今日46年ぶりにインド~ブータン~上海~九州南方から硫黄島付近で皆既日食が観れたと報道していた。 46年前といえば昭和38年、つまり私は高校2年生だったが、そんな記憶は全くない。 今度は26年後の2035年に皆既日食となるそうである。 太陽と月の大きさと距離のため不思議な日食現象、ダイヤモンドリングを観ることが出来るのだ。 悪石島は天候不良、硫黄島付近まで進出した船のデッキ上からは綺麗な天体ショーを観ることが出来たようだ。(写真は報道写真拝借)
11日は海上自衛隊のクラス会、翌12日午前中に横浜の自宅を出発し、京都まで行く。西本願寺近くの「京都東急ホテル」に宿泊、ホテル内の「たん熊」で夕食をとる。翌13日は西本願寺・清水寺などを散策するも、盆地特有の暑さに負けお昼過ぎには京都を脱出? 中国自動車道を西に向かう。鳥取にて下車し、舞鶴当時のAさん夫妻を訪ねる。夕食をご馳走になり、自宅にて歓談夜遅くお宅を出る。14日実家の近くまで山陰の9号線を主に走り、俵山温泉にて汗を流した後実家に行く。ここの温泉がとても気持ちがいい。お昼前に着いたので一休みし、下関の唐戸市場にて買い物、吉見にお住まいの先輩を訪ねる。 夕方は同級生のヤマヨ水産社長、北宇賀のM君のお母さんを訪ねた。今回の帰省の主目的は母の今後についてであった。日常生活では殆ど違和感を感じない程度の「認知症」初期段階であり、デイサービスなどを含めた今後進行を進めない対策をと思い母には言うのだが、大正生まれ、昭和の激動を生き抜いてきた者にはなかなか通じない。最期にはなるようにしかならないというのが結論ではあるが・・・・。休暇中は親戚の伯母たちの家、角島方面へのドライブ・狗留孫山(くるそん)ドライブなどを楽しみ、19日朝、実家を発つ。中国道~新名神~西名阪~伊勢湾岸~東名経由 深夜12時ごろに厚木に着く。美祢インターから厚木までの自動車道を利用し、2,100円であり、車も比較的少なく助かった。 会社の指定休暇制度をしての帰省だった。次回の帰省での母の進行が進んでいないことを祈るばかりである。
昨日11日午後3時から原宿水交クラブで「海上自衛隊のクラス会」が開催され家内同伴で参加した。 参加できるのが健康のものさしかもしれない。久し振りのクラス同士は若かりし頃の武勇伝、家族のこと、子どもさんの成長、健康、年金と話題は尽きない。頭も白く、薄く、体型も種々さまざま・・・。それでも顔をよく見ると江田島で過ごした当時の顔が蘇ってくる。来年4月は江田島での40周年クラス会が計画されている。日々健康で来年も参加できるよう健康管理に留意したいものだ。(写真:参加者全員にて)
いよいよ再就職している現会社から、9月一杯までで雇用止めの辞令を頂戴した。定年再雇用制度の終了というわけだ。 早速自分の道は自分で探さなければと思い7日(木)「援護協会」を訪ねた。 担当者の驚くほどの無愛想さに最初からこりゃ駄目だと直感した。 再々就職は「首から下」というのは充々自分でも分かっているつもりだったが、その担当者の誠意のない対応にあきれ返った。8月後半から9月一杯は有給休暇で会社を休み、就職活動をしなければならない。他力本願では駄目だということがはっきり分かったので、再々就職くらいは自分で納得のできる仕事をやりたいと思っている。 ハローワークを調べると結構いい所があるようだ。
中学校に進学すると隣の小学校の約30名の同級生が一緒になった。それでも全員で100名くらいで2クラスのままだった。わたしの1クラス下からは戦後のベビーブームの影響で3クラスとなった。野球部での球拾いばかりさせられた私は卓球部に入った。練習はしたが結局ものにはならず、対外試合ではいつも負けていた。それでも学校近くにある桜山招魂所の階段を上がったり降りたりし、足腰を鍛えた。何しろ田舎の中学校であり、勉強にしても特段、競争意識などもなく、高校進学の為に頑張ったという記憶は一切ない。友人と白滝山の登山を楽しんだり、海まで片道10kmくらいの距離を自転車で出て磯遊びや泳ぎを楽しみ、疲れたあとで又自転車で帰っていた。当時の友人も小学校の校長を終えた者、米国で自動車会社で成功している者等々がおり、大自然の中で自由闊達に過ごしたこども~少年時代が大きな肥やしになっていると思う。 今の時代欲しいものは全て手に入り、美味しい食べ物はいつでも食べることが出来る。 それでも我々の少年時代と比べて「しあわせか?」と聞かれたときその答えは如何なものだろうか?(画像なし)
小学校4年生頃になるとスポーツに明け暮れる毎日だった。 放課後は学校でソフトボール、学校でソフトボールをやらない日は途中の神社の境内でソフトボールといった状態だった。男と女が一緒に話をするとか、遊ぶことなど全くなかった。相撲は毎日しているわけではないが、村祭りの日には神社の土俵で腕白相撲があり、2組合わせて50人足らずの同級生男子であったが、5人抜きなどがあった。得意技などあるわけがなかったが、不思議と強かった。4年生~6年まで毎年5人抜き相撲では賞品を貰ったことを記憶している。6年生の夏には町内7つの小学校の対抗軟式野球大会が高校のグラウンドで開かれた。下関市内から転校してきたT・N君は田舎ではちょっとした豪腕投手だったし、小学校の校長になったH・Tもとても上手かった私は外野のレギュラーで殆どレフトかセンターを守っていた。後に下関商業に引っ張られた「西鉄ライオンズ(当時)の黒い霧事件」で有名だった池永正明さんも同い年で神玉小学校の投手だった。 体つきも私達よりグンと大きく、大人と同じくらいだった。神玉小との試合があり、池永の投げた球を必死に振ると、まぐれ当たりでライト方向に飛んでいった。ライトがトンネルをしたせいで私はランニングホームランを打ってしまった。(私だけが記憶している密かな思い出である)。
そんなに好きだったソフトボール(野球)だったので、中学校に進級し部活を選ぶときは躊躇なく「野球部」を選んだ。おそらく幼馴染の「校長」も一緒だった。しかし現実は厳しく、T・N君やY・S君はピッチャーとして入部当初から球拾いなどは殆どせず、私や校長は球拾い専門、それもファウルなどで近くの田植えあとの田んぼに落ちるので球拾いするのに田の草取りをするようなものだった。馬鹿らしくなって1ヶ月くらいで退部したが、あのままやっていたらどうなっていただろう。そう思いめぐらすことも案外と面白い。 プロになっていないことは確実だが・・・・・。 その野球の監督(先生)は米軍基地で通訳などされていたそうで外人そっくりの発音、素敵な美人の奥様で官舎にお住まいだったが、数年前に他界されたそうだ。(今回写真添付なし)
そんなに好きだったソフトボール(野球)だったので、中学校に進級し部活を選ぶときは躊躇なく「野球部」を選んだ。おそらく幼馴染の「校長」も一緒だった。しかし現実は厳しく、T・N君やY・S君はピッチャーとして入部当初から球拾いなどは殆どせず、私や校長は球拾い専門、それもファウルなどで近くの田植えあとの田んぼに落ちるので球拾いするのに田の草取りをするようなものだった。馬鹿らしくなって1ヶ月くらいで退部したが、あのままやっていたらどうなっていただろう。そう思いめぐらすことも案外と面白い。 プロになっていないことは確実だが・・・・・。 その野球の監督(先生)は米軍基地で通訳などされていたそうで外人そっくりの発音、素敵な美人の奥様で官舎にお住まいだったが、数年前に他界されたそうだ。(今回写真添付なし)
先週日曜日の午前中、近所の都筑民家園で歯切れ布での草履作りを家内と楽しんだ。 浴衣や、カーテン、シーツなど一旦現役を退いたハギレが見事な草履に返信するのだ。 ひょっとしたらこの布草履も私みたいなものかななんて思いながら不ぞろいながらもどうにか手順などを理解し、一足作ることが出来た。 何といってもリサイクルだし、履き心地が最高なのだ。 時間を見て少しずつ上手になりたいものだ。