平成版徒然草

自由気ままにその時々の感想や写真などを残しておきたいと思いBLOG作成を思い立ちました。作成から早9年経過・・

わたしが子どもだった頃(4)

2009-05-28 22:12:29 | Weblog
写真は小学2年生の時のものである。 T先生は優しい、美人の先生だった。そのころ私は少し「おマセ」だったかもしれないが、気になるコがいた。今思うと何とおマセなんだろうと思う。 席替えが月に一度あり、そのコが近くであるとやる気も、成績もその間はよくなった。何とゲンキンなんだろう。 とはいいながらも女と男が話をするなどあり得なかった。女のコは何をしていたか知る由もないが、私達悪ガキは野球では巨人軍、背番号16「川上哲治」・プロレスでは力道山・相撲では若乃花などを憧れの人物と思いつつ運動したものだ。今頃になり同窓会などやると「何であの頃男女が話をしなかったんだろうね」などと相互にそんな話題になる。 男女が話などすると男は女々しくなる・・・なんて言われるのでつとめて男らしくと思われるスポーツに興じていた。 それでも別に不都合なかった。その気になるコとはそれから中学校3年まで殆ど同じクラスだった。今は郷里の農家に嫁ぎ、農作業に年中体を酷使している。

わたしが子どもだった頃(3)

2009-05-25 21:14:25 | Weblog
写真は小学1年生のとき、冬の校庭で女先生と一緒に写ったものである。当時の学校教育は先生も、子供たちも今に比べてゆったりとしたものだった。近所の山にお弁当を持ってミニ遠足したり、教師と子弟のつながりも強く、教師もまさに聖職の言葉どおり父兄からも子弟からも尊敬され、ある意味では怖い存在であった。先生から怒られ、家に戻って親に話すとまた怒られるといった始末である。今のように生活が豊かであっても給食費等を払わないことなど、本当に生活に困った家庭だけであった。 当時は下関と言う地理的特性のせいか韓国人の同級生が多くいて、小学2年のころみんな親と一緒に(北)朝鮮に帰っていった。何といっても冒険ごっこやチャンバラ、罠を作ってヒヨドリやツグミなどを捕り蛋白源とした。最近の新インフルエンザ・花粉症等々あるわけがなく元気に遊び、適当に勉強をしていた。そんな古き良き時代である。

わたしが子どもだった頃(2)

2009-05-24 08:23:00 | Weblog
この写真は4歳頃の写真である。元気な明るい伯母と近所のお姉さんに連れられ近くのお祭りに行く途中、「街頭写真」家から撮ってもらったそうである。いたずら盛りの私の頭には生傷が絶えず「できもの」があっちこっちにでき、今でもその痕跡がしっかりと残っている。何しろ「メンタム」や「オロナイン軟膏」などあるわけではなく、ドクダミを焼いたのをくっ付けたり、膏薬を張ったりで、あとは自然治癒を待つしかなかった。 当時は「越中富山のはんごんたん」と記憶しているが、各家庭に常備の薬箱があり薬のおじさんが不足分を充足し商売していた。子どもには紙風船などくれていた。実家の奥の部屋には当時の常備薬の箱が未だに眠っている。今と違って食べ物も着るものもみすぼらしかったが人と人の心の繋がりや温かさは今とは比べ物にならない。 この1枚の写真でふと蘇った記憶である。

わたしが子どもだった頃(1)

2009-05-24 07:14:24 | Weblog
この古びた写真は父の字で昭和23年1月と記入されていた。私が小児結核にかかり、戦後の医師不足、薬の不足、不衛生等でいつ死んでもおかしくないと言われた大病を不思議と乗り越え、骸骨に皮をかぶせた状態からどうにか人に見せられるようになった時期のようだ。父は満州に従軍中であり、母は萩市から父不在の福永家に「写真結婚」(父の写真が新夫側に置いての結婚式)で嫁いだそうだ。そんなことや大病(を乗り越えたこと)など覚えている筈もないが、「ものごころ」がつく頃からともかく近所の大自然を遊びまくり、その後は一度も優等賞はもらったことはないが、「はしか」や軽い風邪は引いたものの、小学校・中学校・高校を通じ1日も休まず皆勤賞は毎年貰っていた。当時の家族は祖父母、両親、叔父、叔母、兄妹等9~10人が同居していた。近所の家族もほぼ同じようだったのでこどもの歓声が絶えなかったし、近所の付き合いも親密であった。たまに帰省すると殆どのお宅が独居家庭(婆さん)が殆どであり限界集落状態であり、郷里を離れたことに罪悪感さえ感じてしまう。 子供の当時の大家族、近所同士の親しいお付き合い・・そんな時代にこれから戻ることなどはないだろう。                                               今後もこのブログに私の人生過程を連載してみたい思っている。       (写真は父と私の貴重な1枚です。)

上越、信州秋山郷の旅

2009-05-18 05:52:04 | Weblog
先週、木・金休みをとり、斑尾を基点に3連泊の旅に行ってきた。14日は主として移動と上越市の天地人の史跡春日山城跡、天地人博を見学し、夕刻タングラムに到着した。翌15日は竜王~奥志賀~秋山郷を縦走予定なるも、道路未整備のため断念、途中で山菜採りを楽しむ。麓に戻り117号線にて津南~秋山郷に行き、数年前に尋ねた「仁成館」にご挨拶、妻たちは岩の露天風呂に入る。夕食は十日町市のそば屋「由屋(よしや)」でとり、野沢で温泉卵を作り、共同浴場「熊の手洗い湯」に入り、11時前にタングラムに帰着する。16日は妻達は近くの山で山菜採り、朝食後木島平の望郷の湯「馬曲(まぐせ)温泉」でのんびり、帰りにまたまた野沢に行き温泉卵を作成、今度は共同浴場「大湯」に入り、新鮮な馬刺しを購入。 早めに帰着しホテルにて最終日の晩餐を楽しむ。17日はお天気が崩れ、そのおかげで自動車道も順調に野尻湖~八王子を1,000円で戻ることが出来た。 写真は飯山の「阿弥陀堂」

蓼科方面旅行

2009-05-02 10:08:31 | Weblog
4月25日~29日(27・28日休暇)に蓼科方面を旅行した。25日横浜を出発、お天気もあまりよくなかったので中央自動車道もガラガラ状態であった。5時過ぎ蓼科東急ハーヴェストに到着のんびり疲れを癒す。翌日は蓼科湖近くの聖光の満開の桜を見たのち、熱海にお住まいのKさんからいただいた無料券で伊那谷道中(満願成就の湯)を楽しむ。27日は高遠城址~一路国道152号線を南下し、大鹿村~小渋の湯~しらびそ峠に行く。白雪をいだいた南アルプスの連山を目の前にし大自然の雄大さに感動する。 峠越えをし、日本のチロル「下栗の里」、遠山郷経由で途中で夕食をとり蓼科のホテルに戻る。翌28日はビーナスラインを快走、南アルプス・中央アルプス、遥かに富士山を臨むことが出来た。美ヶ原高原で休息し蓼科には早めに戻る。29日は9時半ごろホテルを発ち、ガラガラ状態の中央道を走り、毎年恒例の川崎市宮前区のAさんのお宅での「藤棚鑑賞会」に12時過ぎに到着し、途中参加する。 それにしても会社の厚生施策で格安(一泊朝食付き2,500円)の4連泊はとても満足できた。 また機会があれば利用したい。