縄文人のページ

何を書くかわからない

◆私たちに戦争を教えてください

2018-07-16 20:45:47 | 政治

◆私たちに戦争を教えてください①
視聴回数 23,887 回
https://youtu.be/voI0B8LYMuE
忽那麻里
2018/03/11 に公開
これが今の若い世代の声だということ。
そしてこれから戦争を経験していない私たちが何をしなければいけないのか。
ひとりひとりが考えなければいけないことだと思う。
 
◆終戦記念日、学校で習ったけど私も忘れていました。
でもこれを見て忘れてはいけないんだとハッとしました。
そしてこの平和がずっと続けばいいなと心から思います。
亡くなった日本人の方、また日本が殺してしまったアメリカの方々、どちらにもご冥福をお祈りします。
 
終戦記念日すらいえないなんて情けない。
戦争なんて起こらないなんて思っているから終戦記念日すらわからないんだよ。
 
◆海上自衛隊鹿屋航空基地
http://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/
2018年7月11日 職場体験学習を更新しました。

2018年7月 5日 群伍長交代披露を更新しました。

2018年7月 5日 基地見学ツアーを更新しました。

2018年7月 4日 夏休み見学ツアー案内を更新しました。

2018年6月11日 ツバメ観察ブログを更新しました。

2018年6月 8日 基地体育競技を更新しました。

 
◆鹿屋航空基地 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/鹿屋航空基地
鹿屋航空基地(かのやこうくうきち、英:JMSDF Kanoya Air Base)
鹿児島県鹿屋市西原3丁目11-2に所在し、第1航空群等が配置されている海上自衛隊の基地。
主に哨戒機や救難ヘリコプターの航空基地として、日本の南西海域の安全保障と、奄美群島から甑島列島に及ぶ
広大な海域・離島の海難・急患輸送を担当する部隊が利用する。
 
◆鹿屋航空基地史料館 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/鹿屋航空基地史料館
鹿屋航空基地史料館(かのやこうくうきちしりょうかん)は、鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊の航空史料館である。
昭和48年(1973年)12月に開館し、平成5年(1993年)7月には「新史料館」としてリニューアルオープンした。
大日本帝国海軍鹿屋航空基地時代から現代の海上自衛隊に至るまでの写真や文献、実機(復元)等を展示することによって、
戦争・神風特別攻撃隊の実態、現代海上自衛隊の装備の変遷・活動等を明らかにし、
それによって国家を守ることの意味が理解されることを企図している。
保管資料数は約5500点である。
 
◆特別攻撃隊 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/特別攻撃隊
特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)は、「特別に編成された攻撃部隊」[1]。略称は「特攻隊」(とっこうたい)[2]。当記事では、攻撃自体を指す特別攻撃(とくべつこうげき)およびその略称の特攻(とっこう)についても記述する。

語源は太平洋戦争の緒戦に日本海軍によって編成された特殊潜航艇「甲標的」の部隊に命名された「特別攻撃隊」の造語からである[3]。同戦争の末期には、爆弾や爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、潜水艇等の各種兵器、もしくは専用の特攻兵器を使用して体当たりし自爆するといった戦死を前提(後者)とするものが中心となった。海外の例では、第二次世界大戦末期の独空軍におけるゾンダーコマンド・エルベがある。
 
◆神風特別攻撃隊 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/神風特別攻撃隊
神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、しんぷうとくべつこうげきたい)
第二次大戦で旧日本軍陸海軍が体当たり戦法のため編制した、特別攻撃隊。略称は「神風」、「神風特攻隊」、「特攻隊」。
概要
飛行機に爆装して体当たりした「航空特攻」と、特殊潜航艇や人間魚雷などの「海上特攻」とがあった。
 
◆日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由   栗原 俊雄
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50145
特攻。「十死零生」の作戦はなぜ生まれたのかを探る本連載。最終回は、次第に「成功率の低い作戦」と判明していく中で、それでもなぜこの作戦を止めることができなかったのか。その「謎」を紐解く。毎日新聞・栗原俊雄記者のスペシャルレポート。
(前・中篇はこちらから http://gendai.ismedia.jp/list/author/toshiokurihara)
 
◆「神風特別攻撃隊」の本当の戦果をご存じか?(栗原 俊雄) | 現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50088
一隻撃沈のために、81人の命が犠牲に…
特攻。今日では美化されて語られることの多い「十死零生」のこの作戦。一方で、はたしてその戦果がどの程度だったのか、が語られることは少ない。毎日新聞記者・栗原俊雄氏が、ある特攻隊員の証言と史料をもとに、歴史の闇に斬り込む。
 
◆「特攻」十死零生の作戦に選ばれた、若きエリートたちの苦悩
ある、元特攻兵の証言
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49998
特攻。「十死に零生」のこの作戦を命じられたのは、当時のトップエリートを含
む若者たちだった。なぜ彼らは特攻隊員として選ばれたのか。歴史の「闇」を、
『特攻』の著者で、毎日新聞・栗原俊雄記者があぶり出す。
 
◆終戦70年「私たちに戦争を教えてください」小栗、松坂、福士、有村、広瀬が ...
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/sensou_oshiete/index.html
2015年8月15日(土)放送終了
放送内容詳細
戦争を知る生き証人の世代が減少し、対照的に戦争を知らない世代が増加している。
この番組は戦争を知らない若者5人が、自分と同じ年頃を戦争のまっただ中で過ごした戦争体験者に会い、
自分の言葉で問いかけ、戦争とは何かを学んでいく番組。
戦争を知らない世代の代表として、小栗旬、松坂桃李、福士蒼汰、有村架純、広瀬すずという
今最も影響力のある5人が「いま、会っておかなければいけない人がいる。
今日、聞いておかなければいけない声がある」という番組コンセプトを自ら体現していく。
 
◆私たちに戦争を教えてください - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/私たちに戦争を教えてください
私たちに戦争を教えてください』(わたしたちにせんそうをおしえてください)は、2015年8月15日(終戦の日)にフジテレビ系列で放送された戦争の大型ドキュメンタリー番組である。終戦70年番組。ゴールデンタイム・プライムタイム(19:00 - 23:10)に約4時間にわたり放送された。
 
◆「70年前の恋を教えてください」広瀬すず - 白狸の考現家 +TV・RADIO
http://jnsk-tv.hatenablog.com/entry/2015/09/05/004858
2015/09/05
 終戦70年ドキュメンタリー
┏┓   <「私たちに戦争を教えてください」>
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


    この番組は戦争が本当はどんなものだったのか
      体験した人々に話を聞きその悲惨さや
      虚しさを伝えることを意図しています。

  そのため実際の戦闘場面や遺体の映像なども含まれます。
     特にお子様等の視聴にはご注意ください。
戦時中、一人の少女が愛しい人達への揺れる思いを綴ったもの。
... 日記の少女は70年前と変わらず、この町に暮らしていた。
◇八牧美喜子さん(86) ※旧姓加藤。16歳の頃に特攻隊員を見送った (今回取材を受けた理由) ....
・70年前、たった数ヶ月、時を共に過ごしてきた人を 今もこうして見守る人がいる。
 
◆麦と兵隊 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/麦と兵隊
『麦と兵隊』(むぎとへいたい)は、1938年に出版された火野葦平の小説。戦記文学。
また、それをもとにした戦時歌謡。『土と兵隊』『花と兵隊』とあわせ「兵隊3部作」とも呼ばれている。
現在は、社会批評社から『土と兵隊』と併せて出版されている(ISBN 4907127022)。
時代背景
『麦と兵隊』は、捕虜の支那兵を日本軍の軍人が斬首するのを火野が反射的に目を背け、
火野が自分自身のその当たり前の人間としての反応に自ら安堵する感想で終わる。
前年末の南京攻略戦の折の百人斬り競争が本土および海外の紙面を賑わせた結果、国内では問題視されなかったが、
海外では虐殺行為が国際的非難を呼び起こして軍部が対応に苦慮していた時期である。

本作品は、発表翌年の1939年、
婦人運動家石本シヅエによる英訳“Wheat and soldiers”(New York Farrar & Rinehart, Inc. [©1939])を皮切りに、
翌1940年にはロンドンの書肆から兵隊三部作等をまとめた英訳“War and Soldier”が刊行されるなど約二十カ国語に翻訳され、
日本国内における記憶の低下に反して現在でも評価は高い。英訳版『麦と兵隊』を読んだパール・バックは、
当時、日本を政治的に批判していたにもかかわらず、
「この小説の著者たる日本人青年が善良であること、そしてこの作品が偉大なものであることを否定できない」と賞賛した。

火野は本作品によって、いわば帝国軍人の規範としての役割を担わされ、戦時中は除隊帰還後も各地で講演などを行った。
このため敗戦後間もなく復員兵から罵声を浴びるなどもし、1947年の「黄金」には戦後の希望に満ちた内容とは裏腹に、
既に復員兵の戦時中の上官への復讐心を書いた逸話も見える。
翌1948年にはGHQに文筆家としての追放処分を受けた。
これらのことは、1960年の新安保条約締結直後の自裁に至る戦後の火野の足取りに、暗い影を落としていると見られる。
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-mugitoheitai.html
JASRAC No.085-0006-1  昭和13年(1938年)
麦と兵隊  作詞:藤田まさと
 作曲:大村能章
 歌唱:東海林太郎
 編曲・制作:滝野細道
 
(一)
徐州徐州と 人馬は進む
徐州居よいか 住みよいか
洒落た文句に 振り返りゃ
お国訛(なま)りの おけさ節
ひげがほほえむ 麦畠
 
(二)
友を背にして 道なき道を
行けば戦野は 夜の雨
「すまぬすまぬ」を 背中に聞けば
「馬鹿を云うな」と また進む
兵の歩みの 頼もしさ
 
(三)
腕をたたいて 遥かな空を
仰ぐ眸(ひとみ)に 雲が飛ぶ
遠く祖国を はなれ来て
しみじみ知った 祖国愛
友よ来て見よ あの雲を
  
(四)
行けど進めど 麦また麦の
波の深さよ 夜の寒さ
声を殺して 黙々と
影を落として 粛々と
兵は徐州へ 前線へ
 
この「麦と兵隊」は火野葦平が戦地報道として従軍し、帰国して纏めた同名小説<麦と兵隊>を映画化したときの主題歌です。作詞の藤田まさとは、最初<生きて帰った 生きて帰った>という出だしの歌詞を作ったところ、<軍人は死ぬことを本分とするものである>と軍部から大目玉をくらった、というエピソードがあったそうです。しかしこの歌詞をよく見てみますと、戦意高揚ではなく、むしろ兵の悲しみ苦しみと望郷の思いが伝わって来るような不思議な軍歌に見えてきます。藤田まさとのこの心の中の気持ちが一挙に現れたのが昭和29年の「岸壁の母」だったのでしょう。この「麦・・」に「土と兵隊」「梅と兵隊」が続きます。
 
◆『土と兵隊』(つちとへいたい)
https://ja.wikipedia.org/wiki/土と兵隊
『土と兵隊』(つちとへいたい)は、火野葦平の小説、
またそれを原作として昭和14年(1939年)に公開された日本の戦争映画である。
 
◆昭和29年(1954年)      JASRAC No.054-0025-2
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-ganpekinohaha-origin.html
岸壁の母          
 
作詞:藤田まさと
作曲:平川浪龍
 歌唱:菊池章子(曲目リスト)
 MIDI制作:滝野細道
 
(一)
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
届かぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
 
(三)
悲願十年 この祈り
神様だけが 知っている
流れる雲より 風よりも
つらいさだめの つらいさだめの
杖ひとつ 
 
この「岸壁の母」は、菊池章子の<正調:岸壁の母>です。
<正調>というわけは、昭和47年に大ヒットした二葉百合子の<リメイク版:岸壁の母>があるからです。
普通何人がリカバーしても構わないのですが、昨今、岸壁の母=二葉百合子、と云われている風潮には異論があります。
二つの岸壁の母はメロディーと歌詞は同じでも、背景に流れる精神や時代的価値は全く違うものなのです。
『歌は世に連れ世は歌に連れ』といいますが、先ず、この歌のヒットした時代背景が重要であることです。
作詞の藤田まさと、作曲の平川浪龍とも、NHKラジオで『帰還名簿に名前がなくても”もしや”の気持ちにひかされて、
岸壁に息子の帰還を待ちわびて佇む端野いせさん』の報道に義憤と反戦の意気に燃えて一晩で書き上げた、
というものですから単なる<お涙頂戴>の歌ではないのです。この前年にフィリピンのモンテンルパから、
渡辺はま子達の尽力により死刑囚を含むBC級戦犯が釈放されたばかりで、
次にソ連(現ロシア)の抑留の理不尽さに国民の目が向いた、まさにこの時代の歌だったのであり、
それゆえにこの歌の大ヒットは価値があったのです。三番の<悲願十年>というのがまさにこれを表しています。
第二に、この歌を菊池章子が歌ったから、ということがあります。
菊池章子も渡辺はま子同様戦時中は慰問団に加わって戦意高揚に努めましたが、戦後それを反省した一人です。
当クラブにもある「星の流れに」はその気持ちがベースとなってできあがった歌です。
戦後生きるために進駐軍兵士相手の娼婦となった女性が数多くいました。その女性達は身を売って、結果的に
進駐軍兵士から一般女性の性を守ったこととなったのですが、人々(特に為政者)は自分達の所業で悲惨な結果を招いておきながら、
その結果の彼女等を<パンパン>とか<パン助>などと呼んで蔑んだのです。
作詞の清水みのるはこのような状況に憤りを感じ、実際に彼女たちの中に入って取材をし、
その意気に感じた菊池章子により、”こんな女に誰がした”という当時の国民を譴責する反戦歌が出来上がったのです。
この「岸壁の母」はそれらの第二弾ともいえるもので、歌詞を見ますと単なるお涙頂戴の歌ではないのです。
<こんな母に誰がした>ということなのです。
第三に、昭和47年版に台詞が挿入されたことです。
少し前、森進一の歌う「おふくろさん」について作詞者川内康範が、保富庚午が作詞した台詞を冒頭に挿入したことに、
著作人格権の同一性保持特権に基づく抗議を申し入れた事件がありました。
川内康範の歌詞の内容は、<お母さんの薫陶のおかげでちゃんと生きてこられた。ありがとう>というモチーフが主体ですが、
冒頭に入れられた台詞は<自分は(お母さんに薫陶を受けたのに)いけない子でした。もう一度叱ってもらいたい>、と、
歌詞内容と全く違う台詞をくっつけてしまったものですから、川内康範が激怒するのも頷けます。
二葉百合子版の「岸壁の母」に三箇所の浪曲調(瞼の母調)の台詞が入ったことにより、所期の歌の趣旨が失われました。
昭和47年という時代を考えますと仕方が無いかともいえますが、「岸壁の母」=二葉百合子という図式は
MIDIを製作していて違和感を覚えます。
二葉百合子が嫌いと言うわけではないですが・・・
 
◆東海林太郎 麦と兵隊
視聴回数 240,550 回
https://youtu.be/kqVCV-TQTsg
Theworkwasunknown
2010/06/13 に公開
 
◆北支から南下した亡き父が号泣して話してくれた戦友の爆死や発砲、飢えて靴を食べたこと・・・
栄養失調で帰還した父の思いを胸に、東海林太郎さんの直立不動の歌は心に染みます。
平和であることに慣れてしまってはいけません。
戦争に舵を取る安倍自民党を許すことができません。
 
◆最後の慰霊祭:原町飛行場で訓練受けた戦死者悼む 遺族高齢化で /福島 ...
https://mainichi.jp/articles/20171013/ddl/k07/040/056000c
2017/10/13
太平洋戦争中、南相馬市にあった「原町陸軍飛行場」で離着陸などの訓練を受け、特攻隊などに加わり亡くなった
戦没者の慰霊祭が9日、陣ケ崎公園墓地(同市原町区)であった。
1971年以来47回目の開催だが、遺族の高齢化で運営が困難になり、今年が最後の慰霊祭。
市は関係者の要望を受け、市主催戦没者追悼式典の関連行事などとして存続させられないか検討中だ。
 
◆各地の慰霊祭 - 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会
www.tokkotai.or.jp/events
3, 旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者追悼式, 鹿屋市
4, 都城市特別攻撃隊戦没者慰霊祭 都城市特別攻撃隊奉賛会
18, 原町飛行場関係戦没者慰霊祭, 原町飛行場関係戦没者慰霊顕彰会
19, 旧海軍航空隊串良基地出撃戦没者追悼式 鹿屋市
23, 秋田県「特攻勇士の像」慰霊祭, 東雲飛行場奉賛会
24, 福岡県特攻勇士慰霊祭 福岡県特攻勇士慰霊顕彰会
 
◆原町飛行場と戦争展 - 南相馬市
https://www.city.minamisoma.lg.jp/index.cfm/24,26513,137,html
2015/09/25
原町飛行場と戦争展  
展示期間 平成27年9月6日(日曜日)から10月12日(月曜日・祝日)
開館時間 9時00分から16時45分(最終入館は16時00分まで)
休館日  毎週月曜日
     ただし、9月21日(月曜日・祝日)・10月12日(月曜日・
     祝日)は開館。
     9月24日(木曜日)は休館。
観覧料  一般 300円(250円) 高校生200円(150円)
 小中学生100円(80円)
※( )内は20名以上の団体割引料金
市内と飯舘村に居住・通学・住所を有する小中高生は無料です。
障がい者の方とその付添いの方1名は無料(手帳の提示が必要)です。
リーフレットをご覧いただけます [345KB pdfファイル]
http://www.city.minamisoma.lg.jp/index.cfm/24,26513,c,html/26513/20150924-164452.pdf
「原町飛行場と戦争展」について
 この展示では、陸軍飛行兵の訓練所であった原町飛行場のこと、そこで訓練した特攻隊員と地域住民との
 交流、空襲、集団疎開、そしてこの地から出征した方々とその家族の暮らしなど、戦時中の人びとの生活について紹介します。
 「原町飛行場」では、原町区八牧家より寄贈された手紙などの特攻隊関係の資料を中心に展示し、「人びとの生活」では、
 防空頭巾などの民俗資料や入営ののぼりなど軍隊生活に関する資料、そして当時の写真などを展示します。
 総展示資料数は96点となりました。
 終戦から70年目を迎えたいま、忘れられつつある悲劇の歴史を伝え、戦争によって亡くなった方々の想い、
 そして平和の尊さについて考える機会となることを望みます。
 
◆私たちに戦争を教えてください②
視聴回数 8,808 回
https://youtu.be/V2YesR9ZOL4
忽那麻里
2018/03/12 に公開
 
◆私たちに戦争を教えてください③
視聴回数 8,034 回
https://youtu.be/-sg7ZVweuPo
忽那麻里
2018/03/12 に公開
 
◆私たちに戦争を教えてください④
視聴回数 8,923 回
https://youtu.be/mH12N3kP-4g
忽那麻里
2018/03/12 に公開

コメントを投稿