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●楠木正成

2018-01-15 13:52:29 | 政治

●楠木正成 
◆楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/楠木正成
後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に天皇を助けた[2]。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。

明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。

◆楠木正成
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nanboku/kusunoki.htm
楠木正成の登場.
楠木正成はこれほどの武将でありながら前歴はほとんどわかっていません。
ほぼ確実なことは、彼は河内・和泉を本拠地とする悪党だったということです。
 
当時鎌倉幕府は日本全国津々浦々を支配していたわけではなく、近畿地方は天皇領が多いこともあって幕府の支配力は比較的弱かったと思われます。鎌倉幕府はその成立過程からして農業政権で、幕府を作り支えてきた人たちはほとんどが大地主(つまり武装農民)でした。しかし経済圏としてみれば坂東のような東国がほぼ農業圏だったのに対し、近畿地方は商業圏といえばおおげさかも知れませんが全国的に見れば商業の発達している地域だったのです。

悪党はこうした社会環境、経済環境から生まれた反体制の新興武士団と言えます。
その語感には法律を犯す犯罪者、無法者のイメージがありますが、幕府から見てまさしく彼らは幕府にとって「悪党」でした。
その多くは野伏やあぶれ者で、強盗、ばくち、押買いなどを常習としており、幕府には手におえぬ存在だったのです。
正成自身がそうしていたのかは不明ですが、彼はこうした勢力と結びつく河内の土豪でした。
 
◆楠木正成を5分で!人気の理由は?伝説の「桜井の別れ」って?
http://r-ijin.com/kusunoki-masasige/
最終更新日:2017年11月20日 [鎌倉時代]
楠木正成(くすのき まさしげ)といえば、後醍醐天皇に最期まで忠義を尽くした正義の武将です。

個性的な戦法をたくさん持ち、「赤坂城の戦い」では、鎌倉幕府を徹底的に困らせました。

今回、楠木正成のかんたんな経歴、人気の理由について、伝説の「桜井の別れ」って?について、紹介していきますよ。

◆楠木正成
くすのきまさしげ
[生]?
[没]延元1=建武3(1336).5.25. 湊川
鎌倉時代末期~南北朝時代の武将。河内の土豪。
正成以前の楠木氏については不明。
元弘1=元徳3 (1331) 年,後醍醐天皇の召しに応じて笠置山の行在所に参向し,河内赤坂城に挙兵して六波羅勢の攻撃を防いだが落城。
翌年千早城を築いて籠城し,幕府軍の猛攻に耐え,諸国の反幕勢力の挙兵を促した。
建武中興の際その功により,河内,和泉の守護,河内の国守に任命された。
建武2 (35) 年足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと,新田義貞らとともにこれを討ち,いったんは撃退した。
翌延元1=建武3 (36) 年尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際,摂津湊川にこれを迎撃して敗死。
明治になって湊川神社に祀られ,正一位を追贈された。



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