ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党(10)水戸浪士の処刑

2022-03-20 | 茨城県南 歴史と風俗

 

   島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (9) の続き      
 
加州藩の対応
 降蔵の話によると、
彼は水戸浪士中の幹部のものが3、4人の供を連れ、
いずれも平服で加州の陣屋へ趣くところを目撃したという。

 加州からも平服で周旋に来て、
浪士らが京都へ嘆願の趣はかなわせるようせいぜい尽力するとの風聞であった。

 それから加州方からは毎日のように兵糧の応援があった。
 米、菜の物、煮豆など余るくらい送ってくれた。


 降蔵らもにわかに閑暇になったから、
火焚きその他の用事を弁じ、
米も洗えば醤油も各隊へ持ち運んだ。


 師走も10日過ぎのこと、
浪士らの所持する武器はすべて加州侯へお預けということになった時、
副将田丸稲右衛門や参謀山国兵部(ひょうぶ)らは武田耕雲斎を諫め、
武器を渡すことはいかにも残念であると言って、
その翌日の暁(あけ)八つ時(どき)を期し囲みを衝いて切り抜ける決心をせよと全軍に言い渡し、
降蔵らまで九つ時ごろから起きて兵糧を炊いたが、
とうとう耕雲斎の意見で浪士軍中の鎗や刀は全部先方へ渡してしまった。 


 25、6日のころには一同は加州侯の周旋で越前の敦賀に移った。
そこにある3つの寺へ惣(そう)人数を割り入れられ、
加州方からは朝夕の食事に肴を添え、
昼は香の物、酒も毎日1本ずつは送って来た。

 手ぬぐい、足袋、その他、手厚い取り扱いで、
病人には薬を与え、
医師まで出張して来て高価な薬品をあてがわれたが、
その寺で病死した浪士も多かった。

幕府総督田沼玄蕃頭へ引き渡し 
 正月の27日は浪士らが加州侯の手を離れて幕府総督田沼玄蕃頭に引き渡された日であった。

  その日は加州から浪士一同へ酒肴を贈られ、
降蔵らまでそのもてなしがあった上で、
加州の家老永原甚七郎が来ての言葉に、
これまでだんだん周旋したいつもりで種々尽力したが、
なにぶんにも行き届かず、
公辺へ引き渡すことになったからその断わりに罷り出たのであると。
 
 それを聞いた時の隊長らの驚きはなかった。

 ここで切腹すべきかと言い出すものがあり、
加州を恨むものがある。

 いったん身柄を任せた上は是非もないことだ、
いかように取り扱われるとも拠(よんどころ)なしと覚悟した浪士の中には
辞世の詩を作り歌を読むものがあった。 
 

 11人ずつの組で、
降蔵らまで駕籠で送られて行った先は16番からある暗い土蔵の中だ。

 所持の巾着、また懐中物等はすべてお預けということになった。
 手枷(てかせ)、足枷(あしかせ)がそこに降蔵らを待っていたのだった・・・・・・  
 清助は諏訪の百姓の方を見て言った。  

 「どうして、
  お前は伊那から越前の敦賀まで、
  そんな供をするようになったのかい。」 

 「そりゃ、
  お前さま、
  何度わたくしも国の方へ逃げ帰りたいと思ったか知れません。
  お暇(いとま)をいただきます、
  御免こうむりますと言い出せばそのたびに天誅、天誅ですで。
  でも、妙なもので、毎日鎗(やり)をかついだり、
  荷物を持ったり、
  隊長の話を聞いたりするうちに、
  しまいにはこの人たちの行くところまで供をしようという気になりました。」  
 
 「和田峠の話は出なかったかい。
  浪士の中にいたら、あの合戦の話も聞いたろう。」  

 「さようでございます。
  諏訪の合戦はなかなか難儀だったそうで、
  今一手もあったらなにぶん当惑するところだったと申しておりました。
  あの山国兵部の謀で、
  奇兵に回ったものですから、
  ようやく打ち破りはしたものの、
  ずいぶん難戦いたしたような咄(はなし)を承りました。」  

 4月が来たら、
というその月の末まで待って見ても、
西の領地にある諸大名で国から出て来るものはほとんどない。

 越前、尾州、紀州の若殿や奥方をはじめ、
肥前、因州なぞの女中方や姫君から薩州の簾中まで、
かつてこの街道経由で帰国を急いだそれらの諸大名の家族がもう一度江戸への道を踏んで、
あの不景気のどん底にある都会をにぎわすことなぞは思いもよらない。

 わずかにこの街道では4月27日に美濃苗木の女中方が江戸をさしての通行と、
その前日に中津川泊まりで東下する弘前城主津軽侯の通行とを迎えたのみだ。


〔馬籠宿の賑わい〕
 しかし、馬籠の宿場が閑散であったわけではない。

 2度と参覲交代の道を踏む諸大名こそまれであったが、
3月22日あたりから4月7日ごろへかけて
日光大法会のために東下する勅使や公卿たちの通行の混雑で、
半蔵は隣家の年寄役伊之助らと共に熱い汗を流し続けた。 

 幕府では4月17日を期し東照宮250回忌の大法会を日光山に催し、
法親王および諸僧正を京都より迎え、
江戸にある老中はもとより、
寺社奉行、大目付、勘定奉行から納戸頭までも参列させ、
天台宗徒をあつめて万部の仏経を読ませ、
諸人にその盛典をみせ、
この際、年号までも慶応元年と改めて、
大いに東照宮の250年を記念しようとしたのだ。 

  この街道へは尾州家から1500両の金を携えた役人が出張して来て、
日によっては千人の人足を買い揚げたのを見ても、
いかにその通行の大がかりなものであったかがわかる。

 奈良井宿詰めの尾張人足なぞは、
毎日のようにおびただしく馬籠峠を通った。

 伊那助郷が500人も出た日の後には、
須原通しの人足5000人の備えを要するほどの勅使通行の日が続いた。

 この混雑も静まって行くと、
水戸浪士事件の顛末がいろいろな形で世上に流布するようになった。
これほど各地の沿道を騒がした出来事の真相がそう秘密に葬られるはずもない。

 宍戸侯(松平大炊頭)の悲惨な最期を序幕とする
水府義士の悲劇はようやく世上に知れ渡った。

 いくつかの多感な光景は半蔵の眼前にもちらついた。

 武田耕雲斎の同勢が軍装で中仙道を通過し、
沿道各所に交戦し、
追い追い西上するとのうわさがやかましく京都へ伝えられた時、
それを自身に関係ある事だとして直ちに江州路へ出張し
鎮撫に向かいたいよしを朝廷に奏請したのも、
京都警衛総督の一橋慶喜であったという。
朝議もそれを容れた。 

         

〔幕府鎮撫軍、大津に着陣〕
 一橋中納言が京都を出発して大津に着陣したのは前年12月3日のことだ。

 金沢、小田原、会津、桑名の藩兵がそれにしたがった。
 そのうちに武田勢が今庄に到着したので、
諸藩の探偵は日夜織るがごとくであり、
実にまれなる騒擾であったという。

 12月の10日ごろには加州金沢藩の士卒2000余人が
一橋中納言の命を奉じてまず敦賀に着港し、
続いて桑名藩の700余人、
会津藩の1000余人、
津藩の600余人、
大垣藩の1000余人、
水戸藩の700人が着港した。

 このほかに、
間道、海岸、山々の要所要所へ出兵したのは福井藩、大野藩、彦根藩、丸山藩であって、
その中でも監軍永原甚七郎に率いられる加州の士卒が先陣を承ったものらしい。 

 水戸浪士の一行がこんな大軍の囲みの中にあって、
野も山もほとんど諸藩の士卒で埋められたとは、
半蔵などの想像以上であった。


〔加州から武田耕雲斎への返書〕
 武田耕雲斎は新保宿を距(さ)る20町ほどの村に加州の兵が在陣すると聞き、
そこで一書を金沢藩の陣に送って西上の趣意を述べ、
諸藩の兵に対して敵意のないことを述べ、
一同のために道を開かれたいと願った。

 その時の加州方からの返書は左のようなものであったとある。 

  お手紙披見(ひけん)いたし候。
  されば御嘆願のおもむきこれあり候につき、
  滞りなく通行の儀、
  かつ外諸侯へ対し接戦の存じ寄り毛頭これなき旨、
  委曲承知いたし候えども、
  加賀中納言殿人数当宿出張いたし候儀は一橋中納言殿の厳命に候条、
  是非なく一戦に及ぶべき存じ寄りに御座候。
  なお、後刻を期し一戦の節は御報に及ぶべく候。
  貴報かくのごとくに御座候。以上。   
       子(ね)十二月十一日 
           加賀中納言内 
             永原甚七郎
           武田伊賀守殿内  
             安藤彦之進殿 

  時に雪は一丈余、浪士らは食も竭(つ)き、力も窮まった。

 金沢藩ではそれを察し、
こんな飢えと寒さとに迫られたものと交戦するのは本意でないとして、
その日に白米二百俵、漬け物10樽、酒2石、スルメ2000枚を武田の陣中に送った。

 同時に来たる17日の暁天を期して交戦に及ぼうとの戦書をも送った。

 ところが耕雲斎は藤田小四郎以下3名の将士を使者として金沢藩の陣所に遣つかわし、
永原甚七郎に面会を求めさせた。

 甚七郎は帯刀までそこへ投げ捨てるほどにして誠意を示した小四郎らの態度に感じ、
一統へ相談に及ぶべき旨を答えて使者をかえした。  

 すると今度は耕雲斎が単身で金沢藩の陣中へやって来たから、
そういうことなら当方から拙者一人推参すると甚七郎は言って、
ひとまず耕雲斎の帰陣を求めた。

 そこで甚七郎は出かけた。

 新保宿にある武田の本営では入り口に柵を結いめぐらし、
(やり)大砲を備え、
300人の銃手がおのおの火繩を消し、
一礼してこの甚七郎を迎え入れた。

 耕雲斎は白羅紗(しろらしゃ)の陣羽織を着け、
一刀を帯び、草鞋をはいて甚七郎を迎えたという。

 甚七郎は自己の率いて行った兵を営外にとどめ、
単身 耕雲斎の案内で玄関に行って見ると、
そこには山国兵部、田丸稲右衛門、藤田小四郎を始め
25人の幹部のものがいずれも大小刀を帯びないで出迎えていた。

 その時だ。
 甚七郎も浪士らの態度に打たれ、
規律正しい陣所の光景にも意外の思いをなし、
ようやくさきの戦意をひるがえした。

 しからば願意をきき届けようと言って、
その旨を耕雲斎に確答し、
一橋中納言に捧呈する嘆願書並びに始末書を受け取って退営した。  

 翌日甚七郎は未明に金沢藩の陣所を出発し、
馬を駆って江州梅津の本営にいたり、
2通の書面を一橋公に捧呈した。

 その嘆願書と始末書には、
筑波挙兵のそもそもから、
市川三左衛門らの讒言(ざんげん)によって幕府の嫌疑をこうむったことに及び、
源烈公が積年の本懐も滅びるようであっては臣子の情として遺憾に堪えないことを述べ、
亡き宍戸侯のために冤(えん)をそそぐという意味からも京都をさして国を離れて来たことを書き添え、
なお、
一同が西上の心事は尊攘の精神にほかならないことをこまごまと言いあらわしてあったという。 


〔金沢藩と戦うか、長州へ進むか〕
 過ぐる日に諏訪の百姓降蔵が置いて行った話も、
半蔵にはいろいろと思い合わされた。

 その時になると、
浪士軍中に2つのものの流れのあったことも彼には想い当たる。

 最初金沢藩の永原甚七郎から一戦に及ぼうとの返書のあった時、
武田耕雲斎は将士を集めて評議を凝らしたという。

 ちょうど長州藩からは密使を送って来て、
若狭、丹後を経て石見の国に出、
長州に来ることを勧めてよこした時だ。 

 山国兵部は浪士軍中の最年長者ではあるものの、
その意気は壮者をしのぐほどで、
しきりに長州行きを主張した。

 その時の兵部の言葉に、
これから間道を通って山陰道に入り、
長州に達することを得たなら、
尊攘の大義を暢(の)ぶることも難くはあるまい、
今さら加州藩に嘆願哀訴するごときことはいかにも残念である、
むしろ潔く決戦したいとの意見を述べたとか。


 しかし耕雲斎にして見ると、
一橋公の先鋒を承る金沢藩を敵として戦うことはその本志でなかった。

 筑波組の田丸、藤田らと、
館山から合流した武田との立場の相違はそこにもあらわれている。

 「所詮、水戸家もいつまで幕府のきげんをとってはいられまい」との
反抗心から出発した藤田らと、

 飽くまで尊攘の名義を重んじ
一橋慶喜の裁断に死生を託し宍戸侯の冤罪を晴らさないことには済まないと考える武田とは、
最初から必ずしも同じものではなかったのだ。 

 ともあれ、
水戸浪士の最後にたどり着いた運命は、
半蔵らにとって
ただただ山国兵部や横田東四郎や亀山嘉治のような犠牲者を
平田同門の中から出したというにとどまらなかった。

 なぜかなら、
幕府の水戸における内外の施政に反対した志士はほとんど一掃せられ、

水戸領内の郷校に学んだ有為な子弟の多くが滅ぼし尽くされたことは
実に明日の水戸のなくなってしまったことを意味するからで。

 水戸は何もかも早かった。
 諸藩に魁(さきがけ)して大義名分を唱えたことも早かった。
 激しい党争の結果、時代から沈んで行くことも早かった。


〔一橋慶喜と幕府の確執〕
 半蔵はこの水戸浪士の事件を通して、
いろいろなことを学んだ。

 これほど関東から中国へかけての諸藩の態度をまざまざと見せつけられた出来事もない。

 幕府が一橋慶喜に対する反目のはなはだしいには、
これにも彼は心を驚かされた。

 一方は江戸の諸有司から大奥にまで及び、
一方は京都守護職から在京の諸藩士にまでつながっているそれらの暗闘の奥には奥のあることが、
思いがけなくも水戸浪士の事件を通して、
それからそれと彼の胸に浮かんで来るようになった。 

 もともと一橋慶喜は紀州出の家茂を将軍とする幕府方によろこばれている人ではない。

 井伊大老在世の日、
徳川世子の継嗣問題が起こって来たおりに、
今の将軍と競争者の位置に立たせられたのもこの人だ。

 薩長2藩の京都手入れはやがて江戸への勅使下向(げこう)となった時、
京都方の希望をもいれ、
将軍後見職に就いたのもこの人だ。

 幕府改革の意見を抱いた越前の松平春嶽(しゅんがく)が説を採用して、
まず全国諸大名が参覲交代制度廃止の英断に出たのもこの人だ。 

 禁裡(きんり)守衛総督摂海防禦(せっかいぼうぎょ)指揮の重職にあって、
公武一和を念とし、
時代の趨勢をも見る目を持ったこの人は、
何事にも江戸を主にするほど偏頗でない。

 時は慶応元年を迎え、
越前の松平春嶽もすでに手を引き、
薩摩の島津久光も不平を抱き、
公武一和の到底行なわれがたいことを思うものの中に立って、
とにもかくにも京都の現状を維持しつつあるのは慶喜の熱心と忍耐とで、
朝廷とてもその誠意は認められ、
加うるに会津のような勢力があって終始その後ろ楯となっている。

 どうかすると慶喜の声望は将軍家茂をしのぐものがある。

  これは江戸幕府から言って煙たい存在にはちがいない。
 慶喜排斥の声は一朝一夕に起こって来たことでもないのだ。

 はたして、幕府方の反目は水戸浪士の処分にもその隠れた鋒先をあらわした。 
 
   


〔水戸浪士に対する
  一橋慶喜と田沼玄蕃頭の対応〕 

 慶喜は厳然たる態度をとって容易に水戸浪士を許そうとはしなかった。

 そのために武田耕雲斎は浪士全軍を率いて加州の陣屋に降るの余儀なきに至った。

 しかし水戸烈公を父とする慶喜は、
その実、浪士らを救おうとして陰ながら尽力するところがあったとのことである。

 同じ御隠居の庶子にあたる浜田、島原、喜連川の3侯も、
武田らのために朝廷と幕府とへ嘆願書を差し出し、
因州、備前の2侯も、浪士らの寛典に処せらるることを奏請した。

  そこへ江戸から乗り込んで行ったのが田沼玄蕃頭だ。

 田沼侯は筑波以来の顛末を奏して処置したいとの考えから、
その年の正月に京都の東関門に着いた。

 ところが朝廷では田沼侯の入京お差し止めとある。

 怒るまいことか、
田沼侯は朝廷が幕府を辱かしめるもはなはだしいとして、
兵権政権は幕府に存するととなえ、
あだかも一橋慶喜なぞは眼中にもないかのように、
その足で引き返して敦賀に向かった。 

 正月の26日、
田沼侯は幕命を金沢藩に伝えて、
押収の武器一切を受け取り、
28日には武田以下浪士全員の引き取りを言い渡した。  

 この総督は、
市川三左衛門らの進言に耳を傾け、
慶喜が武田ら死罪赦免の儀を朝廷より御沙汰あるよう尽力中であると聞いて、
にわかに浪士の処刑を急いだという。 

 加州ほどの大藩の力でどうして水戸浪士の生命(いのち)を助けることができなかったか。
 それにつき、世間には種々な風評が立った。

 あるいは水戸浪士はうまくやられたのだ、
金沢藩のために欺かれたのだ、
そんな説までが半蔵の耳に聞こえて来た。 

 現に伊那の方にいる暮田正香なぞもその説であるという。

 しかし半蔵はそれを穿ち過ぎた説だとして、
伯耆(ほうき)から敦賀を通って近く帰って来た
諏訪頼岳寺の和尚なぞの置いて行った話の方を信じたかった。

 いよいよ金沢藩が武器人員の引き渡しを終わった時に、
敦賀本勝寺の書院に耕雲斎らを見に行って胸がふさがったという
永原甚七郎の古武士らしい正直さを信じたかった。 

田沼玄蕃頭に対する非難の声〕
 田沼侯に対する世間の非難の声も高い。

 水戸浪士を敵として戦い負傷までした諏訪藩の用人塩原彦七ですらそれを言って、
幕府の若年寄ともあろう人が士を愛することを知らない、
武の道の立たないことも久しいと言って、
嘆息したとも伝えらるる。

 この諏訪藩の用人は田沼侯を評して言った。

 浪士らの勢いのさかんな時は20里ずつの距離の外に屏息し、
徐行逗留(とうりゅう)してあえて近づこうともせず、
いわゆる風声鶴唳(ふうせいかくれい)にも胆が身に添わなかったほどでありながら、

 いったん浪士らが金沢藩に降ったと見ると、
虎の威を借りて刑戮(けいりく)をほしいままにするとはなんという卑怯さだと。

 しかしまた一方には、
個人としての田沼侯はそんな思い切ったことのできる性質ではなく、
むしろ肥満長身の泰然たる風采の人で、
天狗連追討のはじめに近臣の眠りをさまさせるため金米糖を席にまき、
そんなことをして終夜戒厳したほどの貴公子に過ぎない、
周囲の者がその刑戮(けいりく)をあえてさせたのだと言うものも出て来た。 


〔水戸浪士の処刑〕
 1000余人の同勢と言われた水戸浪士も、
途中で戦死するもの、
負傷するもの、
沿道で死亡するものを出して、
敦賀まで到着するころには833人だけしか生き残らなかった。
 そのうちの353名が前後5日にわたって敦賀郡松原村の刑場で斬られた。  

 耕雲斎ら四人の首級は首桶(くびおけ)に納められ、
塩詰めとされたが、
その他のものは3間(げん)四方の5つの土穴の中へ投げ込まれた。

 残る250名は遠島を申し付けられ、
180名の雑兵歩人らと、
数名の婦人と、
15名の少年とが無構(むかまい)追放となった。 

 ある日、
半蔵は本陣の店座敷から西側の廊下を通って、
家のものの集まっている仲の間へ行って見た。

 継母のおまんはお民を相手に糸などを巻きながら、
日光大法会のうわさをしたり、
水戸浪士のうわさをしたりしている。

 おまんは糸巻きを手にしている。

 お民は山梔色(くちなしいろ)の染め糸を両手に掛けている。
おまんがすこしずつ繰るたびに、
その染め糸の束はお民の両手を回って、順にほどけて行った。

 廂(ひさし)の深い障子の間からさし込む日光はその黄な染め糸の色を明るく見せている。

 「お母さんもお聞きでしたか。」と半蔵は言った。

 「いよいよ耕雲斎たちの首級も江戸から水戸へ回されたそうですね。
  あの城下町を引き回されたそうですね。」

  おまんはお民の手にからまる染め糸をほぐしほぐし、
 「どうも、えらい話さ。
  お父(とっ)さん(吉左衛門)もそう言っていたよ、
  350人からの死罪なんて、
  こんな話は今まで聞いたこともないッて。」 

 その時、
半蔵は江戸の方から来た聞書(ききがき)を取り出して、
それを継母や妻にひろげて見せた。

 武田らの遺族で刑せられたものの名がそこに出ていた。

 武田伊賀の妻で48歳になるときの名も出ていた。
 8歳になる忰の桃丸、3歳になる兼吉の名も出ていた。

 それから、
武田彦右衛門の忰で12歳になる三郎、
10歳になる二男の金四郎、
8歳になる三男の熊五郎の名も出ていた。

 この6名はみな死罪で、
ことに桃丸と三郎の2名は梟首(さらしくび)を命ぜられた。  

 「市川党もずいぶん惨酷をきわめましたね。
  こいつを生かして置いたら、
  仇を復(かえ)される時があるとでも思うんでしょうか。
  それにしても、
  こんな罪もない幼いものにまで極刑を加えるなんて、あさましくなる。」と 
  半蔵が言う。

 「まあ、お母さん、
  ここに武田伊賀忰、桃丸、8歳とありますよ。
  吾家(うち)の宗太の年齢ですよ。」と
  お民もそれをおまんに言って見せた。 

 「そう言えば、あの遺族が牢屋(ろうや)に入れられていますと、
  そこへ牢屋の役人が耕雲斎以下の首を持って来まして、
  牢屋の外からその首を見せたと言いますよ。
  今は花見時だ、
  お前たちはこの花を見ろと、
  そう役人が言ったそうですよ。」  

 「どういうつもりで、
  そんなことを言ったものかいなあ。」
  とおまんも半蔵夫婦の顔を見比べながら、
  遺族にお別れをさせるつもりだったのか、
  それとも辱(は)じしめるつもりだったのか。」
 
 「実にけしからん、
  無情な事をしたものだッて、
  そう言わないものはありませんよ。」   

 武田、山国、田丸らが遺族の男の子は死罪に、
女の子は永牢を命ぜられた。

そのうち、永牢を申し渡されたものの名は次のように出ていた。
   武田伊賀娘     よし    11歳 
    同妾(めかけ)  むめ   18歳  
   武田彦右衛門妻   いく    43歳   
   山国兵部妻     なつ    50
歳  
    同娘       ちい    30
歳  
   山国淳一郎娘    みよ    11歳  
    同娘       ゆき     7歳 
    同娘       くに    5歳   
   丸稲右衛門娘    まつ    19歳  
    同娘       むめ    10歳  

  おまんは言った。
 「半蔵、あのお父さんがこれを見たら、なんと言うだろうね。
  こないだも裏の隠居所の方で何を言い出すかと思ったら、
  あゝあゝ、おれも67の歳まで生きて、
  この世の末を見過ぎたわいとさ。」 
 

 


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