3年前の6月以降、先輩からの紹介で勤務した新宿勤務も昨日が最期の勤務となった。前期高齢者にとっては、ほどほどの緊張感と何と言っても、超高層ビルからの眺望は抜群だった。夜景もよし、日中もよし・・・。黎明時の徐々に太陽が昇り、都会の夜明けを迎える時などは神々しささえ感じる。26日は職員の歓送迎会を開催していただき、技術職員との日々の勤務を思い出しつつ、ここでの3年3カ月を無事に、健康に勤めることが出来たことを有難く思った。九州福岡では高校のクラスメートがミニクラス会で一杯やっているとか・・・・。もう東京に出かけることも少なくなるだろう。
先週末、新宿勤務を終え、ご近所のONさんご夫妻と久しぶりに山梨~長野方面をドライブした。午後1時、東名高速~圏央道~中央道を通り石和温泉に行く。一昨年ごろ警備勤務をした厚木金田付近の圏央道も工事には長期間を有するが走行すると瞬時に通過した。急に懐かしくなり、当時の職長をしていたH君に電話した。当時の現場がちょうど《圏央厚木》というPAになっていた。快適に飛ばし、八王子JCにさしかかり、長野方面に行くべきところ、勘違いし八王子方面に入り、無駄な走行をしてしまった。東京方面⇔長野方面と明示してあれば間違えることはないが、東京方面を新宿、長野方面を河口湖と表示してあり結構間違いが多いのではと思った。石和健康ランドに入り25日は石和発~美ヶ原高原~諏訪湖をドライブする。美ヶ原高原は空気も格別に冷たく気持ちよかった帰りに《片倉館》温泉に入り、ウナギの老舗料理店《小林ウナギ》特重でプチ贅沢した。帰宅は2300近くだった。【全走行距離:約550km】
残暑とは名ばかり、広島県では地すべりで大きな被害が出ている。関東はここしばらくは猛暑続き状態。今日は藤沢の現場で今月5日目の勤務だった。63歳から始めた勤務も間もなく5年を迎えようとしている。藤沢は《パナホーム》の住宅建築の現場で、鉄骨や建築資材の荷降ろし、移動などをクレーンでやるのだが、その威力は人力の何百倍かはかり知れない。どこの工事現場でもお婆さんやお母さんに連れられ散歩途中の男の子が、ブルドーザやユンボ・クレーンが力強く動くのを、まんじりともせず飽きもせず《ジ~~ッ》と見ていて、連れの大人を困らせているのをよくみる。女の子がそうしないのを考えると、動物界の《男》は力強さ、逞しさは生まれ持ったDNAなのかもしれない。今日の現場近くには小学3年生の男の子がいた。極端に忙しくないのでその男の子としばらく話をした。日本と米国が過去に戦争をした、とか、昔中国や南北朝鮮を日本が支配していた・・・という話までなり、学校で習ったの?自分で勉強したの?と聞くと、お母さんが分かりやすく教えてくれたと言っていた。それも極端な偏りもない大人の常識を良く理解していたのには驚くとともに、《教育の大切さ》を痛感した。話のはずみで、男の子から見ればお爺さんかもしれない私が「おじさん自衛隊にいたことがあったんだよ」と言うと、僕も自衛隊に入ろうかな・・と独り言を漏らしていた。ささやかな募集活動だった・・・。【写真なし】
早朝の清々しい気持ちで今日を終えようとしていたが、NHKの終戦番組を観ているうちに胸糞が悪くなってきた。この国の国営放送たるNHKは何をどのようにしようと思っているのか・・。鳥越俊太郎と言えば視聴者の誰でもがこれまでの報道番組などでの活躍を知っており、人気キャスターではある。彼の番組初頭での発言で、「私は戦争を知っている・・・」と言っていたが、彼は終戦当時5歳だったそうだ。戦時中のことを記憶していると言えば表現として正確だろうが、《知っている》ということとは大違いではないか。番組を通じて終始、現状を直視しない《戦争は絶対にしてはならない》ということを偉そうに話しているし、イラク紛争も現地取材をしたのでと語りまくっていた。戦争はしてはならないということはおそらく全国民の総意ではないかと思うし、勿論私自身も忌避している。国を守る政策や装備をすると周辺国に刺激を与えるのでよくないとか、憲法に《戦争放棄》が定められている・・・ので絶対にだめだと主張する。ならば、何もしなければ隣国は何もしない、攻めてきたとしても戦になるからこちらは抵抗しない・・・といったことが本当にできると思っている。同胞への侵略、略奪、強姦、暴行などがあっても、鳥越氏は無抵抗なのだろうか。裁判官の判決でも、凶悪犯罪を犯した犯人に非常識な軽い判決を下す裁判長、その裁判長の肉親、家族が無残に殺されても同じ冷静な判断ができるだろうか。《戦争放棄》《戦争反対》のお題目で平和が維持できると思っている鳥越氏には本当に胸糞が悪い。どんなでたらめな夢のようなことを発言している鳥越氏は、銃を持って最前線で戦うことは絶対にないのだから・・・。
今日は69回目の終戦記念日であり、朝早く家内と車で九段まで行き、参拝した。 途中で《チャンネル桜》のインタビユーを受ける。とっさのことであり躊躇した。数日後放映されるとのこと。少し中に入ると、代表の水島氏がおられたので立ち話する。本殿に進み、過去の戦争で戦陣に散った方々のご冥福をお祈りした。 帰途に早川霊園に眠る義姉の墓参をし9時少し前帰宅する。自由に靖国に参拝できる身がなんと幸福であるかを実感した。近隣諸国の姑息な外交手段に《靖国参拝》が使われるべきではないことを痛感する。
昨日からお盆帰省などで高速道路は渋滞しているようだ。 子供の頃のお盆といえば嫁いだおばさん達に連れられ、いとこ達が来てくれるのが楽しみだった。知らないおじさんやおばさんがお墓参りに来て賑やかだった。全国でのお盆の行事は種々あるようで、迎え火・送り火、野菜で牛や馬を作りお供えする等々。山口の実家ではそのような習慣はないように記憶している。 今年のお盆は、妹たち3人の家族が実家で過ごすらしいが、私は秋からの長期帰省を考慮し、お盆は帰らないことにしている。約20年前に53歳で急逝した義姉が川崎の霊園に眠っているので家内と墓参に行く予定である。 暑い暑いといいつつも、今朝はそれほど感じない、朝方などは秋さえ感じる爽やかな涼風が吹いていた。この時期になると子供~少年の頃、郷里では毎年《芝居興業》を3日+アンコール1日くらいでやっていた。大人も子供も公民館の広場には座りきれないほどの盛況で、夕方になると早い時期に《ござ》を担いで、席の確保をするのは私の担当だった。暗くなると家族がぞろぞろ来てござに座る。親父たちは重箱をつつきながら一杯も二杯もやり、芝居見学なのか宴会なのか見分けがつかなくなる。そのうち互いに酒がまわりつかみ合いの喧嘩になったりと賑やかなお盆だった。今は公民館も子供たちも、田舎芝居も何もなくなり、ひっそりとしている。【写真なし】
今日は夕刻から原宿において、海自幹部候補生時代の暑気払いクラス会が行われた。久しぶりに16名のクラスが参加した。先輩のクラスや後輩のクラス会も開かれていたので、クラス以外の現役当時の仲間とも話すことができた。私は明日は、別にどこが悪い訳ではないが、年に一度の《胃カメラ》を朝一でやることになっているので、品行方正、二次会も心を鬼にしつつ、静かに帰宅した。それにしてもクラスの連中、よく飲むなあ~・・・。
思えば長生きしたものだ。誕生日になるといつもそう思う。昭和20年8月大東亜戦争が終わり、敗戦ではあったものの日本全体が終戦という区切りでホッとしたのも本音だろう。終戦直前の6月、母は萩市から農家の長男の元に嫁いできた。父はまだ戦時中で満州~済州島~を転々と移動しており、結婚式は父の写真としたようだ。結婚式を済ませまだ戦争が継続していたら、所在が転々とする父の所に行く予定だったと話していたが、終戦でそれもかなわず10月に父が復員し私が生まれたのだ。10月10日・・計算は合う。それにしても運命のいたずらで世が世であれば私は生まれてこなかったのかもしれない。子供の頃、風邪をこじらせ小児結核という病気にかかり、骨皮筋衛門状態だったそうで、薬もなく、たまに手に入る卵のおかゆと私の生きる力のみが頼みだったと話していた。その頃は多くの子供たちが生まれてすぐに亡くなったそうだ。
あれから68年、骨皮筋衛門だった赤ん坊もお相撲さんと見間違えるほどの健康優良爺になってしまった。医師が少し太り気味ですねと遠慮気味に言ってくれるが、医師じゃなくても誰が見ても少し体格が良すぎる。あと何年元気に過ごせるか、誰にもわからない・・それが人生、それも人生・・・願わくばあと10年は自分の意のままに健康に行動できれば有難いのだが・・・。これだけは神様以外に誰にもわからない。【写真は小学2年当時の近所の結婚式に新調の服で行き、仲間と遊び過ぎズボンも上着も泥んこでお袋に怒られた時のもの】
あれから68年、骨皮筋衛門だった赤ん坊もお相撲さんと見間違えるほどの健康優良爺になってしまった。医師が少し太り気味ですねと遠慮気味に言ってくれるが、医師じゃなくても誰が見ても少し体格が良すぎる。あと何年元気に過ごせるか、誰にもわからない・・それが人生、それも人生・・・願わくばあと10年は自分の意のままに健康に行動できれば有難いのだが・・・。これだけは神様以外に誰にもわからない。【写真は小学2年当時の近所の結婚式に新調の服で行き、仲間と遊び過ぎズボンも上着も泥んこでお袋に怒られた時のもの】