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●お正月

2018-01-01 09:01:41 | 文化

◆正月(しょうがつ)
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各暦の年初のことである。文化的には旧年が無事に終わった事と新年を祝う行事である。正月飾りをし、正月行事を行ったり御節料理を食べて、盛大に祝う。
日本では、1月1日の元日のみを国民の祝日としているが、実際には少なくとも3日までの三箇日は事実上の祝日と同じ状態となる。
 
◆日本の正月
正月の期間
「正月」とは、本来は旧暦1月の別名である。改暦後は新暦1月を意味することもある。
現在は「三が日」または「松の内」という意味で使用することがある。
松の内は元々は1月15日までだったが、現在は一部地域では1月7日までに短縮している。寛文2年(1662年)1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以て飾り納めを指示する。最初の通達が江戸の城下に町触として発せられており、それに倣った風習が徐々に関東を中心に広まったと考えられる。幕末の考証家である喜田川守貞は、この時同時に左義長(いわゆる「どんど焼き」)も禁止されていることから、松の内短縮発令の理由を注連飾りを燃やすこの火祭りによる火災の予防の一環だとしている。
1月20日までを正月とすることもあり、1月20日を二十日正月(骨正月)と呼ぶ。
新暦の元日を軸とする「大正月」(おおしょうがつ)と旧暦の15日を軸とする小正月(こしょうがつ)と呼ぶものがある。大正月はまた大年(おおどし)、男の正月と呼ぶのに対して、小正月を小年(こどし)、女の正月と言うところもある。
12月8日(関西では12月13日)を「正月事始め」と称して、正月準備が始まる。

正月休み
1月1日は国民の祝日の「元日」となっている。
行政機関は、行政機関の休日に関する法律(昭和63年法律第91号)第1条第1項第3号の規定により、12月29日から1月3日までを休日としており、一般企業でもこれに準じることが多い。銀行などの金融機関は、銀行法施行令(昭和57年政令第40号)第5条第1項第2号の規定により、12月31日から1月3日までを(ATM等を除いて)休日とすることが多く、システムメンテナンスを行うため長くなる事もある。公共交通機関はこの期間中は平日であっても休日ダイヤで運行する傾向にある。
一方、小売業では、1980年代前半までは松の内(関東)の頃(1月5-7日)まで休業していた店が多く、1980年頃まで百貨店・スーパーマーケットなどの大型店ですら正月三が日は休業していた。しかし、24時間営業のコンビニエンスストアの登場などの生活様式の変化により、開店日は早くなり、1990年代以降は元日のみ休業し、翌2日から短時間体制での営業を始める店が多い。大型店など店舗によっては、短時間体制ながらも元日も営業することも多くなった。ほとんどの店舗の場合は4日ごろから平常営業に戻る。

正月の習慣
正月には前年お世話になった人や知人などに年賀状を送る習慣があり、お年玉つき年賀はがきの抽選日までを正月とする習慣も多い。元来は年の初めに「お年始」として家に挨拶に行ったり人が訪ねて来たりするはずのものが簡素化されたものとも言える。1990年代末頃から携帯電話が普及したこともあり、年賀状でなくメールなどで済まされることが多くなってきている。また、新年最初に会った人とは、「あけましておめでとう(ございます)」という挨拶が交わされる場合が多い。これは、英語圏の「ハッピー・ニューイヤー(Happy New Year)」が主に年末に言われるのとは異なり、新年になってからでなければ言われない。年末に、来年になるまで会わないだろう人とは、「よいお年を」という挨拶がよく交わされる。
かつては夏の盆と対応して、半年ごとに先祖を祀る行事であった。しかし、仏教の影響が強くなるにつれ、盆は仏教行事の盂蘭盆会と習合して先祖供養の行事とし、対する正月は年神を迎えてその年の豊作を祈る「神祭り」として位置付けられるようになった。
数え年では1月1日に歳を1つ加えていたことから、正月は無事に歳を重ねられたことを祝うものでもあった。満年齢を使うようになってからはそのような意味合いはなくなり、単に年が変わったこと(新年)を祝う行事となっている。
喪に服している場合は正月を行わない風習があり、この場合、事前に喪中欠礼の葉書を送った上で、年賀状を送ったり受けたりすることもなくなる。

正月の歴史
シアトルの中華街における春節の獅子舞
中国の“正月”は太陰暦の1月を指す。
古代ローマでは1年は10か月で March が初月、1st March が正月(新年初日)であった。
紀元前713年頃、ヌマ・ポンピリウスにより January と February が加えられ、1 January が正月(年の暦は、January から December、現代英語を含むラテン語派生系言語の7月から12月は、ラテン語:(例として英語では)September, 7番目、October, 8番目、November, 9番目、December, 10番目、の意味))になったが、執政官には紀元前153年まで使われなかった。
紀元前45年、ガイウス・ユリウス・カエサルがユリウス暦(閏年が無い)を導入、1 January がグレゴリオ暦同様、正月(新年初日)になった。
クリスマス様式の暦では、12月25日が正月で、ドイツとイングランドで13世紀迄使われており、スペインでは14 - 16世紀に導入された。
受胎告知(3月25日)を新年とする暦は、ルーマニアドブロジャ 生まれの僧侶、ディオニュシウス・エクシグウス により西暦525年に導入され、中世ヨーロッパの多くの地域で用いられていた。グレートブリテン王国では、1752年1月1日まで採用されていた(スコットランドを除く、スコットランドは1600年1月1日に、割礼祭様式の暦(1 January を正月とする)を用いていた)。後にイギリスはユリウス暦からグレゴリオ暦となるが、現在でもイギリスの税制年度は4月6日(3月25日+12日;11日はユリウス暦から、グレゴリオ暦への差日分、+1日は1900年の閏日)を新年としている。
イースター(復活祭)の土曜日(または聖金曜日)を正月とする暦は、フランスで11世紀 - 16世紀に使われていた イースターは移動祝日で、同じ日付は隔年ごとに来る。
古代のローマ暦の 1 March を正月とする暦は、ヴェネツィア共和国で1797年まで、ロシアで988年 - 15世紀の終わりまで用いられていた、ロシアでは15世紀の終わりから1700年の西暦導入まで、9月1日が正月だった(ロシアにおいては1700年以前は、『旧約聖書』の「創世記」において神が世界を創造したという「天地創造」のエピソードに基づく世界創造紀元を使用していた。)。
カトリック教会の典礼暦では待降節初日が一年の始まりとされてきた。
フランス共和暦(1793年 - 1805年まで用いられた)では、秋分(通常9月22日)を正月(新年初日)とした。
中国では「正月」は太陰暦の1月を指す。日本での正月は中国では「正月初一」または「大年初一」いわゆる春節である。

日本の旧正月
旧暦(日本では天保暦)の1月1日{立春前後、グレゴリオ暦(新暦)での2月頃}は旧正月と呼ばれる。中国・台湾・韓国・ベトナムなどでは、新暦の正月よりも旧正月の方が重視され、お年玉もこの日に渡される。中国では「春節」、「過年」、「農暦新年」といい、ベトナムでは「テト(ベトナム語: Tết )」といわれる。テトは「節」という漢字のベトナム語読みに相当する。また、旧暦1月のことを「正月」と呼び(旧暦では「正月」が正式名、「1月」が異名である)、旧正月を「正旦」ともいう。日本でも沖縄県や鹿児島県の奄美群島などの一部地域では旧正月を祝う地方がある。

正月に関する諺(ことわざ)
正月買い(正月に遊女などを買うと祝儀など余分な費用がかかる)
一年の計は元旦にあり
 
◆正月【しょうがつ】
一年の初め。一年の生活の始まりとして各国で祝われる。古代エジプトでは秋分,ユダヤ,バビロニアでは春分,ギリシア(前5世紀まで)では冬至が一年の変り目とされていた。
→関連項目御節料理|鏡餅|元日|正月小屋|雑煮
 
◆とっさの日本語便利帳の解説
正月
暦の上での新年を迎える行事。年越し、年取りともいう。大晦日から元日にかけての行事が中心になるが、一二月の中旬から一月下旬まで続く行事である。もともと神道においては、正月には各自の家に祖先神が帰って来るという信仰があった。祖先神とは先祖の集合霊であり、それを正月さま、歳神(としがみ)、歳徳神(としとくがみ)と呼ぶ。この歳神を迎えて家を祭場にする準備をするのが御事始めで、上方では一二月一三日であった。これを煤(すす)払いともいうが、家長はこの日から精進潔斎に入る。門松もこの日から立てたが、門松は帰って来る歳神の依り代(しろ)である。昔は、一日の始まりは夕方であったから、正月の行事も大晦日の夕方に始まる。したがって、現在は年越しそばとなって残っているが、昔は一二月三一日の夕食が正月の最初の食事であった。一月一日に食べる雑煮は、歳神に供えた食品を下げてごった煮にして、神と人とが一緒に食事をする直会(なおらい)の一種。また、正月には親族の全員が揃って歳神と一緒に食べることに意義があり、そのため遠く離れた子や孫が親元に帰って来る時、食品を持って帰った。その風習が歳暮になった。


日本文化いろは事典の解説
正月
正月とは本来、その年の豊穣〔ほうじょう〕を司る歳神様〔としがみさま〕をお迎えする行事であり、1月の別名です。現在は、1月1日から1月3日までを三 が日、1月7日までを松の内、あるいは松七日と呼び、この期間を「正月」と言っています。地方によっては1月20日までを正月とする(二十日正月・骨正 月)こともあります。


しょうがつ【正月】
暦の上での1年の切れめを祝う新年の行事。新年を迎えることを,年取り,年越しともいう。大晦日から元日にかけての行事に主体があるが,ほぼ1月いっぱい続く。行事の流れは,1日を中心にする大正月と,15日を中心にする小正月とに大別できるが,このほか7日の七日正月,20日の二十日正月を重視する場合もある。12月はすでに正月の始まりで,東北地方北部では,12月中に神仏の年取りがある。正月のしたくの開始は,一般には12月13日である。
 
◆正月
しょうがつ

1年の最初の月。また新年を祝う諸行事や、行事の行われる期間だけをいう。あるいは比喩(ひゆ)的な表現として、「盆と正月が一度にきたようだ」などというのは、大きな喜び事や晴れがましさを示すものであり、「雨降り正月」は正月を休み日の意味に受け止め、降雨のために野外での仕事ができないので、季節を問わず臨時に休日にすることをいう。「餅(もち)なし正月」は、大多数の家では正月に餅を食べるのに、ある家や一族に限って、昔から餅を食べないことを家例(かれい)にしている慣習をいう。昭和20年(1945)ごろまで、日本では人の年齢を「数(かぞ)え年」で計算していた。そのため正月になると、全国民が一斉に年をとるので、正月のことを「年取り」とよぶことが定着している。昔は太陽が西に沈んで、次に沈むまでを1日としていたから、大正月(おおしょうがつ)前夜の大みそかや小正月(こしょうがつ)前夜の14日を年取りとよび、また七草節供の前夜を六日(むいか)年取りという。[井之口章次]
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1年365日余を12か月に分割し、4年に一度の閏年(うるうどし)を置いて誤差を修正する太陽暦に慣れて、現代のわれわれはなんの疑問ももたなくなっているが、暦法の発達しない時代において、1年の初めを規定することは、きわめて困難なことであった。それは世界の暦の歴史をみても明らかである。日本の場合、1873年(明治6)に太陽暦を採用するまで、太陰太陽暦(旧暦)を使っていた。日常生活においては、微妙な太陽の位置を観測するよりは、月の満ち欠けを基準にするほうが簡便である。しかし誤差が大きいために、長期間続けていると季節があわなくなってくる。それを防ぐためには、閏月を設けて修正しなければならない。どこに閏月を設定するかは、月の満ち欠けだけでは不可能で、太陽の観測が必要になる。つまり太陰太陽暦は、日常生活は月に頼り、より高度な知識によって誤差を修正した暦である。中国は早くから進んだ暦法をもっていたから、それを取り入れ学ぶところが大きかった。古代の支配者は、暦を発行することによって支配権を確立した。一方、古代国家の成立前や以後でも、文字の読めない大多数の庶民の生活では、動植物など自然の観察から、およその季節感を体得することができたであろうし、天文学の知識がなくても夏至や冬至を知っていたに違いない。冬至を過ぎると「畳の目の一つずつ」あるいは「犬の足あと一つ分ずつ」陽(ひ)が高くなる、などというのは、自然観察に基づく経験知識である。北半球においては、冬至のとき太陽の力がもっとも弱まるのだとも考えられていた。それを回復させるための種々の祭りがある。冬至の祭りを重視したり、節分や立春を年の境とする考え方は、この流れを引くもののようである。月を基準とするとき、新月より満月のほうが観測しやすい。満月から次の満月までを1か月とするのが自然である。今日、1月1日を中心とする朔旦(さくたん)正月(大正月)より、1月15日を中心とする望(もち)の正月(小正月)のほうが古い形だとする考えがあるのは、これに基づいている。
 日本の民族形成に関しては諸説あっていまだ決着をみないが、初め狩猟・焼畑耕作を主生業とする人々が土着しており、あとから稲作を主生業とする集団が渡来し、稲作民族が他を圧倒するようになった、という説は広く認められている。現行の正月行事も、現在からさかのぼって把握できる限りの正月行事は、すべて稲作中心に塗り込められているが、かすかに焼畑時代の名残(なごり)と思われる行事もあり、稲作中心に再編成した改変のあとをたどることもできる。そういう立場から、年中行事全体を見直すことが必要であるが、稲作中心に塗りつぶされてからの歴史も古く、現行行事の基本になっているのも事実である。ここでは稲作中心の正月行事を解説し、必要に応じて焼畑その他にも触れることにしたい。
 正月に家々を訪れてくるトシガミ(年神)は、正月様、若年さん、年徳(としとく)様などともよばれ、穀物霊、ことに稲魂(いなだま)から発達した農耕神とされている。そして年神の神格形成にあたっては、祖霊信仰の影響を考えなければならない。先祖の霊に対する信仰は自然発生的なものであったろうが、ここにいう日本的祖霊信仰は、数種の神学風の理論を整え、中世末から近世にかけての時期に形成されたものであろう。祖霊信仰が整備されてからの正月は、盆とともに年に二度の魂(たま)祭り(祖霊祭)の機会で、個性を失って祖霊に融合同化した先祖の霊を迎え祀(まつ)る機会であった。ところが盆のほうは早くから仏教と結び付き、死者の霊の供養行事と考えられ、これに対抗して正月のほうは、死の穢(けがれ)に関係のない、清らかな祭りであることを強調した結果、盆と正月とはまったく別の行事のように理解されてきたが、年の夜に声をあげて死者の霊を呼び迎えるとか、東日本では年末か正月に、御魂(みたま)の飯に箸(はし)を突き立てて祖霊に供えるとか、主として西日本で元日に墓参をする習俗があるなどは、いずれも正月の魂祭り(先祖供養)の名残である。[井之口章次]
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12月13日ごろから始めるのが古風である。この日を煤(すす)とり節供、事始め、正月始め、正月おこしなどという。江戸の千代田城でも13日が煤掃きで、正月の祭りに先だつ物忌みに関係のある日であったが、のちにはただの大掃除と考えられ、期日も正月直前に繰り下げられた。昔は、いろりで薪(たきぎ)を燃す生活だったから、煤がたまったのである。門松については、江戸時代から急速に広まったのではないかといわれている。宮廷には門松を立てる習慣がないし、ある家、ある一族では、先祖が戦いに敗れ、松で目を突いたので、門松を立てない家例を守っているし、杉や榊(さかき)を立てる家もある。節分の柊(ひいらぎ)と同様に、ちくちくするものを門口に立てて門守(かどまも)りの呪物(じゅぶつ)としたものが、年神様の依代(よりしろ)と理解されるようになったのではないか。もとは他人の山から自由に切ってきてよいとされ、山の頂上近くの芯(しん)松をとって家に持ち帰ると、年神様もいっしょに迎えることになった。山から切ってきた松を数日間、屋外の清い場所に休ませておく所がある。門松を立てる日取りは、九松(くまつ)(苦松に通じる)といって29日や、一夜松(いちやまつ)といって大みそかに立てることを忌む。餅を搗(つ)く日も一定しないが、その村、その家では慣例があり、たいてい年末の1日を定めている。多く搗く家では労力交換のユイで搗いたり、都市部では賃搗きも流行した。やはり九餅は苦餅に通じるなどといって、29日の餅搗きを忌む。
 正月には家中が年神祭りの祭場になるので、屋内に注連縄(しめなわ)を張り巡らし、あるいはその簡略形として輪注連(わじめ)などを飾り付ける。年棚(としだな)は天井から吊(つ)ったり、鴨居(かもい)のところにしつらえ、その年の恵方(えほう)に向ける。年俵と称する米俵を祭壇にする所もあり、年桶(としおけ)という桶に、米、かちぐり、干し柿(がき)、するめ、昆布などを入れ、上に餅をのせたものを飾ったり、三方(さんぼう)の上に同様のものをのせて「蓬莱(ほうらい)」「お手かけ」「食積(くいつみ)」などという。九州や四国の一部では「幸い木(さいわいぎ)」と称し、松などの丸太を土間に横にかけ、魚、ダイコン、炭などを下げる。塩物のサケやブリをぶら下げ、「掛けの魚(うお)」という所は広い。門松の根元には、年木(としぎ)・新木(にゅうぎ)といって割り木を立てかけておき、これを正月中の燃料とする。正月準備の品々を整えるため、年の市(いち)も開かれる。
 おせち料理は、節(せち)の日(改まった機会)の料理ということで、本来は正月に限った名称ではなかった。食生活の貧しい時代には、煮しめ、ごまめ、昆布(こぶ)巻き、煮豆などのおせち料理の品々は最大の御馳走(ごちそう)で、正月は台所に立つことも少なくなるので、自然に保存食の趣(おもむき)をもってくる。大みそかの夜の食事を「おせち」「年取りの膳(ぜん)」などと称して、正月の正式の食事を、元日でなくこの夜に食べる所もある。古くは日没時を1日の境とし、大みそかの夜をすでに正月と考えた名残である。いまも、夕食後ふたたび膳につき、雑煮などを食べて年をとる風習を残す村がある。一般には年越(としこし)そばを食べることが広まっている。また大みそかの晩は、集落中の人が鎮守の社(やしろ)に集まって御籠(おこも)りをするとか、家々で過ごす場合は、いろりに大火をたき、火をたき続けて起き明かすものであった。寺院では百八つの除夜の鐘を鳴らして煩悩を払い、朝を迎えるが、古くは明け方についたもので、寺で勤行(ごんぎょう)のために朝晩ついていたのが、1年の総決算としての除夜に移行したのである。[井之口章次]
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元日の朝は、年神祭りの司祭者である年男が、早く起きて若水をくむ。年男は家長の役目であったが、仕事の内容は家事・雑事なので、長男にくませたり、下男にさせる家もあった。若水は人を若返らせる力をもつ水ということで、若水くみには新しい手拭(てぬぐい)と手桶を整え、この水で雑煮をつくったり、湯を沸かして福茶を飲んだり、顔を洗ったり、風呂(ふろ)を沸かしたりするもので、すべて年男の役目であった。いまでも年神様への供物だけは、男が上げることにしている所がある。雑煮は、年神様への供物を下ろして、ごった煮にして神と人とがいっしょに食べるもののことである。丸餅と角餅、みそ仕立てとしょうゆ味などの区別があるが、一般には餅吸い物のことをいう。大多数の雑煮には餅が不可欠のものとされているが、全国の雑煮を詳細に検討してみると、餅よりも里芋を重視するものがあり、また芋羹(いもかん)といって里芋の羹(あつもの)を食べる所がある。焼畑耕作を主生業とした時代の名残が、儀礼食のなかに姿をとどめているのではないかと考えられている。大みそかの晩から村氏神に御籠りしている場合もあるが、家々で年取りをするときには村氏神に初詣(はつもう)でをする。近隣の神社、寺院を含めて巡拝する例もある。恵方参(えほうまい)りの縁起を担ぐことが流行するようになると、その年の恵方にある社寺に参ることになり、いまは村氏神に限らず、著名な社寺を目ざす人が多くなった。年始の回礼などは都市的な行事であるが、分家の者が本家へ挨拶(あいさつ)に行き、「おおばんぶるまい」などといって、本家・分家の者が集まって共同飲食をすることは広く行われていた。
 お年玉というのは本来、家族の一人一人が自分の霊になぞらえた餅を出して並べておき、年神の霊威に触れて霊力を更新しようとするものであった。身祝いの餅というのは、その流れをくむものである。しかし年神の霊威は物理的な存在でない。分家の者が本家に挨拶に行くと、本家の主人が年神の代役になって餅を与える。こういうことから、目上の者が目下の者に与える餅その他を年玉というようになり、やがて金銭の形に統一されてきた。
 正月の仕事始めは、屋内作業、農作業、山仕事、商家の仕事始めに大別することができ、期日としては2日、4日、11日などが多い。屋内作業の仕事始めは、縄ない、藁草履(わらぞうり)作りなどの「ない初(ぞ)め」、女性は針仕事の「縫い初め」などがある。藁草履なら1足、針仕事なら袋の一つもつくって、あとは休む。寺子屋で手習い(習字)をするようになって、書初めも広く行われるようになった。農作業の仕事始めは、鍬(くわ)初め、一鍬(いちくわ)、農はだて、田打ち初めなどという。門松の小枝、鏡餅の小片、御神酒(おみき)などを持って田か畑に行き、供物をあげて拝んでから、鍬でちょっと土を打ってくる。山仕事の仕事始めは、竹でつくった折掛樽(おりかけだる)に酒を入れて山に行き、木の1本も切ってから別の立ち木に折掛樽を掛け、山の神を拝んで帰ってくる。そのとき切った木を若木といい、小正月の繭玉(まゆだま)の木にすることもある。
 漁村でも舟祝い、乗り初(ぞ)め、釣り初めなどといって、港の近くを2、3周してくる。商家の仕事始めは帳祝い、倉開き、初荷などといい、当日は実質的な商売をしないが翌日から始める。昔の武家では具足(ぐそく)開きがあり、剣道などの寒稽古(かんげいこ)もこの時期に重なってきた。農山漁村や家庭内の仕事始めは、実際の労働に先だつもので、形ばかりを模擬する予祝儀礼であるが、商家の倉開きなどは実務の仕事始めである。正月11日の鏡開きなどは、年神に供えた鏡餅を下ろし、打ち欠いて食べるのであるから、当然に年神祭りの終了を意味する。農村を中心とする年中行事に、商家や俸給生活者(武家)が参加することになって、予祝儀礼と実務の開始と年神祭りの終了儀礼とが混同して理解されるようになったのである。
 正月の3日間、5日間を、三が日(にち)、五かん日といって、正月のなかの中心的な期間として祝うが、門松を取り払うのは7日、11日、14日などで、門松の立っている間を松の内という。正月はめでたい祭りだという考えが強いため、三が日の間は僧侶(そうりょ)の来訪を嫌い、4日を寺年始として僧が各戸を回る。浄土真宗の濃厚な地帯では、三が日も僧侶の出入りを忌むことがない。6日の晩には若菜迎えがあり、春の七草を刻む。七草は時代によって変動があるが、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの7種で、とくにナズナを重視する。「七草なずな、唐土(とうど)の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に、ストトンストトン」などと唱えながら、七草たたきを行い、7日の朝は七日正月といって、七草粥(がゆ)(餅粥)をつくって一家で祝う。[井之口章次]
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元日を中心とする大正月に公的な行事が多いのに対して、15日を中心とする小正月は女の正月ともいい、呪術(じゅじゅつ)的な行事が集中している。餅花や繭玉は、木の枝や藁に餅や団子をつけ、秋の豊作を予祝するものであり、削花(けずりばな)や粟穂稗穂(あわぼひえぼ)も同じ趣旨のもので、ヌルデ、ヤナギなどの木を削掛(けずりかけ)にして、花のような作り物をこしらえる。雪の上や土間で田植のようすを模擬的に演技する「庭田植」、柿などの果樹に刃物を当てて豊作を約束させる「成木責(なりきぜ)め」、祝い棒で嫁の尻をたたいて多産をまじなう「嫁祝い」、年間の天候や農作物の豊凶を占う「豆占(まめうら)」や「粥占(かゆうら)」、害鳥などを呪術的に追い払う「鳥追い」や「もぐら打ち」など、農耕に関係した予祝や年占の行事が多い。
 年の境に遠くから尊い神が訪れてくるという信仰は世界的なもので、大正月の神もその一つであるが、小正月にもそれがある。秋田県男鹿(おが)半島のナマハゲばかりが著名になったが、同類の行事はホトホト、コトコト、アマミハギ、ナモミタクリなどとよばれて全国に分布する。青年や子供が仮装して遠来の神をかたどったものである。秋田県横手市などの「かまくら」と称する雪小屋は、全国に広く行われる正月小屋の一種で、屋外に臨時のかまどを設け、別火(べっか)・物忌みの生活を送るためのもので、「どんど」の火祭り行事と合体したものがあり、どんど小屋に寝起きしたのち、その小屋を火祭りで燃やす。16日は念仏の口明けとも鉦(かね)おこしともいい、正月中に遠ざけた仏教行事が解禁になる。また盆の16日と同じく藪(やぶ)入りの日で、嫁が里帰りしたり、奉公人に休暇を与えたりする。[井之口章次]
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祝言人(ほかいびと)という、めでたい文句などを唱えて家々を門付(かどづけ)して回り、米麦や銭をもらい歩く人々があった。万歳(まんざい)、春駒(はるこま)、獅子舞(ししまい)、福俵売りなどがある。また正月の遊びには、羽根突き、的射(まとい)、凧(たこ)揚げ、綱引、あるいは屋内では双六(すごろく)、かるた、宝引(ほうび)きなどがあり、それぞれ他の機会にも行われるが、年占的な性質をもっているところから、とくに正月の遊びになったのであろう。
 正月の終わりについては明確でない。年神を祀(まつ)る家庭祭祀(さいし)と規定すると、年神の依代である門松を外す時期ということになり、あるいは供物の鏡餅を下ろすときでもあるが、それぞれの期日は食い違っている。そういうなかで二十日(はつか)正月を正月終(じま)いとする例が多い。この日を骨(ほね)正月とか乞食(こじき)正月とかいい、正月用の新巻(あらまき)のサケやブリを吊(つる)したままで少しずつ切り取って食べていき、20日ごろには骨ばかりになっているものを、おもしろく表現したものである。1月のみそかや2月1日を正月の終わりとする所もある。[井之口章次]
 
◆【取越正月】より
暦日上の正月を待たずに年の途中に儀礼的に正月を迎え,旧年から脱しようとすること。天候不順で秋の実りが危ぶまれたり,悪疫が流行したり,天変地異が続くと,ときならずだれが始めるともなく餅を搗(つ)き,門松を立て,しめ縄を引き,服装を改めて正月礼に歩くことが起こり,次々に近隣に流行することがあった。

【年中行事】より
朝廷の祓の行事が6月と12月にあるのもその一例で,1年の前半と後半で行事が反復する。現代では正月と盆(盂蘭盆会)との対応に顕著に現れている。 《養老令》には朝廷の年中行事がみえている。
 
◆寺正月(テラショウガツ)
寺正月の用語解説
正月4日に行う、僧侶の年始回り。坊主礼。
 
◆本正月(ホンショウガツ)
本正月の用語解説
正月の、1月1日から7日まで。また、陽暦の正月に対して、陰暦の正月。大正月(おおしょうがつ)。
 
◆正月物(ショウガツモノ)
正月物の用語解説
正月を迎える用意の品物。特に、正月用の晴れ着。「―を拵(こしら)へたいにも隙(ひま)がなし」〈滑・浮世床・二〉
 
◆ほね‐しょうがつ〔‐シヤウグワツ〕【骨正月】
 西日本で、二十日正月(はつかしょうがつ)のこと。魚の骨まで食べ尽くすことからの称。《季 新年》「ものがたき―の老母かな/虚子」


骨正月
関東の一部、西日本から九州にかけて行われている行事で、二十日正月、七日正月、団子正月、二十日団子などの別称がある。正月の祝いに用意した塩鰤(ぶり)などの骨を、大根などと粕汁にして食べたので骨正月という。正月六日の夜から、七日の朝を節日とするところでは、刺のある樹枝、蟹の鋏のような尖ったものを戸口に挟み、炊いた粥に指の爪を浸したのち、爪を切る(七草爪という)。これは邪気、災禍を祓う呪い。正月用の魚をこの日までに食べてしまい、残った骨は正月最後のご馳走になる。東京の下町では、新巻鮭や干鱈で煮凝(にこご)りを作る。
乞食の骨正月や霙降る\大釜菰堂

「とっさの日本語便利帳」
ほねしょうがつ【骨正月】
主に西日本で、正月20日の称。正月も終わりに近づき正月用の魚の骨まで食べてしまうことからの名。



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