筑波山神社
筑波山を神体山として祀る神社であり、
主要社殿は男体山本殿、女体山本殿及び拝殿で形成されている。
中腹に大鳥居がある。
創建は不詳。
筑波山は『常陸国風土記』でも富士山と対照されるほどの山容を持っていることから、
関東平野に人が住み始めた頃から崇められてきたともいわれる。
筑波山は江戸城の北東の奇門にあたることから、将軍家の信仰と保護を受けた。
筑波山神社の由来
筑波山神社は坂東無双の名嶽とうたわれた筑波山を境内とし、
万葉集に「二神の貴き御山と神代より人の言い継ぎ」と崇められているように、
古代山岳信仰に始る国内屈指の古社である。
西峯男体山頂(871m)の磐座に筑波男大神(伊弊諾尊)を、
東峯女体山頂(877m)の磐座に筑波女大神(伊捧再尊)を祀る。
山下の南面中腹(270m)に拝殿があり、
これより山上の境内地(筑波山)を御神体として拝する古代の形が維持されている。
男体山本殿 (男体山、標高871m)
女体山本殿 (女体山、標高877m)
筑波山を御神体と崇めまつる神体山信仰に発し、
古来春秋両季に行われる御座替祭に供へまつる神衣(かんみそ)に御神霊を奉遷して御神体となす。
拝殿
男体山本殿及び女体山本殿を遥拝する。
廃仏毀釈前は筑波山知足院中禅寺があった。
現在の筑波山神社主要部は拝殿周辺にあるが、
拝殿は明治8年(1875年)に中禅寺跡地に造営されたものである。
そのため「元来の筑波山神社」とは「男体山頂祠・女体山頂祠」を指すものとされる。
つくば市臼井の六所神社跡(現在は廃社)が両祠の里宮であった。
〔筑波山縁起〕
筑波山縁起によれば、当神社の創祀は遠く神代に始る。
天地開開の初、諾冊二尊が天祖の詔をうけて高天原を起ち、天之浮橋に並び立ち給う、
天之瓊矛(あめのぬぼこ)を以って槍海をかき探り給えば
鉾の先よりしたたり落ちる潮凝って、一つの島となる。
即ち二神は東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨し給い、
天之御柱を見立て、左旋右旋して東西御座を替え給い、
相対面なされて夫婦となり大八洲国及び山河草木を生み給う。
次に日神、月神、蛭児命、素盞鳴尊を生み八百万神を生み給う。
〔記紀〕
記紀に伝える「おのころ島」とは筑波山のことで、
この故に筑波山は日本二柱の父母二神、皇子四所降臨御誕牛の霊山であり、
本朝神道の根元はただ此山にあるのみと伝えている。
その後 人皇の御代に入って、
神武天皇の紀元元年、筑波山神社男体女体両宮が創祀され、
崇神天皇の御世早くも筑波国が建置されて
采女臣(うねめのおみ、物部氏)の友族筑波命が国造(くにのみやつこ)に任命された。
成務朝の阿閉色命(あべしこのみこと)を経て大化の改新に至るまで、
子孫相承けて祭政一致の制に某き世々筑波国造が当神杜に奉仕していたが、
以後もまた筑波国造の称号を伝承して慶長の世に及んだ。
〔景行天皇〕
景行天皇の御代日本武尊の御東征に当り、尊は当山に登拝し給いて連歌嶽の遺跡をとどめ給い、
帰途甲斐国酒折宮(さかおりのみや)にて「にひばり筑波をすぎて幾夜かねつる」と御詠あり、
連歌の濫しょう をなし給うた。
神道歌道もと一つにて、連歌を「つくばの道」と称し、遂には日本独特の俳句を生んでいる。
〔神功皇后三韓征伐〕
次いで神功皇后三韓征伐の砌、敵国降伏のために御勅願あり、
且つ応仁天皇御懐妊あるを以て安産を祈り給い、
御凱陣の後神田を寄せ給うと共に御腹帯を当神社に納め給うた。
これ当山の秘社常陸帯(ひたちおび)宮創祀の由緒で、
神領民には鹿島神宮祭頭祭、御造営の料を充てることを御勅免あらせられ、
鎌倉・徳川の世もまた旧慣により免ざられた。
奈良時代から平安時代
奈良時代の『万葉集』には筑波の歌25首が載せられている。
筑波山は常陸国を代表する山であった。
奈良時代末から平安時代初め頃には、法相宗僧の徳一が筑波山寺、
のちの筑波山知足院中禅寺を開いた。
これにより神仏習合が進み、筑波山は有数の修験道の道場に発展した。
〔皇極・天武両朝〕
降って皇極・天武両朝には圭田を奉ぜられて神礼を行はせられ、平安時代を迎えた。
即ち嵯峨天皇の弘仁14年1月21日(823年)従五位下筑波神、霊験顕著なるを以て宮社に列し、
また文徳天皇の嘉祥3年9月26日(850年)伊勢神宮、加茂神社に奉幣の時、
当神社にも使を遣はして奉幣せられ(続日本後紀)。
〔清和天皇〕
以来漸次昇叙して清和天皇の貞観13年2月(871年)男神を従三位、
同16年11月女神を正四位下に叙せられた。
更に寛平5年12月(893年)両神共に一階を進められ、
延喜の制に男神は名神大杜に女神は小社に列せられた。
〔後醍醐天皇〕
醍醐天皇の延喜5年4月(905)、紀貫之は古今和歌集20巻を撰上したが、
その序に、天皇の御世の長久を「さざれ石にたとへ筑波山にかけて」願ひ、
その御聖徳を
「広き大めぐみのかげ、筑波山のふもとよりしげくおはりまして、
よろづのまつりごとをきこしめす」と述べ、
筑波山が天皇の御聖代を象徴する霊山として厚く尊崇されていたことを偲ばせている。
鎌倉時代から江戸時代
鎌倉時代初期には常陸国守護の八田知家(小田氏祖)の子の八郎為氏が
筑波国造の名跡を継ぎ、筑波別当となった。
この筑波為氏(明玄)の子孫は以後筑波氏を称し、
筑波神奉斎者かつ中禅寺別当を担った。
中世の動向は明らかでないが、
慶長5年(1600年)に徳川家康により筑波氏が外されるまで、筑波神・中禅寺は筑波氏の統率下にあった。
江戸時代に入ると、幕府は中禅寺を篤く保護し、
中禅寺境内には多くの堂塔が建立され、
筑波山は神仏共立から仏教中心の霊地へと性格を変えた。
中禅寺に対する庇護の一方で筑波神の影は薄くなっていった。
〔源頼朝〕
武門の時代、建久2年(11191年)源頼朝は
安西三郎景益、上総介広常、千葉介常胤、茂木四郎義国等の武将を伴って当神杜に参詣、神領を寄進す。
弘安太田文に伝う、筑波社56町60歩と。
また頼朝の異母弟、八田知家は筑波山麓に小田城を築き、
且つ十男筑波八郎(明玄)をして筑波国造の名籍を継がしめ、
筑波別当大夫に補しその支族筑波大膳を社司に任じて当神社に奉仕させた。
〔徳川家康〕
天正18年8月(1590年)、徳川家康は江戸城に入城、
東北にそびえる筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇め、
慶長5年9月(1600年)関ヶ原の合戦に大勝の後、
山司筑波八郎以来の社家筑波氏をことごとく追没して
家康が厚く帰依していた大和国長谷寺の別当梅心院宥俊を筑波別当に補し、
知足院を再興せしめて将軍家の御祈願所となし、
筑波山神社御座替祭を以て江戸城鎮護の神事と定めた。
然して慶長7年11月25日(1602年)、筑波山神領500石(大字筑波)を寄進した。
〔二世光誉〕
宥俊の弟子二世光誉も家康の信任厚く、
慶長15年(1610年)江戸白銀町に護摩堂を建てて常府を仰付けられ、
慶長・元和の大阪夏冬の陣には陣中に在って戦勝を祈願し、
大願成就の後、元和2年10月(1616年)2代将軍秀忠は当山の社堂伽藍を普請した。
光誉上人五輪塔
家光が建てた中禅寺の見取り図
木村繁著『筑波山』 (崙書房 1977年)
〔3代将軍家光〕
さらに寛永9年(1632年)春、
3代将軍家光は新たに地を相し工を起して筑波山内の社堂伽藍
・・・・日枝神社本殿、春日神社本殿、厳島神社、神橋・・・・・・
をことごとく造営寄進し、同10年11月(1633年)工成り輪奐の美を尽くした。
日光東照宮の「三猿」より早く彫られた (日枝神社)
〔5代将軍綱吉〕
次いで5代将軍綱吉は知足院十一世隆光を重用し、
貞享元年(1684年)護摩堂を湯島に移し、
更に元禄元年(1688年)神田橋外に地境を倍加して宏荘な護摩堂を建立した。
次いで元禄8年9月(1695年)筑波山の本坊共々護持院と改称せしめ、
元禄3年2月に続いて8年正月に都合千石(大字沼田、大字臼井の2村)を加増したので、
筑波山神領は1500石となった。
護持院・知足院による寺領支配は江戸と筑波山に設けられた役所によって行なわれた。
筑波山役所には代官が置かれ、筑波、沼田、臼井村の庄屋(村役人)を介して農民たちを掌握した。
筑波町からは田畑に賦課される年貢のほか、
小間物店や茶屋などの営業者に課された店年貢、
山内の末社や諸堂から徴収した宮年貢があったという。
(『筑波山神社』から抜粋)
江戸時代以降の筑波山神社をめぐる歴史
(下記の記事を参照)
神仏分離と筑波山の廃仏毀釈
筑波山参詣と登山
筑波山信仰と物見遊山 昔も今も変らぬ男女の仲
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筑波山神社造営由来記
〔碑文〕
筑波山神社は、イザナギ、イザナミ ニ神御降臨の霊山で、
西峰に男体神、東峰に女体神を祀り筑波山神社と崇め奉る。
世々筑波造が奉仕し、嵯峨天皇の弘仁14年正月官社となり、
延喜式名神大社に列す。
慶長の始め徳川家康は、当山を以て江戸城鎮護将軍第一党の
御祈願所と定め、寛永11年三代将軍家光は山内の諸社堂伽藍を
悉く寄進造営し輪○その美を尽す。御神領千五百石。
元治元年の筑波山義挙を経て、明治元年の神仏分離の命により
当山は神体山信仰の古制に復し、明治8年拝殿を造営す。
その後、昭和3年4月、文部省古社寺保存課安間立雄技手の
設計管理にて唐波風千鳥風付銅板葺入母屋造りに改修し、
昭和30年5月男体山御本殿を改築す。
昭和51年5月24日、25日の両日、天皇・皇后陛下
当山に御幸啓遊ばされ、全山を挙げて御聖代を謳歌し奉る。
越えて昭和54年御本殿御造営奉賛会を結成して、
65年の風雪に堪えた女体山御本殿を改築し
更に記念事業として95年前建築の社務所に代えて
「人民集賀」と御神徳を称えた常陸風土記縁りの参集殿を建立して
先手堂に三重塔を配した江戸時代の裳構の再現、
及び百年前に亜鉛板一、仮葺きした随神門屋根の改修をはかり、
氏子崇敬者からなの浄財寄進により左の事業を行い
明治以来の宿願を達成す。
神明造堂板葺 昭和55年5月竣工
参集殿 新築 昭和57年4月竣工
寝階屋根唐破風付銅版噴入母造り
随神門屋根銅板葺替 昭和59年8月竣工
明年、筑波研究学園都市に於いて開催される
世紀の祭典科学万博つくば‘85を迎えるに当たり
御造営の由来を録して広大無辺なる神明の御加護を深く感謝し、
天下泰平国家安全、万民弥栄を精祈するものである。
昭和59年9月吉日
筑波山神社御本殿造営奉賛会
筑波山頂境界確定記念碑
〔碑文〕
延喜式の名神大社、筑波郡筑波山神社男女二神の神体山と崇められた
筑波郡筑波山の北側境界は奈良時代に遡る筑波、真壁両郡の行政境界である。
筑波郡筑波山は江戸時代には独立した行政単位で、
その北側は真壁郡羽鳥村に隣接していた。
明治の新政府で筑波山は筑波郡筑波町壱番地となり、
羽鳥村は真壁郡紫尾村に編入された。
大正時代を経て昭和5年5月に当時に
真壁郡紫尾村長泉榮一氏が筑波郡筑波町長原幹寿氏に
筑波山頂男体女体間の分水嶺境界を主張して境界の確定を求めたが
6年9月満州事変の勃発により中断した。
昭和20年8月、
大東亜戦争が終結し戦後の市町村再編で柴尾を合併した真壁町が交渉を再開して、
昭和32年8月12日水 戸地裁に行政境界の確定を求める訴訟を起こし、
同38年4月16日真壁町が全面的に勝訴した。
筑波町は筑波山神社を補助参加人に加えて、
東京高裁に控訴し、一審で主張してきた筑波山頂の北側に残る大木の現境界を改め、
古来からの三方境お迎え石、大石重を結ぶ歴史的境界を主張して、その立証に成功し、
昭和59年6月30日に逆転勝訴した。
真壁町は最高裁に上告したが、
昭和61年5月29日上告棄却の判決があり、
筑波郡筑波町と真壁郡真壁町との筑波山頂に於ける境界は、
東京高等裁判所昭和38年ネ第1179号境界確定請求の判決通り、
筑波山の女体山一等三角点を基点として測定された
図面表示のイ点の三方境から
ロ点お迎え石、ハ点石重、ニ点の石、ホ点駒返石、ヘ点の石、ト点の石、チ点の
官林石標264号の各点を順次直線で結んだ線であると確定した。
ここに筑波山頂に於ける筑波、真壁両町の行政境界問題の発生より確定に至る経過を碌し、
筑波、真壁両町が勝敗を度外視して心魂を傾け、
霊峯筑波山の歴史伝統を明確にして誤りがなく護持し得た喜びを伝えると共に、
特に筑波山神社境内地の歴史的境界に着眼して本件を勝訴に導いた神田五郎弁護士をはじめ、
関係者の功績を称え永く顕彰するものである。
因に、筑波研究学園都市に市制が施行されることになり、
昭和62年11月30日
筑波郡大穂町、同豊里町、同矢田部町と新治郡桜村の4ケ町村が合併してつくば市となり、
昭和63年1月31日に筑波町がつくば市に合併して現在に至る。
平成3年10月吉日
茨城県つくば市大字筑波壱番地
筑波山頂境界確定記念碑建設委員会
筑波山大御堂 平成30年12月中旬現在 新築工事中
筑波山大御堂 平成30年12月中旬現在 新築工事中
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水戸天狗党のリーダー藤田小四郎の像
幕末に水戸天狗党が筑波山で挙兵した。
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水戸天狗党の筑波山挙兵と挫折
旧筑波山大御堂 (工事前)
小田氏一族の筑波氏は筑波山中禅寺の別当であった。
中禅寺は徳一が開創したと伝えられ、幕末まで威勢を誇ったが、
明治維新の廃仏毀釈によって大半の堂塔が失われた。
坂東三十三観音霊場札所大御堂が中禅寺、
旧筑波山大御堂は取り壊され、2020年春、再建された。
平成13年12月31日 NHKテレビで放映
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