ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党(9)浪士ら最期のこと

2022-03-20 | 茨城県南 歴史と風俗

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (8)の続き    

 第11章 3

〔元治2年の3月 馬籠宿〕
  元治2年の3月になった。
恵那山の谷の雪が溶けはじめた季節を迎えて、
山麓にある馬籠の宿場も活気づいた、
伊勢参りは出発する。

 中津川商人はやって来る。

 宿々村村の人たちの無尽の相談、
山林売払いの入札、
万福寺中興開祖乗山和尚五十年忌、
および桑山和尚十五年忌など、
村方でもその季節を待っていないものはなかった。

 毎年の例で、
長い冬籠りの状態にあった街道の活動は彼岸過ぎのころから始まる。

 諸国の旅人をこの街道に迎えるのもそのころからである。

 その年の春は、
ことに参期交代制渡を復活した慕府方によって待たれた。

 幕府は老中水野和泉守の名で正月の25日あたりからすでにその催促を万石以上の面々に達し、
三百の諸侯を頤使した旧時のごとくに大いに幕威を一振しようと試みていた。

 諸物価騰貴とともに、諾大名が旅も困難になった。

 道中筋の賃銀も割増し、割増しで、
元治元年の3月からその年の2月まで五割増しの令があったが、
更にその年3月から来たる辰年2月まで3カ年問五割増しの達しが出た。

 実に10割の増加だ。
諸大名の家族がその困難な旅を冒してまで、
幕府の命令を遵奉して、
もう一度江戸への道を踏むか、どうかは、見ものであった。

 この街道の空気の中で、
半蔵は伊那行き以来懇意にする同門の先輩の一人を馬籠本陣に迎えた。

 暮田正香の紹介で知るようになった伊那小野村の倉沢義髄だ。

 その年の2月はじめに郷里を出た義髄は
京大坂へかけて50日ばかりの意味のある旅をして帰って来た。  

 義髄の上洛はかねて噂のあったことであり、
この先輩の京都土産にはかなりの望みをかけた同門の人たちも多かった。

 義髄は、伊勢、大和の方から泉州を経めぐり、
そこに潜伏中の営和田胤影(たねかげ)を訪い、
大坂にある岩崎長世、および高山、河口らの旧友と会見し、
それから京都に出て、
ただちに白河家に参候し神祗役伯資訓卿に謁し祗役の上申をしてその聴許を得、
同家の地方用人を命ぜられた。

 彼とが京都に留まる間、
交わりを結んだのは福羽美静、池村邦則、小川一敏、矢野玄道、巣内式部らであった。

 彼はこれらの志士と相往来して国事を語り、
ともに画策するところがあった、という。 

 彼はまた、
ある日偶然に旧友近藤至邦に会い、
相携えて東山長楽寺に隠れていた品川弥二郎をひそかに訪問し、
長州藩が討幕の先駆たる大義を聴くことを得たという。

 これらの志士との往来が幕府の嫌疑を受けるもとになって、
身辺に危険を、感じて来た彼はにわかに京都を去ることになり、
夜中江州の八幡にたどり着いて西川善六を訪い、
足利木像事件後における残存諸士の消息を語り、
それより廻り路をして幕府探偵の目を避けながら、
放浪約50日の後郷里をさして帰って来ることが出来たということだった。  

 この先輩が帰省の途次、
立ち寄って行った旅の話はいろいろな意味で半蔵の注意をひいた。

 義髄と前後して上洛した清内路の先輩原信好が
神砥伯白河殿に奉仕して当道学士に補せられたことと言い、

義髄が同じ白河家から地方用人を命ぜられたことと言い、
従来地方から上洛するものが堂上の公卿たちに遊説する縁故をなした白河家と
平旧門人との結びつきが一層親密を加えたことは、
その一つであった。

 西にあって古学に心を寄せる人々と連絡のついたことは、
その一つであった。

 12年の飯田を去った後まで
平田諸門人が忘れることの出来ない先輩岩崎長世の大坂にあることが分ったのも、
その一つであった。

 しかしそれにもまして半蔵の注意をひいたのは、
何と言っても討幕の志を抱く志士らと相往来して
ともに画策するところがあったということだった。

 そういうこの先輩は最初水戸の学問から入ったが、
暮田正香と相識るようになってから吉川流の神道と儒学を捨て、
純粋な古学に突進した熱心家であるばかりでなく、
篤胤の武学本論を読んで武技の必要をも感じ、
一刀流の剣法を習得したという肌合いの人である。

 古学というものもまだ伊那の谷にはなかった頃に
行商しながら道を伝えたという松沢義章、

和歌や能楽に堪能なことから
それを諸人に教えながら古学をひろめたという甲府生まれの岩崎長世、
この2人についで平田派の先駆をなしたのが義髄などだ。

 当時伊那にある4人の先輩のうち、
片桐春一、北原稲雄、原信好の3人が南を代表するとすれば、
義髄は北を代表すると言われている人である。

「青山君---こんな油断のならない旅は、わたしも初めてでしたよ。」 


 これは一度義髄を見たものが忘れることの出来ないような頬髯の印象とともに、
半蔵のところに残して行ったこの先輩の言葉だ。

 半蔵は周囲を見回した。
 義髄が旅の話も心にかかった。

〔討幕運動の赴くところ〕
 あの大和五条の最初の旗挙げに破れ、
生野銀山に破れ、
つづいて京都の包囲戦に破れ、
さらに筑波の挙兵につまずき、
近くは尾州の御隠居を総督にする長州征討軍の進発に屈したとは言うものの、
所詮このままに塀息すべき討幕運動とは思われなかった。

 この勢いの赴くところは何か。 

 そこまで衝き当ると、半蔵は一歩退いて考えたかった。

 日ごろ百姓は末の考えもないものと見なされ、
その人格なぞはてんで話にならないものと見なされ、
生かさず殺さずと言われたような方針で、
衣食住の末まで干渉されて来た武家の下に立って、
すくなくも彼はその百姓らを相手にする田舎者である。 

 仮りに楠公の意気をもって立つような人がこの徳川の末の代に起って来て、
往時の足利氏を討つように現在の徳川氏に当るものがあるとしても、
その人が自己の力を過信しやすい武家であるかぎり、
またまた第2の徳川の代を繰り返すに過ぎないのではないかとは、
下から見上げる彼のようたものが考えずにはいられなかったことである。 

 どんな英雄でもその起る時は、
民意の尊重を約束しないものはないが、
一且権力をその掌中に収めたとなると、
かつて民意を尊重したためしがない。

 どうして彼がそんなところへ自分を持って行って考えて見るかというに、
これまで武家の威力と権勢とに苦しんで来たものは、
そういう彼ら自身にほかならないからで。

 妻籠の庄屋寿平次の言葉ではないが、
百姓がどうなろうと、
人民がどうたろうと、
そんなことにお構いなしでいられるくらいなら、
何も最初から心配することはなかったからで・・・・  

 考え続けて行くと、
半蔵は一時代前の先輩とも言うべき義髄に
何と言っても水戸の旧い影響の働いていることを想い見た。

 水戸の学問は要するに武家の学問だからである。

 武家の学問は多分に漢意の混ったものだからである。
 
 例えば、
 水戸の人たちの中には
実力をもって京都の実権を握り
天子を挾んで天下に号令するというを
何か丈夫の本懐のように説くものもある。 

 たとい、それが止むに止まれぬ慨世のあまりに出た言葉だとしても、
天子を挾むというはすなわち武家の考えで、
篤胤の弟子から見れば多分に漢意の混ったものであることは争えなかった。

 武家中心の時はようやく過ぎ去りつつある。
 先輩義髄が西の志士らとともに画策するところのあったということも、
もしそれが自分らの生活を根から新しくするようなものでなくて、
徳川氏に代るもの出でよというにとどまるなら、
日ごろ彼が本居平田諸大人から学んだ中世の否定とはかなり遠いものであった。

 その心から、彼は言いあらわしがたい憂いを誘われた。 

 水戸浪士に連れられて人足として西の方へ行った諏訪の百姓も、
ぽつぽつ木曽街道を帰って来るようになった。 

 諏訪の百姓は馬籠本陣をたよって来て、
一通の書付けを旅の懐から取り出し、
主人への取次ぎを頼むと言い入れた。
 
 その書付けは、
敦賀の町役人から街道筋の問屋に宛てたもので、
書出しに信州諏訪飯島村、
当時無宿降蔵とまず生国と洛前が断わってあり、
右は水戸の浪士について越前まで罷り越したものであるが、
取り調べの上、
仔細はないから今度帰国を許すという意味を認めてあり、
ついては追放の節に小遣いとして金壱分をあてがってあるが、
万一途中で路銀に不足したら、
街道筋の問屋でよろしく取り計らってやってくれと認めてある。  

 半蔵はすぐにその百姓の尋ねて来た意味を読んだ。
 武田耕雲斎以下、水戸浪士処刑のことはすでに彼の耳に入っていた際で、
自分のところへその書付けを持って来た諏訪の百姓の追放とともに、
信じがたいほどの多数の浪士処刑のことが彼の胸に来た。

 「且那、わたくしは鎗をかつぎまして、
  昨年11月の27日にお宅の前を通りましたものでございます。」
 降蔵の挨拶だ。 


 旅の百姓は本陣の表玄関のところに立って、
広い板の間の前の片隅に腰を曲めている。

 ちょうど半蔵は昼の食事を済ましたころであったが、
この男がまだ飯前だと聞いて、
玄関から手を叩いた。

 家のものを呼んで旅の百姓のために簡単な食事の支度を言いつけた。 

 「この書付けのことは承知した。」と半蔵は降蔵の方を見て言った。
 「まあ、いろいろ聞きたいこともある。
  こんな玄関先じゃ話も出来たい。
  何もないが茶漬けを一ぱい出すで、勝手口の方へ廻っておくれ。」 

 降蔵は手を揉みながら、玄関先から囲炉裏ばたの方へ廻って来た。
 草鞋ばきのままそこの上りはなに腰掛けた。

「水戸の人たちも、えらいことになったそうだね。」 


浪士ら最期のこと
 それを半蔵が言い出すと、
浪士ら最期のことが、諏訪の百姓の口からもれて来た。

 2月の朔日、2日は敦賀の本正寺で大将方のお調べがあり、
4日になって武田伊賀守はじめ24人が死罪になった。 

 5日よりだんだんお呼出しで、
降蔵同様に人足として連れられて行ったものまで調べられた。

 降蔵は6番の土蔵にいたが、
その時白洲に引き出されて、
5日より10日まで惣勢かわるがわる訊間を受けた。 

 浪士らのうち、
134人は15日に、103人は16日に打首になった。

 そうこうしていると、ちょうど17日は東照宮の忌日に当ったから、
御籤を引いて、
下廻りの者を助けるか、
助けないかの伺いを立てたという。

 ところが御籤のおもてには助けろとあらわれた。
そこで降蔵らは本正寺に呼び出され、
門前で足枷を解かれ、
一同書付けを読み聞かせられた。

 それから一旦役人の前を下り、
門前で髪を結って、
またまた呼び出された上で最後の御免の言葉を受けた。

 読み聞かせられた書付けへは爪印を押して引き下った。
その時、降蔵同様に追放になったものは76人あったという。 

 「さようでございます。」と降蔵は同国生まれの仲間の者だけを数えて見せた。

 「わたく」同様のものは、
  下諏訪の宿から一人、
  佐久郡の無宿の雲助が一人、
  和田の宿から一人、
  松本から一人、
  それに伊那の松島宿から14、5でした。
  さよう、さよう、まだそのほかに高遠の宮城からも一人ありました。

  なにしろ、お前さま、
  昨年の11月に伊那を出るから、
  わたくしも難儀な旅をいたしまして、
  すこしからだを悪くしたものですから、
  しばらく敦賀のお寺に御厄介になってまいりました。
  まあ、命拾いをしたようなものでございます。 

  お民は下女に言いつけて、
飯櫃と膳とをその上りはなへ運ばせた。

「亀山さんもどうなりましたろう。」

 それをお民が半蔵に言うと、
降蔵は遠慮なく頂戴というふうで、
そこに腰掛けたまま飯櫃を引きよせ、
折りからの山の蕨の煮つけなぞを菜にして、
手盛りにした冷飯をやりはじめた。

 半蔵は鎗をかついで浪士らの供をしたという百姓の骨太な手を眺めながら、
「お前は小荷駄掛りの亀山嘉治のことを聞かなかったかい。
 あの人ははわたしの旧い友達だが。」

「へえ、わたくしは正武隊附きで、
 兵糧方でございましたから、
 よくも存じませんが、
 重立った御仁で助けられたものは一人もございませんようです。
 
 ただいま申し上げましたように、
 わたくしは追放となりましてから患いまして、
 しばらく敦賀に居残りました。

 先月17日以後のこともすこしは存じておりますが、
 19日にも76人、23日も16人が打首になりました。」


「とうとう、
 あの亀山も武田耕雲斎や藤田小四郎なぞと死生をともにしたか。」 

半蔵は拍民と顔を見合わせた。 

  

              藤田小四郎の像 (筑波山神社) 
 


 おまんをはじめ、
清助から下男の佐吉までが水戸浪士のことを聞こうとして、
諏訪の百姓の周囲に集まって来た。

 この本陣に働くものはいずれも
前の年11月の雨の降った日の恐ろしかった思いを噛み返して見るというふうで。  

 順序もなく降蔵が語り出したところによると、
美濃から越前へ越えるいくつかの難場のうち、
最も浪士一行の困難を極めたのは国境の蝿帽子峠へかかった時であったという。

 毎日雪は降り続き、馬もそこで多分に捨ておいた。 

 荷物は浪土ら各自に背負い、
降蔵も鉄砲の玉の入った葛籠を負わせられたが、
まことに重荷で難渋した。

 極極の難所で、木の枝に取りついたり、
岩の間をつたったりして、
ようやく峠を越えることが出来た。

 その辺の五カ村は焼き払われていて、人家もない。
 よんどころなく野陣を張って焼跡で一夜を明かした。
 兵糧は不足する、雪中の寒気は堪えがたい。
 降蔵と同行した人足も多くそこで果てた。

 それからも雪は毎目降り続き、
峠は幾重にもかさなっていて、
前後の日数も覚えないくらいにようやく北国街道の今庄宿までたどり着いて見ると、
町家は残らず土蔵へ目塗りがしてあり、
人一人も残らず逃げ去っていた。

 もっとも食糧だけは家の前に出してあって、
何分火の用心頼むと張紙をしてあった。

 その今庄を出てさらに峠にかかるころは深い雪が浪士一行を埋めた。
 家数40軒ほどある新保村まで行って、
一同はほとんど立往生の姿であった。

 その時の浪土らはすでに加州金沢藩をはじめ、
諸藩の大軍が囲みの中にあった。
 

 降蔵の話によると、
彼は水戸浪士中の幹都のものが3、4人の供を連れ、
いずれも平服で加州の陣屋へ趣くところを目撃したという。

 加州方からも平服で周旋に来て、
浪土らが京都へ嘆願の趣は叶わせるようせいぜい尽力するとの風聞であった。 



【続く】
島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (10)  


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 島崎藤村の「夜明け前」に描... | トップ | 島崎藤村の「夜明け前」に描... »
最新の画像もっと見る

茨城県南 歴史と風俗」カテゴリの最新記事