばかる     二階から目薬     憎まれっ子頭堅し
ほ     骨折り損のくたびれ儲け     仏の顔も三度     惚れたが因果
へ     下手の長談義     下手の長談義     下手の長談義
と     年寄りの冷や水     豆腐に鎹     遠くの一家より近くの隣
ち     ちりも積もれば山となる     地獄(ぢごく)の沙汰も金次第     地獄の沙汰も金次第
り     律義者の子沢山     綸言汗のごとし     綸言汗のごとし
ぬ     盗人の昼寝     糠に釘     盗人の昼寝
る     瑠璃も玻璃も照らせば光る     類をもって集まる     類をもって集まる
を     老いては子に従え
(「老い」は「おい」が正しい)     鬼も十八
(「鬼」は「おに」が正しい)     鬼の女房に鬼神
わ     破れ鍋に綴じ蓋     笑う門には福来る     若いときは二度ない
か     かったいの瘡(かさ)うらみ     かえるの面に水     陰うらの豆もはじけ時
よ     葦(よし)のずいから天井のぞく     夜目遠目傘のうち     横槌で庭掃く
た     旅は道連れ世は情け     立て板に水     大食上戸餅食らい
れ     れうやく(良薬)は口に苦し
(「良」は「りやう」が正しい)     連木で腹切る     連木で腹切る
そ     総領の甚六     袖の振り合わせも他生の縁     袖の振り合わせも他生の縁
つ     月とすっぽん     月夜に釜を抜かれる     爪に火をともす
ね     念には念を入れよ     猫に小判     寝耳に水
な     泣きっ面に蜂     なす時の閻魔顔     習わぬ経は読めぬ
ら     楽あれば苦あり     来年の事を言えば鬼が笑う     楽して楽知らず
む     無理が通れば道理引っ込む     馬(むま)の耳に風     無芸大食
う     嘘から出た真     氏より育ち     牛を馬にする
ゐ     芋の煮えたもご存じない
(「芋」は「いも」が正しい)     鰯の頭も信心から
(「鰯」は「いわし」が正しい)     炒り豆に花が咲く
(「炒り」は「いり」が正しい)
の     喉元過ぎれば熱さを忘れる     ノミと言えば槌     野良の節句働き
お     鬼に金棒     負うた子に教えられて浅瀬を渡る     陰陽師身の上知らず
く     臭いものに蓋をする     臭い物に蝿がたかる     果報(くゎはう)は寝て待て
や     安物買いの銭失い     闇に鉄砲     闇に鉄砲
ま     負けるが勝ち     まかぬ種は生えぬ     待てば甘露の日和あり
け     芸は身を助く     下駄と焼き味噌     下戸の建てた蔵はない
ふ     文はやりたし書く手は持たぬ     武士は食わねど高楊枝     武士は食わねど高楊枝
こ     子は三界の首枷     これにこりよ道才坊     こころざしは松の葉
え     えてに帆を上ぐ     縁と月日     閻魔の色事
て     亭主の好きな赤烏帽子     寺から里へ     天道人殺さず
あ     頭隠して尻隠さず     足元から鳥が立つ     阿呆につける薬はない
さ     三遍回って煙草にしょ     竿の先に鈴     触らぬ神にたたりなし
き     聞いて極楽見て地獄     鬼神に横道なし     義理と褌かかねばならぬ
ゆ     油断大敵     幽霊の浜風
(「幽」は「いう」が正しい)     油断大敵
め     目の上のこぶ     盲の垣のぞき     目の上のこぶ
み     身から出た錆     身は身で通る     蓑売りの古蓑
し     知らぬが仏     しはん坊の柿のさね     尻食へ観音
ゑ     縁は異なもの味なもの
(「縁」は「えん」が正しい)     縁の下の舞     縁の下の力持ち
ひ     貧乏暇なし     瓢箪から駒
(「瓢」は「へう」が正しい)     貧僧の重ね食い
も     門前の小僧習わぬ経を読む     餅は餅屋     桃栗三年柿八年
せ     急いては事を仕損じる     せんちで饅頭     背戸の馬も相口
す     粋は身を食う     雀百まで踊り忘れぬ     墨に染まれば黒くなる
京     京の夢大阪の夢     京に田舎あり     
その他のいろはかるた

日本各地に、その地方の伝統や名物などを読み込んだいろはかるたがある。代表的なものに、群馬県全域で親しまれている上毛かるたがある。それ以外にも北海道弁かるたや津軽弁かるたなど、各地方でCD付きの方言かるたも発売されている。

キャンペーンとして、いろはかるたが作られることもある。たとえば1938年、内務省社会局保険部が標語を募って「健康いろは歌留多」が作られた[4]。

その他、テレビ漫画・アニメのキャラクター等を用いたかるたも多く市販されている。
文学のかるた

    金色夜叉 - お宮と富山の出会いの場がかるた会である。

 
◆百人一首(ひゃくにん いっしゅ、ひゃくにんしゅ)
(小倉百人一首から転送)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96
100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。

中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。本記事では、この小倉百人一首について解説する。
 
小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される[2]。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。

室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。

小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。

定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。

◆『百人一首』の歌と歌人たち
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百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。又、()内は現代の読み方である。



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