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つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党(8)伊那地方が平田篤胤研究者の苗床

2022-03-19 | 茨城県南 歴史と風俗

 

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (7) 続き  

  ここですこしく平田門人の位置を知る必要がある。
篤胤の学説に心を傾けたものは武士階級に少なく、
その多くは庄屋、本陣、問屋、医者、もしくは百姓、町人であった。

 先師篤胤その人がすでに医者の出であり、
師の師なる本居宣長もまた医者であった。

 

 半蔵らの旧師宮川寛斎が中津川の医者であったことも偶然ではない。 


 その中にも、庄屋と本陣問屋とが、
東美濃から伊那へかけての平田門人を代表すると見ていい。

 しかし、当時の庄屋問屋本陣なるものの位置が
その籍を置く公私の領地に深き地方的な関係のあったことを忘れてはならない。

 たとえば、景蔵、香蔵の生まれた地方は尾州領である。
その地方は一方は木曾川を隔てて苗木領に続き、
一方は丘陵の起伏する地勢を隔てて岩村領に続いている。

 尾州の家老成瀬氏は犬山に、
竹腰氏は今尾に、
石河氏は駒塚に、
その他八神の毛利氏、
久々里九人衆など、
いずれも同じ美濃の国内に居所を置き、食邑(しょくゆう)をわかち与えられている。  


 言って見れば、
中津川の庄屋は村方の年貢米だけを木曾福島の山村氏(尾州代官)に納める義務はあるが、
その他の関係においては御三家の随一なる尾州の縄張りの内にある。

 江戸幕府の権力も直接にはその地方に及ばない。

 東美濃と南信濃とでは、領地関係もおのずから異なっているが、
そこに籍を置く本陣問屋庄屋なぞの位置はやや似ている。

 あるところは尾州旗本領、あるところはいわゆる交代寄り合いの小藩なる山吹領というふうに、
公領私領のいくつにも分かれた伊那地方が篤胤研究者の苗床であったのも、
決して偶然ではない。

 たとえば暮田正香のような幕府の注意人物が小野の倉沢家にも、
田島の前沢家にも、
伴野の松尾家にも、
座光寺の北原家にも、
飯田の桜井家にも、
あるいは山吹の片桐家にもというふうに、
巡行寄食して隠れていられるのも、
伊那の谷なればこそだ。

 また、たとえば長谷川鉄之進、権田直助、落合直亮らの志士たちが
小野の倉沢家に来たり投じて潜伏していられるということも、
この谷なればこそそれができたのである。  


 町の有志の家に集まる約束の時が来た。
半蔵は2人の友だちと同じように飯田の髪結いに髪を結わせ、
純白で新しい元結の引き締まったここちよさを味わいながら一緒に旅籠屋を出た。

 時こそ元治元年の多事な年の暮れであったが、
こんなに友だちと歩調を合わせて、
日ごろ尊敬する諸大人のために何かの役に立ちに行くということは、
そうたんと来そうな機会とも思われなかったからで。

 3人連れだって歩いて行く中にも、
一番年上で、一番左右の肩の釣合いの取れているのは景蔵だ。

 香蔵と来たら、隆(たか)く持ち上げた左の肩に物を言わせ、
歩きながらでもそれをすぼめたり、
(ゆす)ったりする。

 この2人に比べると、
息づかいも若く、骨太で、
しかも幅の広い肩こそは半蔵のものだ。

 行き過ぎる町中には、男のさかりも好ましいものだと言いたげに、
深い表格子の内からこちらをのぞいているような女の眸に出あわないではなかったが、
3人はそんなことを気にも留めなかった。

 その日の集まりが集まりだけに、
半蔵らはめったに踏まないような厳粛な道を踏んだ。  


 新しい社を建てる。

 荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、
この国学4大人の御霊代を置く。

 伊那の谷を一望の中にあつめることのできる山吹村の条山(俗に小枝山とも)の位置をえらび、
9畝歩(せぶ)ばかりの土地を山の持ち主から譲り受け、
枝ぶりのおもしろい松の林の中にその新しい神社を創立する。  


 この楽しい考えが、平田門人片桐春一を中心にする山吹社中に起こったことは、
何よりもまず半蔵らをよろこばせた。

 独立した山の上に建てらるべき木造の建築。
四人の翁を祭るための新しい社殿。

 それは平田の諸門人にとって郷土後進にも伝うべきよき記念事業であり、
彼らが心から要求する復古と再生との夢の象徴である。

 なぜかなら、より明るい世界への啓示を彼らに与え、
健全な国民性の古代に発見せらるることを彼らに教えたのも、
そういう四人の翁の大きな功績であるからで。 

 その日、山吹社中の重立ったものが飯田にある有志の家に来て、
そこに集まった同門の人たちに賛助を求めた。

 景蔵はじめ、香蔵、半蔵のように半ば客分のかたちでそこに出席したものまで、
この記念の創立事業に異議のあろうはずもない。

 山吹から来た門人らの説明によると、
これは片桐春一が畢生(ひっせい)の事業の一つとしたい考えで、
社地の選定、松林の譲り受け、
社殿の造営工事の監督等は一切山吹社中で引き受ける。

 これを条山神社とすべきか、
条山霊社とすべきか、
あるいは国学霊社とすべきかはまだ決定しない。
 その社号は師平田鉄胤の意見によって決定することにしたい。  


 なお、四大人の御霊代としては、先人の遺物を全部平田家から仰ぐつもりであるとの話で、
片桐春一ははたから見ても涙ぐましいほどの熱心さでこの創立事業に着手しているとのことであった。 

 その日の顔ぶれも半蔵らにはめずらしい。
平素から名前はよく聞いていても、
互いに見る機会のない飯田居住の同門の人たちがそこに集まっていた。

 駒場の医者山田文郁(ぶんいく)、浪合(なみあい)の増田平八郎に浪合佐源太なぞの顔も見える。
景蔵には親戚にあたる松尾誠(多勢子の長男)もわざわざ伴野からやって来た。
先師没後の同じ流れをくむとは言え、
国学四大人の過去にのこした仕事はこんなにいろいろな弟子たちを結びつけた。 


 その時、一室から皆の集まっている方へ来て、半蔵の肩をたたいた人があった。  

 「青山君。」  
 声をかけたは暮田正香だ。

 半蔵はめずらしいところでこの人の無事な顔を見ることもできた。
伊那の谷に来て隠れてからこのかた、
あちこちと身を寄せて世を忍んでいるような正香も、
こうして一同が集まったところで見ると、さすがに先輩だ。

 小野村の倉沢義髄(よしゆき)を初めて平田鉄胤の講筵(こうえん)に導いて、
北伊那に国学の種をまく機縁をつくったほどの古株 だ。  


 「世の中はおもしろくなって来ましたね。」 
 だれが言い出すともないその声、
だれが言いあらわして見せるともないその新しいよろこびは、
一座のものの顔に読まれた。

 山吹社中のものが持って来た下相談は、
言わば内輪の披露で、
大体の輪郭に過ぎなかったが、
もしこの条山神社創立の企てが諸国同門の人たちの間に知れ渡ったら
どんな驚きと同情とをもって迎えられるだろう、
第一京都の方にある師鉄胤はどんなに喜ばれるだろう、
そんな話でその日の集まりは持ち切った。  


 「暮田さん、わたしたちの宿屋まで御一緒にいかがですか。」  

 半蔵は2人の友だちと共に正香を誘った。
その晩は飯田の親戚の家に泊まるという松尾誠と別れて、
四人一緒に旅籠屋をさして歩いた。


 正香は思い出したように、 
 「青山君、
 わたしも今じゃあの松尾家に居候でさ。
 京都からやって来た時はいろいろお世話さまでした。
 あの時は2日2晩も歩き通しに歩いて、
 中津川へたどり着くまでは全く生きた心地もありませんでした。
 浅見君のお留守宅や青山君のところで御厄介になったことは忘れませんよ。」  


 半蔵らの旧師宮川寛斎が横浜引き揚げ後にその老後の「隠れ家」を求めた場所も伴野であり、
今またこの先輩が同じ村の松尾家に居候だと聞くことも、
半蔵らの耳には奇遇と言えば奇遇であった。

 伊那の方へ来て聞くと、
あの寛斎老人が伴野での2、3年はかなり不遇な月日を送ったらしい。

率先した横浜貿易があの旧師に祟った上に、磊落(らいらく)な酒癖から、
松尾の子息ともよくけんかしたなぞという旧(ふる)い話も残っていた。  


 「伊勢の方へ行った宮川先生にも、今度の話を聞かせたいね。」  
 「あの老人のことですから、
  山吹に神社ができて平田先生なぞを祭ると知ったら、
  きっと落涙するでしょう。」  


 「喜びのあまりにですか。
  そりゃ、人はいろいろなことを言いますがね、
  あの宮川先生ぐらい涙の多い人を見たことはありません。」 


 3人の友だちの間には、何かにつけて旧師のうわさが出た。  

 旅籠屋に帰ってから、半蔵らは珍客を取り囲(ま)いて一緒にその日の夕方を送った。

 正香というものが一枚加わると、
 三人は膝を乗り出して、
 あとからあとからといろいろな話を引き出される。
 あつらえたちょうしが来て、盃のやり取りが始まるころになると、
 正香がまずあぐらにやった。  


 「どれ、無礼講とやりますか。
  そう、そう、あの馬籠の本陣の方で、
  わたしは一晩土蔵の中に御厄介になった。
  あの時、青山君が瓢箪(ふくべ)に酒を入れて持って来てくだすった。
  あんなうまい酒は、あとにも先にもわたしは飲んだことがありませんよ。」  


 「まあ、そう言わずに、飯田の酒も味わって見てください。」と半蔵が言う。
  

 「暮田さんの前ですが、
  いったい、今の洋学者は何をしているんでしょう。」と言い出したのは香蔵だ。 


 「また香蔵さんがきまりを始めた。」と景蔵は笑いながら、
 「君は出し抜けに何か言い出して、ときどきびっくりさせる人だ。
  しょッちゅう一つ事を考えてるせいじゃありませんかね。」  

 「でも、わたしは黒船というものを考えないわけにいきません。」とまた香蔵が言った。

 なんの事はない。
 この2人の年上の友だちがそこへ言い出したことは、
やがて半蔵自身の内部の光景でもある。
 彼としても「一つ事を考えている」と言わるる香蔵を笑えなかった。  


 「そりゃ、君、
  ことしの夏京都へ行って斬られた佐久間象山だって、
  一面は洋学者さ。」と正香は言った。

 「あの人は木曾路を通って京都の方へ行ったんでしょう。
  青山君の家へも休むか泊まるかして行ったんじゃありませんか。」  


 「いえ、ちょうどわたしは留守の時でした。」と半蔵は答える。
 「あれは三月の山桜がようやくほころびる時分でした。
  わたしは福島の出張先から帰って、そのことを知りました。」  


 「蜂谷君は。」  
 「わたしは景蔵さんと一緒に京都の方にいた時です。
  象山も陪臣ではあるが、それが幕府に召されたという評判で、
  15、6人の従者をつれて、
  秘蔵の愛馬に西洋鞍(ぐら)か何かで松代から乗り込んで来た時は、
  京都人は目をそばだてたものでした。」  


 「でしょう。象山のことですから、
  おれが出たらと思って、
  意気込んで行ったものでしょうかね。
  でも、あの人は吉田松陰の事件で、
  9年も禁錮の身だったというじゃありませんか。
  戸を出(い)でずして天下を知るですか。

  どんな博識多才の名士だって、君、九年も戸を出なかったら、
  京都の事情にも暗くなりますね。
  あのとおり、上洛して3月もたつかたたないうちに、
  ばっさり殺(や)られてしまいましたよ。

  いや、はや、京都は恐ろしいところです。
  わたしが知ってるだけでも、何度形勢が激変したかわかりません。」 


 「それにはこういう事情もあります。」と景蔵は正香の話を引き取って、
 「象山が斬られたのは、あれは池田屋事件の前あたりでしたろう。
  ねえ、香蔵さん、たしかそうでしたね。」  


 「そう、そう、みんな気が立ってる最中でしたよ。」 
 「あれは長州の大兵が京都を包囲する前で、
  叡山に御輿を奉ずる計画なぞのあった時だと思います。
  そこへ象山が松代藩から六百石の格式でやって来て、
  山階宮に伺候したり慶喜公に会ったりして、
  彦根への御動座を謀るといううわさが立ったものですからね。
  これは邪魔になると一派の志士からにらまれたものらしい。」  


 「まあ、あれほどの名士でしたら、
  もっと光を包んでいてもらいたかったと思いますね。」とまた正香が言った。
 
 「どうも今の洋学者に共通なところは、
  とかくこのおれを見てくれと言ったようなところがある。あいつは困る。  


  でも、象山のような人になると、
 『東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)』というくらいの見きわめがありますよ。
  あの人には、かなり東洋もあったようです。

  そりゃ、象山のような洋学者ばかりなら頼もしいと思いますがね、
  洋学一点張りの人たちと来たら、はたから見ても実に心細い。
  見たまえ、こんな徳川のような圧制政府は倒してしまえなんて、
  そういうことを平気で口にしているのも今の洋学者ですぜ。

  そんなら陰で言う言葉がどんな人たちの口から出て来るのかと思うと、
  外国関係の翻訳なぞに雇われて、
  食っているものも着ているものも幕府の物ばかりだという御用学者だから心細い。  


 それに衣食していながら、徳川をつぶすというのはどういう理屈かと突ッ込むものがあると、
なあに、それはかまわない、
自分らが幕府の御用をするというのは何も人物がえらいと言って用いられているのじゃない、
これは横文字を知ってるというに過ぎない、
たとえば革細工だから雪駄直(せったなお)しにさせると同じ事だ、
洋学者は雪駄直しみたようなものだ、
殿様方はきたない事はできない、
幸いここに革細工をするやつがいるからそれにさせろと言われるのと少しも変わったことはない、
それに遠慮会釈も糸瓜(へちま)も要るものか、
さっさと打ちこわしてやれ、
ただしおれたちは自分でその先棒になろうとは思わない

 ―どうでしょう、
君、これが相当に見識のある洋学者の言い草ですよ。
どうしたって幕府は早晩倒さなけりゃならない、
ただ、さしあたり倒す人間がないからしかたなしに見ているんだ、
そういうことも言うんです。

こんな無責任なことを言わせる今の洋学は考えて見たばかりでも心細い。
自分さえよければ人はどうでもいい、
百姓や町人はどうなってもいい、
そんな学問のどこに熱烈峻厳(しゅんげん)な革新の気魄が求められましょうか―」  


 後進の半蔵らを前に置いて、
多感で正直なこの先輩は色のあせた着物の襟をかき合わせた。
あだかも、つくづく身の落魄(らくはく)を感ずるというふうに。  


 「半蔵さん、ともかくもわたしと一緒に伴野までおいでください。
  君や香蔵さんをお誘いするようにッて、
  松尾の子息がくれぐれも言い置いて行きました。
  あの人は暮田正香と一緒に、けさ一歩先へ立って行きました。」  


 「そんなに多勢で押し掛けてもかまいますまいか。」  

 「なあに、3人や4人押し掛けて行ったって迷惑するような家じゃありませんよ。」  

 「わたしもせっかく飯田まで来たものですから、
  ついでに山吹社中の輪講に出席して見たい。
  あの社中の篤胤研究をききたいと思いますよ。
  こんなよい機会はちょっとありませんからね。」  


 「そんなら、こうなさるさ。伴野から山吹へお回りなさるさ。」  

  翌日の朝、景蔵と半蔵とはこの言葉をかわした。  

 こんなふうで友だちに誘われて行った伴野村での1日は半蔵にとって忘れがたいほどであった。
 彼は松尾の家で付近の平田門人を歴訪する手引きを得、
日ごろ好む和歌の道をもって男女の未知の友と交遊するいとぐちをも見つけた。

 当時洛外(らくがい)に侘住居(わびずまい)する
岩倉公の知遇を得て朝に晩に岩倉家に出入りするという松尾多勢子から、
その子の誠にあてた京都便りも、半蔵にはめずらしかった。   


 伊那の谷の空にはまた雪のちらつく日に、
半蔵は中津川の方へ帰って行く景蔵や香蔵と手を分かった。

 その日まで供の佐吉を引き留めて置いたのも、
2人の友だちを送らせる下心があったからで。

 伊那には彼ひとり残った。

 それからの彼は、
山吹での篤胤研究会とも言うべき『義雄集』への聴講に心をひかれたのと、
あちこちと訪ねて見たい同門の人たちのあったのと、
一晩のうちに四尺も深い雪が来たという大平峠の通行の困難なのとで、
とうとう飯田に年を越してしまった。 


 この小さな旅は、
しかし平田門人としての半蔵の目をいくらかでも開けることに役立った。  

「あはれあはれ上(かみ)つ代(よ)は人の心ひたぶるに直(なお)くぞありける。」 

 先人の言うこの上つ代とは何か。
その時になって見ると、
この上つ代はこれまで彼がかりそめに考えていたようなものではなかった。

 世にいわゆる古代ではもとよりなかった。
言って見れば、それこそ本居平田諸大人が発見した上つ代である。

 中世以来の武家時代に生まれ、
どの道かの道という異国の沙汰にほだされ、
仁義礼譲孝悌(てい)忠信などとやかましい名をくさぐさ作り設けて
厳しく人間を縛りつけてしまった封建社会の空気の中に立ちながらも、
本居平田諸大人のみがこの暗い世界に探り得たものこそ、
その上つ代である。

 国学者としての大きな諸先輩が創造の偉業は、
(いにしえ)ながらの古に帰れと教えたところにあるのではなくて、
新しき古を発見したところにある。 


 そこまでたどって行って見ると、
半蔵は新しき古を人智のますます進み行く
「近(ちか)つ代(よ)」に結びつけて考えることもできた。

 この新しき古は、
中世のような権力万能の殻(から)を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。

 この世に王と民としかなかったような上つ代に帰って行って、
もう一度あの出発点から出直すことによってのみ得らるる。

 この彼がたどり着いた解釈のしかたによれば、
古代に帰ることはすなわち自然に帰ることであり、
自然に帰ることはすなわち新しき古を発見することである。

 中世は捨てねばならぬ。近つ代は迎えねばならぬ。
 どうかして現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい。
 そう彼が考えるようになったのもこの伊那の小さな旅であった。


  そして、もう一度彼が大平峠を越して帰って行こうとするころには、
気の早い一部の同門の人たちが本地垂跡(ほんじすいじゃく)の説や金胎(こんたい)両部の打破を叫び、
すでにすでに祖先葬祭の改革に着手するのを見た。

 全く神仏を混淆してしまったような、
いかがわしい仏像の焼きすてはそこにもここにも始まりかけていた。 
 


【続く】

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (9)

 


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